弟が変になっちゃった!
「キィ〜! なんて悪徳な魔女!! 騙されたっ! ……おっとっと!!」
怒りに任せて両手を振っていたら、危うく紫色の瓶を落とすところだっだ。
手のひらにすっぽりと収まるサイズの小瓶は、蓋が不安定。蓋を回して開閉するタイプではなく、蓋を瓶口に嵌めるだけの簡易式。
慎重に運ばないと、すぐに蓋が外れてしまいそう。
「シールで蓋を留めよう」
家に帰るまでの我慢だと、右手に小瓶を持って歩く。
魔女の店から出て、二十分後。町で一番大きな本屋の前を通りかかると、中から、整った顔をした青髪の少年がでてきた。
「あ、ジュリシス!! 本屋に行ってたんだ」
町で偶然、家族に会うというのは嬉しいもの。
私はニコニコと笑っているのに、ジュリシスは無表情。私に気がつかなかったわけではない。流し目で、チラッと私を見た。それなのに、郵便ポストを見たかのような、どうでもいいといった態度で歩きだした。
「ちょっと! 無視しないでよ!!」
私は急ぎ足で追いつくと、無愛想な弟を見上げた。
「なんか言ってよ!」
「本屋から出てきたのに、本屋に行っていたんだという、知能指数の低い質問に答えるのがバカらしくて」
「会話! 会話を楽しもうよ!!」
「有意義な会話ならいいですが、質の悪い会話をするのは時間の無駄だと思う。ルイーゼは、どう考える?」
「はい! 反対意見です! 他愛ない会話を楽しめる関係がいいと思います!」
「他愛ない会話って、たとえば?」
ジュリシスが片手に持っている本に、視線を落とす。
厚みのある本の表紙に書いてある題名は、『王国における資本論』
超絶つまらなそう。
「なんの本を買ったの?」
「題名、見えますよね? マヌケな質問をしないでください」
「会話を潰す天才だな、君は! 確かに、見えたけれども。そういうことじゃないの! 私はジュリシスの口から、こういう題名で、こういう内容で、読むのが楽しみだという、そういうことを聞きたいの! で、私は、それはいいわねって答えるの。これが他愛ない会話というものですよ!」
「それはいいわねという、うっすい反応を聞くために、僕は二十分も無駄に語らないといけないの?」
「二十分も語る気なの? 二分でいいんだけど」
私に注がれるクールな眼差し。ジュリシスのアイスブルーの瞳が、意地悪く笑った。
「会話の定義は、互いに意見や情報を交換したり、感情を共有するためのコミュニケーション。僕が一方的に本の説明をするのでは、会話とはいえない。では、他愛ない会話という名の情報交換をしますか。まずは我が国の資本経済について、質問させてください」
「ええっ!?」
我が国の資本経済なんていう難解なテーマを、私が答えられるわけがない。
私は手芸や工作や料理といった、手を使う作業が得意。勉強は好きではない。成績はいつも真ん中。
それに対して、ジュリシスは頭がいい。常にトップの成績。
私が考える他愛ない会話と、ジュリシスが考える他愛ない会話との間には、渓谷ほどの深い溝がある。
「ちょっと待って! 質問なら、私にさせて! ジュリシスが話して、私が質問する。これでいこう!」
「マザロンが提唱した経済復活という名の資本主義が格差を引き起こし、その格差を埋めるべく、資本を分配しようと改革を推し進めている昨今の政治について。ルイーゼは、どう考える?」
「きゃあ〜! この人、勝手に話し始めた!!」
「会話が成立していません。質問に答えてください」
「うっ! ……いいと思います」
「いいというのは? どの点を評価して、そのような感想を持ったの? 具体的な事案を出して話してもらえると、わかりやすいです」
ジュリシスは生意気で、意地悪。他愛ない会話という名の嫌がらせをしているのがバレバレ。
「もぉっ!! 他愛ない会話って、こういうことじゃないの!!」
思わず、振り回してしまった手。瓶を持っていることを、すっかり忘れていた。
「ごめんっ!! うっかり!!」
瓶の蓋が外れ、中に入っていた液体がジュリシスの顔にかかってしまった。
瓶の蓋が、コロンと音を立てて道に落ちた。甘い花の香りが漂う。
ジュリシスのなめらかな肌を流れ落ちる、透明な液体。
ジュリシスはなにが起こったのかわかっていないようで、呆然と固まっている。
私は急いで制服のポケットからハンカチを取りだすと、弟の顔を拭こうと腕を伸ばした。その手首を、ジュリシスに掴まれる。
「甘い……」
「う、うん。甘い香りがするね」
「甘い味……」
「味ぃっ!?」
ジュリシスは唇を舐めると、酔っているような色気ある声でつぶやいた。
「すごく甘い……」
「舐めないで!! 怪しい魔女から買った、危険な薬だから!!」
「あれ? ルイーゼ?」
ジュリシスの長いまつ毛がパチパチと上下する。驚きで見開かれた、アイスブルーの瞳。
まるでたった今、目の前に私にいることに気がついたかのような反応だ。
「どうしよう! 困った、あの、とりあえず手を離して。拭くから!」
濡れた顔を拭きたいのに、ジュリシスに手首を掴まれて動かせない。
サラサラの青髪から滴り落ちる液体が顔を伝っていくのが、艶っぽい。甘い香りのする液体が、ジュリシスの皮膚に浸透していく。
「お願いだから、手を離して!!」
「どうしてルイーゼはいつも、僕の心を乱すの?」
「あのね、説明させて! 好きな人がいて、それで、同じクラスのミリアが占いの店に行ったって言うから、私も興味本位で行ってきたの。とんでもない魔女だったけれど」
「好きな人って、僕のこと?」
「えっ? あー……うん。家族としては、好きだよ」
ぼうっとしていたジュリシスの目が次第に熱を帯びていき、ぎらつく。
獲物を視界に捉えた肉食動物のような目に、私は思わず後ずさった。
「あの……体調とか気分は、どう?」
「最高の気分です。ルイーゼと両思いだと知ることができたから」
「ん?」
ジュリシスは掴んだ手首を引き寄せると、私の手のひらに唇を押し当てた。
「愛しています」
「きゃああああああーーーーっ!!」
私が悲鳴をあげたものだから、通行人がギョッとした顔で私たちを見てくる。
私はヘラヘラと笑いながら、「なんでもないですー。私の弟がちょっと……」と誤魔化し、道を引き返す。
「愛しのルイーゼ。どこに行くのですか? 家はそっちじゃないです」
「どうしよう! ジュリシスが変になっちゃった!!」
「ルイーゼに初めて会ったときから、変になっている」
「なんの薬なの? ヤンデレから身を守ってくれる薬じゃないの?」
「安心して。ルイーゼに寄ってくる男は全員潰すから」
「やめて! そういうことはしないで。彼氏が欲しい!」
「遠回しの告白をありがとう。僕がルイーゼの彼氏になります」
「告白していないしっ!! どうしようどうしよう。ジュリシスが変になっちゃった。アホになる薬?」
「ルイーゼと他愛ない会話を成立させるためなら、僕は知性を手放しても惜しくない」