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④-2

 カウンターだけしかない狭い店内。席の後ろは一人通れるか通れないかの隙間。カウンターを挟んで向こう側には天井まで届いた棚に酒瓶がびっしりと並んでいた。


 カウンターに立つ毛むくじゃらの女は目を丸くする。


「あらやだ。人間かぃ?」

「あ……。はい」

「あんた、アタシが見えるのかぃ?」

「ま、まあ……そうですね」


 しっかりと見える。狸のように恰幅のいい腹と、顔まで覆われた毛。人間とは到底思えない出で立ちだ。


 カウンターの奥に座ってグラスを傾けている細身の男は、サラリーマンのような装いだが、爬虫類のような長い尻尾が生えていた。


「ミャァオ」

「あんた、客を連れてこいって言ったけど、人間なんて連れて来ちゃって」


 狸の女将は黒猫の頭を撫でると、銜えているスマートフォンを抜き取る。そして、美夜へと手渡した。


 よく見ると、黒猫の尻尾は二つにわかれていた。それに気づいていれば、もっと慎重に行動していたと思う。


 妖怪特有の空気感に、背筋が凍るのを感じる。


「うちのが悪いわねぇ。あんたが探しているのはこれでしょ? ……って、あんたもしかして、ウィル坊の友達かぃ?」

「……ウィル坊?」

「違うのかぃ? あんたの身体がから吸血鬼の匂いがするよ」

「……あ。もしかして、ウィリアムのことですか?」


 美夜は慌てて服の匂いを嗅ぐ。しかし、柔軟剤の香りしかしなかった。


 女将が豪快な声で笑う。笑い声で小さな店内がグラグラと揺れた。


「人間は鼻が悪いからわからないわよぉ。ウォル坊の友達なら人間でも大歓迎よ。何かの縁だし、一杯飲んでいけば?」

「ミャァオ」

「ほら、この子もこう言ってるし」


 女将が乱暴に黒猫の頭を撫でる。黒猫は鬱陶しそうにしたあと、サッと逃げて言った。


 そして、奥に座る尻尾つきの男にも視線を向ける。


「我は構わない」

「だって。ほら、美味しいお酒用意してあげるわよぉ」


 女将は美夜の腕を取ると、力任せに美夜を引っ張った。ふわりと浮いた身体はいつの間にか尻尾つきの男の二個隣の席に着地する。同時に、店の扉がぴしゃりと音を立てて閉まった。


「あんた、名前は?」

「……美夜です」

「へえ。人間よね?」


 女将は美夜に鼻を近づける。逃げようにも、すぐ後ろは壁だ。


「大丈夫よぉ。取って喰ったりしないからぁ」

「はあ」


 彼女は酒焼けした声でカラカラと笑う。声だけを聞いていれば場末のスナックと言われても納得できただろう。


 女将の「何飲む?」という質問に「ウーロン茶で」と短く返した。


「あんたはウィル坊のお友達かぃ?」

「いや……そんなんじゃないです」


 ウィリアムと美夜の関係をどう説明すべきか。美夜は女将がウーロン茶を用意するあいだに考えた。


 しかし、はっきりとした答えは見つからない。


 友達ではない。


 今まで美夜には友達らしい友達はいなかったが、それがどういうものなのかはなんとなく理解している。


 利害関係の外にある、何とも曖昧な関係のことだ。


「じゃあ、恋人~?」

「それは絶対にない」

「あら~照れなくてもいいのよぉ。この辺だと偏見もないしぃ」

「いや、本当に。絶対に。こっちからお断りなんで」


 金をいくら積まれてもウィリアムの恋人にはなりたくないと思った。何を考えているのかわからない笑顔と態度。あれと真剣に向き合うのは御免被りたい。


 いいのは顔だけで、ああいう男が女を泣かせるのだと思う。


「え~。もしかして喧嘩中とかぁ?」

「いや、だからその恋人前提の話はやめてください」

「だって、ねぇ……」


 女将がチラリと尻尾の生えた男に視線を向ける。彼はブランデーの入ったグラスを置くと、静かに頷いた。


「そなたからはあの吸血鬼の匂いが全身からする。あれを知っているあやかしならば、誰もが同じように思うだろう」

「げ。マジですか」

「ああ。マジだ」


 男は至って真剣な顔つきで頷くと、ブランデーを傾けた。丸い氷とグラスがぶつかってカラリと音が鳴る。


(なんだよウィリアムの匂いって。血の匂いか?)


 美夜はもう一度、自身の匂いを嗅ぐ。やはり柔軟剤の香りしかわからない。そもそもウィリアムの匂いと言われてもどんな匂いなのかもわからなかった。


「で、どうなのよ?」

「いや……ただ、家に住まわせてもらっているだけで……」

「いや~ん。同棲!? こんな可愛い子を囲うなんてウィル坊もやるじゃなーい」

「いや、だから同棲とかじゃなくて……」


 美夜は苦笑しながらウーロン茶に口つけた。冷えたウーロン茶が喉を潤す。乾いていたことを思い出した身体が、ウーロン茶を一気に吸収していった。


「イイ飲みっぷり。折角だし、お酒も飲んでいったら~?」

「いや。酒、飲んだことないんで」

「あらぁ。誰にでも初めてはあるわよぉ。お酒は人間が作ったモノの中でも一番だと思うわぁ。それを知らないなんて、人生損しているわよ」


 最近、よく言われる。『人生損している』という言葉。本当なのだろうか。


 美夜は「なら、一杯だけ」と言って頷いた。


 今までの人生、すべてを絵に捧げてきたのだ。時間も金もすべて。描くことを辞めた今、何をやっても誰にも咎められないだろう。


(ま、どうせあいつの金だしな)


 女将は炭酸の入ったグラスを差し出した。


「なんですか、これ」

「ハイボールよ。最近、人間のあいだで人気なの」

「へぇ。詳しいんですね」


 口をつけるとピリリと炭酸が効いていた。うまいのかまずいのかはわからない。炭酸を飲むことも酒を飲む機会も今までになかったからだ。


 炭酸が口の中で弾けることは知識として知っていたが、ここまで攻撃的だとは思わなかった。


 思わず美夜は顔をしかめる。


「そりゃあ、ここいらにずっといるからねぇ。あんたみたいに間違って来ちゃう人間がいるのよぉ」

「へぇ」

「あら、あんた相槌下手ねぇ。もっと興味あるような返事しなさいよ」


 美夜は返事の代わりに苦笑をもらした。


「あんたみたいに素面で入ってくることはないのよ。普通の人間には暖簾にすら気づけないの」

「そうなんですか」

「目には入ってきてるけど、認識はできないみたいね。でも、酔っ払うとその暖簾が見えちゃうことがあるみたいなのよ」

「はあ……」


 美夜は曖昧に頷くとハイボールを一口口に含む。アルコールの香りよりも炭酸の刺激が強い。


 パチパチと口の中で跳ねる感覚に美夜はジッと耐えた。


「まあ、人間の話なんてどうでもいいわね。ウィル坊は元気?」

「最近は牛丼にはまってます」

「あー。あの子ちょっとズレてるものねぇ」


 納得顔で女将は頷く。美夜も同意とばかりに何度も頭を縦に振った。


「ウィリアムとは知り合いなんですか?」

「そぉよ。あの子が子どものころから知ってるわ。あの子の母親、歌舞伎町じゃ有名だったんだから。いつの間にか人間の子どもなんて産んじゃって……」


 女将は大きなため息を吐き出すと、手元にあった焼酎を一気に煽った。吐いた息が小さな店に充満する。


 焼酎の匂いだけでクラクラとした。


 美夜も釣られてハイボールの入ったグラスを傾ける。何度か味わうと、この炭酸の刺激も癖になるようだ。喉に通った時のバチバチと当たる刺激に中毒性を感じた。


「あら、あんた、絵を描く人?」

「……いえ」

「嘘はいけないわよ。こんな立派なペンだここさえて」


 女将は美夜の右手を掴んで、中指をまじまじと見た。


「どおりで吸血鬼の匂いの中に油絵の具の匂いが混じっているわけだ」


 美夜の二つ隣で静かに酒を飲んでいた男が納得顔で頷く。美夜にはその匂いがわからなかった。絵から離れて一週間以上経った今、身体に染みついた匂いはすべて流れ落ちたと思っていたのだ。


 美夜は炭酸の刺激を欲してグラスを煽った。弾ける刺激が身体中に行き渡る。


「いい飲みっぷりじゃない。おかわりはいかが?」

「はい。ください」


 ふわふわとした感覚の中で美夜は頷いた。


 まるで雲の上のような心地よさだ。タワーマンションの最上階から新宿の街を見下ろすのとはまた違った感覚だった。


 ふだん感じる重力をほんの少し減らしてもらったような、そんな不思議な心地だったのだ。


 女将は炭酸の入っていない酒を出した。ウィスキーがどうのとか、日本酒がどうのとか言っていたが、よくわからない単語の羅列で聞き流す。


「ここの常連にもいたのよぉ。ここにペンだこ作ってる画家かぶれの人間が」

「へえ……。その人も見える人だったんですか?」

「あんた程じゃないわ。あんたの目は特別ね。そいつは酒を一升飲むとここに来られるって、ベロベロに酔っていつもここに来るの」


 女将は古い引き戸を見つめ、「もう死んじゃったけど」と悲しそうに呟いた。


「あんたも同じ場所にペンだこがあるわ。指の骨も歪んでるし。相当描いてる手よ」

「……もう描くのやめたんで」

「なんでー?」

「才能なかったんで」


 美夜はグラスを強く握りしめると、グラスを傾けた。炭酸が入っていないからか、飲みやすい。少し辛口の酒が美夜の喉と胃をじんわりと温める。


「あんたまだ若いじゃない。才能のあるなしなんてわからないわよ」

「俺の絵は誰の目にもとまらないバケモノなんです」


 美夜はカウンターに頭を預けた。わずかに世界が歪む。この歪んだ世界こそが本物なのだろうか。


 どこからかやってきた黒猫が美夜の頬をペロリと舐めた。ざらざらとした感触がくすぐったい。女将が抱き上げて、黒猫を外に出した。またスマートフォンを銜えて客引きをするのだろうか。


「俺、どうして絵を描いてたんですかね」

「楽しかったからじゃないの?」

「さあ。どうだったんだろ? ……俺、楽しかったのかな?」


 中指のペンだこを親指の爪で弾く。


 最近は描くことに必死で楽しいと感じたことは皆無だった。美大の講師に『あなたらしさが感じられない』と言われ、自分らしさすらわからなくなった。


 美大に入ってから技術ばかり上がって、それ以外のモノを見失っていたように思う。結局、それが才能のなさの表れなのだろう。


 美夜の絵画は誰の心も動かせなかったのだ。


「……そんな話より、ウィリアムの話を聞かせてください」

「なになに? やっぱり恋人のことが気になっちゃう?」

「だから、恋人じゃないって」

「あ~はいはい。で、ウィル坊の何が知りたいの?」

「んー……。あいつの弱点とか?」


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