偶然に勇気をもらいました
喉が痛いなあ。
仕事終わりにカラオケでオールして、その後。
私は喉をつつきながら、始発電車に座っていた。
出発までまだ時間がある。早く家に帰りたかったが、まあ仕方ない。軽く冷えるが、耐えられないほどでもなかった。
「佐々井さん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、そこには見たことあるような無いような男の顔があった。
だれだったっけ?
思い出せない彼を、じっと眺めたが、やはり記憶の中に彼の顔は存在しなかった。
涸れているであろう声を出したくなくて、私はアルカイックスマイルで応える。
彼は私のちょっとした根絶を察してか、自分を指しながら「糸井」とだけ言った。
やっぱり、思い出せなかった。
スーツを着た彼はありふれたサラリーマンで、もしかしたら同級生の一人なのかもしれない。だが、どの同級生とも合致しなかった。
目は若干細めではあるが横に広く、知性の中に野性的な何かを感じる。
不自然な程に黒い髪は、もしかしたら染めているのかもしれない。しかし、別の色を連想するのは難しかった。
体つきはよく分からない。細身とは言い難いので、筋肉質なのかもしれない。
彼にはどこか「普通」という文字を着こなしている感がある。見覚えもありそうな気がしてくる。
だが、残念なことに彼を思い出せない。
「覚えてないよね……。まあ、接点もほとんどなかったし、俺荒れてたし」
ん? 今、不穏な言葉が聞こえたような……。
目の前の彼は落ち着いた雰囲気を持っている。軽く浮かぶ微笑には、優しげな人という印象が強い。
「前髪、はねてるよ?」
言われて前髪を触る。その残念な感触で分かったのですが、私の髪の毛はめちゃくちゃボサボサでした。
オールの後って、結構身だしなみとかどうでもよくなっちゃうんだよね。
しかし、このままではただ恥ずかしいだけだ。私は鞄の中から、鏡を取り出した。
「うん、いいんじゃないかな?」
ふう、と息をつくと、ホームからアナウンスが流れ込んできた。
「もうすぐ出発するね」
首を縦に振る。一緒の電車ということは、小中の同級生だろうか。
それだったら、覚えていないのはすごく失礼だろう。
でも、思い出せなかった。
確かに私は物覚えが良くない方ではあるが、まったく記憶にないというのはどういうことだろうか。
私はまだまだ若いと思っていたが、これが年をとってしまったということなのだろうか。
「君はいつもこの電車なの?」
私のショックもなんのその。彼は話を続けてくる。
若干、馴れ馴れしく感じるのは、私が彼を思い出せず、彼が私を知っているからなのかもしれない。
やっぱり気になって、彼の瞳をのぞき込むが何も分からない。
この状態にいささか納得のいかないものを感じる。
「俺もこの時間に合わせようかな?」
挑むような目で見られて、ちょっと困る。
無駄にさらさらしている髪を揺らし、視線を逸らした。
彼は、何がしたいんだろう。
まさか、ストーカーじゃないよね。なんて背筋のぞっとするような事を考えながら、また彼に向き直った。
「ねえ、聞いてる?」
聞いてはいるが、声を出したくなかった。
きっとガラガラだし、今でさえ少し痛いから……。
だが、彼は答えを期待しているようだった。
苛立ち始めた彼に、私は言葉を返した。
「朝がえり常習犯なんて、いばれたもんじゃないよ?」
私の喉からは掠れた声が出た。痛みは感じなかったが、ちょっと恥ずかしい。
彼は私の声にほんの少し動揺した後、「まあ、そうだけどさ……」と居心地悪そうに視線を逸らした。
なんの文句があるのかね!?
こっちはしっかり返答しましたよ!
「朝帰り、ね。そういう君は、死ぬほど遊んでたみたいじゃないか」
私の機嫌を損ねたことを理解した彼は、唇を尖らせながらそっぽ向いた。
いい大人がする顔ではなかったが、彼がすると若干可愛く見えた。これが、ギャップって奴だろうか。
「なんか……悪い……っ」
彼に対して疑問は多いものの、悪感情を抱いてはいない。たぶん。
ただ、遊んでいたという物言いはいかがなものか。と、いうかわざとそういうニュアンスを含めて話をしているような気がする。そうでなければ、こんな風に深読みなどしようはずがない。
「だって、会いたかったんだ」
こんな風に言われて、好意を持たれているのかしら? なんて天然くさい事は思わない。
私も、いい大人なのだ。
「ナンパは余所でやってくれませんか?」
「それじゃ、意味ないんだけどね……」
機嫌が悪くなった彼に、ちょっとだけの恐怖と胡散臭さを感じる。
変な人だ。やっぱりよく分からない。
「私のこと、好きなんですか?」
直球で投げかけてみれば、苦笑いが返ってくる。
「分からない。けど……」
この人、失礼な人だなあ。
なんて思ったのに。それが、私に興味を与える。
私こそ、よく分からない。
どうして、彼の言葉を待っているのだろう。
「君の未来に存在していたい、かな」
その殺し文句に、私の頭は沸騰した。
「な、な、な……」
そして、電車は発車した。
**
後で知った話ではあるが、彼は私の同級生などではなかった。
彼は私にとって「学生時代によくみかける女の子」だったらしく、私が彼のことを知らなくても当然だった。
俺だけ君のことを知ってるのが悔しかったから、ちょっと……ね。なんて知りませんから! アルバムひっくり返した私の努力は戻ってこないんですけど!?
現在、同居中の彼ではあるが、過去にあれていたことがあるからと、どこの学校に通っていたのかすら教えてくれない。
彼のことを本当の意味で知るのは、もう少し先のお話。