2
現在、彼らが生活の拠点としている場所は、都内にある高級ホテルだ。砂雨はそれまでその大きな建物を知らなかったが、それらに詳しい夽に言わせると、ホテルとは遠くから訪れた人々が宿泊するに尤も適した場所なのだそうで、同じ建物内には、飲食店や催し物に使用される会場も併設されているのだとか。
このような洋物めいた造りの旅宿は、見るも触れるも初めてで、まさしく新しい世界が広がっているかのようだった。
ベッドにバス、トイレにキッチン、ドローイングルーム。それから、カトラリーにタオル。覚えることは、たくさんある。小物や場所を示す言葉でさえも、年月とともに変わってしまったのだ。そう考えると、驚きよりも戸惑いが大きいのかもしれなかった。
やはり、というべきなのだろうか。自分以外の皆は既にそれらを使いこなせつつあり、適応力の差をあらためて痛感している。
今現在、砂雨が着るこの服だってそうだった。
ガーゼワンピースにカーディガン。
見繕ってきたのは仲間のひとり。肌触りは心地よく、重たい感じもしない。これといって不満はないが、どうしてこんなにも歪なのだろうとを傾げる。
襟はまるで雲のように波打ったかたちをしているし、袖には上部に妙な膨らみがある。裾に至っては、襤褸としか言いようがなかった。皺ができた状態で縫い合わせられているだけではなく、三段にも折り重ねられているのだから、まったくもって理解できない。
「だから、これはそういうデザインなんだって」
疑問をそのまま口にしたら、それを砂雨に着せた男におもいきり呆れた顔をされた。
「大丈夫、似合ってるよ。可愛い」
蓮はそう言うが、砂雨にはとてもそうは思えなかった。全身鏡に映した姿を見ても、やはり不恰好に感じてしまう。現代のお洒落は諦めたほうがいいのかもしれない、とも思う。
蓮が身につけるそれらも、里では見たことのないものばかりだ。コットンシャツとかいう上衣は、昔似た形状の物を父が着ていたことがあったから、なんとなく分かる。だが、その下に履いているジーンズというごわごわは何なのだろう。それになぜ、こんなにも分厚いものを、足に巻かなきゃいけないのか分からなかった。
「これはソックスといって……そうだな、足袋のようなものかな」
ホテルの廊下へと繋がる扉の手前には、クローゼットルームが造られていた。
他の部屋に比べれば小さく感じるそこには、数えきれないほどの紙袋と、綺麗に包装された箱が幾つも積み重なって並べられている。誰かしら仲間が出掛ける度に買い足していくものだから、今や溢れんばかりに置いてあり、消化するスピードに追いつかず、殆どがまだ手付かずの状態で残っていた。
そこから蓮が選び取り出した箱には、桃色の靴が納められていた。爪先は丸く、靴底は浅い。てらてらと表面が光っているのは何なのだろうか。
首を傾げて見入っている砂雨に気付いた蓮がパテントレザーだと教えるが、まずは素材が分からなくては話にならなかった。
「バレリーナシューズか。どうせなら、タイツを穿かせれば良かったかな」
ソックスを着けた足を、蓮の手のひらが覆う。
砂雨は、椅子に座っているだけでよかった。あとは目の前に跪いた蓮が、甲斐甲斐しく世話を焼く。
「サイズは……うん、ちょうどいいみたいだね」
手にとった靴を少女の足へと片方ずつ履かせる姿は、読んでもらった絵本に出てくるお姫様の従者のようだった。飾られていく自分の足先を、砂雨はじっと見つめた。
これが、履物なのは分かる。けれど、内脇から伸びている細い革は何なのだろう。不思議に思った矢先、蓮の指が革の先端を掴んだ。外脇に付けられた花の形の飾りへと軽く押さえつけるようにして、片方ずつ固定していく。なるほど。この革の部分は留め具になっているらしい。呆気なく解決された疑問に納得していると、靴を履かせ終えた蓮が目の前で立ち上がった。
「砂雨、立ってみて」
言われるままに立ち上がってみると、慣れていないせいか違和感があったものの、転ぶなんてことはなかった。不思議な感覚だ。足の裏は柔らかいのに、裸足のときよりも軸がしっかりした気がする。
「大丈夫そう?」
「うん。……ねえ、かなかは?」
蓮の言うことをちゃんと聞くように。それだけ言って、先に出掛けて行った男の行方を尋ねる。
――――べつに、心細いわけではない。ただ、初めて外出許可がおりたから、てっきり彼も一緒なのだと思い込んでいた。それだけだ。
「我らが王は忙しいの。何、お前が駄々こねるから僕が付き合ってあげようっていうのに。不満なの?」
「行きたい」
「そう? じゃあ、ほら、おいで」
これでは、まるで子供扱いだ。そうは思っても、記憶のなかと大きく違う世界はやはり怖くて、繋がれた手を解く勇気がなかった。
部屋を出ると大きな箱――――エレベーターというらしい、その上下式の移動空間へと連れ立って入る。空気は動いているのに、身体はなんともない。その目に見えない不可解な浮遊感に怖くなった砂雨が蓮にしがみつくと、溜息と一緒に優しい腕が抱き上げてくれた。
「抱っこは他に人がいないときだけだよ。エレベーターを出たら自分で歩くの、いいね?」
「ん」
ベルの音と同時に、エレベーターが停まった。ゆっくりと両側に開く扉。その向こうに、たくさんの人間が見える。
宣言通りに蓮は砂雨をふかふかの床に下ろすと、そのまま手をひいてエレベーターから出た。青空の下へと続く透明な壁へと向かっている最中、この場所はロビーというのだと教えられる。
天井から垂れるキラキラの塊、壁に飾られた大きな絵と変なかたちの壺。
それらを眺めながら歩いている間中、幾つもの視線を感じていた。
――――違う。皆、蓮を見ている。
そうして、砂雨は漸く気付く。今までは奏歌の瞳だけが変わっているのだと思っていたが、こうして周りと比べてみると蓮の容姿も浮いている。際立っている、といったほうが正しいだろうか。
蓮だけではなく、他の仲間たちもだ。以前から整った顔をしているとは思っていたが、それはきっと種族ゆえのものだったのだろう。
土中に生きる土竜が強い歯と爪を得たのと同じで、鬼という血がそうさせる。この世に生きるすべての者は、種の存続の為にそういった進化を遂げていく。だからこれも、より美味な血を啜れるようにと、人間を惹きつけるために造られた産物のひとつなのだ。
「どこ行くの?」
てっきり外に行くのかと思っていたのに、蓮の足は透明な壁とは違う方向へ曲がる。
「とりあえず、今日はホテル内。他の奴は出払っているし、砂雨の体力保たないだろうしね」
「おそと……」
「ランチを予約してるよ。そこできちんと食べれたら、次は外まで行けるよう僕からも頼んであげる」
この場合、食事とはどちらのほうを指すのか。
食物か、血か。
用心深い蓮が、わざわざ知らない場所へ他人を呼び寄せるとは思えない。そうすると、彼が最近好んでいるというフレンチだろうか。
この間食べさせて貰ったショコラを思い出して喜んでいると、横から目の前へと飛び出す影があった。ぶつかりそうになる前に強い力に引き寄せられ、蓮の胸へと抱き込まれる。
「……蓮?」
見上げた先の顔は険しい。彼の腕に包まれたまま視線の先を辿ると、赤い服を着た人物が床に尻餅をついていた。
人間の、かなり若い女性だ。こちらを見上げて呆然としている。
彼女が身につける下衣の裾は、ただでさえ短いようなのに転んだ拍子に捲れたのか、肉づきのいい太腿が露わになっていた。
間一髪、ぶつかってはいないはずだった。しかし、彼女は床に尻餅をつき、蓮の纏う空気はどこか重い。
不思議に思った砂雨が、ふたりを見比べていると、ふいに後頭部へと蓮の手があてがわれた。そのまま奏歌に比べれば薄い胸へと押さえつけられては、前が見えなくなる。
何なのだ、先程は抱っこしないと言ったのは蓮のほうなのに。人前にしては、やけに距離が近い。離してほしいと、砂雨はくぐもった声で抗議する。だが、黙っていろとでもいうように更に強い力で抱き込まれた。
「――――……申し訳なく……娘が――――すが――――――」
「は――――――――から」
「――――んでっパパが謝――――あたしの――――だってあた――――」
歳とった嗄れた声と、冷たい響きの蓮の声。それから若くて高い女性の声。
途切れ途切れの会話に、蓮によって音を遮断されたのだと知る。つまるところ、砂雨に聞かれたくない話をしているのだろう。
べつに気にしたりなんかしない、蓮の胸のなかで砂雨は唇を尖らせた。偶にあることだ。エルや夽なんかはよく汚い言葉は覚えるなと言って、テレビの音声を遮ってしまう。だから、こんなの平気。そうは思っていても胸の奥がなんだかもやもやとした。
少しして会話を終えたらしい蓮が、疲れたように小さく息を吐き出した。
そして、思い出したように砂雨を腕の檻から解放する。
彼女の聴力を元へと戻す頃には、二つあった声の主は目の前から消えていた。見渡せばそれだけではなく、先程まであったはずの無数の視線もが気にならなくなっている。
「砂雨」
砂雨の顔を覗き込んだ蓮が、困った顔で笑う。
「拗ねないでよ」
拗ねてなどいない。
「新しいところが楽しみだったのは分かるよ。でも……この調子だと先が思いやられるな」
「何が駄目なの。よくわかんない……」
「分からないままでいいのかもね。ほら、座って」
目の前に置かれた黒い椅子に、促されるまま腰を下ろす。もう一つの椅子は卓を挟んだ反対側にあるというのに、なぜか蓮はそれをこちら側へと動かしている。砂雨の隣へと置いたそれに、彼は音をたてることなく座った。
前方に二つ、振り返った先に三つ。砂雨たちが使っている洋風座卓とまったく同じものが用意されている。しかし、他に人影は見当たらず、蓮を見上げて問うと気にしなくていいことだと返された。
「……ここ、どこ?」
「ホテルの十二階。レストランの一つだよ」
砂雨が泊まっている部屋は、三十七階だ。その部屋の主寝室を砂雨と奏歌が、残り二つの寝室をそれぞれエルと蓮が使っていた。肖たちは、真上にあたる最上階の部屋を幾つか分かれて借りている。
目的の場所が十二階だったというのに、わざわざ一階のロビーまで降りた理由は、ホテルの仕組みにあるらしかった。
「こっちのエレベーターは他の客も使うから、避けたほうがベストだね」
「……でも、突然消えたりしたら、あそこにいた人たちはビックリしない?」
「そんなヘマはしないよ」
目眩しくらいは心得ている。そう言って蓮は、テーブルへと腕を伸ばした。
エメラルドブルーを基調としたセッティングに満足そうに頷き、カトラリーの側にくるりと巻かれて置かれている布を手にとる。自分は膝の上に一つ折り目をつけて乗せ、砂雨には大きく広げてから首へとあてた。真白なそれは彼女の肌とよく溶け合い、何をするのか分かっていない丸い目に蓮は笑う。そのまま指を動かしてナプキンの端と端を首の後ろで緩く結んだ。
「赤子じゃないよ!」
胸元を見下ろした砂雨が、上半身を殆ど覆うこととなった白い布地をみて眉を寄せる。これではまるで幼子の涎掛けだと訴えたのだ。
「そうだね。砂雨はもう子供じゃないんだから、イヤイヤしないで座っていられるはずだね」
「…………」
「ああ、前菜がきたよ。美味しそうだ」
蓮が指差した方向には、確かに白と黒を入り混ぜた格好をした青年がおり、その両手は丸皿で塞がれていた。腰には黒無地でできた布を巻いている。
椅子に座るふたりにギョッと目を剥いた青年は、しかし直ぐに繕った笑みを浮かべて仕事を続けた。
「旬野菜のテリーヌでございます」
それだけ告げると頭を軽く下げ、壁の向こうへと戻って行く。
卓の上には白い皿が二つ。そのどちらにも同じものが乗っている。
見たことのない料理だ、と砂雨は思った。夕焼け色をしたぷるぷる。その中には、名も知らない野菜らしきものが数種類入っていた。
蓮に促されるがまま、差し出されたフォークを握り食べてみる。
「砂雨、食べろとは言ったけど、無理はしなくていいんだ」
一回二回、三回。そこまで噛めた。けれど、どうしても飲み込めないそれを目の前に差し出された丸い器に吐き出す。
首にかけられた白い布で砂雨が口元を拭っている間に、蓮が先程の青年を呼んで皿を下げさせていた。代わりに卓の上へと置かれていたのは、瑠璃色の綺麗な瓶だ。蓮の手によってグラスへと注がれる透明な液体を見て、砂雨は目を輝かせて口に含んだ。
「しゅわしゅわ好き」
「知ってる」
これは気に入っている。
だが、一口飲んでみると味がない。夽が一昨日の夜に買ってきてくれた甘いものとは少し違うようで、同じ味を期待していた砂雨はがっかりと肩を落とした。
「甘くない……」
「食事中だから。これはただの炭酸水。砂糖入りのが欲しいなら、後で買ってあげる」
「うん。……蓮は食べないの」
「メインディッシュは食べるよ。砂雨も食べたことのある魚を頼んだから平気だと思うけど、もし駄目そうなら残して。食事の最後に、甘いお菓子が待ってるからね」
「ん」
蓮の言ったとおり次の料理は焼かれた白魚で、柑橘のソースというもののおかげか臭みが無く、砂雨も半分ほど食べることができた。デザートだという、ふんわりと舌にのせただけで溶けていく氷菓子は美味しい。
「――――……干渉されてる」
隣で同じように舌鼓を打っていたはずの蓮が、ふいに何かに気付いたようにスプーンを置いて立ち上がった。
視線は遠く、壁の向こうを見ている。
「蓮?」
「砂雨、ちょっと離れるよ。直ぐ戻るから、絶対に此処から動かないで」
頷いた砂雨の頭を撫でた蓮が、言葉とおりに姿を消す。何度もそういう移動の仕方をすれば、さすがに疲れるはずだろうに。
しん、と静まった店内にひとり残されることとなった砂雨は、ゆっくりとスプーンを置く。デザートは美味しかったが、舌の上にのこる甘さに喉が渇いた。
あのしゅわしゅわした飲み物を口に入れたい。グラスを見るが、中身が空だ。自ら注ごうと瑠璃色の瓶に手を伸ばし、だが、誤って掴む前に傾けてしまう。
「っあ」
ごぼごぼと瓶口から零れ出たそれが、テーブルクロスを濃く染めていく。
砂雨は、きょとんと目を丸くした。着替えさえひとりでしたこともない彼女には、慌てて拭くなどという行動は思いつきもせず、ただどうしていいか分からず目の前の惨状を見つめる。
そのときだ。
砂雨がたてる物音を除けば静寂に包まていた室内に、突如として慌ただしい足音が聞こえてきた。
「こちらです、先生! 本当に見たんですってば! あれは間違いなく、先生の求めてた……」
「ああ、ああわかった。だからそう大声を出すな。とはいっても、俄かには信じられないが」
給仕をしていた青年が、誰かを伴い戻って来る。
自棄に興奮気味の青年と違い、その人物像は俯き加減の姿勢で、のっそりとした足どりだった。前を歩く青年に面倒くさそうに返事をしている。
髪を掻き上げながら顔を上げたその男と、振り返った砂雨の視線がぶつかった。
時が、止まった気がした。
男の目が、それ以上ないのではないかと思うほどに、大きく見開かれている。
驚きから固まった相手に反し、砂雨は監察するように彼を見た。
見たこともない男だ。
日本人にはあまり見かけない、凹凸のはっきりとした顔だった。蓮よりも歳上なのは明らかで、恐らく夽よりも上だろう。奏歌よりかは若いかもしれない。
毛先がくるんとした癖のある短い髪をしていて、その色はショコラのように濃い茶をしている。瞳の色は灰色に近い。
「…………は、」
男が、笑いたいのか泣きたいのか判別しにくい顔をして、息を吐き出す。
やはり外国の生まれなのだろう。硬直から解かれた彼の唇から漏れ出す日本語は、独特な音をしていた。
「――――これは、驚いた」
「ねっ、先生、当たりだったでしょう!?」
「ああ、これこそ勿怪の幸いというやつだな」
会話するふたりに、警戒心が芽生える。
見知らぬ客人は、もしかすると蓮が呼んだのかとも考えた。だが、当の蓮の姿がまだ見当たらないことから、その線は薄いだろう。
ならば、この男は誰なのか。
給仕をしていた賑やかな青年のほうは、間違いなく人間だ。その匂いと気配でわかる。
だが、もうひとりは何であるのか、砂雨の力では察することができない。それは即ち、彼がただの人間でないということだ。
少し痩せがちにも見える男は、すらりと長い脚を動かして、迷わずこちらへと進んでくる。その歩調は、心なしか早いような。
「こんにちは」
話しかけられているのは自分にだと、そうわかっていても、顔を上げるのには勇気がいった。
「子供の姿は久しく見ていなかったから、もう絶えてしまったのかと思っていたほどだ。まさか日本で出逢えるとは、な」
「…………」
「見たところきみは随分と、その……か弱いようだが。もう親離れはしているのか?」
親ならどちらも、とっくの昔に死んでいる。
おずおずと無言のまま見上げた砂雨に、男は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんだ……血の一族で間違いないだろう?」
びくり、と。肩が大きく跳ね上がった。
どうして。
この男は、砂雨たちの種族を言い当てた。
そんな人間が、只者であるはずがない。
音をたてて勢いよく椅子から立ち上がった砂雨に、窪んだ双眸は一瞬の隙もなく向けられている。
向かい合ってみれば、男はかなりの長身だとわかった。奏歌ほどではないものの、それでも身長差は大きく、ずっと見上げているのは厳しいものがある。
相手もそれを感じたのだろう、腰を折り砂雨と目線を合わそうとしてきた。
「……ああ、いいな。子供は可愛い。紅い瞳になったきみも、ぜひ見てみたいものだ」
怖かった。
この男はどこまで知っているのだろうか。
血の一族の者が、本来もつ色から血のように紅く瞳の色を変えるのは、命の糧にありつくとき――――――――人間の血を吸うときだけだ。
こわい。
このひとは、こわいひとだ。
もうひとりの青年はおとなしく、彼の背後に控えていた。その表情も、どことなく満足気にみえる。
「これは……どうしたんだ?」
怯える砂雨と裏腹に、男は相も変わらず、こちらを惑わす言動をしていた。水浸しとなったテーブルに漸く気付いたようで、ハッと息を呑むと、砂雨の全身を見回してくる。どこも濡れてはいないことを確認し、なぜか安堵の息を吐いていた。
「服も……無事だな。ひとの食事は慣れていないのか? タジマ、テーブルを片付けてやってくれ」
指示を得て片付けに動きだす青年をよそに、男はまだひとりで話している。
灰色の瞳が、輝いて砂雨を見つめていた。
「もし、きみさえ良ければ」
皆まで聞かずに、その場から逃げ出した。
追ってはこれないはずだった。行き先を知らなければ、同時移動は出来ない。そのはずなのに後ろから制止する声が聞こえ、砂雨は引きつった細い悲鳴をあげた。
強い力に容易く腕を掴まれる。
得体の知れない恐怖がこみあがり、砂雨は逃れようと鷲掴みされた腕をおもいきり振り上げた。だが、その腕は抱き込むようにして自分を支配しようとしている。
「やぁ……!」
涙が、宙を舞っていった。
「砂雨」
「……あ」
転移したのは、先程使用したエレベーターの中だった。
蓮に、上層階宿泊者専用と聞いていたからだ。使用する者が限られているエレベーターならば、誰かと接触する可能性も少ないないだろう。そう思って、閉鎖的な場を選び、飛んだ。
「…………どうした?」
先に、出掛けたはずの男が、いる。
どうして居るのかなんて、そんなこと尋ねる余裕もない。意味もないと知っている。
何故なら、この男はそういう存在だからだ。彼に出来ないことなど何もない。砂雨を助けてくれるのは、結局のところいつも奏歌なのだ。
ひぃん、と。みっともなく喉が鳴る。瞳に心配を滲ませて見下ろしてくるそのひとに、意地も反抗も捨てて縋りついた。ぽろぽろと涙が次から次へと溢れてきては、屈んだ男の唇に吸い取られていく。
「こわいひと、いた」
「護衛はどうした」
「わかんない……」
泣いたせいか、それとも逃げてくるために力を使ったせいか。急に脱力した身体を難なく受けとめるその腕は、そのまま胸へと抱き上げてくれる。いつもなら幼子のような抱き方のそれを嫌がってみせるのだけれど、今はとても安心するから。
首元をきゅうっと握り締める砂雨に、彼は目を細めた。彼女を抱く腕とは違う手を壁側へと伸ばし、タッチパネル式の階数ボタンを操作する。37、と大きく表示されたそれに、砂雨が泣き止んだ目を瞬かせた。
「……帰るの?」
「ああ」
「お仕事は?」
「終わる」
終わった、ではなく、終わる。彼らの王には誰も異論は唱えないだろうが、今頃、エルあたりが悲鳴をあげていそうだ。
自分のせいで予定が変わったことを申し訳ないと思っても、今はひとりになりたくはない。厚い肩へと頬を擦り付ける砂雨の頭を、大きな手がゆっくりと撫でていく。
停止したエレベーターから絨毯が敷かれた通路へと、奏歌に抱かれたまま過ぎて行った。途中、誰かとすれ違うこともない。
何も使わなくても開閉する部屋の扉は何度見ても不思議だった。奏歌の手を軽くかざしただけで開かれた扉の向こう、見慣れつつある室内を前に砂雨はホッと息を吐いた。
奏歌はまず彼女を腕に抱えたまま、キッチンへと入って行く。
アイランド型の広々としたキッチンは、宿泊二十日目にして漸く生活感が表れていた。誰かが買い足した食材やアルコール類が、それなりに整理されて備え付けの棚へと置かれている。
物の乗っていないワークトップへと砂雨を座らせた奏歌は、大型冷蔵庫から桃と牛乳の瓶を取り出した。器用な指が皮を剥いた桃を、軽く水で洗っていく。
ちょうど、砂雨の座る向かい側。カウンターに置かれたミキサーに下処理を終えた桃と牛乳を注ぎ入れた奏歌は、最後に蜂蜜を少量足してからスイッチを押した。機械音とともに中身が液状化していく。
とろとろに出来上がったジュースは、里でよく飲んだものとよく似ている。
育ったあの里は、果実だけは豊富であったから、蜂蜜が手に入った日には彼自らが作ってくれたものだった。勿論、あそこにはミキサーどころか電力自体がないから、その大きな手が握りつぶして、という原始的な遣り方ではあったが。
機嫌をとられているのだろう。
透明なグラスは淡い色で満たされ、手を伸ばして受けとろうとするも、グラスを握る大きな手は離れてはいかない。ちらりと見上げ表情を窺えば、男の目が危なっかしいとでも言いたげだ。
グラスの縁があてられた唇が小さく開かれると、奏歌の手が支えるそれがゆっくりと傾いた。
こくん、と喉が鳴る。
慣れ親しんだ果実のどれとも種類は違うが、甘くて美味しい。
「ん……もう、いい」
食後だけあって、そうは入らない。三口飲んだだけで限界を訴えた砂雨が首を振ると、奏歌は素直に退いた。真正面から砂雨を見つめたたまま、彼女が飲み残したグラスを後ろ手にカウンターへと置く。
奏歌の大きな手は腰掛ける砂雨の脇へとつかれ、空いたもう片方の手は彼女の頬を包んだ。
ふいに、彼の指が一本、口のなかに入ってくる。
「ん、ぅ」
首を振って拒絶をみせる砂雨に構うことなく、最も太い指が上顎を探った。指の腹でなぞられるのは、左の犬歯――――ではなく、その直ぐ奥。
本来ならば、必要なときのみ自らの舌で呼び覚ますべきで、他者に無理矢理引きずり出されるものではない。外側から与えられる刺激に、疼き出す。砂雨は先程より強くかぶりを振った。
抗う術は、知らない。
擽る指に促されるまま、口内の薄い粘膜を押し退け姿を現すのは、白く鋭い牙だった。
人間には生えていないそれこそ、血の一族であるもうひとつの証のようなもの。
「喉は、渇いているはずだ」
かけられた言葉に、彼のこの行動の意図がわかった。鬼の本能を呼び起こさせて、砂雨に自分の血を飲むように言っているのだろう。
命を繋げる為に必要なのは人間のそれで、同族の血は糧とはならない。だから、ここで奏歌の血を飲んだところで人間が不要になるわけではなく、だからといって、まったくの効果がないわけでもなかった。
いわば、喉の渇きを癒す応急措置のようなもの。血の一族では、主に、伴侶間でしか行われない。
「ぅ……やぁ」
王である奏歌の血は砂雨にとってあまりに強く、理性を狂わせる。それを知っているからこそ安易には受け入れられない。
「駄目だ。血が足りてない」
つまりは先程、逃げてくる為に使った力のことを言っているのだ。
漸く口のなかから指が出て行ったかと思えば、大きな手に頭を支えられるように優しく太い首へと誘導される。牙が出された以上、喉を潤したくなるのが本能だった。日に焼けた肌の上を浮き立つ血管が、甘く彼女を誘っている。
いつだって、こうだった。彼がそう決めたことには逆らえず、その肩へと縋りつく。大きな手のひらが宥めるように背を撫でるが、考えを変える気はないのだろう。名を呼ぶその音に促され、砂雨はひとつしかもたない未熟な牙を突き立てた。




