世界一幸せな姉
学校の帰り道。ぐちぐちと文句を言い続ける。
「なんなの、まったくもうっ!! ルイーゼのことを悪く言うヤツは許さないで終わればかっこよかったのに、悪口を言ってもいいのは僕だけって。なにそれ? 言う必要、なくない? どこが大切な話なの? 意味不明。リタたち、なにも言わなかったけれど、絶対に呆れていた。苦笑いしていたもん!」
「すみません。独占欲が暴走してしまった。ルイーゼの怒った顔を独占したくて」
「怒った顔を独占して、なにが楽しいの?」
私は怒りの沸点が高いけれど、昨日からジュリシスに振り回され続けた結果、ついに限界を超えた。
頬を膨らませ、ジトッとした目で睨みつける。
怒っているのに、なぜかジュリシスは相好を崩した。
「そう、その顔! すごく可愛い」
「どこが? 全然可愛くない!!」
「可愛いよ。ぷくっと膨らんだほっぺも、上目遣いの目も、たまらなく大好き。なんでルイーゼって、こんなに可愛いんだろう。怒り方選手権があったら、優勝するんじゃないかな」
「そんな選手権ないから!」
なにを言っているんだと呆れていると、ジュリシスの人差し指が私の頬をツンと押した。
「ぷにぷにして、柔らかい。毎日、ツンツンしてもいい?」
「イヤだー。ほっぺたに穴が開いちゃう」
「手加減するから大丈夫。そうだ、あれやってよ。ジュリアーノの怒り方」
「イヤだよ。ジュリアーノは三歳だからいいけれど、私がやっても変だもん」
「そんなことない。ルイーゼなら、絶対に可愛い」
「イヤですぅ。やりませーん!」
「ダメか……見たかったな……」
ぽつりと響いた、寂しそうな声。ジュリシスがうなだれるものだから、可哀想になってしまった。
「もうっ、一回だけだからね!」
「いいの? ありがとう!」
顔を上げたジュリシスの瞳がキラキラと輝いているものだから、やっぱりダメとは言えなくなってしまった。
恥ずかしいが、こうなったら本気でやるしかない。私はだいぶ、弟に甘い。
息を吸うと思いっきり頬を膨らませ、拳をぶんぶんと振る。
「もぉ、おこったじょー! ぷんぷん!」
「あーっ、可愛い!! ルイーゼ、最高!!」
ジュリシスは喜んでいるが、私は穴があったら入りたいほどに恥ずかしい。
急いで話題を変える。
「そういえば! ウェルナー先輩から、アライグマみたいで可愛いって褒められたことがある」
「それ、褒め言葉じゃない」
「そうかな? しましま尻尾が可愛いよ」
「アライグマは見た目は可愛いけれど、性格は凶暴。噛みついたり引っかいたりするし、人に感染する病原体を保持している場合もある。ウェルナー先輩は、ルイーゼはアライグマみたいに凶暴だから、近づきたくないって言いたかったんだと思う」
「そんなわけないから! 塀にぶつかってしまえっ!」
肩をぶつけ、家を囲っている塀へとジュリシスをグイグイ押していく。
あともう少しで塀にぶつかるというところで、ジュリシスが押し返してきた。
「ほら、凶暴な性格をしている」
「私がアライグマなら、ジュリシスは狼だよ!」
「いいえ、人間です。お姉さんの目には、僕が狼に見えるんですか? 見えるんだとしたら、眼科と精神科に行ったほうがいいです」
「急に真面目にならないで!」
ジュリシスが笑い、私もおかしくなってしまった。
ジュリシスは押すのをやめると、歩道から飛び出そうになった私の手を引っ張った。
「ありがとう。……ねぇ、惚れ薬の効果が切れても、私たち仲良くしよう」
「うん、仲良くしたい。他愛ない会話をたくさんしよう」
「今から言っておきますけれど、政治とか経済とか人権とか。そういうのを、他愛ない会話とは言わないからね」
「わかっている。あれは、わざと言った」
「意地悪で?」
「違う。話題になっている事象を語り合うことで、小論文を書くのに役立つと思って。お姉さん、小論文苦手だから」
「……そういう優しさは、いらないかな……」
リタが言っていたように、ジュリシスは本当は優しい。けれどその優しさは、すごくわかりにくい。難解なパズルのよう。でも、パズルのコツを掴むと解けるように、ジュリシスを知ると優しさが見えてくる。
ジュリシスをもっともっと、知りたい。
「もう、お姉さんって呼ばなくていいよ。十分に満足した。同じ一年生だもん。同格でいよう」
私の願望を押しつけたくない。ジュリシスの気持ちを大切にしたい。
そう思ったのに、ジュリシスはためらいの表情を見せた。
「僕たちは誕生日が三ヶ月違う。たった三ヶ月なのに、ひどくもどかしい。年下なのが悔しくて、生意気なことをたくさん言った。……意地悪なことばっかり言って、ごめん。反省している」
ジュリシスの目元がピンク色に染まる。
「これからも、お姉さんって呼びたい。今日一日、楽しかったから。甘えるって、いいね。……いや、やっぱりダメだ。僕が甘えるとか似合わない」
「いいんだよっ! たくさん甘えて!!」
以前、母が話してくれたことがある。
「私は、未婚でジュリシスを産んだの。そのせいで、寂しい思いをさせてしまった。ジュリシスがしっかり者に育ったのは嬉しいけれど、私を心配させないために、あの子は我慢することを覚えてしまった。甘えたかったとき、たくさんあったと思う」
私も片親だけれど、甘えさせてくれる祖父母と使用人がいた。だから、寂しい思いをしたことがない。
みんなからもらった愛と優しさを、ジュリシスにも分けたい。
「どんなふうに甘えてみたい?」
「どんなふうに……。お姉さんはジュリアーノに、おやすみなさいのキスをしているよね。いいなって……」
「そっかー……。うん、わかった。ジュリシスにも、おやすみなさいのキスをしてあげる」
「いいの?」
「いいよ。弟だもん!」
「……ありがとう。弟になって良かった」
ジュリシスの目元を染めていたピンク色が広がっていく。大変に愛い。
ちょうど家が見えてきた。ジュリアーノが門の前で、小石を地面に擦らせて遊んでいる。
「ただいま」
「あっ! おねえたん!!」
ジュリアーノは手に持っていた小石を放り投げると、一目散に走ってきた。
勢いよく飛び込んで来たジュリアーノを受け止め、頭を撫でる。
「あしょんで!」
「うん! なにして遊ぶ?」
「あなほり」
「いいよ」
「にわ、いく!」
「着替えるから、少し待って」
「うん!」
三歳児の小さな手が、私の人差し指をぎゅっと握った。
可愛いなぁとニマニマしていると、隣に寂しさを感じた。
「あれ? ジュリシスがいない」
振り返ると、ジュリシスが悲しそうな顔で佇んでいる。
「どうしたの?」
「……手……」
「手? あぁ、手を繋ぎたいのね。いいよ。おいで」
まるで犬が尻尾を振るかのように、ジュリシスが喜び勇んで駆けてきた。
差し出した左手に、ジュリシスの指が絡まる。
(恋人みたいな繋ぎ方……。惚れ薬が切れた後、半殺しにされないよね?)
どうなるかわからない未来を、今は考えるのはやめよう。
私の左手にはジュリシスがいて、右手にはジュリアーノがいる。どちらも大切で可愛い弟。私は世界一幸せな姉だ。