⑧-2
ショウの頭にシャンパンを降り注ぐ。シュワシュワと音を立てて流れ落ちていった。
「ほら、どうだ? 百万のシャンパンはうまいか?」
「ひ、姫……? ど、どうしちゃったの?」
ショウはまだ状況が理解できていないのか、狼狽しながらもヘラヘラとした笑みを浮かべ美夜を見上げた。
頬をひくつかせ、両の手がわなわなと震えているところを見ると、相当頭にきているのだろう。
セットした髪はシャンパンでしおれ、ぐしゃぐしゃになっている。
「うまいってさ。せっくだからユキもショウくんに飲ませてあげなよ」
美夜は百万のボトルをユキに手渡す。
「で、でも……」
「せっかく開けたし勿体ないだろ? それとも、わたしがやろうか?」
美夜はむしゃくしゃしていた。こんな女装を二回もさせられて、楽しくもないホストクラブで歯の浮くようなセリフを聞かされるのだ。
シャンパンをぶっかけたくらいでは、美夜の気持ちは収まらない。
「ううん、大丈夫」
ユキはシャンパンを震えた手で握ると、ショウの頭上で逆さまにした。ドボドボと勢いよくショウの顔に降り注ぐシャンパン。
ヘルプの男は呆けてただその様子を見守り、他の客やホストも何かに取憑かれたように呆然とその様子を見守った。
「ユキ……。おまえ、どういうつもりだよ」
ショウが地響きのような低い声で尋ねる。美夜には強く言えなくても、ユキに対しては強く出られるようだ。
「こんなことして許されると思ってるのかっ!?」
今にも殴りかかりそうなショウを美夜が止めに入る前に、パンッと小気味いい音が店中に響いた。――ユキがショウの頬を叩いたのだ。
「ワオ!」
ウィリアムの弾む声が、美夜の耳にだけ達する。
「馬鹿にしないで! わたしだってショウくんのホストの世界でトップになるって夢、応援したかった」
ユキの声はわずかに震えていた。シャンパンのボトルを持つ手が震えている。
「だけど、ホストになってから、ショウくんおかしいよ。金、金、金って……。お金のない子に売春させて、金巻き上げてくなんて……」
彼女は何度も唇を噛みながら、自分の思いを口にする。
「もうショウくんは……わたしの好きだったヒーローはもういないみたい。サヨナラ」
彼女の頬に一筋の涙が流れた。綺麗な涙だった。
ショウは何も言えず、ただ呆然とユキを見上げる。
ユキは自分の鞄をひっつかむと、出口に向かって駆け出した。
「さて、俺たちも行くか」
「そうだネ!」
ミヤは鞄の中から現金の束を三つ取り出すと、テーブルの上に叩きつける。「暴れるときは現金に限るヨ」というウィリアムのアドバイスが効いた。
カードで支払っているときは感じなかった現金の重み。
普通の人間が一晩で使う額ではない。
「これで足りるか?」
黒服の男に尋ねると、頭を何度も縦に振る。
美夜は最後にショウの胸ぐらを掴んだ。
「いいか? 覚えておけ。人の生き血を吸って生きていいのは、吸血鬼だけなんだよ」
◇◆◇
「はあ~。すっきりしたな」
美夜は大きく伸びをした。花道通りを三人で並んで歩く。気分は強大な敵を倒したあとのヒーローだった。
「ありがとうございました。でも、あんなにお金を使わせてしまって……。あのお金はいつか絶対返しますので」
「ユキちゃんは真面目だネ。お金なんて掃いて捨てるほどあるのに」
百万のシャンパンが二本。前回のシャンパンタワーに比べたら安いものだ。ウィリアムからしてみれば、大した金額ではないのだろう。
「ウィリアムが気にすんなってっさ」
「ありがとうございます。本当に美夜さんのおかげで言いたいこと全部言えました」
ユキは少し恥ずかしそうにはにかんだ。吹っ切れた笑顔が眩しい。
きっと、もう彼女はヒーローがいなくても生きていけるだろう。
「あんた、かっこよかったよ」
「美夜さんも。関係ないのに、こんなことまで付き合ってくれて」
「勝手にモデルにした詫びってことで」
「ありがとうございます。あの絵、どこかで見るの楽しみにしてます」
「無名の画家の絵なんてそう出回らないと思うけどな」
美夜という画家の絵は、一枚も売れたことがない。自信作ではあったが、それとこれとは話が別だ。
「そんなことないです。絶対にあの絵は評価されます。だって、わたしがモデルなんですよ?」
「よく言うよ。クヨクヨしてたくせに」
美夜とユキは顔を見せ合い笑った。
「じゃあ、わたしはこれで失礼します」
「ああ。元気で」
「画家の美夜さん。わたし、ずっと覚えておきます」
「そりゃどうも」
ユキは腰を九十度に曲げ、深く頭を下げた。そして、夜の街を去って行く。
彼女は振り返りながら何度も、何度も美夜に手を振った。
美夜は彼女のことを何も知らない。本名も、住んでいる場所も。だから、この先会うことはないだろう。
けれど、心は満たされていた。
「ミヤ、かっこよかったヨ」
「……馬鹿言え」
「あのシャンパンぶわってかけたところなんか、ドラマみたいでスカッとした」
「全部、おまえの金だけどな」
美夜だけだったら、殴りに乗り込むくらいしかできなかっただろう。その前に図体のでかい黒服に追い出され、何もできずに終わっていたはずだ。
想像して、美夜は顔を引きつらせる。滑稽だが、あり得ない話ではない。
そして、首を傾げた。
シャンパンをかけても、誰もあいだに入ってこなかった。普通ならすぐに誰かが止めに入ってもおかしくない状況だったのだ。
「なあ……。もしかしてさ、おまえなんかやった?」
「さあ? ナンノコトカナー?」
ワインのように赤い瞳がわずかに揺れる。
忘れてはいけない。半分だけだが、ウィリアムは吸血鬼。
ほんの少しの悪戯はお手の物なのだろう。
居るだけで役に立たないと常々思っていたが、実は縁の下の力持ちだったらしい。
「まあ、痛いのは嫌だから助かった」
「珍しいネ! ミヤが僕に礼を言うなんてサ!」
「いつもウィリアムが余計なことを言うからだろ」
「わあ~。傷ついたヨ。僕の心にぽっかり穴が空くヨ」
「ハイハイ。ちょっとくらい穴が空いても平気だろ」
ウィリアムの泣き真似はいつものことだ。相手にすると図に乗って面倒なことを頼まれる。だから、甘やかさないと決めている。
「そうだ、ミヤに聞きたいことがあったんだった!」
「ん? なんだよ」
「絵画にはタイトルが必要だろ? あの絵画のタイトルは?」
「そうだな……」
美夜は空を見上げる。
星の輝きが隠れる闇の中。眠らぬ夜の街に現れた心優しいあやかし。
「タイトルは……『夜の新宿、十二単』」
美夜が見た、嘘偽りない夜の街だ。




