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その男といえば、それ以上を知らないほどに無口で、必要最低限のことしか口にしようとはしない。そんな寡黙な男だからこそ、最初にかけられた言葉を今でも覚えている。
――――砂と雨、か。混じり合えば汚いだけだというのに。
親が与えてくれた名に、なんとも失礼な品隲する。
そんな難ずる男は奏歌という女性と見紛う名前をもっているのだから、お互い様だ。思わず、そう毒づいた。
売り言葉に買い言葉。男に挑発の意図があったかどうかは定かではなかったが、受けとる側がそう感じてしまったゆえの台詞で、対する相手の反応といえばなんとも物足りない。彼はただ静かに目を細めるだけで、怒ることも笑うこともしなかった。
あのときの彼の胸中は、どのようなものだったのだろう。今にして気になってきてしまうのは、現在置かれている状況があの時と似ているからか。
当時と同じ、情を感じさせない静かな眼差しが今、戸惑う砂雨を真っ直ぐに捉えている。
彼のそれは、変わっていた。
王の目だ。比肩するものさえない王の瞳。
幾度となく見てきたそれを、まるで夜空に浮かぶ星のように思う。暗く深い闇の色だというのに、その奥には小さな光が潜み、何かをじっくりと狙っている。
その、何か。
わからないふりは、もう出来ない。気付かずにいれるほど、その目は既に偽りを纏ってなどいなかった。
いつのまにか熱を孕む眼差しは、けれど、きっと恐ろしいもので出来ている。彼自身が得体の知れないものであるように。
この男はきっと、自分などが触れ合っていい存在でない。関わりが深くなれば深くなるほど、取り返しがつかなくなる。出逢ったときから、そんな予感がしていた。
だが、どうだろう。砂雨は結局のところ、この男に甘やかされて育った自覚がある。そしてもう幼かったあの頃と違うのに、目の前に捧げられたものは、あまりに魅力的で拒否するには惜しかった。自立心の弱い獲物には、これとない極上の薬だ。
「おいで」
甘かった。
こんなにも甘く、誘われると思ってはいなかった。媚薬を流し込まれたように、音を認識した耳からは疼きが生まれる。
濡れた音。発生源は、どちらの口だったのか。それすらも分からぬまま、無防備な唇を狙われた。
「ん」
呼吸が、苦しい。
息が、うまく出来ない。
貪られていた。ああ、やはり彼は優しいだけの男ではないのだ。こんなにも性急なのだから。
執拗と思えるほど貪欲に攻め立ててくる肉厚な舌が、熱をもって動いては、逃げまとうものを絡めとる。そうして砂雨の舌を捕らえたまま、男は己の口内へと引き寄せたところで、ゆっくりと吸い始めるのだ。
舌自体を愛撫される感覚に、睫毛が震えた。
それは今まで彼に抱いていたイメージと、まるで違う。普段の姿からはとても想像できないほど、情熱的な口づけに脳が溶かされていく。
――――溺れてしまいそう。
けれど、不思議だ。この海でなら、上手に呼吸できる自信がある。