貴族令嬢のたしなみ 第四話
コツ、コツ、コツ。
自らの足跡が、屋敷の廊下を鳴らす。午後の穏やかな日差しの中、春の陽気が眠気を誘う。春風駘蕩、誰もが優しい気持ちになるような時。
そんな中で、ただひとり真冬の寒さに身を置いている男がいた。ジャン=チャペルである。
ジャンは、それはそれは落ち込んでいた。というのも、先ほど愛娘三人に会い、長女アイリーンに出張先での出費についてこってりと絞られた矢先であるからだ。さらにこのあと、最愛の妻の元へ向かい、許しを請わなければならないというのだから気持ちも沈むだろう。
ジャンは仕事の長期出張から戻ったばかりで、まだ妻とも顔を合わせていない。再会第一声に謝罪というのはいかがなものか。
それにしたって、仕事から帰ってきた父・夫のことは、もう少しいたわるなりなんなりしてよいものではないだろうか。いかんせんこの家では女の権力が強く、自分はどうにも頭が上がらないため強くはいえないジャンであった。叱られるのは嫌だ。食事抜きはもっと嫌だ。しかし、出費がかさんで苦しい思いをさせるのは事実であるし……。なんとも居心地の悪い立場な自分をあわれみつつ、大広間の扉を開けた。
「あなたぁ~!おかえりなさ~い。わたし、寂しかったわ~」
美しい金の長い髪をなびかせ、柔らかな少女めいた要望の貴婦人が椅子に座っていた。アイラ=チャペル。ジャンの妻だ。
「……ただいま、アイラ。ところで、その、」
「あなた……。ちょっと見ない間にますますかっこよくなったのねぇ~。素敵だわ~、どきどきしちゃうわ~。まるで王子様ね~」
「あっ、ああ。それでな、ちょっといいかい?」
「やっぱり東方のお水がお肌にいいっていうのはほんとうなのかしらぁ~。触ってみてもい~い?」
「ああ……。」
ぐにぐにと頬をつままれ、すりすりと撫でまわされる。自分とアイラはかなり身長差があるので、周囲からみたら異様な光景だろうとよそうする。
可愛らしい妻の口から、ポンポンと飛び出る言葉の羅列に圧倒され、どうチャレンジしても本題を切り出せない。
このふわふわとした口調、夢見る少女をほうふつとさせる言動、小さく若々しい肢体。これに何人の男たちが騙されてきただろうか。いや、本人は全くの自覚なしなのだが。
10代後半の金髪碧眼美少女に間違われる47歳にして、三女の母。
ジャンは友人にアイラを紹介すると、かならず幼女趣味かと疑われる。失礼千万であるが、アイラは本当にジャンと同年代には見えない。ちなみに若かりし頃、アイラとジャンの間には右翼曲折大恋愛物語があったわけだが、そのおかげで今でも愛は深まるばかりだ。……と、おもっている。
「出張先でのことなんだがな、その」
「あらぁ、わたしは気にしてないからいいわぁ。あなたの判断にまかせます。いとしいジャンの決めたことだものぉ。どうにかなるわ~」
おこっていないのか。なんと夫想いの妻なのだろう。こんなに自分のことを信用してくれていたとは!
「最悪アイリーンがどうにかしてくれると思うの~。あのこ賢いもの~」
違った。全然違った。信用どころか、アイリーンやアリス、アンナを頼っていた。愛はどこへいったのだ。
そこはかとない敗北感がジャンを襲う。
「ああ、そういえば、重大発表があるのよ?」
「重大発表?」
なんだろうか。アイラの薄氷の瞳がきらめく。
「赤ちゃんが出来たわ。」
「!!!!!!!??」
……。
…………。
「あら?ジャン?大丈夫?あなた~~?」
ジャンは派手に後ろへ転び。
「ふふふ~~~」
にこやかにほほ笑むアイラの顔を最後の記憶に、意識が途切れた。