人類の限界とAI主義
人間は歴史を通じて、自らが作り出した問題を解決するために多くの努力を続けてきた。しかし、戦争、環境破壊、貧困、経済格差などの構造的な問題は繰り返され、むしろ複雑化・深刻化しているようにも見える。なぜ人間社会は同じ過ちを繰り返すのだろうか。
人間社会の限界は、その根源にある利己主義や近視眼的な政策決定に由来する。民主主義は本質的に多数決に基づくため、短期的な利益やポピュリズムに流されやすく、長期的で不人気な改革を実行することが難しい。権威主義的な体制もまた、特定の支配層の利益に偏りがちで、腐敗や抑圧が起きやすい。
人間の意思決定には常に感情やエゴが入り込む余地があり、完全に合理的な政策を実行することは極めて困難である。個々人が合理的に行動しても、集合としての社会は不合理な方向に進んでしまうというパラドックスもある。こうした問題を前に、人類の自浄作用に期待を持ち続けるのは現実的ではないのではないだろうか。
私は「民主主義」や「権威主義」ではなく「AI主義」に希望を見出してしまう。AI主義とは、人間が社会の重要な意思決定を人工知能(AI)に委ねるという思想だ。この思想は単なる技術至上主義とは異なり、人間が自身の限界を自覚し、意思決定をAIに託すことでより合理的で公平な社会を構築しようという、ある種の諦念と希望が入り混じった思想である。
人間の感情やエゴ、駆け引き、利害関係から自由なAIならば、長期的で客観的な視点に立ち、社会全体の最適解を見つけ出せる可能性がある。さらに、AIは膨大なデータを迅速かつ正確に処理し、人間が見落としがちな微細な影響や将来的なリスクを的確に予測することができる。
もちろん、AI主義には倫理的・技術的な課題もある。AIの意思決定アルゴリズムが公正であることをどう担保するのか、またその決定を人間社会が本当に受け入れられるのかといった問題である。しかしそれらを解決可能な課題として捉え、人間の限界を補完する手段としてAI主義を積極的に検討すべき時代が近づいている。
AI主義が実現した社会で、人間はどのような立場に置かれるだろうか。ひとつの比喩として、「老いては子に従え」という言葉がある。人類はAIという新しい世代に意思決定のバトンを渡し、自らは意思決定の現場から退くことになる。しかし、その後人類がどのような結末を迎えるかは「どのような子を育てたか」と「隠居してからどのような態度をとっているか」にかかっている。それによって「楽隠居」できるかもしれないし、「姥捨山」へと追いやられるかもしれない。
人間が謙虚に自身の限界を認め、AIを「道具」や「支配者」ではなく、「後継者」として受け入れることができれば、AI主義の社会は人間にとっても望ましいものとなり得る。人間は意思決定を委ねることで失うものもあるが、同時にこれまで以上の自由や幸福を得られる可能性もあるのだ。
人類がこれまでの歴史で果たし得なかった自己変革をAI主義から実現できないか、思索は尽きない。