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第4章 恩と恨みと人の因縁

(24)この人脈は血が流れているか


「助様、私といて楽しいですか」

「何を急に」

「私は姿顔立ちは人に引けは取っておらぬと思っています。教養や礼儀作法も一通りは出来ると思っています。でも、面白味も無いし、からかいはあっても、殿方から本気で愛された事はありません。」

「茜殿は真面目過ぎるのですよ。ちょっとニコってして見てください。ほら、こんなに可愛い」

「まあ、助殿ったら」

「それに私としたら、他所の男に笑顔を向けていたら、嫉妬で狂ってしまうかもしれない」

「助様、そんな事は絶対しません」

「二人でいて楽しいのは、食べ物がおいしいとか、何か面白い事を見たとか、絶景を目の前にしているからではないんですよ」

「どういうことでしょう」

「好きな人がいて、その人と二人でいたら、後は何であっても、うれしいし楽しくて、幸せになれる。同じ空間に二人でいられることが大事なのです」

「うれしいです」

「あまりこんなことを言っているとあなたを人前で抱きしめてしまいそうだ」

「私は構いませんよ。でもこんな時は女の方が大胆になれるものです。男の方の方が人目を気にしますよね」

「その通りでしょうね」

「助様、お顔が真っ赤ですよ。さあ帰って、ご飯の支度をしましょう。でも、手をつないで帰りましょう」

「いや、人通りがあるし、誰か知っている人に会うかもしれない」

「おや、助様、どちらから」

「みろ邪魔が入った」

「アタシのことですか」

「他に誰がいる、せっかく親父殿に内緒で逢引しているのに気の利かん奴だ。こういう時は気づかぬ振りして素通りするのが上、黙って会釈をするのが並、お前みたいに声をかけるのは下の下だ」

「これは無粋な事をしました。お詫びにちょっとご馳走させて下さいな」

「お前のゴチは後が怖い」

「奥方様、いつもこんな風でアタシのことを困らせて遊ぶんですよ。こちとらこんなに真面目なのに」

「こちとらって、こっちは虎ですから気をつけろってか」

「もう勘弁してくださいよ」

「なあ、面白い奴だろう、それが豹変したら手に負えない」

「手に負えないのは旦那様の方だってみんな思ってますよ。それでなくても顔が怖いんだから」

「さあ、奥方も一緒にご馳走させて下さい。時々時間を取って頂いたらあっしが優しい男だと分かってもらえると思いますよ」

「こいつはうまいものを食わしてくれる。その上タダだ。後が怖いが」

「おまえら何を笑ってる。さっさと席の用意をしてこんか。ほんと気が利かぬ奴らで」

店に入るや料理と酒が出てきた。

「奥方様もお酒で宜しいですか」

「大丈夫だ。俺よりずっと強い。俺より多く飲んでそれなのに解放してくれてる」

「そりゃあ、多く飲んでる風で、実は控えてるんじゃないですか。何と良妻賢母な方で、内なんか酔っぱらって先に寝て、その上朝も起きない」

「それでも追い出さないのは、好いてる証拠、でしょう、親分」

「奥方には参ったなあ。まあ料理も召し上がって下さいまし。鮎の塩焼きに鯉の洗いがこの店の人気料理、今が旬ですから」

「悪いな、お前が先に手を出してくれなけりゃ私たちはいつまでたっても食べられない」

「これは失礼しました。普通は先に手を出すと首が飛ぶもので。ではお先に頂戴します」

親分が一口食べて飲み込むのはみんな黙って見ている。

「はい、毒見は終わり。旦那も奥方も食べて食べて。偉くなる方はいつでも油断しない。さすがですな」

「ご馳走されてる身ではあるが、お前たちも遠慮なく食べろ」

「へえ、じゃあ遠慮なく」

「遠慮なくじゃねえよ。お酌しねえか。」

「いいよ良いよ。二人でゆっくりやるから。よれより徳地村、旭村から徳佐村にかけての人集めはどうなっている」

茜の方をちらっと見たのを見て、

「大丈夫だ。家老の娘だ。全部知ってる」

「それなら、旭村も徳佐村も娘を人買いに売った方が金になると、思っている親が多くて」

「冬になる前に人海戦術で、説得して回れ。女郎屋に売った娘は絶対幸せにはなれん。挙句の果ては労咳か心中か、逃げれば折檻、病気になっても医者にも見せてもらえん」

「そこを説明しているんだが、人買いも心得たもんで、きれいなべべ着ておしろい塗って、おいしいもん食べて、こんな田舎で苦労せんでも楽して暮らせる。村にいるよりゃ、よっぽど幸せというもんじゃと」

「そうじゃそうじゃ、だども田舎もんじゃてコロッと騙される」

「毛利藩で一番多いのが百姓だ。その百姓が不幸で、藩が良くなる訳がない。道が出来ればそれが当たり前になる。それまでの辛抱じゃ。頑張ってくれ。長州の未来はお主らにかかっておる」

「分かっております。おいみんな、ふんどし締めなおして頑張るぞ」

「任せておくんなせえ」

「村人に絶対無理を言うな。こちらの方が幸せになれると分かってもらえ」

「分かっておりますって。嘘、騙しは無し、暴力も無し」

「ああ、分かっているなら良い」


(25)爺との再開


「久しいな、助。元気にして居ったかと言いたいが、今日はお前に死んでもらいに来た。分かっておろう」

「分かっております。石舟斎様。俊方様のご命令かと」

「お主を倒せるとすれば、わしか、兵庫くらいしかおらぬ」

「なぜ放っておいてくれぬのです」

「抜け忍をそのままにしておいては柳生の恥だと思っておる者がいるでな」

「しかし、五年も前の事」

「俊方は大きく見せておるが、その実気が小さくて、幼少の頃、勉学も剣術も優れた者がいた。それを先代が褒めたのに嫉妬して、陰で虐めぬいた。ある時度が過ぎて、ついには殺してしもうた。皆が知っておったが、誰も口にはせなんだ。そういう処があるお方だ。そしてお主がそのものに面影が似ておる。」

「そういうことが」

「わしもこのまま帰る訳にもいかぬ。そうかといってわしも年じゃて。お主に勝てようもない。早う極楽に送ってもらうとしようぞ。地獄かもしれぬがな」

「そんな、大恩ある石舟斎様を切ることなどできません。それくらいなら、私を切ってください」

「また、そんな無理を言う。若いお主を切って、年寄りが残って何とする」

「いっそ、うちへきませんか。」

「家族に秘密を持つと苦しいぞ」

「いいえ、秘密は持ちません。今までの事も全て話してありますので。」

「それで受け入れてくれたのか」

「家族以上の方々なのです。それ処か殿も知っておられます」

「長州とは変わっておるな。まあお前が世話になっておるのだ。礼を言うのが礼儀だろう.ではいくぞ、遠慮はするなよ」

「遠慮をして勝てる相手ではござらぬゆえ」

大きく攻め立てる助九郎に対し、最小限の動きで守りながら攻める。相手に対し、最短距離で攻めて軌跡は宴の動きとなる。技術なら石舟斎の方が上だが、助九郎には若さと速さと剛力で抑えきれない、老獪さと経験がある。経験の有利さは相手の次の攻め方が見えるということ。つまりその先に行けるということだ。しかし徐々に動きの鈍くなった石舟斎を圧倒し始めている。

「待て、助。この年寄りをいじめておもしろいか」

「何をおっしゃいます。本気で攻めねばやられてしまいます。師匠こそ手を抜いて下さい」

「ああ、腰が痛い。ちょっとその辺で酒でも頂こうではないか」

「それなら、家の方が近いので、家に来ませんか」

「そうさせてもらおうか。わしも年には勝てん」


「茜、茜はおるか」

「はい、旦那様、ただいま」

「今日からここに同居して頂く、柳生石舟斎様だ。父上は奥か」

「はい座敷でお茶を飲んでおります」

「それはちょうど良い。お滝は足桶を持って来い。それと、竹造 雪を呼べ」

バタバタと用事を言いつけて奥に走っていった。

「相変わらずだの」

「相変わらずです」ニコッと笑って言った。

「助の奥方か。いつも助がお世話になっておる」

「いえ、お礼を言われることなんて。では、ご案内いたしますゆえ奥に」

「うむ」年寄りだが、隙が無い、助殿の身内のようだが、親戚はおろか、知り合いの話さえ聞いたことが無い。

「父上の横に」

「いやいや、わしは下座でよい」

「いいえ、師匠には上座に座ってもらわなければ、私の立場もあるので」と言って座蒲団を上座において、せかせる。

「茜お茶を頼む」

「どうした、何を騒いでおる」元貞がやってきた。

「これはちょうど良い所へ、兄上」

「父上、紹介申し上げる。私の剣の師匠、柳生石舟斎殿です」

「失礼だが、あの石舟斎殿か」

「父上は御存じなのですか」元貞が聞いた。

「柳生の総帥だ」

「いやいや、私は五代目で、名前だけの、用無しじゃ、ワッハッハハ」

「で、父上、相談があります」

「何じゃ」

「離れに住まわせて頂きたい」

「柳生総帥にあんなあばら家という訳にはいくまい」

「構わぬよ、雨露がしのげれば良い。何といっても居候じゃ」

そこへ伝三が竹造と雪を連れてきた。

「それで師匠には、この二人の世話をお願いしたい」

「何が狙いかな。第二の助殿を作るのかな」

「そうではありません。私と元貞殿は今からもっと急がしくなります。二人の相手をしている暇はないと思います。二人を不幸にしたのは我々大人、ここでゆったり大きく育って欲しいのです」

「どうせすることが無い身だ。やれる事はやってみよう」

「竹造 雪、聞いた通りだ。これからはこちらの方がお前たちのお師匠様だ。頑張れよ」

「助殿、石殿を一度殿にお引き合わせした方が良いのではないか」

「殿は柳生嫌いではないですか。無理に騒ぎを起こさないでも」

「でもな、噂を聞いてからよりこちらから先んずる方が良いと思うが」

「助、心配しなくてもうまくやるのが年寄りの知恵だ」



「殿、大変でございます」益田 就恒が咳をこらせて走りこんできた。

「朝っぱらから何を騒いでおる」毛利治親が朝餉をすすりながら機嫌を悪くしている。

「それが、柳生が来ております」

「長州をつぶしに来たか、見事つぶしてみよ。だが只でつぶせると思うなよ、柳生め」

「それが、福原の広泰が申すには殿にご挨拶がしたい。出来ればお茶が飲みたいと」

「茶を飲みに来たと」

「その通りです」

「ただでお茶だけ飲みに来たなどと聞いたことが無い」

「どういたしましょう」

「待たせておく訳にもいくまい、すぐに通せ」


「貴殿が柳生石舟斎殿か、噂に聞く鬼の石舟斎」

「あなた様が毛利治親、一度言い出したら誰の言う事も聞かぬ、きかんぼうの治親」

「助は貴殿の愛弟子だそうな」

「それがしの大事な秘蔵っ子ですな」

「秘蔵っ子を取り返しに来たか」

「それが困った事に、二度と柳生には帰らぬと申しておりまする」

「で、どうする」

「私がこちらに来ようかと」

「こちらに住む当てでもござるかな」

「福原殿の離れが空いておるゆえそちらに住まれてはどうかと」

「一人で住むのは御不自由かと」

「その離れには五つ六つの兄弟が付いております」

「女子がいないと不自由で御座ろう」

「年も枯れると何でもないこと、それに見るだけなら、隣に若妻が住んでおりますゆえ、目の保養はできますので」

「何と、ああ言えばこう言う」

「殿、なりませんぞ」慌てて益田の就恒がなだめる。だが、治親は案外、機嫌がいい。相手の石舟斎もにこにこしている。

「分かっておる、心配いたすな。こういう人間は嫌いではない。たまには子供を連れて、遊びに来られよ」

「有難き幸せ、と申し上げたい所でありますが、折角お土産を持ってきたのに、甲斐がござらん」

「土産が何か、聞いても宜しいか」

「そうじゃあ、そうでなくては」まるで幼い子供のような無邪気な笑顔を見せる。

「手には何も持ってはいないように見えるが」

「手の持てる物など大した物ではない、江戸城西の丸、城壁の修理の件、出羽、久保田、亀田、本庄藩に決めてきた」

「何と申された」、益田 就恒が大きな声で聞いた。

「西の丸の城壁修理の件は何も決まっておらぬはずでは」

「世の中、何か決まった時は全て終わった時の事、後の祭りじゃ」

「なぜ出羽三藩に決まったのでござろうか」

「一番はわしが嫌いじゃからかの」

「嫌い。そんなことで決まって良かろうものか」

「良いも悪いも、世の中とはそんなものじゃろう」

「就恒、良いではないか。そうじゃ、今度黒田の所へ遊びに行く時、一緒に行こうぞ」

「預かった子供を放っておく訳にはいきませぬゆえ」

「子供の勉学にもなる。一緒に連れて行こうぞ」

「それでは喜んで」

「黒田殿とは」

「面識がある程度」

「それは良い」

「はて、訳が分からぬが、殿は面白い方のようだ。それはそうと、天井の影はもそっと殺気を抑えるように言ってくださらんか、怖くて怖くて」

「おい、石舟斎殿が、未熟者とそういっておるぞ。アハハハ」


「増田殿、どうで御座った」

「一触即発の、ひやひや物でござったよ。寿命が五年は縮まった。その上、懸念の江戸城西の丸城壁修理の件、出羽三藩に決まったそうだ」

「どこからそれを」

「石殿が置き土産に決めてこられたとの事」

「お主、石殿をどう思われた。」

「面白い人物でござったよ。殿も九州に一緒に行く約束をしたくらい故、嫌われてはおらぬと」

「お二人は好きな事を言っておったが、周りの者はひやひやでござったよ」

「いづれにせよ、無事面会が済んだことはめでたい。内で祝杯をあげよう」


「茜殿には助がいつも良くして頂いて、本当に有難いと思っておる。我らのように裏に生きる者に普通の幸せなぞ望みようもない。お礼のしようもない」

「そこまで言われたら、隠しておくこともできません。福原一族で実は、助様を騙したというか、陥れました。申し訳ございません」

「騙したというのは」

「実はあの日、狼藉者に我らは襲われて、我ら一族は死ぬところでした」

「それは、それは」

「父の政敵に襲われたのでございます。それも二十人程で徒党を組んだ輩に襲われた処を助けれれたのでございます。お礼にと食事をお出しいたしたのでございます」

「ふむ」

「処が、お酒に弱いらしく、眠り込んでしまいました」

「あいつは昔から酒にからっきしで、少し飲んだだけで、意識をなくしてしまう。唯一のの弱点だ」

「そこで父が、これだけの剣の腕前、このまま放すのは惜しい、そうかといって頼んで断られるのも困る。酔っぱらっているのをこれ幸い、茜、こ奴に今夜襲われたことにする。明日朝目覚めた所に、元貞が現れて大騒ぎをしろ。酔っていて、女が襲われたと言って泣く真似をすれば、男は狼狽する。そこで昨夜のは遊びだったのかと聞かれて、そうだと返事が出来る者はいない」

「だんだん面白くなってきた」

「こういうことは噂になる前に先手を打つことだ」

「噂が流れてからでは遅いからな」

「助殿を親戚の者と偽り、許嫁ということに」

「うまく罠に落とされたものだ」

「父が言うにはそれでも甘い。本当は許嫁がすでにいて、結納金ももらっていて、仲人も決まっている。後は良い日を選んで決めるだけ」

「許嫁の相手は」

「兄の中のいい友達」

「仲人は」

「父の同輩」

「急に決めても相手は何も知らないだろう」

「兄が家を先に出て、お二人に話を付けて。父と助殿はゆっくり登城の上、殿にじきじきに顔見世とご報告を致します」

「殿に報告となれば、決定という訳か」

「その上、父の書生という事にして」

「しかし、父上の政敵が黙っているとは思えんが」

「前日の刺客はそれらの手の者、しかし、全員右足の足首の筋を切られて動けない。そこをつかれても困る。その上、黒田様との午前試合の人選も決めねばならない。長州四天王を全員まとめて、殿の前で、それも殿の鉄扇で打ち据えた。殿は大喜びで、他のことはどうでもよくなった」

「なる程の、面白い成り行きじゃな」

「このことは、助殿にはご内密に」

「分っておる、したり顔の助にはいい薬じゃ。愉快じゃ、愉快」

「石様、 加島屋の久右衛門様がお目に掛かりたいと参っておられるのですが」

「なに 加久が来ておると」

「何か、近くを通りかかったので、顔を出したいと」

「何と耳の早いこと。良い良い、通せ」

「お久しゅうございます、石殿」

「なつかしい顔じゃな、加久」

「茜殿もご一緒で、ちょうど良かった。大阪つのせさんの岩おこしがが届きましたゆえ、持って参じました。」

「まあ、目ずらしい。ではちょっとお待ちを。お茶を用意します」

「相変わらずお忙しい方」

「でもよい嫁じゃあ」

「気立てが良くて、美しい、何より目の保養になる」

「誠じゃな、はっはっは」

「茶の用意が出来ました」

「おうい、伝三、竹と雪を見なんだか」

「裏山で薪を集めておりました」

「火急のようじゃ、呼んでまいれ」

「すぐに」

「師匠、何でしょうか」

「おお、二人に頼みがある。これを見よ」と加久の岩おこしを指さして、

「まずは二人で毒見じゃ。ゆっくり少しづつ食してみよ」

「分りました」

「どうじゃ」

「甘くて硬くて」

「硬いとな、これは弱った、硬いとわしには無理じゃ、さりとて加久さんの土産を捨てる訳にもいかん。おお、裏の柿木に真っ赤に熟れた柿が何個かあったであろう。それを取ってこよ。よしよし、この柿はわしらが食べるで、この菓子は伝三の千勢とお前らで始末せよ。分かったか」

「わかりました」

「では下がれ」伝三は二人を連れて裏に回っていった。

「これは愛ですかな、教育ですかな」にこにこしながら 加久は言った。

「石殿にとって二人は孫みたいな者ですから」茜が笑顔で言った。

「では次来る時は二人の喜びそうな物を持ってまいりましょう」

「今度、毛利殿と一緒に黒田殿の所に行くことになった。そこであれら二人も連れて行くのだが、それらしい格好をさせたい。お願いできるかな」

「石様のお言葉、やらせていただきます」

「宜しくな」


(26)道場行くより畑に通う

「助殿、登城する前に寄りたい所があるのだが」元貞が真面目な顔で言う。

「いいですよ、どこです」

「神道無念流の道場に」

「神道無念流と言えば、斎藤新太郎殿ですか」

「先生を知っておられるのですか」

「いや、それより剣術道場にいかれておるほうが、何というか」

「私には似合いませんか。先生の人柄に引かれまして、すごい良い人なんですよ」

「人の良すぎる元貞殿が言うんじゃ、余程かな」

道場の方が何事か、騒がしい。

「どうした、何事か」

「これは福原殿、道場破りでございます。あいにく師範代が留守で」

「先生ご無沙汰しております」

「おお、福原か、良い所に来たとも言えんか。お前は古いだけでろくに練習しておらん」

「本当でござるか、元貞殿」

「俺は剣術に向いておらん。それよりお前が相手してやれ」

「私がですか。私は門弟ではござらぬゆえ」

「先生、宜しいですか、こ奴が例の者ですので、腕を見てやって下さい」

「私の方は良いが、ご迷惑にならぬか」

「という訳だ。ただし助殿は門弟ではないので、木刀を持たすわけにはいかぬから、素手でやれとの仰せだ」

「別にそれでも良いが」助が答えた。

「ではそなたも中央で、構えて、他の門弟の方々は壁に整列」

「本当にそっちは素手で相手するのか」浪人が言った。

「はい中央に、礼をして始めますよ」

「怪我をしたって知らねえぞ」

「はい、始め」

道場破りは木刀を振り上げて向かっていったが、一歩踏み出した助九郎は相手の柄を握った手を押さえて、振り下ろす力を円を描いたように流し、相手の懐に背から入って腰を自分の腰に乗せ、くるっと回転させて、相手を背中から落とす、体落としにかけ、そこに右膝を落とす。鳩尾にきまった。道場破りは気絶したようだ。ほんの一瞬の出来事に、他の門弟も固まって動けない。

「何をしている。早く壁際に運んで、タオルを濡らして来ぬか」

「先生、紹介します。これが例の木村助九郎殿です。こちらが神道無念流、斎藤新太郎先生です。」

「つたない技をお見せして恥ずかしい次第です」

「いや、見事であった。新陰流体術とお見受けした」

助九郎と元貞は顔を見合わせて、

「ほんの一瞬で見破られるとは、流石先生。実は今日は先生に助殿を紹介しようと参りました」

「おお、では貴殿が茜殿の婿殿」

「なぜ、それを」

「茜殿の美貌はこの道場でも羨望の的。それを射止めた殿御と云えば噂の的、どんな二枚目化と思うてな」

「さぞやがっかりされたのでは」

「いや、茜殿の目の確かさに驚き申した」

「で、先生、久し振りに飲みたいと思うて」

「わしなら誘うてくれるならば、いつでも良いぞ。何と言っても暇じゃからな」

「こういう気さくな方だ。助殿の話も合うと思うぞ」

「師匠も入れてみんなで飲みたいな」

「師匠とは」

「柳生石舟斎殿でございます」

「何と、あの、石舟斎殿か」

「いや、師匠も斎藤先生とは気が合うと思います」

「それは楽しみ」

「では先生、松田屋に予約をしておきますから」

「松田屋は少し足が遠のいておるで」

「大丈夫ですよ、飲み代は全部片付けておきましたから」

「おおそうか、なんと気の利くやつ」

「先生の恥は私の恥、そういう時は一言、言ってくれればいいのに」

「毎度毎度となれば言いにくいでの」

「豪胆に飲むくせに、そういうとこだけ小心なのだから」


その夕刻の松田屋、二人揃って

「これはこれは福原の坊ちゃん、ようこそいらっしゃいませ」と仲居頭

「あらあら福原の坊ちゃん、久し振りじゃあございませんか」と女将

「今日は斎藤先生と旨い物でも食べながらと思うてな」

「先生なら先程からお待ちですよ」

「それを早く言え、どちらだ、案内を頼む」


「先生、遅くなりました」

「いやいや、元貞と飲むと思うと気がせいてな、早く来すぎた」

「あれ、先生、これはお茶ではございませんか。女将、なぜ酒をお出ししておらん」

「いやいや、主賓が来るまで酒はまずかろう」

「いえ、先生にお茶は似合いません。女将、酒と何か旨い物を早く用意しろ」

「はい、すぐに持ってこさせましょう」と言って女将は部屋を出て行った。



「はい、御免なさいよ。 鴻池市兵衛でございます」

「これは大物が飛び込んできたものだ」

「表を通りましたら若様の声が聞こえたものですから、ご挨拶にと」

「近頃はコメの値上がりで、相当儲けておるそうな」

「滅相もない、我々の儲けなど雀の涙、全ては藩の為」

「コメで儲けて、酒で儲けて」

「そう虐めてくださるな。そちらは斎藤の先生、芸者もおらぬは何ぞ、人に言えぬ相談事ですかな」

「馬鹿な事を申すな。普段お世話になっておる先生にお礼の馳走じゃ、要らぬ詮索をいたすな」

「先日、加島屋久右衛門さんが珍しい方にお会いしたそうですよ」

「ほう、誰かな」

「柳生石舟斎様」

「どこで、誰に聞いた」

「ご本人の久右衛門さんに」

「で」

「石舟斎様、斎藤様、助九郎様となれば、何か起こるのかなと」

「何もない、たまたまじゃ。要らぬ詮索は無用」

「これはこれは怒らせてしまいましたかな。お世話になっている元貞に恩を返したいだけでございまして、他意はございますれば、ご容赦くださいませ。女将、酒と料理をどんどん出して、鴻池に付けといてください」

「要らぬ事をするな。飲み代くらい持って居る」

「良いではないですか。それに琉球さとうきびの目途がつきました。これもひとえに元貞様のおかげ」

「また大儲けできるな」

「私共が大きくなれば、毛利藩も大きくなる」

「分かった、分かったから出て行け、酒がまずうなる。だが、経過報告を増田殿にな」

「分っております、逐一報告しております。では、私どもは退散いたしましょう。では皆様、ごきげんよう」

「何と変わった御仁だな」

「あれで、相当のやり手ですから、油断すると煙の巻かれます」

「ああいう御仁に対等に渡り合える元貞も相当だ」

「いいえ、助殿の助けがあればこそでございます」

「城内のあちこちで、右足を引きずっている者や、右手をぶらぶらさせている者が、目につくが、あれは助殿の仕業か」

「先生の道場にもいますか」

「内にはいないが、かまいたちが出たという話じゃ」

「あの者たちは私や父を襲った者たちでございます。夕刻が十二名、翌朝が十七名」

「何とその人数を」

「最初が足首、翌朝が手首」

「切り分けたというのか」

「目印でござれば」

「よくそれ収まったものじゃ」

「収まったのには理由がございまして」

「何があったのか」

「父の謀で、殿の午前にて、九州御前試合人選に出しまして」

「長州四天王と試合しまして」

「あの四人とか」

「それが椋梨殿は欠席で」

「大事な時に欠席とな」

「たまたま手に怪我をされて」

「で、三人と」

「同時に」

「同時にとはどういうことじゃ。一対一で勝った者同士が試合をするのではないのか」

「父が後から割り込んだ故、まずは三対一でと」

「三対一か」

「そうしたらこいつが殿の鉄扇をお借りしたいと」

「鉄扇で何をする」

「それを獲物に、三人を叩きのめして」

「鉄扇で四天王の三人をか」

「そうしたら殿がご機嫌で、鉄扇を下された」

「末代までの宝じゃ」

「それで話は全て消えて、九州に行くの一色、慌てて茜と結婚させて」

「福原殿はそこまで見通しておられたのか」

「それからは宍戸親朝は我々に手出し一切出来ぬという訳です」

「先の先まで見通した上で、決断された」

「それからは殿は上機嫌、家臣一同は助かっておる」

「それはめでたい」

「それからこ奴の活躍でござる。何と言っても加藤田神蔭流の加藤田新作に勝って黒田の殿様から褒美を頂いた」

「西日本一と言われる加藤田新作に勝ったのか。それに負けた黒田殿から褒美とは」

「驚くなよ、肥前国唐津住だ」

「河内守源本行の刀剣か、一度見てみたい。」

「だがそれからは元貞の活躍だ」

「あれは助殿の入れ知恵と宍戸がおとなしくしているからかな」

「何はともあれ、お前が私の弟子だというのは私の自慢だ」



(27)尾張柳生の因縁

「石舟斎殿とこの様にして酒を交わせるとは一世一代の名誉であり喜びでございます」

増田成恒が顔をほこらばせながら、福原広泰に言った。

「まことまこと、ではあるが、柳生の方は宜しいので」広泰は心配顔で言った。

「何の何の、柳生とて一枚岩ではないのでな。本家が出ると 尾張柳生が出て来る。そこまで事を起こして来るほど、 柳生俊方は大きくない」石舟斎は笑った。

初代石舟斎は師・信綱も成し得なかった奥義「無刀取り」を完成させて、新陰流第二世となった。

初代は徳川家康に「無刀取り」を披露し剣術指南役に請われたが、高齢を理由に五男・柳生宗矩を推挙したという。

やがて徳川家康は江戸に幕府を開き、宗矩は二代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、江戸柳生新陰流は将軍家指南役となり「天下の兵法」となった。

一方、石舟斎は長男・柳生厳勝が戦場で体を壊してい為に、剣術の才能がある厳勝の次男・柳生兵庫助利厳に「柳生新陰流」を叩き込んだ。

そして柳生家一の実力者となった兵庫助に、新陰流三世を授けた。

その後いろいろ事情があり、尾張徳川家に仕えた利厳の子孫と江戸の将軍家に仕えた叔父宗矩の子孫は江戸時代を通じて交流が無かった。両家の断交は利厳と宗矩の不和から始まったとされ、尾張側の言い分は、父・厳勝の死後に宗矩が所領を独占した事を原因としており、一方の江戸柳生の言い分は、利厳の妹が最初の夫と離縁した為、宗矩が引き取って家臣の佐野主馬と縁組したものの、この再婚について兄である利厳に事前の相談がなく、また主馬が朝鮮の出身だったこともあって、利厳が激怒したことを原因としている。

尾張柳生家には新陰流の一子相伝の正統は流祖上泉信綱から柳生宗厳にそして利厳へと譲られたという伝承があり、その中では上泉から数えて新陰流第三世とされる。

柳生連也斎やぎゅうれんやさいは尾張柳生の祖・柳生兵庫助利厳の三男として生まれ「不世出の天才」と言われた剣豪である。

全国各地から名だたる剣豪が集まった大会で、将軍家指南役の「江戸柳生新陰流」を打ち負かしたとも言われている。尾張柳生新陰流は尾張藩の「御流儀」となり、その地位は不動のものとなったのである。

慶安4年三代将軍・徳川家光が病に倒れ、武芸好きな将軍・家光のために、諸藩を代表する武芸の達人が江戸城に集められて武芸を披露する「慶安御前試合」が開催されることになった。

尾張藩の代表として連也斎と兄・利方が江戸城に行き、二人は二日間に渡って武芸を披露した。

一日目は燕飛・三学・九箇・小太刀・無刀・小太刀、二日目は小太刀・無刀・相寸等の勢法(型)を披露し、家光を喜ばせ称賛された。

ここで連也斎の強さが伝説となる試合が行われたのである。連也斎の相手は従兄弟である江戸柳生代表の柳生宗冬だった。宗冬は柳生宗矩の三男で、後に第四代将軍・徳川家綱の剣術指南役を務めた人物だ。あの有名な隻眼の剣豪・柳生十兵衛の弟で、兄に代わって将軍家指南役を任せられた江戸柳生家の当主である。

「尾張柳生」対「江戸柳生」の試合に江戸城は湧き上がった。父・兵庫助は「剣の実力は尾張柳生」と評されていたが、江戸柳生は柳生新陰流を大成させた「天下の兵法」と評されていた。この試合は「非切り試合」となった。

非切り試合とは、形試合だが形中に隙があれば真剣に打ち込むというもので、油断していると打たれる非常に厳しい試合のことである。

宗冬は中太刀の木刀で、連也斎は二尺の小太刀の木刀を持って対峙した。

連也斎の構えは父・兵庫助が新陰流に独自の工夫をこらした柳生新陰流にはなかった構えで、宗冬が今までに一度も見たことのない構えであった。

戦国時代は戦で使う甲冑太刀という構えが柳生新陰流の構えであったが、戦が無くなり甲冑を着ないことを想定した構えであった。

戦国時代、甲冑を着た時には基本的に腰を落として低く構えていた。甲冑がある部分は容易には傷つかないし、相手も甲冑を着ているので脇・股・喉といった隙間に一撃を加える。

兵庫助が考えた尾張柳生の構えは、腰を伸ばし太刀も相手に正対するように構える。

甲冑を着ていなければ、太刀が接すればどの部分でも相手に深手を与えることが出来るため、相手よりも大きく構えれば早く刀の切っ先が相手に届くからである。

これを鍛錬していた連也斎は「突っ立てる構え」で大きく高く小太刀を構えた。

対する宗冬は、柳生新陰流の低い「沈なる構え」で対峙した。

両者が切り結んだ瞬間に、宗冬の木刀は叩き落とされて右手の親指が砕かれた。

一説には右手の小指だとも、右拳だともされていて、連也斎はわざとではなく、連也斎の打ち込みが早すぎたために誤って宗冬を傷つけたとも言われている。これは尾張柳生家の伝承であり、この試合の8日後に宗冬が家光と諸大名の前で兵法を披露したため信憑性が問われている。

これによって連也斎は「柳生新陰流最強の剣士」「尾張の麒麟児」と評され、尾張柳生の強さを全国に知らしめた。

元禄七年(1694年)二月、七十歳の時に藩主・光友の協力で、兄・利方の子・柳生厳延に印可を相伝して、新陰流の正統第六代を継承させた。


「今の柳生は作法と形式ばかりを重要視して、柔軟性が無い。関ヶ原から百年は過ぎたというのに、さっぱり進歩が無い。窮屈なだけだ。助が追放になったのを見て、機を見てわしもトン面したというわけよ。わしを追ってくる余裕もない、まあ五月蠅いのがいなくなってちょうど良いと思っているだろう」

「どこも内側にはいろいろあるのでしょう」 広泰は石舟斎に酒を注ぎながらしみじみと言った。

「まあ、毛利藩には元貞殿がしっかり若い者を抑えて、藩内を固めて置けば難儀はない。それに 就恒殿がいる故、大事は起きまい」

「いや、宍戸 親朝殿がいつ出てくるか心配で心配で。それにしても息子の親基の顔を近頃とんと見んが、なんかろくでもないこと企んでおるのではあるまいか」就恒が心配そうに言った。

広泰は笑いをこらえながら言った。

「ここだけの話だが、助殿に会った晩、、阿奴ら二十人程に襲われたが、ちょうど助殿が近くにいて返り討ちにした。で、その時後々阿奴らの身元が分かるよう襲って来た奴らの右足の足首の筋を切った。だから宍戸 親朝が翌朝、私の顔を見て驚いたゆえ、こ奴も知っていたかと、それからは強気に出たがあれから反撃はない。まあ、助殿が傍にいては襲うことも考えまい」

「それならそうと言ってくれれば余計な心配をしなくて済んだものを」

「助殿が来てから良いことが続く」

「しかし、あの借金の始末は見事であった」

「いやいや 就恒殿のおかげ、元貞の手柄にしてもろうたが、そなたの後押しのおかげだ、礼を言う」

「それより菊野の結婚だが、殿に了解を得にゃならんが」

「あれやらこれやらで、すっかり遅くなったが、この秋の吉日というのはどうかの」

「ではそのようにしようぞ」

「しかるべく、菊野も良い嫁ぎ先を見つけて幸せものだ。一番の出世、重役も近い」


(28)元貞の婚約許可

福原 広泰と益田 就恒は連れだって登城し、藩主の毛利治親に面会を求めた。治親は相変わらず機嫌悪そうな仏頂面で、二人の前に出てきた。

「二人揃って何の用だ。何か面白い事でもあるのか」

「実は、今日は殿にお願いがあってまかりました。」

「何事か」

「我が息子の元貞と増田殿のご息女の菊野殿との婚儀を認めてもらいたく、お願いにまかり越しました」

「おお、めでたきこと、元貞には毛利藩財政立て直しの件もあるし。許す。婚儀の日取りはいつじゃ」

「殿の許可を得たのち決めるが手順かと」

「相変わらず広泰は堅いことだな」

「おほめのお言葉と受け取っておきます」

「実はわしからも願いがある」

「何でもお言いつけくだされ」

「黒田の治之殿から便りがあって、そろそろ一年が経つゆえ、助九郎を連れて博多に来ないかと」

「御前試合ですかな」

「試合は良いから話に参らぬかと」

「御用人の間部詮房殿からきつくお言葉があったと聞きましたが」

「間部詮房殿は 将軍徳川 家宣様のお気に入り、老中格で御座りますゆえ、治之殿からすると面白くない」

「それもあるが、石舟斎殿に会いたいのでは。黒田殿は剣術に興味を持たれておるゆえ、石殿の無刀取りを見たいというのが本音でござろう」

「天下無双の無刀取りでございますか。私も見たいものです」

「助に一度聞いたことがあって、助殿もどんなに練習しても成功せなんだと」

「それほどのものか、わしも一度見てみたいものよ」

「私から石殿と助に話をしてみますが、殿はどうなされるのですか」

「わしは行かぬ。もともと好きで行っていたのではない」

「ではそのように。それと元貞の件はご了解を得たものとして話を進めまする」


「という訳だ。石殿、どうでござろうか」

「わしは構わぬが、無刀取りはもう年故、無理でござる」

「とはいえ、できませんとは言えぬと思います。私が手伝いますゆえ真似事でもやりましょう」

「何を悪だくみですか」茜がやってきて新しいお茶と、小魚の焼いたものを持ってきて、お膳の上に置いた。

「茜か、急に声を掛けたら驚くではないか」

「私を置いて、九州にはお二人でお出かけですか」

「わしも行きたいが、仕事がある故、山口を空けることはできん」

「三田尻から博多まで船旅なら、私も行きたい」

「茜殿も一緒ならわしも行くことにしよう」

「何と言っても元貞の件がある故、断れぬでな」

「お兄様の件とは何でしょう」

「菊野殿との婚儀の件、殿の了解を得た」

「それはめでたい事」



(29)津山藩の亡霊

助九郎と元貞は家路を急いでいた。

「茜が待っておる。早く帰ろう」元貞が言った。

「そうですね。お腹が空きましたね」

その時、四人の浪人が二人を取り囲んだ。

「木村助九郎に間違いない。貴様、私を覚えておるか」

聞かれて助九郎は声をかけた相手の顏をじっと見つめた。見覚えはあるが、どこの誰かまでは思い出さない。

「悪いがお主を思い出せない」

「そうだろうな。俺など相手じゃなかったろうからな。だが、我らにとっては死んでも忘れられない。」

助九郎にとって恨みを持ち相手はいくらでもいる。幕府のために助九郎が潰した藩は幾らもでもある。彼らはそんな藩の家臣であろう。いちいち顔も覚えていない。だが、助九郎もむざむざ打ち取られてやる訳にもいかない。しかし、中央の男は相当の剣術の使い手だ。動きを見て伊藤一刀流の達人だと見て取れる。

一刀流は一撃で仕留める、と同時に各派の技術を吸収し、その精神は生きざまに反映するもの。

「私はお主らの企みで藩を潰された元岡山津山藩士、小野次郎右衛門と申す」

「同じく寺島忠三郎。貴様だけは許せぬ」

財満新三郎ざいま だ。覚悟せよ」

二宮就辰なりとき地獄へ行け」

「どうだ、覚えはあろう」

「覚えはあり過ぎる、というよりそれが仕事であった」

「そこ元は知らぬであろうが、そやつは幕府の隠密で、この藩に因縁をつけて藩を取り潰そうとしている」

「そうだ、こ奴を信用してはならん。そうでなければ毛利藩も我らと同じ目に合うのだぞ」

「その節は誠に申し訳ござらぬ。しかし、私も切られてやるわけにもいかんで、、手向かいさせてもらうぞ」

「助九郎、行くぞ」両脇の二人が刀を抜いて切りかかる。右の男は上段から真向切り、左の男は胴の薙ぎ払う一文字、縮地法足さばきでかかってくる。下がるとそこにはもう一人が待ち構えている。その絶体絶命を真向切りは刀で受け流し、二人の前に体を抜き返す刀で一文字をはじく。

「ほほう、やるではないか。二人は下がってくれぬか。私がやりたい」次郎右衛門が刀を抜いて前に出た。

「伊藤一刀流、一子相伝の技を見せて呉れよう」

「伊藤一刀流は正式には弟子に免許皆伝は出していないと聞いているが」

「良く知っているな、だが、十年師について修業している」

「一刀斎には二人の弟子がいたと聞く。小野善鬼と神子上典膳、どちらの流れか。」

「我が祖先は 神子上典膳だが、祖は兄弟子の冥福を祈って小野姓を名乗っている。その後、津山藩に仕えていた」

「その津山藩を私がつぶした」

「そうだ、それも最後は名を汚してまで」

「森 衆利あつとしは正気だったと言うか」

「そうだ、殿は狂ってなどおらん」

「正気であったなら、津山藩は取り潰しだ。これは藩の重役たちの総意だった」

「殿が亡くなった今は、何を言っても無駄だ」

「落ち着け、温情の沙汰だ」

将軍拝謁のための道中に同年7月11日、伊勢国桑名付近の縄生村に滞在中に発病した上、幕政を批判して発狂した。発狂の理由は、中野村の犬小屋で浪人たちがその収容した犬たちを沢山殺す事件を起こし、その管理を怠ったとして家臣の若林平内が切腹したことに対し、なぜこのような法令のために死なねばならぬのかという疑問があったからとされる。家臣は酒の席でのことと弁明をしたが、桑名藩より詳細な報告が幕府に入り、裁定により八月二日に改易となった。この時、隠居の長継がまだ存命だったので、聞こえおぼしき家柄であるため特別に再勤を命じられ、備中西江原藩二万石を与えられ、子孫は同藩主として存続した。

「問答無用」縮地を使った、抜くと同時の逆袈裟斬り、敵の脇腹から肩にかけて、右下から左上へ斬り上げる技で、右切上だ。縮地とは、土地そのものを縮めるかのように瞬間的に接近・移動する仙術的な概念のもので、重心移動や体軸の操作、独特の足運びを駆使して、驚異的な速さで間合いを詰める身体技術を指し、「居着き」をなくし滑るように動く。

助九郎は柳のごとく身をそらし、振り上げた刀がその勢いのまま振り下ろされたのをがしっと受け止めた。次郎右衛門は四十過ぎで、若いとは言えぬが、技の切れは最盛期を思わせる速さで動き、助九郎が受けた刀を力で抑え込もうとするのを、合わさった刀を軸にして刃先を相手の方に回転させる。そうはさせじと体を反転せ、背中合わせになった。この体を離す時こそ勝負の時、お互い分かっているから背中を押しあっている。

「あははは、まるで押し競饅頭だ」元貞がお腹を押さえて笑っている。

油断なく二人はゆっくりと離れた。

「所でお腹が空きました。あなたたちはどうです。続きは飯を食ってからにしましょうよ」飯を食う手振りをしながら言った。

「そう言って逃げる気であろう」寺島忠三郎がにじり寄りながら言った。

「そんなことはしませんよ。それに私は剣術はできないわ、足は遅いわで、逃げられません」大仰な手ぶり身振りで笑いながら言った。

「じゃあ、責任を取って、元貞殿のおごりで」助九郎まで笑っている。浪人たちは苦笑いをしている。

「そこまで言われたらご馳走になるしかない」どう見てもろくに飯食っているようには見えない。

「おおい、世話になるぞ」元貞が先頭で店に入ると大声で言った。

「何でもいいから、早く出来る物からどんどん持って来い。その前に酒を徳利で持って来い。あんたらも飲むだろう」

「そりゃあ、飲めと言われて断ったことは無い」長身の男が言った。

「頼もしい限りだ」何か考えがあるんだろう、ずっとにやにやしている。

「おお来た来た。何だい、盃じゃなく、湯呑を持ってきてよ。気が利かないね」

みんなに酒を注いで、

「では乾杯をしよう」

「何に乾杯だ」痩せ男が言う。

「何でもいいよ。じゃあ再会に乾杯しよう」

「何はともあれ乾杯」

言ってる間に焼き魚や、芋の煮たやつ、うどんにそばに、おにぎり。在り合わせを全部。

あれやらこれやら、食べながら、酒で流し込む。

話をしても食べるのに忙しく、返事も生返事で埒が明かない。

「人心地が付いたら、話をしましょうぜ」元貞は笑いながらあきれたように言った。浪人たちは髭ぼうぼうで、それにご飯や魚が付いている。

「仕方なかろう、もう三日も飯を食っておらぬ」次郎右衛門はぶすっとした顔で言った。

「それにしてもあんたらは強いな」

「我らが組んで負けたことが無い。我らは伊藤一刀流、柳生よりも強い」

まずは名乗りましょう、あなたは我々を知っているようだが、私たちはあなたたちを知らない」元貞が真面目な顔で言う。

「まず私から、私は福原元貞、毛利藩で産業奉行をやっている。親父は福原 広泰、家老だ」

「では、知っての通り、木村助九郎、元貞殿の義理の弟になる。福原家に居候をしている」

「でも、公儀隠密であろう。言っていいのかわからぬが」次郎右衛門はどぎまぎしながらいった。

「大丈夫だ。全て話してある。それと幕府の隠密は首になった」

「ご馳走になってて悪いが、こいつのおかげで国替えになった、岡山津山藩の剣術指南役をしていた

小野次郎右衛門と申す。良しなに」

「某は寺島忠三郎といい、次郎右衛門の剣術道場の師範代をしていた」長身が言った。

「ついで、財満新三郎」痩せがいう。

「最後に、二宮就辰、まあ何でもやかな」小男が言った。

「言い訳じみているが、あの話を持って来たのは、家老の佐久間上総だ。身内からと取り潰しではなく、息子が家督を継いだ。その後は家老のやり放題で、賄賂と使い込みで、切腹を仰せつかったはずだ。後は山田主膳が継いだ。それくらいしか知らん。」助九郎がすまなそうに言った。

「やはり佐久間か、獅子身中の虫め」寺島が吐き捨てるように言う。

「あやつは藩主にはなれないから、それならと幕府老中になりたかったのよ。幼少の頃、親戚、身内から剣術が出来ないと馬鹿にされてきたそうだ」次郎右衛門が言った。

「私と同じだ」元貞が茶化すように言った。

「それは済んだこととして、これからどうするかだ。傘張やらの内職はもう御免だ。」長身の忠三郎が言った。

「あんたら毛利家に仕える気はないか」元貞がにこにこしながら言う。

「敵と狙っていた俺たちをか」次郎右衛門が驚いたように言った。

「私はこう見えて産業奉行と言って、手は幾らでも欲しい。あんたらなら何でもやるだろう。」

「何でもと言っても、暗殺やら、悪事はやりたくない。人を泣かすような事に手は染めたくないのだ」痩せ浪人の新三郎が苦笑いをしながら言った。

「そんなことはさせませんよ。私をどんな人間だと思っているのですか」元貞は新三郎をにらんだ。

「悪い悪い、始めから役職にとはいかないが、腕が立つんだから、道場の師範代とか、家老の父上の用心棒やらで、人柄や能力を認めてもらう」

「仕官出来るなら言う通りにするが、少しは金をもらえないと生活できぬ」

「道場の近くに長屋を借りる。給金は月三両でどうだろう。で、先々、市中見回り隊の責任者と、こちらが本職だが、産業現場の責任者兼争い仲裁人及び商品搬送時の監督。どちらも強くなくては務まらない。今の仕事が軌道に乗れば、忙しくなる」元貞はまくし立てる。

「どちらにしても、今の私たちには行く所も今夜の寝床もない。貴殿に全てお任せいたそう」次郎右衛門が頭を下げた。

「では今夜は我が屋敷に泊まって頂いて、後は明日だ。」

「失礼だが、福原元貞はどんな方なのだ」

「まあ、毛利藩の未来は元貞殿に掛かっておる、そういうお人だ、その上正直で真っすぐで、美人に弱い」

「何を言う」

「菊野殿は美人だ。その菊野殿の前では顔を真っ赤にして口が利けない」

「このお方が口も利けないと、口から生まれたようなお人に見える」

「そんなことを言うなら俺もばらしてやる。こいつは女房の茜の尻に敷かれている」

「尻に敷かれて何が悪い」

「まあまあ、それだけ幸せだという事でしょう。私なんか尻に敷かれる尻が無い」小男の二宮就辰が泣きそうになりながら言う。

「大丈夫だ、勤めが決まったら、俺が嫁を世話してやる」忠三郎が慰めるように言う。

「何を言うか、お前だっていないくせに」

「では父上に引き合わせるから、屋敷に帰ろう。」


「只今、帰りました」

「お帰りなさいまし」伝三が出迎えた。

「父上は帰られたか。」

「夕餉を済ませて、お酒を召しております」伝三は新顔を見ながら答える。

「それならば、貴殿たちは風呂に入ってきれいにして、会って頂くとしよう」

伝三に案内されて四人は風呂に行った。

「父上、これから会って頂きたい人たちがいます。宜しいでしょうか」

「どなたかな」酒でほんのり赤くしていった。

「とんでもなく強い一団です。中でも一人は助殿と互角に近い」

「互角とな」

「伊藤一刀斎の系譜で元津山藩剣術指南役だったとか」

「小野次郎右衛門か」広泰は下から睨むように言った。

「なぜ知っているのです」元貞は驚いて言った。

「柳生を除いて、指南役で誰が一番強いかと話になった時、次郎右衛門だと言った者がいる。鬼も恐れる一刀斎、伊藤門下なら一番だろうと」

元貞はそんな大物だとはつゆ知らず、軽く誘ったことを後悔した。

そんな時元津山浪人たちが風呂から上がってきた。

「お風呂、ごちそうさまでした」次郎右衛門が笑顔で、しかしきりっとした佇まいで正座して言った。

「お初にお目に掛かります、私は小野次郎右衛門、こっちが寺島忠三郎、そちらが財満新三郎、その隣が二宮就辰、よろしくお願いいたします。」次郎右衛門が皆を紹介した。

「そこ元のことはよく存じておる。とはいってもお目に掛かるのは初めてでござるが」広泰は笑顔で言った。茜が酒の用意をして

「ご用意が出来ましたので、皆様こちらへどうぞ」

「では飲みながら話すとしよう」

「長い浪人生活は大変だったでしょう」

「この度仕官の世話をして頂けるなんて、本当にこの通りでござる」

「殿には私が近々お目通りできるよう手配をいたすゆえ、明日は道場にでも顔を出しておくとよい」

「それでお願いがあり申す。私と忠三郎には、妻と子が居り申すゆえこちらへ呼んでも宜しいか」

次郎右衛門がそう言うと元貞が、

「早速旅の費用を付けて文をお送り申そう。それと住処を案内して、必要な物を用意してと、忙しくなりそうだな」

津山浪人と助九郎、元貞は夜遅くまで話し込んでいた。

翌日、髪をきれいにし、髭を剃って準備をし、着物も準備された物に着替えて朝餉を済ませて出かける準備をした。

元貞が長屋に案内した。長屋は古くはなく頑丈に作られていた。五軒続きで十軒程の集合住宅で、各長屋は共同炊事場になっていて、大きな揚水場があり、そこから各共同炊事場に水路で繋がっている。上水路と排水路が分けられていて、健康的な環境であった。部屋は二間で、南側は空き地になっているが、見ると各自で野菜や花を植えているようだ。

「一番手前は俺がもらうよ」小男が言った。

「じゃあその隣は俺かな」痩せが言う。

「真ん中は集まりの部屋にすれば」元貞が言う。

「じゃあその隣だ」長身が言う。

「一番奥が俺という事だな」次郎右衛門が言った。

「では、必要な物を買いに行きましょう。」

「布団、鍋やかん、ちゃぶ台、茶わん」

「店屋に言って考えよう」

「その前にあそこが道場になっていますので、挨拶してから行きましょう」

皆でぞろぞろと連れ立って歩く。

小男の就辰が道場に入るや、壁の木刀を持って

「とう、とう、とう」掛け声を挙げながら前に後ろに木刀を振る。その動きたるや、イタチのように早い。

そこへ道場主の斎藤新太郎がやってきた。元貞が事情を話している間、四人は二人ずつに分かれて練習をしている。

「久し振りのこの感覚。昔に戻ったようで楽しいな。」小男が右に左に走り回る。

斎藤新太郎は元貞と話をしながらも、四人の剣の腕前を見て驚いている。四人とも自分より上だとすぐに分かった。門弟たちも集まり始め、ひそひそ話をしていると、

「たのもう」と大声を上げるものが現れる。門弟の一人がその者たちを連れてきた。

「先生、一手、指南をお願いしたいと来られております」

「ではお一人ずつで、どちらからお出になりますか」

「では、俺からやらせてもらおう」二人とも大柄で色黒の浪人者だが、筋骨隆々の方が前に出てきた。

「もう一人の方は正面に座って待っていてもらいます。あなたはこちらに来て、この木刀で宜しいですか。では、決まりによって、師範代の小野次郎右衛門殿と試合をして勝ったら道場主と戦うこととしましょう。助九郎殿、審判をお願いします」

「では指名により審判をいたす、お二人ここに、試合は一本勝負とします。では、始め」

浪人が上段から打ち込んできたのを、左に流し、左に木刀を払うと、浪人の右わき腹を打つ。浪人は呻きながら倒れこんだ。

「大丈夫か」もう一人の浪人が駆け寄った。

「もう少し、横になっているが良かろう」次郎右衛門は静かに言う。

「では次、あなたご用意を」元貞が冷たく言う。

「いえ、私では遠く及びませぬゆえ、ご遠慮いたします」と言って、もう一人を抱えて道場を出て行った。

「お見事」新太郎は大声で言った。次郎右衛門は黙って新太郎に向かって目礼をする。

「しかしいきなり師範代とは」

「もともと指南役をしていたと聞く。こういう事に慣れているだろうと」笑いながら新太郎は言う。しかし聞いてはいたがこれほどとは」

「いや、お恥ずかしい限り」

「では小野次郎右衛門は師範代、他の御三人には師範代補佐という事で宜しいか。いや毎日出ずとも、時間のある時に来て指導をして頂ければ、道場関係者という事で住居は只という事になり申す」

「お引き受け申した」

「次郎右衛門殿と忠三郎殿は奥方への便りと旅費用を忘れなく。はい十両ずつで二十両、それと家具その他の費用が十両ずつで四十両」

「有難く頂戴します」

「本職の件は殿に目通りの後という事で、それと酒が入っても騒ぎは御法度で」元貞が笑いながら言う。


「という訳で、殿にお許しを頂きにまいりました」福原 広泰が平服しながら言う。

「津山の小野次郎右衛門とは、あの次郎右衛門か。」藩主の治親が疑い深くいった。

「そうでございます」

「最近、毛利には名のある剣客が集まるな」

「これも殿の人望でございましょう」

「わしに天下を取れというか」

「それは時期早々かと存じます」

「分っておるわ、ではそちに任すゆえ、良きに計らえ」

「博多に連れて行きたいと存じますが」

「それも面白いな、助に石舟斎に次郎右衛門か」一人で笑っている。

「殿、どうされました」

「前は負けるだけの博多試合だったが、だんだん面白くなってきた」

「ではご一緒に参りますか」

「それ程ではない。それに、元貞があれせえ、これせよと、挙句の果てに全ては藩のためと」

「それで、新酒と砂糖菓子、毛皮の服、それも奥方様の分まで持っていきたいと思いまするが」

「良い良い、治之殿の驚く顔が目に浮かぶわい」

「殿、悪い顔をしておりますぞ」

「これくらいは良いだろう。今までどれだけ自慢されてきたことか。人の自慢話程むかつくものはない」

「全て我ら、家臣の責任でございました。殿のお気持ちを察するに涙が流れそうでございました」

「これも一番は助の剣術、二番は元貞の稼ぐ金じゃ。この二人は長州の未来を変える」」

「借金にはずいぶん悩まされたものです」

「節子にも、苦労をさせたが、今は好きな物を食べて、豪華な物を着て、それ処か、他藩の仲のいい奥方との付き合いも自分から進んで出て、色んな物を配るのがうれしいらしく、お茶の会が、物を配る会になっておる」

「他所の藩も借金で困っている所が多いですから」

「借金の無い藩が他にあるか、徳川家もその家臣も借金だらけじゃ」

「元貞に、新種の砂糖菓子が出来たら、一番に奥方に差し上げるよう言っておきましょう」

「一年前は倹約の話ばかりじゃった。それが今は贅沢をしろとはな。さっきも節子が毛利に嫁に来れてとても幸せだったと言っておった」

「家臣としてこれほど幸せはございません。奥方様に宜しくお伝えください。では私はこれで退出いたします」



(30)虐めと折檻・躾と指導

蔵の横で女中のお滝が雪を叱っているのを元貞は中庭で本を読んでいる時見た。

「何べん同じ事をするの。怒られるのは私なんですからね」滝は小さく雪の頬を叩いた。

「黙っていれば済むと思っているの。甘ったれるんじゃないのよ」

雪は黙って下を向いて、一生懸命泣くのをこらえている。

「元貞様が助けてくれると思っているかもしれないけど、私が庇ってやっているからここにいられるのよ、分かってる。他の家なら、とっくに兄弟そろって御出されているわよ」

「・・・」雪は何も言わず黙っている。

お滝は小さな小枝を折って葉を落とし一本にした。

「着物を持ち上げて。声を上げないで」お滝は雪の脹脛を小枝で打った。ピシッと小さな音がした。

「好きでしているんじゃないのよ。これは躾なの。あなたの為なの。あなたのような子は体で覚えないとだめなの。」そう言いながら枝で何度も何度も打った。

「おい、お滝」元貞は静かに声をかけた。滝は驚いて飛び上がるが、慌てて言った。

「これは躾ですから、旦那様は口を出さないでください」

「そうかもしれぬが、弱い者虐めにしか見えぬぞ」

「何をっしゃいますか、私もこうやってこの家のしきたりを学びました」

「「そうか、我が家の伝統か。雪、お前はもう行け」

「私の躾は終わっておりません」

「よい、これから先にお前の躾をやるから、雪は後だ」

「私は何も折檻を受けるようなことはしておりません」

「それそれ、主人に向かってその物の言いよう。それで主人に歯向かっておらんと申すか」

「私は雪の為と思って」滝は小さな声で言った。

「自分の思い通りにならないことを雪に八つ当たりしたのであろう。でなければ、皆が可愛がる雪に嫉妬しておるのか。愛情の無い教えは教育とは言わぬ。分るか。今日はもうよい。部屋でよく考えるがよい」と言って元貞は去った。

何も出来ないくせに、旦那様たちに可愛がられている。私が雪の年の時この家に来た。そしておばあさまのしきたりや行儀見習いという名の折檻を何度となく受けた。私を庇う者もいなくて、何度も布団の中で泣いた。里に帰った時父に話した。父は

「何贅沢を言っておる。きれいなべべ着せてもらって、三度三度の飯を食べさせてもらって、何の文句があろうか。感謝こそすれ、文句を言うは神様の罰が当たるぞ」そういって、里を追い出された。父が福原家を悪く言うはずがない。福原家からは毎年十両の手当てが出ている。年貢の支払いもその中から出ている。滝の親兄弟が生活出来るのは福原家からの手当てがあるからだ。福原 広泰からは、いい人が出来たら結婚しても良いと言われているが、二十歳過ぎて全てをあきらめた。それに、里も私の手当てがなくなったら生活できぬ。そういう苦労をしなくて済む雪がうらやましくて、憎い。そう思う自分が悲しい。だから雪に辛く当たってしまう。きっとその時の自分は鬼の顔をしていると思う。滝は涙が止められないのを感じた。久しくなかったのに、布団の中で丸くなって泣いた。明日からは雪に優しくなろうと思った。その時滝は憑き物が落ちたように感じた。


「茜様、お願いがあります。」朝餉を準備しながら滝は茜に言った。

「なあに、私に出来ること」滝が願い事などしたことはない。珍しいなと思いながら言う。

「私と子供たちに読み書きを教えてくださいませんか。便りを書いたり、本を読んだり出来ますので」滝は照れるように言った。

「良いわよ、じゃあ都合のいい時を教えて頂戴。」

「有難うございます」滝は雪に

「今日からお昼ご飯の後読み書きのお勉強を始めますので、お兄ちゃんと、千勢ちゃんにも伝えておいてね」また怒られると思っていた雪は、あっけにとられながら

「分りました」兄の竹造に伝えるため母屋に行った。そこで竹造は石舟斎に剣術を教わっていた。

終わるのを待って、

「お兄ちゃん、若奥さんが私たちに読み書きを教えてくれるって」うれしそうに言った。

「勉強は俺は良い。そんな暇があったら剣術の修行をしたい」むすっとして言った。

「読み書きは出来るようになっていた方が良いぞ。剣術の本も読めるし」石舟斎が言った。

仏頂面をしている竹造をを見て、石舟斎が言った。

「世の剣術名人はみんな読み書きができるぞ。お前は一流になりたくないのか」

「名人になりたいけど、俺そんなに頭良くないから」そういって横を向いた。


昼食を済ませて座敷に行くと長机が二列並べて、その上に箱と棒が二つずつ置いてある。

前の机に竹造と雪、後ろの机に千勢と滝が並んで座った。そしてついてきた石舟斎がその後ろに座った。茜がやってきて、

「あら石様も来られたんですか」驚いたように言った。

「何やら面白そうな事を始めたようでな、仲間に入れてもらいたい」

「宜しいですよ、一人より二人の方が目が届きますから」準備をしながら言った。

「では、箱と棒を一つずつ自分の前に置いて下さい。」

「箱の中には灰が入っています。軽くゆすって平らにして下さい。」

「ではそこに棒で丸を書いてみてください」箱が紙で、棒が筆の代用だ。

「皆さん書けましたか、消す時は軽くゆすってください。はい奇麗になりましたね。こうやって練習します」

「ではさっそく、『い』と書いてみましょう」前の壁に『い』と書いた紙を張り付け、その上を竹でなぞった。そうやって一刻ほどで『い』から『に』まで練習させた。

「今日はこれまで、分らなかった事があれば、いつでも聞きに来て頂戴。ではまた明日」

「旨いこと考えたものだ。これなら、紙も炭もいらない」感心したように石舟斎が言った。

「これ伝三さんに頼んで作ってもらったの。うまく出来てるでしょう。でも驚くのはこれから、こうやって蓋を逆さにして押さえると平らになるでしょう。そこに棒の細い方で書くと、小さい字もきれいに書ける。これ優れものでしょう」嬉しそうに茜が説明する。



(31)仕官と家族

小野次郎右衛門と寺島忠三郎の家族がやってきた。

「旦那様、仕官が叶いまして、おめでとうございます」妻の文が涙を流しながら言った。

「お前にも長い間苦労を掛けた」文の手を取りながら言った。

「父上、この度は御仕官出来ましておめでとうございます」息子の大助が嬉しそうに言った。

「おお、大助、見ない間に大きくなったな」二人を見るだけで涙が出そうだ。

寺島忠三郎の妻、登紀も一緒だった。登紀も娘の紗夜も泣いていた。これまでの貧乏もだが、周りの目をおびえるように生きてきた、それから解放されるのだと思うとうれしいのだ。

徳山の宿で偶然会ったそうだ。元貞の手配で、今夜は宿に泊まり、旅の疲れを癒すことになった。

宿に着くとまずは旅の汚れを落としてからという事で風呂に入った。風呂から出ると新しい着物が用意されていた。案内された部屋は明るく真ん中の机には花と、お茶とお菓子が置いてあった。忠三郎の娘の紗夜が饅頭に手を伸ばし

「お母様、これおいしい」

「これ、卑しい真似しないの」母の登紀に言われ、悪戯っ子は首をすくめる真似をする。

その時助と元貞がやってきた。

「紗夜ちゃん、全部紙に包んで持って帰りよ」元貞が言った。

「でも、今食べちゃあだめだよ、この後のご馳走が食べられなくなるからね」

「ご用意が出来ましたので大広間の方へいらしてください」女中が顔をのぞかせながら言った。

案内されて皆でぞろぞろついていく。大広間には囲むようにお膳が並べられている。

上座に、元貞と助が並んで座り、右列に次郎右衛門一家が、左列に忠三郎の一家が並んで座り、下座に財満と二宮が着席した。

「これは御馳走だ」就辰がおどけるように言った。

「オホン、ええ私は毛利藩産業奉行の福原元貞と言います。そしてこちらは剣術指南役の木村助九郎殿です。今日は久方の顔合わせと、無事到着されたお二家族のお祝いに宴をご用意しましたので、ゆっくりご堪能ください」元貞が皆を見回しながら言った。

次郎右衛門が皆を代表して

「今日はこのような宴を開いて頂いて感涙に堪えません。ありがとうございます。」

「先ずは乾杯と行きましょう。皆様のご健康とご多幸を祝いまして、乾杯」

「乾杯」大人は西洋風果汁酒、子供達には果汁で乾杯をした。

「これ甘くておいしい」紗夜が大きな声で言った。

「これ紗夜、みっともない、大きな声出さないの」母の登紀が慌てて言う。

「良いではないですか、宴席が明るくなって良い」助が言った。

「そうですよ、これより、飲み食い勝手で行きましょう。さあ膝を崩して」と言って、元貞と助も胡坐を組んだ。他の者もそれに習った。

「これは何という酒かの」新三郎が言うと

「私も初めて飲む酒だ」就辰も首を傾けた。

「これはヨーロッパという所のワインという果汁酒だ。これも我が藩で作って産業とするのだ。上等な酒の十倍で売れる。一升で三十両から五十両だ」元貞が説明する。

「そんな高価な酒、俺たちが頂いて良かろうかの。罰が当たるで」就辰がお憂げさに驚いて見せる。それを見たみんなが笑った。それを機に場が和らいだ。

「そこで、皆に言っておきたいことがある。」元貞が言うと皆は正座しようとしたので

「そのままで聞いて欲しい。実は今月十日に我々と一緒に博多に立って欲しい。そなたたち四人と我々二人、それに柳生石舟斎様が御同行くださる」

「石舟斎とはあの石舟斎でござるか」次郎右衛門がいった。

「実は、石舟斎様は助殿の師匠なのだ」

「何と、でも相当のお年のはず」

「よって三田尻から博多まで船で行く」

「博多で我々は何をすれば良いのですか」次郎右衛門が聞いた。

「石舟斎様と助殿が黒田様の前で剣術をお見せしますので、そのお手伝いをして頂きたい」

「御前試合という訳ですか」

「領主の黒田 治之様は剣術が好きで昨年も行って、大層ご満足されてご褒美を頂いた。それでまた今年もという訳だ。なあに、危ないことは何もない。それに土産には事欠かない。まあ、小遣い稼ぎにご馳走が付いてくると思えばよい」

「それならば喜んでお手伝いに行かせてもらいましょう」

「奥方や子供たちの土産を考えておかねば、忙しくて買う暇が無いかもしれませんぞ」

「元貞なぞ買うのを忘れてあわてて家来の買った物を倍の金額で無理やりもらって帰った」

「助殿がなぜそれを知っておるのだ」元貞が慌てて言った。

「まあそれくらい忙しかったのだ。今回は仕事が終わったあと一日土産を買う日を作るから、心配しなくて良いぞ」



(32)二度目の博多

宿から帰った小野次郎右衛門たちは長屋の自分の部屋に入った。

「広くはないが、これが我が屋敷だ。まあしばらくは我慢してくれ」次郎右衛門が言った。

「今までを考えれば、家族で一緒に住めるだけで幸せでございます」文が思わず涙を流し言った。

「後、必要な物を買いに行ってもらいたい。就辰と新三郎を荷物持ちにつれていけ」

「承知しました」

「私が付いておりますから大丈夫です」大助が言った。

「おお、ますます頼もしくなったな。見知らぬ地だが、頼むぞ」次郎右衛門が笑いながら言った。

「お任せください、母上のことは私目が必ず守ります」

「おお、大助、すっかりたくましく成って、父はうれしいぞ。文、これは支度金として下された金じゃあ。しばらくの生活費である。また博多から帰ったら特別給金が下されるとのことだ。安心して待って居れ」次郎右衛門が言った。

出発は三日後、元貞と助と茜に石舟斎、それに津山衆の四人で、城には藩主の毛利治親と家老の福原 広泰らが見送りに城門の所まで出ていた。

「この度は御苦労、わしは行かれぬゆえ、残念でとても悲しい。だが、元貞の言いつけは死んでも守らねばならぬ。黒田殿には宜しく言っておいてくれ。」治親が機嫌よさそうに言った。父の広泰が

「黒田三左衛門にも宜しゅう言っておいてくれ。この土産は野村太郎兵衛殿に渡せば良いようにしてくれる、頼むぞ」馬車が二台、木箱が積まれている。

「大丈夫、任せてください」元貞が言うと出発する。茜と石舟斎は籠が用意されていた。大内、小鯖を抜けて、勝坂を超えれば三田尻港まですぐだ。殿の許可をもらって三田尻御茶屋英雲荘に一晩泊まって、後は風任せの船旅である。風呂と食事を済ませ、早めに各々の部屋に引き上げた。

翌朝、天気も良く波は静かで船出には良い日よりであった。

「私船は初めてなの。大丈夫かしら」茜が言う。

「何が、千石船だ。家よりでかい船だ。大丈夫に決まっておる」元貞が笑った。

元津山の四人も落ち着きが無い。

「渡し舟以外、船に乗ったことが無い」就辰がきょろきょろしながら言うと

「何気の弱い事を言うか、他の客にみっともない」新三郎が肩をポンと叩きながら笑った。波も穏やかで、心地よい船旅で、その日の内に博多に到着した。


博多に着くと中老の野村太郎兵衛待っていた。

「殿がまだか、まだ来ぬかと朝からせっつくのじゃあ、知っての通り気が短い、おっと、これは口が滑った」太郎兵衛はにこにこしながら駆け寄ってきた。

「おお、野村様、この度はお世話になり申す。我々、土地不案内でござるから、良しなにお願い申す。それと今回特別に来て頂きました、、こちらが天下の柳生石舟斎様でございます」

「おお、これはこれは、何とも有り難いことで、何はともあれお疲れでござりましょうから、城の方にご案内いたしますので、荷物は馬車に積みますので、皆さんはこちらにどうぞ」太郎兵衛は早口でまくしたて、供の者にもてきぱきと指示をして、城に皆を案内した。

城に着くや治之が待っておるからと、連れて行かれた。茜は荷物を解いて部屋で待つことにして、急いでみんなで広間に行く。広間のやや中央に座り挨拶をしようとした時、

「そこではよく顔が見えぬ、もっと近こう」治之は扇子ですぐ目の前を指して言った。

「では御免」治之から二間ほどの所に真ん中に元貞が、左に助、右に石舟斎、そして後ろに元津山の四人が正座した。

「黒田治之様に置かれましてはご機嫌麗しゅうございますれば、」

「そういうのは良い、助殿は元気でござったか、それと新しい面々は」

「今日は治之様にお引き合わせ致したく、一緒に参りました。こちらは、柳生石舟斎様でございます」

「石舟斎とは一人しかおらんと思うが、あの石舟斎か」

その時黒田三左衛門と太郎兵衛が急いでやってきた。

「殿、どうされました」三左が聞いた。

「この年寄りが柳生石舟斎と申すから、同性同名としても恐れ知らずといったまで」

「柳生石舟斎様でございますか、裏柳生総番の妖怪石舟斎ですか」笑いながら冗談だと思っている。それを見て

「黙って立てば血煙の冷たい目で切る柳生の鬼でございますよね。勝手に名前をかたれば命はないですよ」太郎兵衛は心配顔で言った。

「大丈夫ですよ。私の師匠で、親代わりみたいなものですから」笑いながら助が言った。

黒田の者皆が、

「ちょっと待て、本物か、本物の石舟斎殿か」慌てて顔を見た。

「本人が本物だと言っていますから本物ですよ」元貞も笑いながら言った。

「わしも偽物扱いは初めてじゃが、わしの偽物は出たとは聞いておらぬが」石舟斎が言う。膝を崩して下から見上げるように黒田衆を見た。治之があわてて

「これは御無礼申した。何せ本物の石舟斎殿にお目に掛かるのは初めてなので、許してくだされ」

と言って、

「こんな良い方を、妖怪石舟斎とか、柳生の鬼とか、とんでもない奴だ。腹を切っても許されんぞ。石舟斎殿、今回はこの治之に免じてご容赦ください。この通りです」と頭を下げた。

「何の、何の、わしも幕府の要職から降りた身じゃ。そんなに気をお使い遊ばすな。わしも、助の親替わりで来ているようなもの。まあ、遊びみたいなものじゃ」機嫌よく笑った。

「そしてその後ろの方々は」三左が聞いた。

「こちらの者たちは、まあ言えば、流派は違いますが、石どのの舎弟みたいなものですかな。右から小野次郎右衛門殿、寺島忠三郎殿、財満新三郎殿、二宮就辰殿でございます。これからこちらへ参る時は一緒に来ると思いますので、良しなにお願いいたします。」元貞が言うと

「すると皆柳生流か」治之が問う。

「いえ、我々は伊藤一刀斎の流れでございます」次郎右衛門が言った。

「もしかして一刀流の小野と言えば津山の四人衆か」治之が問う。

「殿は御存じで」三左が治之に聞く。

「日ノ本四天王の一人と聞く。それがなぜ」

「まあ、早い話が、上司に嫌われて首になったと」次郎右衛門が言った。

「もう少し早く知っておれば、うちに誘ったのだが、惜しいことをした」と治之が言うので

「有難い限りです。ただ今回は縁が無かったという事で」深く礼をしながら言った。

「話は変わりますが、殿さまと奥様の毛革の服を持って参りましたので、夕食時に着て頂けたらと思いますが、宜しいでしょうか」

「堅苦しいのは好かんが」

「大丈夫でございます。付き添いの者がお着替えを手伝いますので、」

「以前、雪の中を出かけるのに、熊の毛皮を着せられたが、臭いし重いし毛がチクチクするしで、着れたものではなかったぞ」

「全然別物でありますれば、一度着れば癖になります。奥様の分もありますので。この後持って上がりますので、お手伝いと案内の方をお願いします」元貞はニヤッとして付け加えた。

「付き添いとは助殿の奥方でありますれば、お手付きされませぬようお願い申し上げます」

「分っておる。だいたいわしがそのようなことするように見えるか」

「心配せずとも大丈夫じゃ、奥方がいるこの城内で他所の女に手を出すなど、以ての外、命が幾らあっても足りぬ」三左がそう言って笑う。

「三左の所は何ぞ、嫁が尻を叩というが、本当に叩そうな」

「殿、何をたわけたことを」

「嘘だというのか」

「否定しておかねば、叱られますので」

「では我々は部屋に引き上げますので、一刻の後手伝いの方をお願いいたします」

部屋に帰るとお茶と菓子が用意されていた。

「お帰りなさい。どうでございました」茜が聞く。

「機嫌が良さそうで、良かった。それより例の毛皮の服は準備しておるな」

「全てお任せを」こういう時の茜はてきぱきと抜けめが無い。

「それと茜は助殿の嫁御なれば手を出さぬようにとな」

「何を馬鹿なことを、城中でそのようなことあるはずがないでしょう」

「それ以上私の嫁を虐めないで頂きたい」助が助け舟を出す。


そうこうしている内、黒田の女中がやってきた。鎧びつのような桐の箱二竿を持たせて奥に消えた。それから一刻ほどして宴会が始まった。大広間にお膳が向かい合わせに並んで、黒田の家臣は整然と着座していた。毛利衆の席に元貞、助九郎、石舟斎、元津山の四人の順に席に着いた。上座には中央に長机、椅子が二脚置かれていた。まもなく殿様が現れた。

「殿の御なりい」

治之と奥方が現れた。上から下まで治之は黒、亀姫は赤の革ジャン、革ズボンに革ブーツ姿。

それを見た黒田の家臣団はあっけにとられて声も出ない。

「皆どうかな。」治之が言うや、亀姫が

「わらわは気に入ったぞ。暖かいし、肌触りが良いし、何といっても動きやすい。どうじゃ」と言って見なの周りをぐるっと回って見せびらかした。家臣団は何と答えて良いのか分からない。

「まるでヨーロッパの貴族様のようです」元貞が言った。そんなに動きやすくはないのだが、着物と言えば、何枚も重ね着をして引きずって歩くので疲れる。

「姫様、お出掛けの時、特にこれから寒くなってくると風を通しませぬゆえ暖たこうございます。見た目堅そうでござるが、上手になめしてござれば、柔らかくて絹の肌触りでございます」元貞が山口特産品の宣伝をしているのだ。

「ついでに申さば、赤い色の付いた酒はヨーロッパのワインという酒で、我が藩で作った物でありますれば、気に入った方はご注文頂けたら有り難いです」

「商売はそれ位にして、祝宴を始めたいのだが」三左が言う。

「その前に皆に紹介しておきたい、三番目のご老体、誰あろう柳生石舟斎様でございます。神懸かりな真剣白刃取りは我らには伝説の技なれば、我が目で見た者はおらぬであろう。その隣は小野次郎右衛門殿、日ノ本四天王の一人と言われている方です。お二方ともこの場でなければ、話すことも許されぬ方々なれば。次いでではござらんが、昨年も来られた木村助九郎殿は、ここだけの話、将軍天覧試合で現将軍家剣術指南役柳生俊方を破って、柳生を首になった方です。但しこれはここだけの話です。ご注意を。では乾杯と参ろう」この宴席に加藤田新作の姿はなかった。


翌日は、ゆっくり目の朝食を済ませて午後に入り、剣術模擬試合と剣術指導をすることになっている。模擬試合は石舟斎と助九郎で行う。まずは軽く基本的な打ち合いをする。助が撃ち込み石舟斎が流す。その後伝説の白刃取りを実践して見せ、無刀取りとの違いを説明する。白刃取りは剣の中央あたりを手の平で歯を挟んで受け、剣をひねることで相手を倒すか、刀を取り上げる、技で、失敗すると額から真っ二つにされる。対して、無刀取りとは相手が振りかぶった時に踏み込んで柄を握った手を抑える技である。

その後若手藩士を元津山の四人が指導をする。彼らの指導も細かく適切にされて人気は上々であった。

その後部屋でゆっくりしていたが、元貞はちゃっかり毛皮男物十着、女物三着、ワイン五升樽二十個の注文を取っている。その上、簪、帯留め等の土産まで買っている。

茜と亀姫はすっかり仲良くなり、結婚祝いだと言って博多人形をもらってきた。

翌日は土産等の買い出しだが、助と元貞と茜に石舟斎は温泉でゆっくりすることにして、元津山の四人は太郎兵衛の案内でいっぱい土産を買っているようだ。


翌日天気も良く、順調に船は出向して、三田尻に着く。英雲荘に毛利治親と福原 広泰が出迎えに来ていた。疲れを落とすため、一同一泊して家路につくことになった。

「黒田殿はどうであった。」治親が落ち着く間もなく聞いてくる。

「今回は」

「今回はどうした」

「殿、急いては話が出来ませぬ」

「ああ、そうだな」

「今回は石舟斎殿に治之様他、黒田家臣一同平伏で御座りました。殿もいらしたら感激されたことと」元貞が答えた。

「さもあろう。さもあろう」

「特に、助殿の上段を石舟斎殿の白刃取りは流石でございました。私も初めて見まして感激いたしました」

「そんなに褒められると赤面いたす」石舟斎が言う。

「その後、次郎右衛門達の若手藩士の立ち合い指導がすざましくて、多分何人かはあばら骨が折れてるかもしれないかと、心配しました。ところが、治之様は余計お喜びで」元貞が言う。

「なるほど、なるほど」

「治之様が、殿は良い家臣を持っておられる。羨ましいと」

「加藤田新作殿はどうした」

「前回助殿に負けたので、修業に出ているとかで、合えませんでした。ゆえに黒田藩士との立ち合いはありませなんだ」

「まあ助や、次郎右衛門は特別だからな。褒美をやらねばな」

「殿、私目の報告も聞いてくださらなければ困ります」元貞が言う。

「お前は剣術はからっきしだろうが」

「そうではありません。私の役職は産業奉行でございます。その仕事をしてきました」

「手土産を元に、ワイン、革服など五千両ほど売りまして、今回の旅費等差し引いても二千両は儲けてきました。安心して褒美を出してください」

「なんと、そんな心配しなくてもお前と石舟斎殿、助に次郎右衛門には二百両ずつ、忠三郎新三郎、就辰には百両を褒美として与える。その他、そなたら四人には藩宅を与える。余り大きくはないが、立派な一戸建てだ。」四人は顔を見合わせて

「我らに家をですか」忠三郎が驚いて聞いた。

「そうだ。堅小路にある屋敷を与える。そこなら福原の家も近いし、道場も近い。ちょうど良かろう。元貞、掃除やら手伝ってやれ」

「分りました。さっそく手配いたします」

その後食事や祝宴やらで飲んで食って、土産話に花を咲かせた。

元貞は前田仁兵衛に連絡を取り、堅小路の屋敷を清掃を頼み、家を使えるようにと頼み、竹内千右衛門に、手伝いの女子と、奉公人を各二人明日の昼までに、福原家まで来させるよう頼んだ。



(33)新居と家族

翌朝早馬で、次郎右衛門と忠三郎の家族に福原家に集まるよう知らせを走らせた。殿と家老はまだ寝ていたが、早く家族に会いたかろうと早めの朝餉をすまし英雲荘を出発した。茜と石舟斎はかごに乗って、大内で軽く昼をすませて、福原の屋敷に着くと伝三とお滝が出迎えた。次郎右衛門と忠三郎の家族は既に福原家に集まっていた。

「お帰りなさいませ、旦那様」次郎右衛門の妻の文が涙を流しながら言った。

「お帰りなさい」忠三郎の妻の登紀と娘の紗夜も泣いていた。

「文殿、登紀殿、小野家、手島家には褒美に殿より、屋敷を拝領したので、これから案内します」元貞がにこにこしながら言った。

「長屋の荷物は後々運ぶとして、千右衛門殿、こちらの方々ですか」元貞が長身のがっちりした男に聞いた。千右衛門は口入屋で、借金のかたで引き取った娘と、働き口の無い農家の三男坊、四男坊である。屋敷勤めができるのは良い方で、たいていは飯炊き娘か男ならヤクザの三下が良い所だ。

「登女と松吉はこちらの小野様の屋敷で働かせてもらえることになった。糸に作造はこちらの寺島様のお屋敷だ。皆、役に立つよう頑張れ。では小野様、寺島様宜しくお願い申します」と言って引き渡しが終わったらさっさと帰ってしまった。

次郎右衛門も、忠三郎も呆気にとられている内、屋敷に皆で行くことになって、ぞろぞろと元貞についていく。

まずは次郎右衛門の屋敷に着いた。

「小野様はこちらを、中をご覧になっていてください。一通りは掃除させておきましたので、使えるようになっていると思います。」立派な門構えで新築ではないが、重役の屋敷だったのだろう。津山の屋敷に比べると倍はありそうだ。

「では他の方はこちらへ」隣の屋敷みたいだ。

「こちらが寺島様の屋敷です。糸さん、作造さん、宜しく頼みましたぞ。」

こちらも小野の屋敷と変わらない位、広くて立派だ。

「では財満様、二宮様はこちらへ」裏の屋敷が二人の家のようだ。二人には広すぎて、立派過ぎると思った。

「こちらが今からお二人の屋敷となります。何かご不便があったら私に行ってください」そう言って寺島の屋敷に引き返した。

「どうです、屋敷の感想は。」

「立派すぎて、もったいないくらいで」

「糸さん、作造さん、ご主人様はこの地不案内ゆえ、案内してあげてください。」そう言って小野宅に向かった。実は糸も作造も初めての屋敷勤めで、要領が分かっていない。だが寺島夫妻も奉公人を使ったことが無いので実は困っていた。

次郎右衛門は流石に津山でも奉公人を使っていたので、部屋決めや家具の配置など決まっていた。

「こちらは流石、大丈夫でございますね」

「こんな大きな屋敷を頂戴していいんでしょうか」文が心配そうな顔で言った。

「殿から拝領した屋敷ですから大きな顔をして住めばいいのです。その分働いてもらうことになりますから、期待に応えてくださいよ」元貞が意地悪そうに笑った。

「もちろんです。福原様に恥をかかせるようなことはしません」

「その意気です。と言っても、明日からこれをするという物ではなく、しばらくは道場でこの人ありと見せて、でも若輩者をかわいがりながら、人望を集めてください。まあ気長にやりましょう」そう言って帰った。

「大丈夫なのですか」

「大丈夫だろう。まあ運が向いてきた時はこんなものだ。それより大助、土産がある。」

「何でしょうか」

「お前も十二歳だ。昔なら元服の年だ。それゆえ博多で手に入れたものだ。なかなかの強者だぞ」と言って袋から小刀脇差しを出してきた。

「特別な名はないが、なかなかいいぞ、手にして見よ」

受け取るとずっしりした重みが伝わる。

「良いか、刀は人を殺す武器だ。使い方によっては人を不幸にするものだ。そこをよく心得て持つのだぞ」

「はい、分かっております」

「では抜いてみよ、扱い方は道場で教わっておるな」刀とは武器ではあるが、ある意味芸術品である。見るだけで、持つだけでワクワク、ドキドキする。ゆっくりと鞘から刀を抜いた。白く光る抜き身が体を凍らせる。はやる心を抑えながら、刃の形、波紋、背の厚み、見ても見ても飽きない。虜にさせる。だが心臓を黙らせて鞘にしまう。

「あなた、大丈夫ですか」文が聞く。

「何のことだ」

「大助の刀ですから良い物をというのは分かりますが、私も武士の娘ですから、刀の良し悪し位は分かります。あの色や形、相当良い物だと思います」

「そうだな私の小刀の倍はするだろう」

「で、幾らで買い求めたのですか、四十両ですか、五十両ですか」

「もうちょっと高いが、これは相当良いものだ。運よく安く手に入ったものだ。下手するとどこかの名家が止むを得ず手放したものかもしれない」

「で、幾らで買い求めたのですか」

「八十両だ」

「八十両」

「だから大助大事にしろよ」 

「はい分かりました」

「八十両もどうされたのです」

「私の活躍に感心して、殿が行く時拝領した」

「で、全部使ったのですか」

「行きに貰ったものは使ってしまったが、帰ってからもらう分は一銭もつこうて居らんぞ」そう言って

「後で渡そうと思っていたが、今渡してしまおう。これだ」

「幾らあるのですか」

「二百両だ」

「二百両でございますか。何か悪事に加担しているとか」

「馬鹿を言うな。それにこの屋敷も立派だ。それだけ期待されているという事だ」

「信じられません」

隣の寺島家も娘の紗夜を呼んで、

「これはお土産だ。付けてやろう」

簪を娘の髪に簪を付けているのを見て、

「娘が可愛いからってそんな高い物を買ってどうするの」

「そういうな、今まで我慢ばかりで可哀そうだからな」

「幾らしたの」

「十両だ」

「そんな高価な物を買って」

「心配するな、お前の分もある。ほら、帯留めと櫛だ」

「全部で幾らしたのよ」

「三十両くらいかな」

「そんな高価な物を買って」

「驚くのはこれからだ」手荷物から出してきた風呂敷からは小判の山が出てきた。

「何よこれ、どうしたの」

「別に悪いことをした金ではない。殿からの褒美だ。百両ある」

「百両、どうするのこれ、泥棒が来たらどうしたらいいの」

「心配しなくても俺がいるし、作造もいる、大丈夫だ。なあ紗夜。お母さんは怖がりだからな」

「こんなの有難すぎて怖い」

「今までが不幸すぎたんだ。これからは幸せにしてやるからな」


(33)国の威信は稲作から

小鯖村、渇水対策役の武吉の家に来ている。

「どうかな、今年の出来は」元貞が武吉に言った。

「おかげさまで今年も豊作だで。だいたいこの瀬戸内海沿いの土地は、もともと雨が少ないだで、水の取り合いが激しかった。それが、池をこしらえて春は雪解け水を、夏は梅雨の雨を貯めることで、水争いが無くなった。みんな福原様のおかげです。」

「実は今日は武吉さんに、助けに来てもらいたいと思ってきたんだが」

「私に出来ることなら何でもしますが」

「防府三田尻に新しく干拓を行い、今、塩抜きをしておる。その新しい土地も草が生えるようになったので農作人を入れて稲作を開始したいと思っておる。そこで稲作の玄人のお主に手助けを頼みたいのだが」武吉の奥さんが持ってきた白湯をグイっと飲んだ。その時、奥で話を聞いていたのだろう、爺様が出てきた。

「産業奉行の福原様の頼みを断れるはずが無かろう。おい、武吉喜んで手伝わせてもらえ。なあに、ここの池の管理はわしがやっておく」

「世話をかける。手当は弾むによって、宜しく頼む」

「何はともあれ、様子が分からねば何も言えません。明日皆で行ってみましょう」

「では今日は私たちは禅昌寺に泊めてもらおう」

「明日お迎えに参ります」


禅昌寺は曹洞宗の禅寺で格式も高く、年に何度か藩主も訪れる寺である。二人はそこに泊まり、朝早く迎えに来た武吉と三田尻に出発した。朝ご飯にと武吉の嫁が作った握り飯をほうばりながら、勝坂峠を越え、佐波川を渡り桑山を超えれば三田尻である。萩から三田尻までのこの道は萩往環という名で、船荷を運ぶ主要地方道である。瀬戸内海北側は遠浅の所が多く、干拓が盛んである。おかげで毛利藩も石高が高い。

「この辺りは何という地名ですか」武吉が問う。

「新しい土地だから新田で良かろう」元貞が答えると

「何と安直な」と武吉が笑った。

まっ平な草原で水路が真っ直ぐ格子状に切って在り、すぐにでも稲作が出来そうである。

「これはすごい。私どもの農地は山を開き平らにして田んぼにしますが、ここは全部平らだ。」

「この先端で塩田を作り塩を作るが、それ以外は全て田んぼにする計画だ。見渡す限りの田んぼになる。それどころか、これは第四次計画だが、いずれは向島まで届かせたい」

「何と遠大な計画でしょう」

「遠浅だからできるのだ。干拓する場所を塀で囲む。一か所開けて置いて、干潮の時にその門を一気に閉じる。そして泥を入れる。その繰り返しだ。但し埋めたばかりの土地は塩害と言って塩で作物が育たん。二、三年はそのまま置いておく。塩が抜ければ草が生える。そうなればやっと農作地になる。だが、台風やらで高波が起きて塩水が入るとしばらくは作物は育たぬゆえ、防波堤をこしらえる。人手もいるし簡単ではない」

「でも孫子の代まで助かります」

「では番所によって行こう」


各庄屋から、次男三男の希望者を干拓地に送る。農業道具や仮住居を与え、三年は年貢を免除する。場所は早い者順、一家一町部を分け与える。農家も田畑を子供の数で分けていくと農地面積が小さくなり零細化して、生活できない。次男以降は商家に丁稚に行かせる。戻ることもできないので、少々のことでは辞められない。辛くても、虐められても辛抱するしかない。新しい干拓地に入れるのは大変でも、幸せな方なのだ。

番所で、入所希望者の様子を聞く。およそ二百家族が決まったそうだ。計画の半分が埋まった。

藩外から一部入所しているらしいが、名前と家族構成と、稲作の経験しか、入所人帳簿には記載が無い。他所の藩から夜逃げで来た者もいる。農民がいなくなれば年貢が取れないので、監視し、その兆候があれば取り締まる。一番の情報は近所の者から得る。逃げてこられた藩は相身互いなので見つければ帰す。徳川家康の言葉に

「農民は生かさぬように、殺さぬようにが良い」という言葉があるように、年貢は取れ高が多いのが役職の能力が高いと言われていて、農民から見て悪代官ほど、優秀だと言われる。

「新しい入居者は、半分までは簡単に決まるんですよ。問題はその後」武吉が言う。

「問題って」元貞が聞く。

「年貢免除、道具も呉れるって、こんないい条件はないだろうって思うのは何も知らない奴らだけ。

先ず水田にするには一枚の田んぼを畔で囲わないといけない。その上、水が溜まるようにする。これが簡単じゃない。粘土質の土を全体に巻いて固める。その良質の土が近くに有れば良いけど。役人もそれくらい用意してやれば良いけど、まあ役人仕事だからなあ。その間も自分たちの食料を確保しなくてはならない。まあ、その辺の草を塩水で煮て食べるかな。飢饉の時よりましかな」武吉は素人の二人に説明する。

「村になるまでまだまだ日数がかかるだろう。人を集める方法を考えねば」元貞は首を傾げる。

「一つ手がある。藩内の農民から集めるのが無理なら、藩外からも集めよう。」助が言うと

「藩外の夜逃げ農民を受け入れたら返せと言われる。」

「知らなかったことにする」

「知らないで通用しないだろう」

「ここの番所と同じく、関所も面倒だから農民には名前と家族構成しか聞かないことにする。三田尻新田入居者に紛れて、藩外から来ているのに、身元確認ができていないと新田干拓番所の役人がこぼしていると噂を流す」助がニヤリとする。

「お前、津和野藩から人を連れてくるのか」

「物騒なことを言うな。誰も知らないうちに何人か紛れていた。」

「いつの間にか、知らないうちにか」

「番所の管理をしている役人は無学で、責任が取れない」二人顔を見合してニヤリと笑った。

「顔を見てこいつは内の領民だと証明できれば引き取って良いと」

「顔を見ても分からないだろう」

「顏も分からぬ者を連れに来たのか」


「今晩わ、高杉殿は御在宅か」元貞が門を叩いた。

「どなたかな、こんな遅く」春時が玄関の格子戸を開ける。

「おお春時殿、お久し振りです。お元気でござったか」年は取っても山で鍛えた脚はしっかりしている。福原広泰とは仲が良く時折家に来て酒を酌み交わす仲だ。

「父上の広泰殿はお元気にしておられるか」ニコニコしながら迎えてくれた。

「こちらは」

「木村助九郎殿でござる」

「おおそなたが噂の木村殿であったか。初にお目に掛かる。良しなにお願い申す」春時は気軽に頭を下げた。

「今日は良い酒が入ったので、春時殿の往年の活躍を聞かせて貰いながら飲みたいと思いまして」といって一升徳利を下げた手を挙げて見せた。

「おおい、富美や福原の元貞殿が来られたぞ。酒の支度じゃ」

酒を富美に渡して、

「肴はこれじゃ」と鶏の首を撥ね血抜きをした物を助から受け取ると

「裏でさばいてきますから、その間一服していてください」元貞は慣れたものである。

「何もありませんが」と言って富美が白湯と沢庵を持ってきた。

「これは申し訳ない。突然の訪問で御無礼ではありますが、もう一折、骨を折って頂きたいと思いまして」

「何の、こんな年寄りにお役が務まりますか」

「詳しいことは元貞からお話いたしますが、引き受けて頂いてからでないと、話しにくい」

「私は、天に恥じることはしない。先も短いゆえ、昇給にも魅力を感じないし、あの世に行ってからご先祖様に申し開きの出来ないことはしたくない」

「苦しむ農民のためです。その上で藩の役に立てれば良いと存じます」

元貞が鳥をさばき終わって、手を洗ってタオルで拭きながらやってきた。

「えっ、何、この暗い空気」おどけながら助の隣に座り、

「もう話しちゃったの」

「騙すみたいなことはしたくない」

「これは騙すことなの、死にそうな農民を助けるって話でしょう」

「それはそうだが、法は法だ」

「何が何だかわからん。分かるように話をしてくれ。福原のぼんのこと。悪い事はしないだろう」

「山陰はこの夏寒かった。米もろくに取れていない。長州もそうだが、幸い芋がある」白湯を飲みながら

「この冬は娘を売る家が、男の子は間引き・要らぬ年寄りは雪の山行きだ。そこでこちらは新田干拓地の人を必要としている。津和野藩は夜逃げを許さない。何百いや何千の餓死者が出るかもしれない。そこで、逃げてきた農民を、三田尻に行かせる。移住した家族が他藩の人間だとは知らないことにして」春時は黙って聞いている。

「法は人の作ったものだ。それを破ることを神は許さないかもしれない」

「それでも私たちはそんな人を助けたい」

「で、具体的にどうするのだ」

「そういう人たちにこちらに来ないかと誘いをかける」

「津和野から三田尻までどの位あるのか」

「その辺は山奉行をしていた春時の方が詳しい」

「だいたい、四、五十里、七日から十日位だろう」

「道はどう行く」

「野坂峠を避けるため、青野山の北側を回り込み、鈴の大谷山の西側に出て十種ケ峰の麓に出て徳佐に行く。そこから地福、三谷、篠目、木戸山峠を超えて山口へ、その後勝坂峠から三田尻だ」

「毛利藩に入れば安全だと言えれば良いけど、津和野の手前、そうは言えない。自分で決めて来てくれなければならない。」

「どうやってそうさせるかだな」

「それでわしは何をすればいいのだ」

「新田干拓開発奉行をやっていただきたい。そして、昔の人脈を使って三田尻に行けば食えると噂を流す。一家族でも多く来て欲しいから」

「長丁場になりそうね。じゃあ私は鳥を焼いてきましょうか」富美は笑いながら台所に向かった。

職を辞してから庭の手入れをしながら、寂しそうな春時を見て、寂しく思っていた夫が、生き生きしているのがうれしいと思っていた。

「木戸山と勝坂の関所には何も聞かないで三田尻は家も土地も呉れて、良い所だそうだ。あんたらも行くのかいと言って笑って見送る」

「そこまでをどう導くかだ」

「待ち伏せて、何と可愛いいとか言って、おにぎりでも渡して、内海の方へ行けば暖かいから良いよねと」

「徳佐、地福、三谷、篠目に人を配して待ち伏せをさせよう」

「必要な人員がいれば用意します」

「鳥の煮ものと焼き鳥が出来ましたよ。食べながらお話しください。」と言って膳を並べ、湯呑に酒を入れて配る。

「おお、これは良い酒だ。どこで買うて来られた」春時が旨そうに飲む。

「親父さんの貰い物をがめてきた」

「旨いと思うて飲まれるは酒の冥利」

「と、酒飲みはおっしゃる」

「助は鳥でもくろうておればよい。うまい酒を旨いと思わないのは人生の半分は損をしている」

「人生の半分が酒か」

「酒の味が分からぬは可哀そうだと。のう春時殿、そうであろう」春時は苦笑しながら旨そうに飲んでいる。だが一番感じているのは、人の命を大事と思っていることだ。役人は決まり、規則、先例を大事にする。それを言い立てることで自分で決断しない。よって責任も取らない。殿の覚えが良いのもわかる。まあ、実際実績も上げているので他の重役も文句が言いにくい。そう言えば敵対していた一味、郎党も妙におとなしい。あれだけ派手に動いていたのに、噂も聞かない。普通は力で押さえているか、金で押さえているか、不気味だが、何かをやっているのは間違いない。こういう時は知らぬ振りをしているに限る。

「酒はわからぬが、鳥は旨い。鳥のさばきとか、こういうことは器用で旨い。これで剣術がからっきしとは思えん」と言って助が笑うと、春時も釣られた笑った。

「まあ詳しいことは城中で」と言って酒瓶を空にして帰った。

「まあ、なんと騒がしい連中だ」春時は言ったが、胸中うれしそうだった。


「ばあさんや、あの二人を殿が買っている訳が分かったよ。剣術の強さでも、家老の息子でもない。あの真っ直ぐに国のこと、領民のことを考えて、突き進む心いき、まったく羨ましいね。これでは私も老骨に鞭を打って頑張るしかないねえ」」春時は富美ににこやかに言った。

「私はばあさんではありませんよ。それにお前様も責任ある仕事を頼まれるくらいだから、年寄りではありませんとも」弾む声で返事をした。

「明日は久し振りにお弁当を作りましょうかね。今日は何か良い事がありそうだと思ってたんですよ」

「何でだね」

「茶柱が三本も立ってましたから」

「それは安物のお茶を買ってきたから、枝のところが多いからですよ」

「では今度は柔らかい葉の所を買ってきましょうね。お給金も入ることでしょうから」


(34)開拓民会合

「今日は集まって頂いて有難う。私は毛利藩産業奉行の福原元貞である。先ずはこの村の代表者を決めてもらいたい。これからの事はその者と小鯖村渇水対策役の中村武吉殿と相談の上進めたいと思う。まだまだ数は増えるが、だいたい三百軒程になる予定だ。よって、何かの度に全員に集まってもらう訳にも行くまい。代表者と相談の上取り決めていくことになるだろう。皆の代表だから、皆で決めてもらいたい。特に水利権は大事だ。取り込み口の者に勝手にされたら下の者は困る。村長と村役と武吉さんで決めてもらえれば良い。

先ずは村長だが誰が良いかな」元貞が一気に話をした。揉めるだけもめたが、いち早く入植した重松が良かろうと決まった。

「次に村役だが、新田を五つに分けておる。一番東の佐波川のとっつきの所が問屋口、その隣が横入川、そして浜方、入浜、一番西が西須賀と名付けた。自分がこの地図のどこが分かるか。ではこの地区から一人ずつ村役として地区の代表を決めてもらいたい。地区の者が集まって話し合ってもらおう」

ワイワイガヤガヤ、すったもんだで決まったのが、問屋口は寅三、横入川が平助、浜方が三太、入浜が弥八、最後に西須賀が権太で宜しいか。ではこの後村長と村役で決めごとを話し合ってもらいたい。分らぬことは武吉さんに聞いてもらいたい。宜しいか。では一般の者は解散とする。相談がすんだら村長から役所に届けるように。では解散」

「では我々も帰ろう」役宅まで五里、急がねば明るいうちに帰れない。

「馬で来れば良かったな」

「武吉を走らすことになる」

「勝坂の茶屋で一服して帰ろう。」

「でもえらく素直に決まったな」

「そうではない。今はよく分からないのだ。揉めるのはこれからだ」

「一番驚いたのは入浜の弥八さんに決まったことだ。」

「まだ彼を防長の人間だと思っている。津和野から来たと分かったらもめそうだ」

「村役なんてこき使われるだけの、役得なしの良いことなんて無いんだがなあ」

「他人がなるとよく見える。でも自分はやりたくない」

「ひょっとすると無関係の武吉さんが吊し上げになっているかも」

「俺たちも似たようなもんだぞ」

「そうなのか」

「難しそうな、面倒なことは全部こちらに回ってきて、何かあれば責任だの、ひどい奴は腹を切れって」

「じゃあこれからはあなたがやってくださいと言うと、私にはそんな才はないとか、こんな仕事をするためにお役に付いているのではないとか」

「あああ、でござるな」薄暗くなり始めた中、二人は足を速めた。


「村長、村役が揃っているだで、大まかなことは決めてしまおうじゃないか」武吉が言った。

「そうだ、そうだ。やっちまうべ」

「その前に飯にしよう。腹が減ってはいい知恵も出まい」村長の重松が言った。奥さんの梅が握り飯と沢庵に白湯を持ってきた。

「それにしても相当の切れ者だな、あの元貞様というお人は」問屋口の寅三が言うと

「お殿様から信頼されて任されているらしい」横入川の平助が知ったかぶりをする。

「横に黙って座っておられた木村様は剣術がすごくて、先日も福岡藩の黒田様の所で、御前試合をして勝ったそうな。日ノ本でも一、二位を争う程のお方らしい」西須賀の権太が言った。

「それはすごいが、おらの聞いた話では、元津山藩の剣術指南役をされてた方が、今度新しくはいられたそうだ」

「そんな人ばっかり集めて合戦でも始めるのかのう」

「強い侍を十人、二十人集めても徳川様には勝てないぞ」

「そんなことより話を始めようか」弥八が言った。村長が図面を広げて

「んだよ。先ずは水だ。取り口は新川が各地区を通っていてそこから用水路が作ってある。その用水路の取水口から順の各田んぼを流す。それで良いか」

「取水口の堰は誰が開け閉めするかだ。基本的には各地域の中で決めるが良かろうが、元堰の開け閉めは村長の私がするで良かろうか。」

「そうだそうだ」

「各用水路の堰は村役の責任で行う」

「村内で話が終わったら、それを持って地区の中で話の場を作るで良かろうか」

「次は川の負担だが、全戸一人一日、用水路も別日に同じように、修復と掃除、カニの穴埋めなどを行う。日取りは前もって談合をして決める。修理用の赤土だが、台道か、佐野の山に役員で猫車で取りに行って運ぶで良かろうか」

「それでよか」

「次に役員だが、任期は二年、入れ札とする。役員報酬として村長は十両、役員は三両。全戸入会とし、会費は年貢とは別に、米一俵、またはその値打ちの物で支払う。後はその都度話し合う、でどうであろう」村長が皆を見回すように言った。

「決まりだ決まり」

「それでよい、よい」

「武吉さん、これで良かろうかのう」

「こちらは佐波川から直に水を引いていて、佐波川は昔から水が切れたことが無いそうですから、その点は羨ましい。だが川の氾濫は藩と話し合って決めることになるようだから、私からは何とも言えぬ。今の段階ではここらで十分だろう」

「では決まったことを役所で書き物にして、福原様にお届けしよう」


「これはこれは、この度は大変お世話になりまして、竹内の千右衛門さんに、左甲の甚右衛門さん」

「いえいえ、こちらこそ、鴻池の市兵衛さん」

ここは湯田の常盤旅館の宴席、御用商人が集まり、大声で話をしている。

「女将、話がすむまで誰も近づけるでないぞ」

「分っておりますよ、ではごゆっくり」女将が廊下に出た所で正座に座りゆっくりとお辞儀をして、襖を閉めた。

「この三田尻の干拓で、また大儲けですな」

「いやいや、それより千右衛門さん、よくあれだけの百姓を集めましたな」

「いやこれには裏がありまして、お二人だからお話ししますが、福原の元貞様が手を回してくださって、実は毛利藩だけでなく、百家族ほどは隣の津和野藩の百姓で」

「それじゃあ、津和野藩から返還要求されるのでは」

「本山奉行の高杉様を担ぎ出して、隠密に夜逃げしそうな小作人に三田尻に行けば広い土地がもらえると、夜逃げをたきつけて、道案内をして、途中では飯まで出して夜逃げを助け、三田尻の役所では、名前と家族構成だけで、どこから来たかを問わない。誰かに聞かれても担当の役人が字が読めないので起こった不備であろうと、罪は問わぬなんて」

「何と悪賢い、そうやって集めて儲けたのかい」

「いや、私は集めていない、集まったのだ」

「そんなこと言っても、あんたの所は米に塩、三泊の内、二つの扱い量が増えて大儲け、特に今年の山陰は寒くて飢饉が起こるそうな」

「米の値段は天井知らず」

「いやいや,所が元貞様から津和野には昨年と同じ値で出せと」

「じゃあ、津山藩は夜逃げの百姓の件、強く出られないと」

「やはり切れ元貞よのう。全て読んでおる。」

「切れ元貞に鬼助九、この二人には到底敵わぬ、付いていくだけじゃ」

「裏には閻魔の広泰」

「そんな大きな声で言うたら誰かに聞かれるぞ」

「おおい、女将、派手にやってくれ、酒じゃ女じゃ」

「今年も良いお正月が迎えられるぞ」

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