⑥-1
美夜は人生で初めて他人から甘やかされた。
相手が男で、しかも吸血鬼でなかったら少しは喜べたかもしれない。
二週間のあいだ、美夜は食っちゃ寝の贅沢三昧をさせられたのだ。家政婦の家庭料理をたらふく食べさせられ、午後十時に眠って午前八時に起きる生活。
リビングルームには畳一枚分はありそうな巨大テレビが運び込まれ、毎日ウィリアムのおすすめドラマが垂れ流されていた。
彼の趣味は偏っていて、刑事ドラマ六割、医療ドラマ二割、恋愛ドラマ二割といったところか。
まさしく昼行灯のような生活だ。美夜が猫であったならば、この生活に満足していただろう。腹が減る前に餌が出て、ご主人様が仕事のあいだも広いリビングルームでゴロゴロしていられるのだ。
しかし、まともな人間ならば耐えられないだろう。少なくとも美夜は三日で罪悪感にさいなまれ、SNSで十二単のオンナの情報を検索するようになった。
毎日「歌舞伎町に散歩しよう」と誘っても、ウィリアムは「まだダメ」と素気ない返事を返してきた。
美夜が倒れてから十四日目の夜、ようやくウィリアムが頭を縦に振ったのだ。
「さて、行くか」
「本当にダイジョウブ?」
「心配性だな。こんなにピンピンしてるだろ?」
美夜が倒れてから、ウィリアムは過保護になったように思う。ちょっとため息を吐いただけで飛んできて、「寝たほうがいいヨ」とベッドに引っ張っていく始末。
彼はいつもやることが極端だった。
「ミヤは弱々だってわかったから心配なんだ」
「ハイハイ。ダイジョウブ、ダイジョウブ。……ほら、行くぞ」
ウィリアムは不貞腐れながらも、美夜の後を着いて歩く。
午後十一時。
横に並ぶ吸血鬼は、血液のように深紅の目を美夜に向けて微笑みかけた。
「ミヤ、今日はどこに行くの?」
「とりあえず、『ヴィーナス』に行くつもりだ」
「あ、わかった! レイコちゃん? に話を聞くんデショ?」
「ああ。そのつもりだ。やっぱり見たことある本人に聞くのが一番だろ?」
前回、『ヴィーナス』で調査したときは、アユミという女がレイコのことを教えてくれた。だが、アユミ自身が見たわけではないようだ。見たことのある本人に話を聞くのが一番だろう。
「SNSで調べると、最近は水曜も金曜も関係なく出てるみたいなんだ」
「毎日?」
「ああ、ほぼ毎日。十二単のオンナにも何か心境の変化でもあったのか」
毎日出勤しないといけない理由があるのか。SNSからではそこまでは読み取れなかった。
最近では、目撃情報はあるのに写真がまったく上がらないためか、都市伝説のような扱いになっているようだ。
美夜は歌舞伎町一番街のネオンで輝くアーチを見上げた。
「調べてて知ったんだけどさ、この変な形のアーチ『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』の意味が込められているらしい」
「へぇ! ミヤは物知りだネ」
「ネットで拾った知識だから、本当かどうかはわからないけどな」
天に伸びていくアーチと地に向かって伸びるアーチ。
「意味を知ると、少し親近感が湧くな」
「ミヤはそういうのに脆いもんネ」
「うるさいな」
美夜は顔をしかめると、一番街をずんずんと歩いた。慌てたような声を上げてウィリアムが追ってくる。
やはり、この時間は十二単のオンナは現れないようだ。
あやかしたちがウィリアムと美夜の様子を注意深くうかがっているのがわかる。
「視線を痛いほど感じるんだが……。ウィリアムのせいか?」
「僕は嫌われ者だからネ」
ウィリアムはあまり気にしていないようだ。鼻歌交じりに美夜の隣を歩く。「嫌われ者」と言う割に寂しそうではない。どちらかというと上機嫌だった。
一番街を真っ直ぐ歩き、花道通りにぶつかる。何回も来ているからか、慣れた道のように感じた。ここで生きるヒトは皆、この道を通学路のような気持ちで歩いているのだろうか。
ネオンの一つ一つが、ギラギラとした欲望の塊のように感じる。有象無象の欲がまとわりつくような感覚。沼の底にでも沈んでしまったようだ。
美夜は立ち止まり、夜の歌舞伎町を見上げた。
「ミヤ? ダイジョウブ?」
「……あ、ああ。悪い」
「やっぱり、帰る?」
「いや、行こう。今日は、人の金で豪遊したい気分なんだ」
美夜は自嘲気味に笑うと、『ヴィーナス』に続く雑居ビルの階段を登った。
しかし、思惑というのは外れるものだ。美夜の隣には前回と同じくアユミが座っているのだから。
黄色のドレスからはみ出そうな胸を揺らしながら、アユミは頬を膨らませた。
「美夜くんひどいよぉ~。久しぶりに来てくれたと思ったら、レイコちゃんに浮気しようとするなんてぇ。わたし、泣いちゃうところだったぁ」
泣き真似を見せるアユミに、美夜は頬を引きつらせることしかできない。
「ミヤ! 女の子を泣かすなんて! だめだヨ!」
(そう言われても、どうすれって言うんだよ……)
ただ、レイコの話が聞きたかっただけだ。しかも、十二単のオンナを捕まえられたらここには来ることもない。あと一回か二回の縁だろう。店の暗黙の了解だかなんだかを律儀に守る必要性は感じなかった。
しかし、ここまで怒られては謝るしかない。
「あー悪い悪い」
「全然気持ちがこもってなぁ~い」
謝ったのに、アユミは更に泣く声を大きくした。ウィリアムまで楽しんでいるのか「コモッテナァ~イ」と合いの手を入れる。
周りはアユミの泣き声だけかもしれないが、美夜にはウィリアムの声も重なって大合唱だ。
高い声は頭に響く。
「シャンパン入れてくれたら許してあげる~」
「好きにしてくれ……」
大きな声で合唱しないでくれるのであれば、美夜は何だってよかった。どうせ、人の金だ。出資者であるウィリアムも楽しんでいるから問題ないだろう。
「レイコちゃんはもうお店辞めちゃったのぉ。残念でしたぁ」
「なんで?」
「担当くんのためにもっと稼げるところに移るんだってぇ」
「へぇ」
「お金持ちの美夜くんにはわからないかもしれないけどぉ」
「ああ、そうだな。全くわからん」
美夜が知っている仕事は、最低賃金のコンビニエンスストアだけだ。
美夜がレジを打っているあいだにホストやキャバ嬢がどの程度稼いでいるのか、皆目見当もつかなかった。
知ったところで、口下手でコミュニケーション能力が低い美夜には、到底できない仕事だと思う。
アユミが美夜に身体を押しつける。ドレスのスリットから出た足が艶めかしい。驚いて横にずれたが、ウィリアムが邪魔で拳一つ分しか逃げることはできなかった。
彼女は美夜の耳元に唇を寄せ、囁くように言った。
「レイコちゃん、風俗のほうに行っちゃったみたいだよぉ」
「風俗……?」
「もしかして、それも知らない? 美夜くんってウブだよねぇ」
「さすがに知ってる」
「うっそだぁ。その顔は絶対知らないよぉ」
アユミは美夜を揶揄うと、楽しそうに笑った。
実際どんなことをするのかはまったく想像もついていない。しかし、金を出して性欲を満たすところだという知識くらいはある。
「パパ活とココだけじゃ担当くんのラスソン聞けないからって、三日前に辞めちゃったのぉ」
「パパ活……?」
美夜は首を傾げる。
また新しい用語だ。夜の正解ではそれが普通の単語なのだろうか。
「美夜くんって擦れてないよねぇ。そんなところが好きだけどぉ」
(好きなのは俺じゃなくて、金な)
しかもその金も美夜のものではない。
アユミは美夜の腕に抱きつくと、楽しそうに笑う。美夜はただ笑って話を受け流す程度が限界だった。
「アユミは優しいから、美夜くんのためにいい子をヘルプにつけてあげるよぉ」
「いい子?」
「うん。レイコちゃんの紹介で入ったユキちゃん。『ポラリス』のショウの幼馴染みらしいよぉ」
アユミは美夜の耳に息を吹きかけると、軽やかに別の席へと移って行った。
すぐにアユミの代わりが現れる。アユミが言っていた『ユキちゃん』なのだろう。
ドレスというよりはワンピースに近い服装に安心感を覚える。長い前髪。のせいで顔が半分は隠れている。
「ユキです。お隣失礼します」
小さな声で自己紹介を済ませると、ユキは美夜の隣に座った。そして、美夜の顔をまじまじと見る。
「あの……。どこかでお会いしたことありますか?」