第六十六話 浅木 祐二
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端部の随所に錆が見られるトタンの壁。そして腐食が進んで一部が欠けた階段の手摺り。読んで字の如くボロアパートなその建物に不思議な懐かしさを、そして安らぎを覚える。
身体の赴くままに委ねて階段を上がり、アパートの一番奥から3番目の部屋のドアを開けると、そこには古めかしい6畳の部屋が広がっていた。
油汚れのこびり付いたキッチン、所々に凸凹が散見される卓袱台、そして唯一家具と呼べる家具である本棚に差し込まれた漫画の数々。何年も見慣れたたような景色に…聞こえてきたのは、憎しみの言葉。
「…死ね!全員死ね!」
「何で俺ばかりこんな目に…」
「俺は一体何のためにバイトしてるんだ?あの糞共に恐喝されるためか?ふざけんな!」
「あの糞アバズレ…ぶち殺してやる…」
―――ガンッガンッ
「…浅黄裕二だな?実は貴様の親父が我が朝昌組に2000万円の借金があるのだが奴は行方不明だ。…よって貴様に支払って貰う」
男の憎しみの声の次は扉を蹴り飛ばしたような音と剣呑な別の男の低い声。
「あ?払えねぇだと?――おい、この餓鬼まだ状況解ってねぇみたいだ。指詰めるか」
――痛い
―――――痛い
――――――――指が、痛い
…何故か………そう、思った。
「…んだこの情けねぇ貯金はよぉ……あ?痴漢冤罪で金取られただぁ?…仕方ねぇその金は俺らで回収するか……残り1950万は……オイ兄ちゃん、最後の望みにかける気はあるか?」
それから、部屋の中から音が消えた。
夜になった。
宛もなく、ただ田湯多雨ようにさまよっていると、ある港が目に辿りつく。
「あああああ!!腸が!俺の腸が!助けて!誰か助けて!やめろー死にたくない!死にたくない!」
―――――響き聞こえたのは悲鳴と断末魔。
「うるせぇ、テメェは負けたんだよ。分かったら黙ってその少しは金になりそうな腸と腎臓と心臓渡して…この海で藻屑にでもなりな」
次に聞こえたのは、ナニカを水に投げ込んだ音。
side リオン
―――ガィンッ
「………かはっ!」
「リオン!」
「お兄ちゃん!」
魔物がいつの間にか復活させていた大鎌に剣で斬撃を防ぐことは出来たけれど衝撃まで防ぐことは出来ず壁に叩きつけられる僕の身体。背中が冷や水でも浴びたかの様に鋭い痛みを上げ、口から少量だけど血を吐いてしまった。
「キシャァァァ!」
「くくひゃはははは!どうやらついに体力が尽きた様だな糞餓鬼!…ふん、我が黒魔法を破れる等と偉そうにほざいていた割には大したことがなかったな!」
白の国の使いとかいうフードの男に反論しようとしたが、喉からは乾いた風の音とそして首は、身体はどうやっても上がらない。
「あはははは!あはははは!下女の手で自らが生み出した邪魔なゴミを片づけてくれる!素晴らしいわ!素晴らしいわ!」
エンディミオンの氷から抜け出したローズとかいう不細工の女が金切り声を上げながら、僕を嘲笑う。
確かに、あのフードの男が言うように僕も、反対側に吹き飛ばされた僕を庇おうとするアリシアも、そしてエンディミオンも、先程から弱い魔法しか使えなくなり動きも鈍くなり体力的にも魔力的にも限界に近い。
…無理もない。だってあの魔物の攻撃を防ぎながらギリギリあの中にいる母さんに被害が行かないように威力を絞って永々と戦い続け、時間はどれだけ経過したのか判らないけれど、数千、数万撃の攻撃を撃ち落としてきた。
数十メートルから僕に狙いを定めて空を滑空する蝙蝠のように迫ってくる魔物の攻撃を防ごうと石畳に手をついて立ち上がろうとするけれど、足が震えて膝をついてしまう。
「…っ」
もう一度立ち上がろうと這いつくばると、手のひらに違和感を感じた。
ややぼやける視界に写ったのは黒い筒に木の取っ手がついた…母さんの必殺技兵器……ダブル・コンテンダー。弾丸ベルトと共に落ちていて、よく見ればこの場所は母さんが魔物にされた場所だった。
『見なさい!リオン、アリシア!これこそが人類最強絶対無敵の最終兵器、銃よ!』
『へ~、ねぇねぇ母さん!これどうやって使う玩具なの?』
『や、玩具じゃなくて武器なんだけど…使い方はカーンタン!筒と木の持ち手の付け根が折れるから折って…ここの剥き出しになった穴に弾丸を詰め込んで、折り目を元に戻したら引き金を引くだ
ダー………ン――――
…け…』
『『…………』』
『……り、リオンとアリシアは使っちゃ駄目よ~。さ~晩御飯に致しましょうか♪うふふふふ』
……そうだ…これの使い方は……まず持ち手の付け根部分の筒を折り曲げて、筒の中に入っている空薬莢を取り除き、弾丸ベルトから飛び出して転がっている弾丸を一つ摘んで筒に挿入し、ダブル・コンテンダーをくいと上げて筒の折れを元に戻す。
「お兄ちゃん!逃げて!」
「リオン!リオン!くそ!間に合え!間に合え!」
「キッシャァァァァァァァァ!!」
大鎌を振りかざし迫る魔物。悲鳴を上げるアリシア。必死の表情でこちらへ駆けるエンディミオン。
―――なぁ、魔物。
お前が今捕らえているのは僕にとって一番大切な人なんだ。辛い境遇なのに何時も月光のように優しく僕らを包み込んで、突然突飛調子もないことをしでかして、当時6歳くらいの僕らに銃の使い方を教えるつもりが暴発させちゃうような残念なお母さんだけど、僕とアリシアのたった一人の母さんなんだよ……。
「…だから……返せ…返せよ…母さんを!返せ!!ダブル・コンテンダー!!」
黒に染まる視界の中、けたたましい炸裂音が響き渡った。
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光の一筋も無いただひたすらに暗い、暗い、黒い世界を冷たい水に纏わりつかれながら堕ちていく。
急速に冷え切っていく意識の中、唐突に理解した。
―――俺、ここで………死んだんだ……
普段であれば苦痛に思うような冷たさも、何故かここでは段々と恍惚感にも似た感覚でもう何も見たくなくて、何も聞きたくなくて、ただここでこうして眠ったように堕ちていくことの方が幸せに感じるほどだった。
そうだよ、俺は何を無駄に頑張ってまで生きようとしていたんだ?
仕事を頑張っても『努力が足りない、真面目にやれ』と罵倒され、親切にしてやっても裏切られて『最低です』なんてほざかれ、ただそこに居るだけでも糞みたいな奴らに金を毟られて……悪意と争いしかない世界で生きることに何をこだわっているんだ?馬鹿みたいだろ。
もう俺は…何もしたくない……。
こんな糞みたいな人生……もうここで終わっても………
―――っヂュン……
『…………ど……う…か………………』
ついに、意識すらも冷えて眠るように消える寸前、鈍く響いた何かの…擦過音のようなモノに、一つだけ、記憶を思い出した。
『……誰でも……主でも……いえ…悪魔でも…………人殺しでも……誰でも……構い…ません………』
その声は俺と同じく闇に飲まれる寸前であると感じたのに……懸命に…何かを願っていた。
『……私はどうなっても構いません・・。だから・・・どうか・・お腹のこの子だけは・・・・っ!!』
どこかの母親だろうか?声の主は腹の中の子ごと死に瀕しているようだ。…自分が死にそうだと言うのにご苦労なこった。そもそも死にそうな目に遭っているのに夫はいないのだろうか?大方妻の危機など知らずに暢気に仕事をしているか……いや、寧ろ妻のことなど放っておいて他の女とよろしくヤッてんじゃね?
そもそもこの母親も、お腹の子だけでも助けて…と言っているが仮に子供だけ…しかも赤子だけ生き残ってもその将来は屋外で数日野ざらしで体力が尽きて死ぬか、野犬とか動物に喰われて惨たらしく死ぬか……仮に誰かに発見されても最近の社会では子供などお荷物の邪魔物以外の何ものでもないし、恐らく施設か孤児院送りになって、それが劣悪施設ならば院内で虐待されたり売春させられたり…そんな糞みたいな世界へ子供を送り出すより唯一愛してくれる母親の腹の中で一緒に死んだほうが幸せなんじゃないか?
『…どうか……どうか………この子を………この子を………助けて………』
誰からも、世間からも、世界からも救われなかった俺に助けを求めるんじゃねぇよ…そう思った。
この母親がどんな奴かは知らないが、女で、しかも母親。これに美人が加わればそりゃぁ世間では助けてくれる奴なんてごまんといるだろう。対して俺は逆に自分の力で何とかしろ!だのそれでも男か!だの罵倒しか飛んでこない。
そんな仕打ちしか受けてこなかった自分が何で助けないといけないのか。
…まぁ俺が助けなくてもどうせ誰かが助けるだろう。世間様が言うところの皆とかいう奴がな。
そもそも暗闇をただ沈んでいる俺にどうしろっていうんだよ。
『……ごめんね……お母さんが……お母さんがこんなだから………貴方にお日様の光を浴びせてあげて………ふわふわのベットで寝かせてあげて………美味しい食べ物を食べさせてあげて………綺麗な場所や街に連れて行ってあげて………一緒に笑って……泣いて……時に喧嘩して…仲直りして……そんな素敵なものがたくさんあるこの世界に………産んで上げられなくて………ごめん……なさい………』
母親のその言葉に……唐突に頭にきた。
そんなんじゃ…そんなんじゃねぇんだよこの世界は!
餓鬼の頃は嘘で塗りたくられたステキナモノだらけかもしれねぇが、一皮向ければその先待っているのは異質、異端を排除し攻撃し追い詰め、破壊する。
小学校、中学校で散々見せられた人間の汚らしく醜悪な負の側面。常にカースト争いを繰り広げ、友達だと言っていても何かあれば一瞬にして裏切り傷つけ、排除する。
…そして大人になったらそれこそ待ち受けているのはさらにどす黒い欲望の世界。やれ金だ資産だ利益だ…。奪い奪われ、傷つけ、傷つけられる。
愛情など一つのステータスでしかない。やれ誰々と付き合っている私はイケている。やれ誰々の妻だから私は裕福で幸せ。
こんな醜悪な世界をその腹の子供にさも綺麗なもののように見せようとしてんじゃねぇ!
…そう、この母親に悪意を向けた瞬間、俺は闇から眩い光の世界へ引きずり戻された。
「…………ん……ここは…俺は……」
幸福から苦痛に引きづり戻されるように光の世界へ帰還した俺は、自分が横になって倒れこんでいることに気が付いた。目を動かし周りを見渡すと何かに意識を飲み込まれる前に居た地下室のままだ。
そして以前自分の事も、何も思い出せない。唯一先程眠っていた時に見ていた夢の内容は思い出せるが…。
手を床につき立ち上がろうとして、手に何か冷たいものが触れた。
「……?これは……」
触れたソレは三角形の円錐で質感から鉄製みたいだが、それにしては色が少々おかしいことから合金の様だ。
「……こ…れ…は………だぶる…こんてんだー…の………たま……?」
その言葉を呟いた瞬間、この弾丸に関する情報が、勝手に口から零れだした。
「そうだ…これは…俺…いや、私のダブルコンテンダーの弾丸…なんでここに?」
手の中の鉄塊をダブルコンテンダーの弾丸であると認識した瞬間、まるで霧が、微睡みが晴れるように記憶が蘇る。
―――ソフィア・リーシェライト、異世界、リオン、アリシア、母親、ヒーズタウンから風の国王都、時間制御、ヤリチンとの殺し合い…そしてナイスガイ、アサギ。
「あああああああああああああ――――――!!!」
それらの情報が蘇り、奔流のように溢れてくる。…あれだ、10台くらいのテレビを同時に見るようなものだ。…要するにカオス。まるで意味がわからん。
そしてこんな無駄な演出無くてもあっさり記憶戻ったんですけど。
「そして依然この地下部屋かよ…ここ出口も窓すらないからどうやったら抜け出せるかさっぱり判らん…」
――いや、待てよ……、そもそもこの弾丸はどこから来たんだ?最初にこの地下室で気がついた時にはこんなもの無かったぞ。しかもよくよく思い返せばあの微睡みの中んか地面に跳弾するかのような擦過音が聞こえたはずだ…。
まるで見ていた夢を思い返すように地下室の壁をペタペタと触り調べていたら、確かにあった。
一カ所だけ焦げて穴が開いている場所が。
…ということはやはりこの弾丸は部屋の外から撃ち込まれたものということになる。
地面に這いつくばりながら壁の穴から外をのぞこうとするが、部屋自体が豆電球一つで薄暗く、よく見えない。…そして、這いつくばると床から胸の二つのメロンが跳ね返してきてよく屈めない~。
「ほぉ、随分と可愛らしい姿になったじゃあないか」
――――っ!!
突然背後から降ってきた声に驚き動きを止める。
…おいおい…これは一体何の冗談だ?出口も窓も、通気口すらないたった6畳の部屋に突然他人が現れる…だと?
「銀髪か…まさにお前がよく見ていたアニメのキャラクターとやらとそっくりだな」
一体どういうことだと冷や汗を流しながら恐る恐る振り返る。
「ほぅ、魔法ね…流石は異世界だな」
豆電球に照らされたその顔は…もう20年近く見ていない。だというのに鮮明に覚えている。ボサボサの髪に無精髭、眼鏡の奥で焦点の合わない狂気の瞳を光らせ白衣にその情けない身を包んだ男を。
「……浅黄……惟彦………」
浅黄惟彦………浅黄佑二の父の顔を……
 




