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⑤-3

 勉強はたいして得意ではなかったし、運動神経もからっきしだった。


 一つだけ褒めてもらえたのが、絵だっただけだ。


 紙とペン。始めはチラシの裏だった。毎日新聞の広告を集めて、白い部分に絵を描いた。


 絵だけが美夜の言葉を聞いてくれる。今日あったこと、悲しかったこと、夢。保護者たちは耳を傾けてくれなかった言葉を、絵だけは受け止めてくれたから。


「俺にとって絵は話し相手だったんだな……」


 もう、子どものころに描いた絵は一枚も残っていない。


 保護者が変わるたびにすべて捨てられたからだ。


 絵は美夜にとって飽きるまで話を聞いてくれる親友で、優しく頷いてくれる両親であり、一緒に笑い合える兄弟だった。


 いつからだろうか。


 そんな大切な相手に嘘を吐くようになったのは。


 美夜は、キャンバスを一つ取る。


 河原の絵だ。深夜のバイト帰り、まだ太陽が昇らない時間に河原を散歩した時の情景を描いた。


 美しい夜桜。けれど、本当は違った。


 桜並木の下では妖怪たちが酒を片手にどんちゃん騒ぎをしていたのだ。


 美夜はずっと普通のフリをしていた。誰にも見えない妖怪はけっして絵に残さず、自分自身に嘘を吐いているうちに、すべてを失っていたのだろう。


「『嘘をついてはいけません』なんて、幼稚園児でも知っているのにな」


 美夜は苦笑する。


 美夜には絵しかなかった。そのたった一つを美夜は自分の嘘で裏切り、貶めたのだ。


 美夜はゆっくりと瞼を落とした。


 窓から入る日差しが瞼の奥まで染み入ってくる。築六十二年のおんぼろアパート。唯一褒められたのは、南向きの陽当たりだけだ。


 それだって、タワーマンションの最上階に比べたら落ちるわけだが。


(早く終わらせて、ここに帰ってこよう)


 この部屋があるから、未練を感じているのだろうから。全部捨てて、嘘を吐き続けた償いをしなければ。


 美夜は中指のペンだこを、親指の爪で弾いた。


 何度も、何度も。



 ◇◆◇



 額の不快感が美夜を襲う。美夜は苛立ちながら額を拭った。べっちょりとした感触に瞼を上げる。


「ミヤッ! よかった~。高熱が続いたからコロナかと思って心配したヨ~」


 陽気な声が頭に響いて、美夜は頭を押さえた。


「もしかして、頭痛いっ!?」

「……うるさい」

「オゥッ! 声がガラガラだヨ! お水飲んでっ!」

「……だから、もっと静かにしてくれ……」


 まだ頭がクラクラする。これは熱のせいではなく、絶対にウィリアムの声が大きいせいだと思う。


 枕元に落ちたタオルを見つけて、美夜は頬をひきつらせた。


「なんだこのビチャビチャのタオル」

「ほら、冷やすといいって言うデショ?」

「デショ? じゃねぇよ。今どき濡れタオル頭に乗せる奴がどこにいるんだよ……」


(ここにいるか……)


 ここは大都会、新宿。保冷剤だって何だってすぐに手に入るというのに。


 美夜は大きくため息を吐き出した。まだ息が熱い。手の甲を首筋に当てると、いつもより体温が高いようだった。


「ミヤ、繊細だから三日もうなされちゃって大変だったんだヨ」

「三日? そんなに寝てたのか……」


 どうりで背中が痛いはずだ。


 煎餅のような布団のせいではなかったようである。


「全然よくならないから、先生に来てもらったヨ。エットネ、睡眠不足、栄養失調、ストレス。コロナとかインフルエンザみたいなウイルスじゃないって」

「そりゃあよかったな」


 並べられた診断結果はどれも妥当だった。


 ここに来てから三食取るようになったが、現状栄養は偏っている。ここに来る前は一日一食も食べていなかったのだ。


 睡眠不足は言わずもがな。


「よくないヨ! 栄養失調なんて、この飽食の時代にあり得ないんだからネ!?」

「ハイハイ」

「ハイは一回!」

「……いつもおまえが言ってるだろ。『ハイハイ』ってさ……」


(なんで俺ばっかり怒られるんだよ……)


 美夜は頭を乱暴にかく。


「ミヤはとりあえずお風呂! 今、コンシェルジュに家政婦さんを呼んでもらったから栄養一杯のご飯作ってもらうヨ」


 コンシェルジュ、家政婦。どれも聞き慣れない言葉だ。しかし、「栄養のつくものを僕が作ってあげる!」と言われるよりはマシだと思った。


「なあ、ウィリアム」


 部屋から出ようとするウィリアムの背中に美夜は声を掛ける。彼は、扉に手を掛けたところで振り返った。


 太陽の光を浴びて金の髪がキラキラと光る。空のように澄んだ青い瞳。けれど、目の下には濃い隈ができている。


(寝たほうがいいのはこいつも同じじゃん)


 美夜は苦笑を浮かべながら、窓の外に視線を向けた。


「十二単捜しはどうなった?」

「そんなのあとあと。ミヤが一日十時間寝て、二キロ増えるまでは中止だヨ!」

「げ。それはさすがに過保護過ぎるだろ」


 ウィリアムは相当怒っているようで、美夜の訴えは全く聞きいれてはくれなかった。


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