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第2章 運命の博多

第2章 運命の博多

(10)勇んで博多①

早朝、助九郎は元貞と連れだって屋敷を出ようとしていた。広泰、茜はそれを見送っていた。藩主の毛利治親の元、一門家老筆頭 宍戸親朝の指揮の元、長州四天王 椋梨藤太 杉常徳 寺島忠三郎 喜多村政倫らを供に萩往還を周防三田尻に向かって進んでいた。昼には勝坂峠を越え夕方までには、防府三田尻に泊まって船で博多に向かう。参勤交代で江戸に向かわなければならなかった藩主の方々は、萩往還を通り、ここ三田尻から船に乗られる。そこで、三田尻は藩主様が江戸に向かわれる時の海の玄関として整備されたのだ。もっとも、港としての三田尻の歴史はさらに古く、すでに藩主の港たりうる性格を備えていたものと思われる。毛利家は「防長三関」と呼ばれた海の要所、上関、中関、下関に番所を置いて重要拠点としていた。ことに三田尻は古くから天然の良港として栄えていた場所だったので、水軍の本拠地とされた。

御舟倉が作られ、参勤交代の起点となっていた。

毛利家は米・塩・紙の三つの産業を奨励していて、『三白』、蝋も加えて『四白』と呼ばれた。新田開発、塩田開発が進められると同時に、生産された物資を運ぶための港も整備される。

三田尻もそのようにして整備された港の一つだった。御舟倉というのは、毛利水軍の根拠地で、やや詳しくすると「毛利水軍御船手組の根拠地」とのことで、つまりは毛利家ご当主様の船を入れておく所といった感じか。造船や修理のための施設も置かれていた。

慶長十六年(1611)に、元々の御舟倉が下松からここに移った。

周辺には水軍の関係者、船頭や船を造る大工などの居住地も作られ、計画的な町づくりがなされた。藩主外出のための玄関となる場所だから、それにふさわしく、きちんと整備された、発展した町だったのである。所が、元禄元年(1688)くらいから、周辺の開拓が進んだ結果、埋め立てられて陸地が増えていき、一本の水路だけが海と繋がっているようなことになった。

参勤交代の時に通る道として開かれた街道を「萩往還」と言って、萩から三田尻までを結んでいた。江戸まではまだまだ遠いが、萩往還のゴールはここということに、ここから乗船して海路東を目指した。

萩往還の途中には、藩主一行が休憩するための「御駕籠建場」や藩の公館「御茶屋」などが建てられていた。

三田尻の御茶屋は、普通「英雲荘」と呼ばれている。承応三年(1654)に、毛利綱広が建設した藩の公館である。英雲荘の名前は、毛利重就が隠居所としたことに由来している。毛利重就は長州藩七代藩主で「中興の英主」と呼ばれたお殿様。その法名が英雲公だった。

三田尻御殿とも呼ばれていた。また、三田尻茶屋の敷地の一角に、招賢閣しょうけんかくが建てられていた。

また『御舟倉』とは、藩主が乗る御座船などがあった、毛利水軍御船手組の根拠地のことだ。

萩往還の整備にともない御舟倉が下松から三田尻に移され、周囲には造船や修理のための施設が設けられました。しかし、江戸時代半ばからは陸路での参勤交代が多くなり、周囲の干拓も進み、御舟倉と海は水路で繋がる形になりました。



(11)勇んで博多②

瀬戸内海航路は千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。

大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。

瀬戸内海では一日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転する。逆潮を避けるためにまた潮に乗るために潮待ちの停泊があった。そのためには、陸地沿いや島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸(大畠の瀬戸、平清盛が開いた音戸の瀬戸)沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれた。そして潮待ちのためには一定の距離毎に港が出来た。赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、大阪への航路が主流となった。航行は、潮の流れと櫓、帆を漕いで進んでいた。

沖乗り航路は、江戸時代の十七世紀後半になると、木綿帆が使われるようになると、帆走能力が高まった。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能で、沖合を一気に駆け抜けることになった。上関から沖の家室、津和地、御手洗、鼻栗瀬戸、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦へと往来するもので、瀬戸内海のほぼ中央を航行する。

弁才船は江戸時代の国内海運に広く使われた大型木造帆船。

弁才船の名の由来については、運漕の従事者の「弁済使」に由来するという、安定性が良いという船の特徴から「ベザイ」とは「平在」だとする江戸時代の説、「へさき」がある船を意味する「舳在船」が転じたという説がある。ただし、もともと「ベザイ」と表記されていることから「弁済使」説は疑わしく、また「平在」説も実際の船の形態の変化と合致しない。

ベザイは瀬戸内海発祥の船型だが、漢字表記の「弁才船」は日本海方面で先に使用され始めている。

なお、弁才船の船乗りは「弁財衆」「弁財者」と呼ばれた。

元々は瀬戸内海で使用された中小船舶だった。最近の弁才船の積石数は、百十石から九百六十石で、主力は二百五十石前後。船型も逐次大型化し、三百五十石積が主力となり千石積を超える大型船も登場し、千石積が主流となった。この頃には弁才船が広く普及し他の船型を駆逐した結果、廻船といえば弁才船を指すようになった。「千石船」は、船型に関わらず積石数を意味したが、千石積の弁才船が広く普及したため弁才船の俗称として千石船と呼ばれるようになった。

当初の弁才船のみに見られる特徴と言うものはあまり無く、伊勢船や二形船との船体構造とさほど変わらない。ただ、船首のみが関船と同じく太く、他の船首形状に比べて速力や凌波性に優れており、この点が他の船種を圧倒した要因と言える。

ちなみに北前船・菱垣廻船・樽廻船は弁才船であり(北前船は他の船と多少の違いはある)、五大力船などの小廻船も基本的には弁才船と同じ構造をしていた。

弁才船の隆盛は十八世紀中頃に行われた合理化を要因としている。それまでの廻船は帆走・櫓漕兼用という中世的な要素を色濃く引きずっていたが、十七世紀に入って幕藩体制の安定化に伴う経済の爆発的な発展は、それまで有力大名と結び付いた特権豪商を衰退させ、海運にも価格競争を求めるようになった。

その為、廻船業者達は、航海技術の向上による航海の迅速化と、帆走専用化による水主の削減を目的とした改良を行った。その結果、十八世紀中頃以降になると近世海運は大きく発展した。

近世前期と比較して後期の弁才船は堪航性の向上を目的とした各種部材の厚み・太さの増加、舷側の高さを増すための部材はぎつきを追加している。更に竜骨に相当する航と接合する根棚が立ち上げ、更に根棚と接合する中棚が横に広がることで安定性の向上と積載量の増大を実現している。これにより、沖での航海が可能になった弁才船は従来の地乗り(沿岸航法)から沖乗り(ただし、磁石以外は勘と経験に頼った)への転換がなされた。

江戸初期は経済性の問題から性能の良い木綿は軍船を除き、あまり用いられず筵帆が中心だった。しかしその後、木綿の国産化が進むと廻船にも木綿帆が用いられ、弁才船でも標準化される。当初は薄い木綿布を二枚重ね、太い木綿糸で刺し子にした刺帆が用いられたがに工楽松右衛門が、太い木綿糸で織った丈夫で手間もかからない織帆を開発して、瞬く間に普及した。

下の帆桁の廃止や帆桁の可動範囲の拡大・帆のふくらみの調整と、船型の改良による安定性、舵の大型化による操舵性の向上により、横風帆走や逆風帆走を可能にした。

操舵性の向上のため時代を下るにつれ大型化したが、浚渫を基本的に行わない当時の日本の港湾に合わせて舵を引き上げられるようになっていたため、荒天時には波浪により舵や船尾の破損が頻発した。

江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で三十三日、最短でも十日も要した。しかし上記の弁才船の改良や航海技術の発展により、江戸後期の天保年間には同じ航路を平均で十二日、最短では六日と大幅に短縮された。これにより年間の稼働率は向上し、年平均四往復から八回へと倍増し、上記の船型の拡大も併せて江戸の大量消費を支えた(逆に江戸末期になると供給過多なため、船型の制限が行われた)。

天気も良く、風にも恵まれて一日で無事博多に到着した。



(12)世に悪人なし 黒田藩

関ヶ原の戦いで徳川氏の覇権確立に貢献した黒田長政は、筑前一国約五十万石を与えられ名島城に入国し福岡藩が成立しました。しかし名島城には、位置や構造に多くの問題があり警固村福崎(現福岡市中央区城内)に福岡城を築城しました。重臣の家は城内に設け、その下の武士は現在の大名や天神周辺に、中級武士は荒戸周辺に暮らしていました。

長政が逝去したあとは長男の忠之ただゆきが家督を相続、三男の長興ながおきに筑前秋月藩として五万石、四男の高政たかまさに東蓮寺藩として四万石を分与しました。

福岡藩は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。

六代藩主継高は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領四万石は福岡藩に還付され、石高は四十七万三千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。

七代藩主治之は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子で、八代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。

一同は博多港に着くや、福岡藩大老の黒田三左衛門 播磨等の出迎えを迎えた。

家老筆頭 宍戸親朝とは親しいらしく大きな声で何事か話をしながら肩をたたき合っていた。その後こちらにやってきて、

「これはこれは久しぶりで御座る」

「殿、三左衛門殿のお出迎えで御座るよ」

「治親さま、お元気そうで何よりでござる」

「 三左衛門殿もお変わりは御座いませんか」

「もう、年で御座るよ。目は近いが、耳は遠い。腰は曲がるは、性根も曲がる」

「相変わらずでござるな。それだけ元気なら百まで生きる」

「この間も枕元に死神が出てきて」

「ほうそれは」

「今忙しい故、そこでおとなしく控えておれと言ったら消えてしもうた」

「三左衛門殿らしい」

「それより殿が、今か今かと首を長ごうしておる。荷物は 親朝殿に任せて早う早う」

三左衛門は治親の手を取って引っ張るようなしてせかせる。

「 親朝殿、後は任せ申したぞ。さあ行き申そう。ぬう、そちが剣客殿か、そちも早く早く」

用意された駕籠に治親は乗り込み、三左衛門が先導するように、助九郎は警護の位置について急ぐように駕籠は動く。その立派な駕籠や、重役の直々の出迎え等、治親の言葉よりも大事に扱われているようだ。

福岡城は江戸時代初期、関ヶ原の戦いで功績のあった黒田長政が、加増・移封で与えられた筑前国那珂郡警固村福崎の丘陵地に築いた。この際に、黒田氏ゆかりの地である備前国福岡の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めたものである。

城郭構造は梯郭式平山城で、福岡藩黒田氏の居城となった。別名を「舞鶴城」「石城」ともいう。

上の橋を渡って上の橋御門から城内に入り、三の丸 重臣の屋敷が並ぶ、東御門から二の丸御殿へ、扇坂 御門を通って本丸表御門から本丸へ 城主は三の丸に御殿を立てそこに住んでいて本丸御殿は儀礼で使われるだけとなった。天守閣の場所には何もなく、天守閣は何らかの理由で取り壊されていた。噂では余りに立派過ぎるので、徳川家に遠慮して取り壊したといわれている。

本丸に着くと、治之だけでなく、奥方の亀姫までもが出迎えていた。

「待ちかねたぞ、早う、早う」

「殿、今着いたばかりですぞ、船旅故、まずは湯殿に案内してあげなさい」

「その後、夕餉を取りながら話を聞こうぞ」

「試合は昼飯を食って、胃が慣れてきたころ始めると致すゆえ、明日朝はゆっくりして下され」



(13)運命の決戦

昼食を軽く済ませ、お茶を飲みながらゆっくりしていると使いの者が

「そろそろ始めますのでご準備をお願いいたします」

「準備はできておるゆえ案内お願い申す」

使いの者が先導して、試合場に行く。

周りは宴幕が張り巡らされ、上座に椅子が四脚おかれており、そう広くはなく、中庭と言ったところか。助九郎が鉢巻をして、使いの者から木刀を受け取り、立ち位置に立つ。

相手の加藤田新作も準備万端のようで、

「初めても宜しいかな、」三左衛門は二人に声を掛け確認をした。

「では始め」

二人は木刀を抜いて前にかざし、切っ先をちょこんと合わせて試合を初めた。一度間隔を広く取り、その後二人ともじりじりと間を詰めていく。新作は右上段に構え、助九郎は上段に変えた。二人はゆっくりと右へ右へと回る。新作は右に飛び面打ち、木刀を交えた瞬間後ろに飛び右片手に持ち替え、柄を中心にぐるっと回した。

助九郎は新作が下がる瞬間を追って、小手から胴打ち、浅い所を踏み込んで袈裟懸けが見事に決まる。新作は木刀を立てて右に流して突こうとしたが、受けきれず木刀を落とし、左肩を押さえながら渦こもる。

「それまで」三左衛門が割って入るように試合を止める。

「両名とも見事」 治之は立ち上がっていた。二人は木刀を左手で持ち、初めの位置まで戻り腰を落とし礼をする。

「二人ともに見事であった。その方たちだからこの見事な立ち合いができたというものだ。であるから、試合の結果に遺恨を残さぬようにせよ。二人の試合に余は満足している」

「もったいなきお言葉、恐れ入ります」

「わしも二人の見事な試合に興奮して居る。のう治親どの」

「全くもって仰せの通り」

「わしも気持ちが良い。二人とも湯に入って汗を流したら、ゆっくり一休みをした後、二人の労をねぎらって、宴を開く故、三左衛門は広間に準備を頼む」


(14)戦いは勝って何ぼだ

「助九郎殿はすごいな、見事であった。治親殿、こんな凄腕どこで見つけてきた」

「福原の遠縁に当たるもので、たまたま福原を訪ねて来た。で、娘を嫁がせて、自分の書生にしたのを、試合をさせるとこれが強い」

「他所に取られぬよう、娘を嫁がせた」

「無職ゆえ、娘と一緒にして、福原一門として職を得ようとしただけであろう」

「私から見ても福原は切れ者だ、なあ 親朝」

「そうかもしれませぬ」

「元貞、お主はどう思う」

「さあ、父の考えることはわかりませぬ」

「独り者ならうちに欲しい所だが」

「新作殿、お宅の殿はあんなこと言って居るが」

「新作はやらぬぞ。続けて師範代じゃあ」

「もったいなきお言葉」

「二人は年も近い、仲良くやるが良かろう」

「新作殿、助九郎と切磋琢磨で、励んでくれれば」

「新作は黒田藩士であるうえ、わしの大事な友人でもある。だから絶対やらぬぞ、はっはっはっ」

「もうその辺で、楽しくやりましょう。いつもお土産に頂く外郎、おいしゅうございました。尾張や小田原の外郎と違いますが」奥方の亀姫が笑いながら言うと、その場が華やかになった。

「もっちりとした食感と優しい甘さが特徴の尾張や小田原の外郎は、米粉や小麦粉などに砂糖や水を練り混ぜ蒸した和菓子ですが、山口は原料に「わらび粉」を使用しているので、まるでわらび餅のようなプルプル食感!水羊羹のような、思わずツルっと食べてしまう口当たりの良さが特徴です。弾力がありプルンとしているので、楊枝でスッと切り分けられます。

山口でわらび粉が使われるようになった理由は諸説ありますが、当時はお米が大変貴重で、原料の米粉を庶民が手に入れるのは簡単ではありませんでした。上質なわらび粉が多く生産されていた山口では、代わりにわらび粉を使うようになったようです。」

「私もこの方が好きです」亀姫は楊枝にさして口に運んでいる。

「また来る時は持ってまいりましょう」

「それと大内塗のお人形とお椀」

「輪島塗とちょっと趣が違ってきれいでしょう。大内塗の特徴は、渋みのある深い朱色の地塗りの上に、色漆でハギやススキなどの秋の草を描き、金箔で大内氏の家紋である「大内菱おおうちびし」をあしらった優雅な絵模様です。また、大内塗は何度も漆塗りを繰り返すために、丈夫で退色しにくくなっています。

大内塗は椀や盆なども作られていますが、とりわけ「大内人形」昔京都から迎えた花嫁をなぐさめるために、京から多くの人形師を呼び寄せ屋敷を人形で飾ったという話にちなんで、大内人形が作られました。大内人形は、丸顔で切れ長の目におちょぼ口の男女一対の人形からなり、夫婦円満の象徴として親しまれています。」

「博多人形も負けていませんよ。博多人形の歴史は古く、黒田長政の筑前入国に伴って多くの職人が集められ、その職人たちから素焼き人形が生まれ、現在の伝統工芸の礎がつくられたといわれています。」

「あなた詳しいわね、お名前は」

「助九郎の義理の兄に当たる 福原元貞と申します。藩の財政を預かるゆえ、産業に詳しくなりました」

「何はともあれ、お隣り通し、仲良くやっていきましょう」


翌朝、風の具合が良いからとて、朝早くからドタバタ帰り支度をして船で帰途についた。

「何と忙しゅうございますな」

「船の旅は風任せで御座いますゆえ」

「奥方の土産にと、博多人形を頂きました」

「あのう」

「どうした、助九郎殿」

「実は今朝ほど 治之様からこれが届きました」と言って長い包みを差し出した。筒にをほどくと三尺余りの白箱があり、その中は刀が入っていた。

「治親様に報告すると、大騒ぎするに違いないうえ、黙って居よとおっしゃられて。それでどうしたものかと」

「わしは知らぬことになっておるのじゃろう、そのまま持って帰れ。それで名は何と申す」

「「刀銘 肥前国唐津住河内守源本行作」と箱書きがしてあります」

「 源本行といえば今、黒田藩一の刀鍛冶と噂の本行か」

「源本行といえばそれしかあるまい」

「作刀した本行とは、豊後国の出身で、初銘を「行春」、のちに「行平」と改め、紀新大夫行平の末裔と称しました。延宝年間に、当時砂鉄の産地であった肥前国唐津へ作刀の拠点を移します。後年、江戸の麻布鷹石に居住し本阿弥家より「本」の字を授かると、本行と改名。その頃に鎌倉相州伝の綱広の門下となり、鍛刀法を改修し、唐津に帰郷しました。「本」の字を崩して松葉のように銘を切ったことから、「松葉本行」と称されます。

本刀の姿は、身幅広く、反り浅く、踏張りつき、中鋒/中切先が延びています。地鉄は、小板目肌詰み、地沸細かに付き、色が冴えたもの。

刃文は、直刃調に焼き出し、焼幅広く湾れを主調に小湾れと互の目を交え、足が入り、匂深く、小沸が付くのが特徴です。匂口は明るく冴え、刃中に沸筋が入り、帽子は直ぐに丸く返っています。茎は生ぶ、先刃上の栗尻、鑢目は切り、目釘穴はひとつ。差表の棟寄りに長銘があります。

本刀は、本行の最高傑作であり地刃ともに明るく冴え、保存状態もすこぶる健全となっています。」

「お前なんでそんなに詳しいのだ」

「高くて買えませんが、見るのは好きなんです」

「父上に良い土産ができた」

「私は茜に博多人形を買ってきました」

「お前いつの間に」

「義兄殿は菊野殿に何か買われましたか」

「そんな暇なかったぞ」

「このまま船が順調なら、もう用意する暇ないですよ」

「どうなされた、凱旋だというのに」 椋梨 藤太が横から口を出してきた。

「忙しくて土産を買うのを忘れて」

「何ということか、お家の方々が待っていよう」

「それより想い人がござって」

「それはいかん。いかんぞ。では私のを回してやっても良いが、ただし、金はもらうぞ」

「何を買ってきたのだ」

「櫛と帯留め」

「櫛が三両、帯留めが五両だ」

「そんな高いのを買ってきたのか」

「帯留めは母上にだ。いつも苦労させているからな。櫛は妹にだ」

「分かった。では八両だな。」

「何を、大負けに負けて十両だ」

「八両で買ったと言ったろうが」

「嫌ならいいんだ、これを渡したら俺は土産も買ってこない身勝手者だ。悪者になってまでも、ともにいい顔をさせようというのに」

「分かった、十両だな」

「うまくやれよ」

と言っているうちに、三田尻に着き、三田尻御茶屋英雲荘に一晩泊まって明日悠々と凱旋しようというわけだ。

「この度は皆の者ご苦労であった。今宵は馳走を食し、明日山口へ帰ろう。それから殿より全員に褒美として十両、助九郎には二十両下される。有り難くいただくように」

「有難うございます」

「では祝宴じゃ。皆も楽しめ」

「おうい、助、助、近こう、近こう」

「恐れ多いことで」

「多いも少ないもない、此度の事は全て貴様の成果じゃ、明日からお前は我が家臣じゃ、武芸指南役をせよ」

「恐れ多いこと、有り難き幸せにございます」

「元貞と供に励めよ}

「一命を掛けて」

「 親朝、」

「何で御座りましょう」

「助のこと、よろしく頼むぞ」

「頑固者じゃて仲ような」

「何も分からぬ若輩者でありますが、よろしくお願いいたします」

「親朝」

「何で御座いましょう」

「わしの気に入りじゃ、いじめるなよ」

「何をおしゃりますやら」

「それとわしから褒美をやらねばの」

「いえ、先ほどいただきました」

「それとは別じゃ、これ、その脇差を持て、これをそちにやる」

「殿、もったいなきこと」

「殿がやろうというのを断るのも無礼であるぞ」

「まあ良い良い、わしからはそれだけじゃ、わっはっは」

助九郎は席に戻った。元貞が耳元で、

「こんな機嫌のよい殿を見たのは初めてじゃ。これも全て助九郎のおかげじゃあ、ありがたや、ありがたや」

殿の前でどんちゃん騒ぎというわけにはいかないが、褒美はもらったし、御馳走はあるし、美酒に美人のお酌に、顔が崩れっぱなしだ。

夜遅くまで続いたようだ。


(15)待ってくれる者がいる所

お土産をいっぱい持って、やっとの思いで福原の屋敷に着いた。

「おおい、帰ったぞ。誰かいないか」

「はあい、ただいま」竹造と雪が転がるように出てきた。その後を伝三が出てきた。

「お帰りなさいませ。お館様も奥にいらっしゃいます。

「竹造、雪、手桶に水を入れて持ってこい。お滝にタオルを持ってこさせろ」

バタバタしていると茜が出てきた。

「助様、お帰りなさい。ご無事で何より」と言いながら、茜は助九郎に抱きついた。

「えへん、えへん」元貞が咳払いをして

「では私は父上にご挨拶してまいろう。伝三と竹は荷物を持ってまいれ」

「茜はいつまで抱き着いている。助殿が困っておるぞ」

「何と意地悪なお兄様、お滝、お酒と食事の用意をして」後ろを向いて伝三に

「お風呂の用意をお願いね」と言いながら奥へと走って行った。

「父上、帰ってまいりました」

「で、首尾は」

「見事な試合ぶりで御座いました。私はすぐ後ろで見ておりましたゆえ、思わず膝を扇子で叩いておりました。最後は左肩からの袈裟懸けで決まりました」

「殿は」

「大喜びなのに黒田様の手前と、ぐっとこらえておりましたが」

「どうしたのだ」

「誰がどう見ても隠しきれておりませんでした」

「さもあろう」

「宴席まで時間がありまして」

「だからどうしたのだ」

「宍戸様から黙ってろと言われておりますが、殿は部屋に一人でおりまして、我々はその隣の部屋にいたのですが」

「お前の話はまどろっこしくて、いらいらする」

「ですから殿が」

「だから殿が」

「声を殺して泣いておられました」

「あの殿がか」

「はい」

「そうか、そうか」

「帰り三田尻で泊まった時皆にご褒美を頂きました」

「そうか御機嫌だったか」

「我々は十両いただきましたが」

「あのけちの殿が、十両もか」

「そこで驚いていては話が続きませぬ」

「まだ何かあるのか」

「「助殿、殿より拝領した物を」

「これで御座ります」

脇差しを袋から出して 広泰に差し出した。

「これは」

「殿より頂きました」

「もしかして島田広助が脇差か」

「そうでございます」

「何故殿が脇差を下されたか、茜、分かるか」

「手元にあったから」

「違う違う、これには重大な訳がある」

「訳とは」

「助殿、もう一つのやつを」

「今度は何だというのか」

「実はな、黒田の殿さまからこれを頂いたのだ」と言って大刀を袋より出して、

広泰にもったいぶりながら手渡した。

「肥前国唐津住河内守源本行でございます。聞く処によると、福岡一の刀鍛冶とのことです」

「わしが見てもすごい物だ」

本刀の姿は、身幅広く、反り浅く、踏張りつき、中鋒/中切先が延びています。地鉄は、小板目肌詰み、地沸細かに付き、色が冴えたもの。

刃文は、直刃調に焼き出し、焼幅広く湾れを主調に小湾れと互の目を交え、足が入り、匂深く、小沸が付くのが特徴です。匂口は明るく冴え、刃中に沸筋が入り、帽子は直ぐに丸く返っています。茎は生ぶ、先刃上の栗尻、鑢目は切り、目釘穴はひとつ。差表の棟寄りに長銘があります。

「いつまでも刀を見ていないで、ご飯にいたしましょう」

「伝三、床の間の刀掛けを持ってまいれ」

「では旦那様の刀はどうしましょう」

「床の間にそのまま置いておいてよい、早くせよ」

「わかりました」と言って刀掛けを持ってきた。

「こうして二本を掛けると」自分の横に置いて

「なんとみごとな」

「刀は食べられませんよ」茜は笑いながら、助九郎の世話を焼きながらうれしそうにしている。

「助様、この二人に付き合っていると長くなりますから、食事を済ませてらお風呂にしましょう」

「ああ、分かった」

「着替えは用意してありますから」

「お背中流しましょう」

「いいよ、一人で」

「旦那様の背中流すのは妻の役目ですから」

「一緒に入るならいいけど」

「分かりました」

「冗談だ、冗談」

「いえ、一緒に入りましょう。お嫌ですか」

「そんなことはない」

「茜はもう、旦那様を尻に敷いているのか」

「何言っているんですか、お兄様はあっち行ってください」

背中を流していると、胸が背中に当たるのが分かる。体を洗い終えると湯船に入った。茜はざっと洗って、助九郎の入っている湯船に、一緒に入った。茜は背を向けるように入ったが、肌と肌が触れ合った。

「先に出るよ」と言って茜を見ないように湯船を出て風呂を後にした。


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