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②-2

「そのシャツもパンツももう限界ダヨ。それに一枚で生活するのは現実的ではないデショ」


 ぐうの音も出ない。確かにこの服は六年前に買って、何十回、何百回と着ているシャツだ。袖口は擦れてボロボロだ。ジーパンだって変わらない。ダメージジーンズが流行って、それっぽく着てはいるが、膝や裾に絵の具がこびりついている。


「いや、だけどさ……」

「ハイハイ。僕は雇い主だヨ。従ってよね。今日の予定は服を買うデショ? 髪を切るデショ? スマホの機種変デショ?」


 ウィリアムは指折り数える。それはすべて美夜の生活を整えるための予定だった。


「十二単のオンナはどうするんだよ?」

「それはあと。何か理由があってこの街に囚われてるんだから、一日や二日放っておいてもいなくならないヨ」

「金もないし。服も髪もスマホも問題なく使えてる」


 美夜にはもう貯金は残っていなかった。


 素直に言えば、昨日終電に乗り損ねたせいで家に帰るための金もない。


「ダメダヨ。猫を拾ったら、お世話するデショ」

「俺は猫じゃない」

「似たよーなものだよ。駅前に落ちてただろ?」

「おいっ」

「ハイハイ。怒らない怒らない。ミヤは短気だからネ。ここで過ごすために必要だって思って付き合ってヨ」

「意味がわからん」

「こういう場所だから、みんな身なりに気を遣うんだ。郷に入っては郷に従えって言うデショ?」

「なるほど……」


 タワーマンションにも秩序がある。それを乱すのは得策ではないということなのだろう。


「まぁ、ウチは専用エレベーターだから他の人と会うことはないけど、必要経費ってことで。ネ? ぜーんぶ僕の驕りだからダイジョウブ、ダイジョウブ」


 美夜は仕方なく頷いた。好きで古い服を着ているわけでもないし、好きで髪を伸ばしているわけでもない。


 すべての労力を絵に注いできただけの結果だ。ただで用意してくれるのであれば、素直に受け入れるべきなのだろう。


 それを買うこともできないほどだという事実が、美夜の自尊心を傷つける。


 絵はこんなにも美夜を蝕んだのに、何も残してはくれなかった。


「とりあえず髪からダヨ。コンシェルジュに頼んで予約してもらおう」


 ウィリアムは満面の笑みで言うと、スマートフォンでどこかに連絡をするのだった。


 コンシェルジュという聞き慣れない単語に美夜は顔を歪める。


 やはり、この男の手を取ったことは間違いだったのではないだろうか、と。



 ◇◆◇



 こんなにも疲れたことが今まであっただろうか。


 美容室に監禁され、よくわからない単語が飛び交う場所で愛想笑いを浮かべ続けて一時間半。他人に頭を洗われるだけでも不快だというのに、なぜかヘッドマッサージまでされた。


「結構凝ってますね~」などと言われた場合、どう返事をするのが最適なのだろうか。美夜はわからず「はあ」と曖昧な返事で終わらせた。


 さっぱりと短く切られたおかげか、頭が軽く感じる。最後に「どうですか?」と聞かれ、やはり同じように「はあ」と意味のわからない返事をしてしまった。


 ダメだと言っても長くはならないし、何をどう返事すればいいのだろうか。


 服はウィリアムが行きつけにしている店を何軒か回った。


 いや、正確には何軒も連れ回されたと言うのが正解か。どの店も重厚な扉の前にドアマンがいるような店だった。


 最初に入った店など、黒のTシャツとジーパンで入るのが申し訳なくなるほどだったのだ。


 嫌な顔一つせずに対応してくれたのはウィリアムのおかげか、店員の教育が行き届いているためかはわからない。多分、今後二度と利用しないだろうから、知る必要もないことだ。


「いやぁ~楽しかったヨ。やっぱり自分の買い物より楽しいネ」

「俺は疲れただけだがな」


 値札のついていない服など見たことがなかった。金額など考える必要がないということだろうか。


 ウィリアムがクレジットカードで支払ったため、美夜は最後まで値段を知ることなく終わった。知っていたらおそろしくて着ることができなかったかもしれない。


「あと欲しいモノはナイ?」

「まだ金を使う気か?」


 まるでシンデレラにでもなった気分だ。不釣り合いな新品のブランド物の服を着て、頭の天辺からつま先まで整えらた。隣にはどこに行っても注目を浴びるような整った顔の西洋人。


 美夜が女だったら少しは浮かれただろうか。腕を絡め自慢することもあったかもしれない。


 想像して、顔を歪めた。


「僕の財布なら心配ご無用サ。ほら、今なら好きなだけ買ってあげるヨ」

「ないな」

「うーん、じゃあ、画材を買おう!」

「いらないだろ」

「必要だヨ。ミヤが突然『絵が描きたいナ』って思うかもしれないだろ?」

「馬鹿言うな。もう描く気はないって言ってるだろ」

「ハイハイ。それは今のミヤの気持ちで明日はわからいヨ。さ、画材はどこに行けば買えるの?」

「だからいらないって」


 すべてを揃えるのには結構な金がかかる。絵を描くというのは想像以上に金がかかるのだ。描く予定もない物に金を払おうとする気持ちが理解できない。


 美夜が答えないからか、ウィリアムはスマートフォン取り出して検索を始めた。


「あったあった。あっちだ。ここから近いネ」


 ウィリアムは新宿三丁目の方向をまっすぐに指差す。


 地図を見ながら歩き出した。


 美夜が東京に出て来て、何度も通っている画材屋だ。美大にも画材を売っている売店はあったのだが、見知った顔があるのが落ち着かなくて、新宿の店を利用することが多かった。


 新宿の店舗は大学の学生のみならず有象無象が集まる。彼らは誰が何を買おうと気にしないから、美夜にとっては居心地がよかった。


 もう、行くことはないと思っていたのに、昨日の今日で来ることになるとは。


「俺はおまえの買い物に付き合うだけだからな」

「ハイハイ。わかってるよ。僕が欲しいだけダヨ。ミヤのじゃない」


 百貨店を横切り、ひた歩く。どこを歩いていてもウィリアムは目立った。道行く人が呆けた顔で彼を見上げる。


 新宿という街で視線を一心に浴びることがあるという事実を、今初めて知った。当の本人はどこ吹く風。なんなら、視線など感じていないとでもいうように、美夜に話しかける。


 そのたびに大勢の視線が美夜に移動するから困ったものだ。


 画材屋まで歩いたたった十分の時間でどっと疲れが出た。


「ミヤは体力もナイね! ん~。次はタクシーを使おう」

「ぜったい体力の問題じゃない」


 視線で身体に穴が空いたら、ウィリアムに治療費と慰謝料を請求しよう。


「ワオ! 画材屋さんって大きいんだねぇ。小さくて暗いのを想像していたヨ」


 ウィリアムは人目もはばからず、大きな声を上げて見上げる。ビルを見上げる奴が新宿にもいるんだなと、美夜はなんとなく思った。


「油絵の道具は三階だって」

「ああ、そうだな」

「ほら、早く行こう!」


 ウィリアムは美夜の手を引いてまっすぐエスカレーターを使って三階に上がった。先を行くウィリアムは子どものようにはしゃいでいる。


「すごいねぇ。魔女のお部屋みたいだネ」

「さあな。魔女には会ったことがないし、部屋も知らん」

「なら、今度紹介してあげよう。ヘンテコな物ばっか集めてるヘンテコな知り合いがいるんだ」

「遠慮する」


 ヘンテコなのはウィリアムだけで充分だ。


 美夜はまだ何か言っている彼の言葉を右から左に聞き流し、前だけを見つめた。


 このビル丸々一棟が画材屋になっていて、階ごとに扱っている物が違った。一階は文具、二階はデザイン用品、そして三階に画材が置いてある。


 美夜はこの三階に辿り着いた瞬間が好きだ。


 油絵の具独特の香りに迎えられた途端、家に帰ってきたような安心感に包み込まれる。美夜は肺一杯に空気を吸い込んだ。


「ミヤと同じ匂いがする」


 ウィリアムの言葉にハッとさせられて、美夜は息を止める。もう、画家を名乗るのは辞めると決めたはずだ。


「……馬鹿言え」

「会った時は同じ匂いがしたよ」


 ウィリアムが屈んで美夜の首元に鼻を近づける。


「今はシャンプーの匂いしかしないネ」

「だろうな」


 来ていた服を着替え、頭までしっかり洗われたのだ。画家だった美夜はもういない。全部全部洗い流された。


「油絵を描くには何が必要なの?」

「さあな。忘れた。俺は外で待ってるから、好きなだけ買い物しろよ」

「つれないなぁ~」


 ウィリアムが叫ぶ。静かな店内に彼の大きな声が響いた。


 美夜はその声を背に受けながらエレベーターを降りる。一気に外まで出て入り口の側でしゃがみ込んだ。


 妙な息苦しさを感じ、美夜はゆっくりと息を吐き出す。


 何度も通った画材屋に飲み込まれてしまいそうな気分だ。油絵の具の匂いがこびりついて取れない。早くシャワーを浴びて全身を洗いたかった。


 美夜はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、SNSを開く。検索ワードに『十二単』、『歌舞伎町』と入れた。


 今までの人生を振り返らなくてもいいように、何か別のことを考えたかったのだ。


『ヤバイの見たかも! 歌舞伎町で噂の十二単見かけたのに写真撮ろうとしたら消えてた!』

『歌舞伎町でコスイベでもやってんの? 十二単の人いたんだけどーw』

『歌舞伎町の十二単見た気がするけど、どっか行っちゃったー』


 目撃情報は多いようだ。けれど、誰も写真には収めることができず、気づくと消えてしまうのだという。


 歌舞伎町の新しい怪談だと面白がっている人もいる。


 しかし、どの情報も曖昧な部分が多い。見た、と言いながら特徴は十二単だけ。どんな女でどんな顔をしているか、誰も言及しない。


 十二単の目撃情報はひと月ほど前からあったようだ。美夜が個展のため、必死に絵を描いていた時期である。


 美夜は頭を横に振った。


 すぐに絵のことが脳裏を過る。もっと、別のことを。


 少年が画材のたくさん入った袋を抱えて横切った。高校生、いや大学一年生だろうか。キラキラした横顔が眩しい。まっすぐ前を向いて歩いている姿が妙に羨ましかった。


 美夜が美大に入ったころ、頼れるのは両親と祖父が残した遺産だけだったのを覚えている。新しい物を買いそろえていくと、残高は簡単に減っていく。


 美夜はフリマサイトを利用して必要な物を集めた。訳ありのイーゼル。高校の授業で買った油絵の道具一式。ほとんど残っていない絵の具。


 欲しいと言えば買ってくれる親が側にいる同級生を羨ましく思ったこともある。しかし、どんなに望んでもこの世界にはもう彼らはいないのだから仕方ない。


 そんな知恵を絞って集めたただ同然の道具だったが愛着はあった。壊れては直し、使い続けたからだろうか。


 美夜は頭を横に振った。すぐに絵のことばかり考えてしまう。


 違うこと。違うこと。


 美夜は呪いのように頭の中で唱える。右手の中指の第一関節と第二関節のあいだにできたペンだこを親指で確かめながら、道路の向こう側を歩くカップルを眺めた。


 街行く人、どれが人間でどれがバケモノで、どれが幽霊なのだろうか。


『僕たちはうつり世の物に姿を映すことができない』


 ウィリアムの言葉を思い出しスマホのカメラを向けると、二分の三程度減った。


「こりゃ便利だ……」


 影が美夜を覆った。見上げると、満足気に笑うウィリアムが立っていた。


「ミヤ、お待たせ。何してるの?」

「いや、別に。買い物は終わったのか?」

「うん。満足だヨ」


 ウィリアムは手ぶらだった。結局、買い物はしていないのかもしれない。実のところ少しホッとしている。今は画材を見たい気分ではなかったから。


 美夜はゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ疲れただろ? 牛丼買って帰ろう!」

「また牛丼かよ……」

「ミヤの大好物デショ?」

「あのな……。俺は一度も好物なんて言ってない」


 テイクアウトにするにせよ、色々とあるはずだ。ここは泣く子も黙る新宿なのだから。


「なら他のにするかい? テイクアウトで調べたらピザとかハンバーガーとか色々あるみたいだヨ」


 ピザにハンバーガー。どれもずっしりと重い。美夜は首を横に振った。


「……いや、牛丼でいい」


 結局、美夜はタワーマンションには不釣り合いな牛丼の袋を下げて、戻って来た。


 一日中歩いたせいか、足は棒のようだ。


 高そうなソファーに沈んで、安堵のため息を吐く。ちょうど太陽が美夜と同じようにビルの向こう側に沈んでいっている。


 当分のあいだ、買い物は遠慮したい。こんなに疲れたのは久しぶりだ。


「やっぱりミヤは体力がナイね」

「あんたはなんでピンピンしてるんだ?」

「毎日運動するとイイヨ。三階にジムがあるから」

「うげ……。そういうのは遠慮しとく」


 なぜ、人間は高い金を払ってわざわざ疲れに行くのだろうか。美夜はこれ以上聞きたくないとばかりにソファーで丸まった。


「今は若いからいいけど、年を取ったら困るヨ」

「年取って困ってから考える」

「年長者の言葉は聞いておいたほうがイイヨ」

「年長者って、何十歳も違うわけじゃあるまいし……」


 美夜よりは年上であることは間違いないが、三十歳を超えているようには見えない。いくつか年が上なだけで『年長者』と言われてもしっくりこなかった。


 美夜はソファーの上を転がりながら、窓の外を見下ろした。リビングルームに面している窓は床から天井まで一枚の窓ガラスになっていて、足元まで見える。


 このまま落ちてしまいそうだ。


 変わった形のビルが太陽の光に照らされてオレンジ色に輝く。


 誰も見上げないビルも無意味ではなかったのだ。見上げるばかりがビルのあり方ではないのだろう。


 空の赤がビルに溶け出して、紺の絵の具が占領していく。


 あの赤はどこに消えたのか。美夜はぐるりと部屋を見回して、答えに辿り着いた。


「どうしたの?」

「いや、太陽()が沈むと赤くなるんだな」


 深紅に輝く二つの瞳。ウィリアムの目は涼しげな空の青から、禍々しい血の色へと変化していた。


 ウィリアムが口角を上げ、歯を見せて笑う。鋭い牙がチラリと顔を覗かせる。


 彼の言っていたことは本当だった。昼は人間で、夜は吸血鬼なのだ。


「ああ、そうだね。夜はあやかしの領域だからネ」

「多様化の時代だな」

「令和だからネ」


 気になることは多々あるが、それをすべて確認していく必要はない。どうせ、十二単のオンナが見つかれば、終わる関係だ。


「それで、今後はどう動けばいい? 探すんだろ? 十二単さんをさ」


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