おすすめできない気分転換
年度末試験まで、あと六日。ジュリシスに誘われて、図書室に来た。
学校の図書室で勉強する習慣がないので、妙に落ち着かない。
柔らかな西日が差し込む、放課後の図書室。
人間は無言なのに、音はおしゃべり。鉛筆を走らせている音や息遣いや紙を捲る音が、静寂な空間に不思議な響きを放っている。
勉強に疲れ、なんとはなしに、隣で勉強しているジュリシスを観察する。
ジュリシスの横顔は、冴え冴えとした真冬の月のように美しい。
まず、鼻のラインが完璧なカーブを描いている。アイスブルーの虹彩を引き立てる切れ長の双眸は、知的で冷ややか。赤く色づく唇は、形も厚みも申し分ない。青い髪には艶があり、長めの前髪が色っぽい。
明日の夕方には惚れ薬の効果が切れ、元のクールなジュリシスに戻る。
大好きとか可愛いとか、もう言われることがないのかと思うと、妙に寂しくなる。
(元のジュリシスに戻るだけなのに……。仲良くなりすぎちゃった)
手に持っている教科書から、紙が落ちた。一時間目の休み時間にジュリシスからもらった手紙だ。教科書に挟んでいたのを忘れていた。
四つ折りの紙片を広げる。
【マイ・スイートラブプリンセス、元気ですか? 困っていることはないですか? なにかあったら、絶対に僕に教えて。隠し事はしないって、約束して。 ルイーゼ姫を守りたい弟より】
ジュリシスのことだから、真面目な顔をして書いたのだろうと思う。クールな容姿と手紙の内容のギャップに笑ってしまう。
二時間目の休み時間に、返事を渡した。
【今のところ、困っていることはないよ。隠し事しないって、約束する。なにかあったら報告するね。 ルイーゼ姫より】
手紙を読んだジュリシスは、
「ルイーゼのことが、もっと好きになった。好きになる気持ちに、上限ってないんだね」
と、照れくさそうに笑った。
「お姉さん。手が止まっている」
「え? あぁ、ごめん!」
慌てて、鉛筆を持つ。
静寂を破らない程度の小声で、ジュリシスが尋ねてきた。
「ぼーっとして、なにを考えていたの? 僕のこと?」
「ええっ!?」
つい出てしまった、大声。司書と生徒たちの視線が痛い。
ペコペコと頭を下げて謝ると、ジュリシスに肩を寄せた。
「図書室って、落ち着かないね」
「そう? 僕は落ち着く。集中できない?」
「うん、私はね。でも、ジュリシスは落ち着いて勉強できるんだろうから、続けていいよ。私は先に……」
家に帰るから、との言葉が途絶える。本棚の向こうに消えた後ろ姿が、ウェルナー先輩に見えたのだ。
「ちょっと疲れたから、気分転換してくる」
席を立ち、ウェルナー先輩がいるだろう本棚に向かう。
「……一日中あなたのことばかり考えて、苦しいの。理想の女性になれるよう、努力するから。頑張るから。だから、お願い」
「無理だ」
私は足を止め、息を殺した。
本棚の向こうから聞こえてきたのは、男女の会話。
「本命の彼女じゃなくていいの! 遊びでいい。たまに会えれば、それで……」
「だから、たまに会っていた。それなのに、もっと会いたいと言ってきたのは君だ」
「もう言わないから!」
「じゃあ、一ヶ月に一回会う。これでどう?」
女性が涙ながらに訴える切ない声音に、同情心が湧く。
彼女は本気で好きなのだ。遊びでもいいから、関係を続けたいと願うほどに。それなのに、男は冷たい。一ヶ月に一回なんて、私なら嫌だと断る。
けれど女性は「わかった……」と、涙声で受け入れた。
「話はこれで終わり。試験勉強をしたいから、邪魔しないでくれないか」
上靴の底が床に擦れる音がし、本棚の向こうから女子生徒が姿を現した。
見たことのない顔だが、多分、上級生。涙に濡れている緑色の目が、充血している。
互いに目を逸らし、彼女は足早に私の脇を通り過ぎた。
私は彼女の後ろ姿を見送ってから、本棚の向こうへと歩いた。
本を手にしている人に、声をかける。
「ウェルナー先輩って、冷たいですね」
「ルイーゼっ!?」
ウェルナー先輩は、バツが悪そうに目を泳がせた。
「聞いていたのか」
「すみません。聞くつもりはなかったんですけれど、偶然……。彼女さんですか?」
「いや、友達だ」
「本命の彼女じゃなくて、遊びでいいって聞こえたんですけれど……」
「盗み聞きは感心しないな。偶然聞いてしまったなら、黙っていないと」
先輩は持っていた本を棚に戻すと、顔を私に向けた。
「ジュリシスは僕のことを腹黒い遊び人だと言ったが、君も思っている?」
「……まぁ、はい。ちょっと思った」
「素直だね。ルイーゼに誤解されたくないから、正直に話す。さっきの彼女は友人だ。だがそう思っていたのは僕だけで、彼女は恋愛感情を持っていた。僕は友人として美術館や音楽会に出かけたが、彼女はデートだと思っていたらしい。だが、彼女を好きだと言ったことはないし、将来を匂わせる発言もしていない。彼女が勝手に思いを募らせていただけだ。理解してくれた?」
「まぁ、はい……」
「納得いかないって顔をしている」
「だって、あの人、泣いていた……」
「泣ける人は、いいよね」
先輩は力なく笑うと、青灰色の瞳に寂しさを浮かべた。
「僕は、自分の人生なのに選択権がない。学校も将来の職業も結婚も、親の命令に従わなくてはならない。だが、僕だって人間だ。個人的感情がある。親と考えが同じわけじゃない。──好きな女性がいる。だが、彼女は庶民。親に反対されるのが目に見えている。彼女への想いを断ち切るために、寄ってくる女性と時間を過ごしてしまう。ジュリシスの言うとおり、僕は腹黒い遊び人なのだろう。……君と親しくなれたなら、どんなに幸せだろうって思う」
「先輩……」
「お姉さん。これが気分転換ですか? おすすめできない気分転換ですね」
ジメッとした低い声。振り返らなくてもわかる。ジュリシスだ。