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夜の新宿、十二単  作者: たちばな立花


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19/25

⑥-3

 くるぶしまでのしわくちゃのスカートを履いて、寄れたシャツを着た女。彼女は雑居ビルの入り口に立ったまま硬直していた。


 長い髪を後ろで束ねてはいるが、伸びたままの前髪は顔を隠している。


 ウィリアムは夕日色に染まった目を凝らし、女を睨むように見た。


「見たことある子だ。えっと……フユちゃん?」

「ユキ、な」

「オゥ! ユキね。それそれ。でも、あそこは『ヴィーナス』じゃないデショ? 迷子?」

「……そうだな。あそこは多分」


 ショッピングピンクの派手な看板。――風俗の店だろう。


 美夜はふと、『ヴィーナス』のアユミが言っていたことを思い出す。


『レイコちゃん、風俗のほうに行っちゃったみたいだよぉ』


 昨夜見た、ショウとレイコの欲にまみれた後ろ姿を思い出す。心臓がギュッと締めつけられた。


 ユキの表情は前髪に隠れていて、まったく見えない。しかし、スカートを握りしめる手が震えている。


 不安、恐怖、絶望。負の感情が彼女の全身に渦巻いているようだ。息苦しい。


 美夜は側まで駆け寄ると、彼女の肩に手を置いた。


「えっ!? 誰っ? み、美夜……さん?」

「ここ、『ヴィーナス』じゃないよ」

「ヴィ、『ヴィーナス』は辞めるつもりです……」

「それでここ?」


 美夜は看板を見上げる。


 ユキは顔を真っ赤にさせて、俯いた。


「仕方ないんです……。私、たくさん稼がないと……」


 ユキの目から涙があふれ、美夜は狼狽した。


 ボロボロと瞳からは涙がこぼれ、頬を濡らす。


「だって……。だって……私」

「お、おいっ! 泣くな……!」


 美夜の静止も虚しく、彼女はアスファルトに座り込み大声で泣いた。


 風俗店の前で泣きじゃくる女と、狼狽える男。どう見ても普通じゃない。最悪、警察を呼ばれかねない状況だ。


「ミヤ、女の子泣かせちゃだめだヨ!」

「うるさい! あ、違う! 今のはあんたに言ったわけじゃなくて、ウィリアムにだな……。ああ、もう面倒臭い! 来い!」


 美夜は乱暴にユキの腕を取ると、無心で歩いた。一番街のアーチを抜け、近くのカフェへと入る。


 一番奥の、人目のつかない席にユキを座らせると、美夜はコーヒーを買いに立つ。ホットコーヒーを二杯持って帰ってきても、ユキは泣いたままだった。


 美夜とユキの周りには、痴話喧嘩を見守る雰囲気ができあがっている。ただのキャバ嬢とその客なのだが、観客というのは本当の事情などどうでもいいのだ。明日、職場で話すエンターテイメントを求めているのだろう。


「ミヤ、ほら! 泣いてる女の子は慰めないと!」

「どうやって慰めるっていうんだよ……。あ、悪い。こっちの話」


 美夜は頭を乱暴に掻いて、ポケットに押し込んであったハンカチを差し出す。よれよれだったが、ないよりはマシだろう。


「使って。コーヒー買ったけど、飲める?」

「ありがとうございます……。わたし……」


 こういう時、どういう言葉を投げかけるべきなのだろうか。美夜には泣いている女性を前にした経験がない。


(「元気出して」? いや、何をだって話だよな)


 心の中で自問自答を繰り広げたが、経験も知識も乏しい美夜がいくら考えても意味はなかった。


 気まずい沈黙が流れた。


「あの……。すみません。ご迷惑おかけしてしまって……」

「いや、別に。今日は帰る予定だったから」

「恥ずかしいところお見せしてしまって……」


 ユキは前髪の奥で恥ずかしそうに目を伏せた。


 ここまで連れてきて、「それじゃ」と放置して帰れるほど美夜はいい加減な性格ではない。だからと言って、「話しを聞くよ」と踏み込むほどお人好しでもなかった。


 しかし、隣に座る男は違ったようだ。


「ほら! ミヤ、こういうときは『何があったの?』って聞くんだヨ。ドラマでよくある展開だヨ」

「……うるさい」


 つい、口が滑った。ユキの肩が跳ねる。


「いや、悪い。今のは別の話。……俺でよかったら、話しくらい聞くけど?」


 ユキは驚いたように目を見開く。そして、背中を丸めて俯いた。


 再び起きた沈黙に美夜は息苦しさを覚える。息のできない沼底に落ちてしまったような不快感だ。


「余計なお世話だったな。悪い」

「い、いえ……。よ、よかったら聞いてください……」


 ユキはか細い声で言った。長い前髪が冷房でわずかに揺れる。


「わたし、本当は接客とか、そういうのすごく苦手で……」

「あー。そうだろうな」


 見ていればわかる。ユキはどちらかといえば、こちら側の人間だ。他人との交流が得意ではなく、人一倍繊細な類いの人間だと思う。


 美夜の返事を聞いて、ユキは更に背中を丸めた。


「こういうの聞いていいのかわからないけどさ、なんでこの仕事してるんだ? 俺には無理しているように見える」

「……ショウくんが……。あ、ショウくんっていうのは幼馴染みなんです。歌舞伎町でホストしてて……」


 美夜はユキの言葉に相槌を打つ。このあたりの情報はアユミから聞いたことがあった。


「ショウくんの応援がしたくて、お小遣いで彼のお店に行っていたんですけど、ショウくんの応援をするには、それだけじゃ全然足りないみたいで……」

「それで、キャバクラに?」

「はい。ショウくんのお客さんにレイコさんって方がいるんですけど、その人に『ヴィーナス』を紹介してもらって始めたんです」


 ユキは淡々と今までのことを語った。ショウとの思い出をなぞるような語り口に、美夜とウィリアムはただただ相槌を打つ。


「頑張ってお金を貯めてはいるんですけど、幹部になるにはまだまだみたいで」

「そんなのショウって奴の実力の問題だろ?」

「それでも、応援したいんです! ショウくんはわたしにとって、ヒーローだから……」

「ヒーロー?」


 あんな欲にまみれたヒーローがこの世にいるだろうか。


「小学生のときの話なんですけど……。わたし、昔から人見知りが激しくて、学校でいじめられていたんです。だけど、ショウくんだけはわたしの味方でいてくれて」


 ユキはバッグの中からスマートフォンと数通の手紙を取り出す。手紙はもう何度も読んでいるのか、全部ヨレヨレだった。


「わたしが不登校だったときにショウくんがくれた手紙です。学校でどんなことがあったとか、色々書いてくれて……」

「へぇ。昔はいい奴だったんだな」

「はい。ショウくんのおかげで友達もできたんです。だから、今度はわたしが恩返ししたくて……」

「それで、風俗まで?」


 美夜の言葉にユキが俯く。


 つい。いらだって冷たく言ってしまった。子どものころの恩返しは身体を売ってまですることのように思えなかったからだ。


「俺は止める義理もないし、あんたの好きにしたらいいけど。そのショウって男にそれだけの価値があるとは思えないよ」


 ユキの身体はユキのものだ。


 どう扱うかは本人が決めることで、美夜やショウにはそれを指図する権利はない。ショウが「風俗をやってもっと稼いでこい」という権利もないし、美夜がそれを止める資格もなかった。


 決めるのは結局ユキだ。


「自分の身体を犠牲にして得た金を使っても、『ありがとう』って言ってくれるのはその時だけだと思うけどね」


 愛が欲しくて必死になっている人を見るのは苦手だ。どうしても昔のことを思い出してしまう。


 保護者の愛が欲しくて、美夜はいつも必死だった。彼らに気に入られるためなら、自我を殺し、彼らの都合のいい子どもになったのだ。


 それでも得られたのは一時的に与えられる『いい子ね』という褒め言葉だけだった。


「……わかってます。そんなの。でもっ!」


 ユキのテーブルを叩く音が、カフェ中に響いた。二つのコーヒーカップが飛び上がり、テーブルの上に置いてあった手紙をぬらす。


「でも……仕方ないじゃないですか。ショウくんしか、わたしのこと気にかけてくれる人なんていないんだもんっ……」


 彼女の目からは涙が溢れた。何度目の涙だろうか。もう、貸したハンカチはびしょびしょで、いちど絞ったほうがいいくらいだった。


 美夜はそれ以上何かを言うつもりはなかった。


 これ以上は大きなお世話になってしまう。


 静まり返った店内は、控え目に流行りのK-POPが流れる。陽気なアップテンポの曲は今の雰囲気にまったく合っていないのが救いだ。


 曲と曲のあいだにユキのスマートフォンが震えた。


 画面に出て来た名前を見て、彼女は慌てて電話に出る。


「もしもし、ショウくん? どうしたの? うん、うん。そっか」


 美夜はユキの返事を聞きながら、冷房で冷めたコーヒーを啜った。


「ミヤ、落ち込む必要ないヨ。ミヤは頑張ったって」

「そうだな……」


 わかっている。赤の他人からの忠告を聞ける余裕があるなら、最初から夜の街には飛び込んでいない。


「うん、うん。大丈夫だよ。今、歌舞伎町。……うん、手持ちあんまりないけど。うん、すぐ行くね」


 ユキは何度も頷いたあと、電話を切った。テーブルに散らばる手紙を握り絞めると、深々と頭を下げる。


「あの……。話を聞いてくださってありがとうございました」

「別に。聞いただけだから」

「コーヒーもご馳走さまでした。ショウくんに呼ばれたので、わたし、行きますね」

「ああ」


 ユキは立ち上がると、もう一度深々と頭を下げた。


「俺たちも帰るか」

「そうだネ」


 美夜とウィリアムはユキの後を追うようにカフェを出る。一番街のアーチ。夜になっても賑わっていることには変わらない。


「ミヤッ! あれ……!」


 ウィリアムがアーチを潜るユキを指して叫んだ。――十二単のオンナだ。


 遅い春を思わせる梅重(うめがさね)


 歩くたびにひらひらと揺れる裳。


 長い髪をたなびかせ、十二単のオンナはユキに寄り添う。


 どこか、寂しそうに。


「ユキに憑いてたんだな……。十二単」

「そうだネ。きっと、あの手紙だヨ」

「へぇ。そういうのもわかるのか?」

文車妖妃(ふぐるまようひ)。手紙っていうのは、昔から念が溜まりやすいからネ」


 十二単のオンナはまっすぐ前を向いて歩くユキを守るように、彼女の周りを揺らめく。


 歌舞伎町のネオンにも負けない艶やかな装いに、美夜はただ見とれていた。


 憂いを帯びた横顔が、ユキに何かを訴える。


 どうしてこんなにも、もの悲しく感じるのだろうか。胸が締めつけられるような苦しさを感じるのだろうか。


 美夜は二人の姿が消えるまで、ずっと見つめ続けた。


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