⑥-2
美夜は意味がわからず、ぽかんと口を空けた。まるでナンパみたいな単語だ。
ユキは長い前髪の奥で、目を泳がせる。
「す、すみません……! なんか、どこかで見たような気がして。でも、よく考えたら、前にお店に来たときの記憶と混同しているのかもしれませんっ……」
ユキは腰を折り、額が膝に付きそうになるくらい深く頭を下げた。
「大丈夫、大丈夫」
美夜を見かける可能性のある場所は極めて少ない。ほとんどの時間をウィリアムのタワーマンションで過ごしているのだ。
(歌舞伎町っていってもここと、ホストクラブにしか行ったことないしなー……って、待てよ?)
美夜は持っていたグラスを置く。そして、ユキの顔を覗き見た。
「げ」
「……どうしましたか?」
「い、いや。なんでもない」
(ヤバイ。こいつ、同じ日にホストクラブに行ってる)
美夜はぎこちなく笑うと、自身の前髪をかき集めた。
『ポラリス』で見た、ヘルプもつけず一人で飲んでいた女を思い出す。長い前髪で顔が見えないところなどそっくりだ。
「あの……。アユミさんから聞いたんですけど、美夜さんがわたしに何か聞きたいことがあるって……」
ユキは自信がなさそうに、オドオドとしていた。緊張しているのか、スカートを指でいじる。
アユミや他のキャストに比べると、荒が目立つ。まだ二度しか来ていない美夜でも感じるのだ、他の客も同じ店のキャストも感じていることだろう。
服装も雰囲気もそうだが、存在そのものが浮いていた。
キャバクラという場所があまりにも似つかわしくなくて、同情心すら湧いてくる。
「わ、わたしの勘違いだったらいいんです」
「いや。ちょっと俺、歌舞伎町の都市伝説を調べていてさ」
「都市伝説ですか?」
「そう。最近、十二単のオンナが出るってやつ。……知ってる?」
ユキは厚い前髪の奥で、目を瞬かせた。そして、小さく頷いた。
「噂だけは。でも、見たことは一度もないです……」
「そうか。残念だな」
「お、お力になれなくてすみません……」
「いや、俺こそ変なこと聞いて悪い」
沈黙が支配する。周囲の笑い声が妙に大きく聞こえた。
会話下手が二人並べば、こうなることは明白だ。ウィリアムに助けを求めても意味はない。彼は今、暇を持て余して店中を物色しているところだ。
誰にも見えないことをいいことに、強面の男の髭をいじりくしゃみを誘発させている。
(暇だからってやり過ぎだろ)
美夜は後で文句を言ってやろうと心に決めた。
アユミが来るまでのあいだ、どれほど沈黙が流れただろうか。コミュ障というのは、喋るのも下手だが沈黙も苦手だ。頭の中ではあれやこれやと声を掛ける話題を考えているが、いざ口に出そうとすると止まってしまう。
「どお~? お話できたぁ~?」と呑気な声で戻って来たときは、彼女が女神かと思ったほどだ。
感謝の気持ちを込めて美夜はシャンパンを一本追加し、店を後にした。
歌舞伎町という場所にいると、時間の感覚を狂わせる。
輝かんばかりのネオン。騒がしいのは昼も夜も変わらない。美夜は酔っているふりをして、花道通りのビルの壁にもたれかかって空を見上げた。
ネオンが邪魔をして、星なんて一つも見えない。
真新しい腕時計を見た。
午前一時前。『ポラリス』はそろそろラストソングを歌っている時間だ。
ショウは一番金を使った女と店を出てくるだろう。そのあとを着いていけば、十二単のオンナに会えるかもしれない。
「つーか。最初からこうすればよかったんじゃないのか?」
「シーッ! 僕はみんなから見えナイんだからネ」
「酔っ払いは独り言くらい言うだろ? それより誤魔化すなよ」
「なんのことかわからないヨ。ほら、この時間に待ち伏せすればいいって知るには潜入捜査も必要だったデショ」
「まあ、それもそうなんだが。そもそもそれなら、ウィリアムが一人で潜入したってよかっただろ?」
そうすれば美夜はあんな女装をせずにすんだのに。吸血鬼であるウィリアムはほとんど人から見つからない。つまり、誰にも見つからずに情報を手に入れることができるのだ。
「無理だヨ。僕は許可なく他人のテリトリーに入れないからネ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。『ポラリス』に入るには『ポラリス』に入ることへの許可が必要なんだ。でも、最近の人間はあやかしを認識できない人がほとんどだろ? だから、一人だと入れないヨ」
「ふーん。妖怪って不便なんだな」
あやかしという存在はもっと自由で好き勝手に生きているものだと思っていた。仕事もせず、どんちゃん騒ぎ。今までそういう場面しかみたことがない。
「でも今は、ミヤのおかげで色んなところに行けるから楽しいけどネ!」
「俺といるときはいいのか?」
「ほら、ミヤと一緒だと『いらっしゃいませ』って言ってくれるデショ?」
「あー。それが許可ってことか」
店に入れば必ずといっていいほど言われる言葉だ。しかし、店員に認識してもらうことができなければ、言ってもらえない。
当たり前のような言葉に気にしたこともなかった。
「結局、夜のお前は役立たずってことかー」
「ひどいヨ! 僕だって役に立つことくらいあるヨ! たぶんネ」
「ハイハイ。今後に期待、だな」
美夜はウィリアムに向かってひらひらと振った。
独り言を言い過ぎたせいか、周りの視線が痛い。酔っ払いのフリとは言え、少し喋り過ぎたか。
(まあ、やばい奴だと思われたほうが変に声かからなくていいか)
新宿のウィリアムのタワーマンションで居候生活を始めてひと月弱。美夜の神経は随分と図太くなったと思う。
始めは周りの目を気にして生きていたのに、今では少しくらい不審がられても「やべ」くらいの心持ちでいられるようになった。
環境のおかげだろうか。
新宿の街は美夜を普通たらしめる何かがある。奇異の目で見られ、独りで生きるしかなかった美夜にも居場所を与えてくれた。
少しずつ、居心地がよくなっていることが悔しい。
「十二単のオンナはなんでここに出るんだろうな……」
「どうして?」
「こんな場所に十二単なんて合わないだろ?」
「そうかな?」
「令和の吸血鬼は新宿のタワーマンションに住んでいるって言われたら、『あり得るな』って思うけど、十二単と歌舞伎町はあべこべだろ」
京都に出ると言われたら、「まあ、そういうこともあるかもしれないな」と納得がいく。しかし、新宿の、しかも繁華街の真ん中だ。
「そういうギャップがいいんだヨ」
「ギャップか」
「真面目な話をするなら、あやかしは物や人、あとは土地に憑く。だから、合う合わないなんて関係ないさ」
「物や人、土地か……」
十二単のオンナは何に憑いているのだろうか。
(おまえは何に憑いてるんだ? って聞くのはさすがにデリカシーに欠けるか)
ウィリアムの半分は人間。もしかしたら、何かに憑いているわけではないのかもしれない。
踏み込まれることが嫌なこともある。
ウィリアムは不思議そうに首を傾げた。
「なんでもない……って、いた」
十二単のオンナがウィリアムの肩越しに見える。
ちょうど、一番街の曲がり道だ。長い髪と、着物の裾がゆらゆらと風にたなびく。
「ワオ! 本当だ」
「ショウはまだ出て来てないよな?」
「そうだネ」
「ショウとは無関係ってことか?」
『ポラリス』から人が出てくる様子はまだない。
「ゆっくり近づいてみよう」
「ゆっくり?」
「いつも追いかけて逃げられるからな。昆虫採集の基本は気づかれないようにそーっと捕まえることだ」
美夜はいつもの足取りで花道通りを歩いた。歩調とは反対に心臓は早歩きになる。
ずっと探していた十二単のオンナにようやく会えるのだ。気持ちが逸るのも仕方がない。
十二単のオンナは美夜に気づいてはいない様子で、ゆらゆらとその場に佇んでいた。気づいている人間はいない。人間の目はあやかしに鈍くなっているから、家に帰ったあとにふと、思い出すのだろう。
『あれ? そういえば、一番街で十二単の人見かけたかも』
と。
あんなにはっきり見えるのに、誰からも認識されていない。不思議なものだ。
「お兄さん、今、可愛い子いるけどどう?」
知らない男に肩を叩かれた。
「いや、間に合ってるんで」
「そう言わずにさ!」
「いや、本当に。今、急いでるんで」
男を振り切って顔を上げたときには、もう既に十二単のオンナはいなかった。
「ウィリアム、十二単はどこに行った?」
「残念。消えちゃったヨ」
「まじか……」
せっかく見つけられたのに。今日の努力が水の泡だ。
美夜は道路の真ん中に膝をついた。
「ドンマイだヨ! また会えるって」
「おまえもおまえだぞ? 一人でもいいから追いかけろよ」
「僕は嫌われモノだから、僕が行っても逃げられちゃうヨ」
悪びれる様子もないウィリアムに、美夜は唸った。もう少しウィリアムが役に立ったら、この十二単の捜索は順調に進んでいただろう。
美夜はこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「レイコちゃん、今日はありがとう」
「ううん。ショウくんにラスソンプレゼントできてよかった~」
聞いたことのある声に美夜は顔を上げる。『ポラリス』のショウとレイコが仲睦まじく腕を絡め、身を寄せあいながら歩いていた。
(やっぱり、ショウと十二単のオンナは何か関係があるのか?)
ショウがこの花道通りを歩く時間に現れる。だが、けっして彼とは接触しない。
まったくの無関係にしてはいつもタイミングがよすぎる。
美夜は夜の街に消えるショウとレイコの後ろ姿を睨んだ。
◇◆◇
ウィリアムの瞳が夕日の赤を吸い込んだころ、美夜とウィリアムは花道通りと一番街の交差点にいた。
十二単のオンナは一番街から花道通りのあいだに現れることが多い。
観光客でごった返す一番街のアーチの下で待ち伏せするよりも、ここのほうが効率がいいという合理的な理由からだ。
「ミヤ、今日は早い時間だネ! なぜ?」
「いつも同じじゃ芸がないからな」
「なんだ。もっとすごい理由があるのかと思ったヨ」
ウィリアムはケラケラと笑う。子どものように無邪気な笑いのお陰で、美夜も軽い気持ちで十二単を探すことができていた。
「あと、今日は早く寝たい」
「ミヤはか弱いから、早寝は賛成だヨ」
ウィリアムの心配性は加速している。彼に心配されていると、時々自分が本当にか弱い小動物なのではないかという錯覚すらしてしまう。
実際には風邪もほとんど引かないような健康体である。
「今日は現れるかな?」
「どうだろうな。現れたら絶対に捕まえてやる」
美夜は遠くで輝く一番街のアーチを睨んだ。
しかし、一時間待っても十二単のオンナは現れなかった。
「ダメそうだな。……まあ、いいか。今日は牛丼でも食って帰ろう」
美夜は靖国通りに向かって歩き出した。
十二単は毎日現れるわけではない。この時間に現れない日は、夜も現れないことが多かった。
そういう日はさっさと帰って寝るのが一番だ。
「ミヤ、牛丼以外に好きなモノないの?」
「ハンバーグ。この前、家政婦さんが作ってくれたやつ、うまかったな」
家庭的な手料理を食べたのは、何年ぶりだっただろうか。保護者によっては三食菓子パンということもザラで、温かい飯がどんなものかも忘れてしまっていた。
母親がいたらあんな食事が出て来るんだろうなと思いながら、美夜は毎食口に運んでいたのだ。
「あとはビーフシチュー。米が進むやつはうまいな」
「ミヤはお子様舌だネ」
「うるさい」
近くを歩いていたサラリーマンが少し驚いた様子で美夜を見る。
(ああ、そっか。今のウィリアムは見えないんだったな)
サラリーマン自身が「うるさい」と言われたと思ったのだろう。
美夜はサラリーマンから逃げるように足を速めた。
ふと、視界の端に違和感を覚えて立ち止まる。ヒラヒラと蝶が舞っているような不思議な感覚だ。
急に立ち止まったことに驚いたのか、ウィリアムは首を傾げた。
「ミヤ、どうしたの?」
「いや、あれ……」
美夜は視線の先を指さす。