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 それは思いきった提案であったし、中には欠片でさえも想像していなかった者もいるだろう。はじめに言い出したのが誰であったか、最近のことだというのにもう忘れてしまったけれども、最終的な決断を下したのは彼らの王だった。


「砂雨、大丈夫?」

 大丈夫じゃなかった。

 身体が怠くて仕方がない。

「お腹空かないの?」

 清拭を終えた身体に湯帷子を羽織っただけの格好のまま、歳上の彼女の言葉に曖昧に首を傾げる。そういえば、この柔らかな羽織り物は湯帷子とは違う、ガウンというのだと教えられたのだった。ふわふわとした肌触りに心地良さを覚えて息を吐くと、困ったように笑われた。目尻に落とされた口づけは、親が子を愛でる仕草そのものだ。

「ねえ、砂雨。わたしたちの愛しい子。何を悩んでるの」

 指で弄んでいた合わせ紐を、白魚のような手がそっと奪っていく。

(あやか)

 細い声で呼ばれ微笑む彼女は、森を駈ける狩人でありながら美を欲する女人でもある。こうして部屋で過ごしているときでさえ外と変わらぬ姿をとっていた。身体の細部までもが磨かれていた。それらは雄を喜ばせる為ではなく、単なる雌の嗜みだと教えられ、どれほどの月日が経っただろう。時の流れが緩やかになってからは、数えることも放棄している。

「砂雨、ちゃんと食べないと治るものも治らないわよ」

「それは……わかってるんだけど、」

「やっぱり昨日のは味がきつかった?」

「うん……」

 長く綺麗な指は、襟の乱れを慣れた様子で直していく。直ぐに解けてしまうほど腰紐を緩く結ばれるのは、この後にまだ続く訪れを彼女が知っているから。彼の手を煩わせないように、その為に自分の世話をやくのだと以前はそう思っていた。けれど、この指はどこまでも自分に優しい。柔らか過ぎて扱い辛い砂雨の髪を、木櫛で丹念に梳いていく。乾燥した唇には、飴のように甘い匂いをした紅が塗られた。

「あ……」

 ひくり、と喉が動く。

「我慢しないでいいの」

「う、ん」

 涙が浮かんだ目尻を、細い指が労わるように撫でていった。そうして離れていくたおやかな指の主は、まるで姉のような母のような顔で見つめている。

 鼻を掠めた匂いに誘われるがまま、砂雨は濡らされた唇を舌で舐めた。舌先に感じる甘い味。ほんの些細なそれで身体が悦ぶのがわかる。甘くて、美味しい。若くて健康な異性の血だと、本能が教えてくれていた。

 まだ夜は来たばかりだ。いつ行ったのかと尋ねると、今し方と返ってくる。

「蓮と一緒に行って来たのよ。……もっと欲しい?」

「ううん」

 バレていないはずがなかった。結界内に何か変化があれば、直ぐ駆けつけるあの男のことだ。それが例え物言わぬ食糧であろうと察するに容易く、気に入らない物は容赦なく弾かせている。

 肖にとっては、この一滴を持ち帰ることさえ賭けだったはずだ。恐らくは、見逃してくれたのだろうが、砂雨がこれ以上を強請れば、罰せられるのは肖のほうだと互いに分かっていた。

 ありがとう、礼を告げる砂雨に彼女は安堵した笑みを向ける。

「桃もあるの。あとで切ってあげるわ」

「うん、食べる」

「いい子ね」

 宥めるそれに、俯く。これは、肖だけじゃない。他の皆も共通する口癖だ。

 出逢いが出逢いだったからか、それとも砂雨が弱い個体だからか。どうも彼女たちは、砂雨に対し、母性や父性を感じているようだった。揃いも揃って、過保護ばかりだ。後ろ向きな自分の態度にも問題あるのかもしれないが、流石にそろそろ度が過ぎる気がしていた。

 狩りもしたことないのだ。危険が伴う真似はする必要はないと、あのひとが、そう決めた。時期を思い出すのも困難なほど、もうずっと昔のことだ。

「そんな顔をしないでよ」

 鬼の世界は、すべて力で変わる。本来なら弱いこちらが補助となるべきだというのに、彼女たちは優しい。年長の存在としてときに教誡はするものの、いつだって慈愛に満ちた目で抱きしめてくる。

「砂雨が何を考えているのか、なんとなく分かるわ。王は怒ってなどいないし、貴女の我儘だって喜んでおられるのだから、願えばなんだって叶うのよ」

 ああ、やっぱり我儘だと思っているのか。それなりに自覚はしていたことだったが、直接言葉にされると複雑なものがあった。自分のこういうところが、(ぐん)に扱い辛いと言われてしまうのかもしれない。それでも篤行ではないかと笑い飛ばす肖に、それはどうかなと砂雨は思う。

 肖の言うとおり何でも叶えてくれるのならば、昨夜、奏歌は首を横に振らなかっただろう。砂雨の提案を皆まで聞くまでもなく、彼は否定した。それどころか己が認めない者の血は金輪際飲んではいけないとまで言う始末だ。それを聞いたエルが爆笑していたが、そんなの知ったことではないと砂雨は息を吐く。あの男はいったい何がしたいのだろう。普段は砂雨を甘やかす気満々のくせに、変なところで厳しくなるのだ。

 目下の課題は、外出許可をどう勝ち獲るかだった。未知なる現代の日本を、せっかくだから探検してみたい気持ちはある。そうするには、まずどうすべきか考えていると、風が踊るように流れてきた。

 主寝室の扉が、外側から開かれている。

「あら、噂をすれば」

 砂雨の頬をひと撫でして、あっさりと退室する肖と、それと入れ替わるように現れた人影はとても大きい。足音も立てず近付いてくるその気配に砂雨は唇を閉ざした。

「機嫌は如何か」

 バスローブに身を包む砂雨を見つめる瞳は今、情欲に濡れていないというのに確かな熱が混じっている。眉を顰め、それを見つめ返した。

 嫌な予感しかしなかった。男が、奏歌が、その後ろに見知らぬ人間を連れていたからだ。

 砂雨が知るどれよりも強く、どれも大きな体をもつこの男は、意味もなく行動を起こすひとではない。立派な体格から想像できないほど機敏な動きで寝台へと歩を進め、ふいに何かを思い出したように振り返る。ずらされた身体の向こう。開いた視界の先に、それまで大柄な影に隠れはっきりとは見えなかった人物が、砂雨の前へと晒された。

 現れたのは、妙齢の女性だった。肖と同じくらいか、それよりも少し上の年齢にみえる。

 この突然の顔合わせを知らされていなかったのは彼女も同じらしく、黒々とした長い睫毛をぱちぱち瞬かせている。寝台に身を預けたままの砂雨をじっと見つめ、そして、不服そうに頬を膨らませてみせた。

「会わせたかった人って……この子?」

 棘のある響きだった。見た目の年齢よりも感情を隠そうとしないその姿に、いったい奏歌がなんと説明して誘ったのか想像できない――――否、違う。恐らくは何も告げていなかったのだろう。何も言わない奏歌に代わって、エルあたりが適当に誤魔化して連れてきたのだ。




 暫く無言で何かを考えていたらしき彼女は、未だ寝台から起き上がろうとしない見知らぬ少女と、自分の横へと並んだ奏歌を何度と見比べ――――ふと、見上げた男の何かに気付いたらしい。瞬きを数度繰り返した後、唇からは恍惚の息が漏れる。

「なんて、綺麗なの……あなたみたいな目、はじめて見るわ」

 そんなに首を伸ばせば痛いだろうに、奏歌の横顔を熱心に眺めている。そのときになって漸く、彼女が見ているのものの正体が砂雨にもわかった。

 彼女は、奏歌の目を見てる。唯一無二の闇の支配者の双眸を。

 わからなくはない。彼女がいうように、他者と違ったその瞳に、幼い頃の砂雨もまた惹かれたのだから。それほどにそれは不思議な色合いをしている。彼らの種族に相応しいとても深い闇色の瞳、その奥に潜む小さな金は神秘的の一言に尽きるであろう。

 けれど、その隠れた恐ろしさを知らないから、彼女はうっとりと見惚れていられるのだ。

「見れば見るほど不思議だわ。他のひとはそんな色してないわよね、あなただけ……。ねえ、それは遺伝なの? もう一人の彼は違ったわよね。確か、ヘーゼルだったかしら」

 心身の気怠さからまた目を伏せ、砂雨はその語らいを聴いていた。だが、それは一方的というしかない。どの問いかけにも奏歌は答えようとしないものだから、次第に彼女の声が尖りあるものへとなっていく。

 そうしているうちに、高かったはずの彼女の声がぷつりと不自然に途切れた。不可解に思った砂雨が視線を上げれば、彼女の細い首には長い指の先が食い込んでいる。

「っ、やめて!」

 眉間に皺をつくった男と、視線がかち合う。恐ろしいくらいに、静かな眼差しだった。

「だめ」

 ――――ほら、やはり肖は読み違いをしている。

 奏歌は砂雨の頼みを聞き入れてはくれなかった。そうして弱者の急所を掴むことに何の意味があるのか。それが初対面の相手であろうと、彼が誰かに乱暴を働く姿は見たくはなかった。

 二、三度と言葉を繰り返して漸く、あちら側に譲歩が表れる。彼の片手は相も変わらず白い首を覆ってはいたが、指に込められていた力が抜けられたようで、肌に出来ていた窪みが消えていた。そのことに肩の力を抜いて、深く息を吐く。そんな自分から視線を外そうとしないにも拘らず、何も発しようとしてこない男に砂雨は苛立ち、反抗的な表情を向ける。

 奏歌とふたりきりになると、こうなることが多い気がした。ただでさえ言葉の足りない男と、あまり物を知らない砂雨では、まともに会話が成り立たず、こういうときは他の仲間が話を進めていくことが定番となっている。


 そうこうしているうちに、呆然としていた人物が正気を取り戻したらしい。開いたままの瞳孔がゆるかに動き、ひくりと口端が引き攣っている。自分の首を掴む男をまじまじと凝視していた彼女は、やがて彼の視線の矛先に気付いたのか、つられるように視線だけを動かし砂雨を見た。自然と交差するそれに戸惑う。

 彼女の目は間違いなく、砂雨を責めたてていた。男に首を絞められている現状よりも、嫉妬の情が勝つものだろうか。そう思うと、奇しくもそれに砂雨は心躍らされる。可愛いのだ。だからこそ人間は愛おしい。そして、懐かしい。彼女はどこか自分を産んでくれたひとに似ているのかもしれなかった。

 こっそり独りごち、砂雨は目で語る奏歌へと視線を戻した。自ら動くことの少ない立場にいる彼が、そのようにしてまで人間の彼女を誘い出した理由は分かっているつもりだ。けれども、なんだか思い通りになるのは癪で、こちらもまた眼差しひとつで用件を問う。すると漸く、仰いだ先にある唇が開かれた。

「身体は」

 平気か、と。声にせずとも先の内容がわかるのだから、一緒に過ごした時の長さを思い知らされる。

 それでも、この身体はまだ強くはならない。肉体的にもそうだが、恐らくはそれ以上に精神的に響いたのかもしれなかった。肖や夽みたいに頻繁に遊びに行っていれば、それなりに耐性が出来ていたのかもしれない、とも思う。けれど、それは目の前の男が良しとしないだろう。

 自分と同じように里に引き籠っていたはずの奏歌に至っては、元の造りが左右するのか、さして影響がみえていない。現代社会に衝撃を受けたようにも、馴れない環境による疲れもないようなので、やはりこれは自分の弱さが原因なのかと砂雨は地味に落ち込んだ。仲間が確保していてくれたらしいこの部屋に滞在するようになり、それなりの日数が経つが本調子にはまだ遠く。自分だけがこのような状態で、こういうときに己がいかに偽物の身であるのか砂雨は思い知るのだ。

 人間の手が入っていない、あの静かな森と澄んだ空気が恋しかった。しかし里に戻ったところで、今や無人のあの里に出迎えてくれる者などいないことも分かっている。

 自分にとっての楽園は何処にあたるのか。

 誰かと同じになりたかった。けれど、それは一生叶わぬ願いなのだろう。それならば男のいうとおり、その腕のなかが砂雨の居場所なのかもしれない。

「砂雨」

「……や」

 首を横に振る砂雨に沈黙で返した男はやがて 何事もなかったように身を屈める。陰った顔を上げると、寝台に片腕をついた奏歌が覆い被さるようにして砂雨の顔を覗き込んでいた。薄く開いていた唇へと、肉厚なそれが触れてくる。

 血の匂いは、しなかった。

 自身の食事を後回しにしてまで早く戻って来たかったのかと思うと、どうしようなく愛しさが芽生える。だから厄介なのだ。こうしていつまでも真綿で包もうとしてくるから、いつまで経っても離れられずにいる。

 なかなか終わろうとしない唇に応えることも抵抗出来ずにいると、すぐ近くから唸り声が聞こえてきた。音の方向に目を向けると、男の片手に掴まれたままの彼女が寝台の端へと倒れ込んでいる。それに気にしたふうもなくなおも身を寄せてくる肩を、砂雨は精一杯の力で押し戻した。

 名を呼べば、声もなく先を促す男に罪悪感など皆無なのだ。でなければ、始めからこんなふうになっていない。そして、折れるべきはこちらだということも本当はわかっている。

「……のど、かわいた」

 扉の向こうで、誰かが吹き出した。そちらへ目を向けた砂雨と違い、奏歌はまだ彼女を見つめたままでいる。しつこいくらいに頬へと触れてくるそれに仕方なく彼に向き直れば、先程までの無表情など知らないとばかりに、熱をもった口元を綻ばせてみせる。

「いい子だ」

 身体の位置をずらして寝台に腰掛けた奏歌は、ろくに力の入らない砂雨の身体を軽々と抱き起こした。ぐらりと今に傾きそうな彼女の後頭部に掌を添えた気遣いをみせながら、自らの膝上へと乗せる。その広い胸に力なく凭れかかり、砂雨がゆっくり瞬きをした。悪戯な指が顎を擽って、口を開けるように教えてくる。

 いつの間に彼は捕らえていた獲物を解放したのだろう。大きな手のどちらもが、砂雨へと触れている。直ぐそばで苦しそうにあがった誰かの声に視線を向ければ、首締めから解放されていた彼女が咳き込んでいた。息が整うその前に、感情が抑えきれないといったふうに、何かを真っ赤な顔で叫びだす。その音を砂雨の耳が拾うことはなく、脳を揺さぶる香りが頭上から生まれた。

 喉が、渇く。同性のものだけれど、あれはあれで甘美にみえてきた。あったはずの理性が行方知らずとなり、意思をもたずに跳ねた身体は穏やかな力で押さえられる。口から漏れていったのは、愚図るようなそれだった。宥める口づけが額へと落とされたけれども、差し出された餌にもうそれしか見えていない。白い首から溢れた朱が、ぽたりと視界の中央を垂れていった。








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