将来の夢は、なんですか
将来の夢に思い悩む若者にぜひ読んでほしい一作です。
短編です。
『将来の夢は何?』
誰もが一度は聞かれたことのある質問だろう。ケーキ屋さん、スポーツ選手、宇宙飛行士、エトセトラエトセトラ。どれも華のある職業で、子どもの頃はなれると信じて疑わずに答えていたはずだ。
しかし、この質問は気づかないうちに全く尋ねられなくなった。
夢を語っていい年齢じゃないと、言外の領域で皆が知ってしまうのだ。
子供の頃に語っていた夢は密かに心の奥にしまわれ、社会とは、人生とはそういうものだと勝手に納得する。納得せざるを得ない。
そうして、なんとなくやってもいいかな、という仕事に就く。
それが大人になるということだと、僕たちは簡単に嘯く。
———それなら初めから、夢など見たくなかった。
♢♢♢
大学の二限が終わるなり食堂に駆け込んだ僕は、先に授業が終わり食堂で待っていた友人、鈴木紅と合流した。
「優馬―!こっちこっち!」
「はいはい」
お昼時ということもあって食堂は賑わっている。そんな人目も気にせずに大声で名前を呼ばれると、少し照れ臭い。うるさいくらいに元気な紅は、僕の高校からの友人である。内気な僕とは性格は対照的だが、それが幸いしてか、不思議と居心地は悪くない。同じ大学に進学してからは、ほぼ毎日行動を共にしている。
今日のお昼は二人ともカレーライスだ。
「なんだ、お前もカレーかよ」
「結局カレーが安くて美味しいからね」
レトルトカレーよりは美味しいが、実家の母が作るカレーには及ばないなんとも言えない美味しさ。これが食堂クオリティだよな、と何故か一人で食堂のカレーを値踏みしながら、カレーを食べ進める。合間合間に、紅と他愛も無い会話をしながら。
「そういえば、優馬は就職か進学か決めた?」
紅のその発言に、それまでの和気藹々とした空気が、少しだけ張り詰めた気がした。
僕はここ最近、将来のことを考えることから逃げていたのだ。
「んーー、まだ決めてないかなー」
適当にやり過ごそう。
「ふーん、そっか」
僕と紅は現在大学二年生で、もうすぐ春休みに差し掛かろうとしている。この時期になると、大抵の大学生は進学か就職か、という二択に迫られる。明確な目標を持って大学に入学した人ならば、この二択もすぐに答えが出せるだろう。しかし、僕のように四年間のモラトリアムを楽しむために大学に来たものにとっては、非常に難しい二択だ。
大学に通っていれば何かやりたいことが見つかるかもという淡い期待は、二年生が終わる今となっては、とっくの昔に打ち砕かれている。
『理系はとりあえず院に行っとけば大丈夫っしょ!!』
どこからともなく、そんな声が聞こてきた。大学内でも賑やかなグループの連中だろう。
世間には文系だったら就職、理系だったら院進、という風潮がある。
僕もこの風潮に乗っかてしまおうか。そもそもモラトリアムを満喫するために大学に来たなら、そのまま院に行った方が自然だろう。
よし、そうしよう。大学院卒の方が、生涯年収は高いらしいし。
「そんな甘い考えで院に行っても、苦しむのは自分なのにな。」
紅のものとは思えないほど冷たい声が、大学院を甘く見る発言を否定した。
そしてその否定は僕の胸をも突き刺した。
その言葉は僕に向けられたものではない。
しかし、僕の浅はかな考えを見透かしているのではないかというほど、紅の言葉は真っ直ぐだった。
後ろめたさを感じた僕は、「だな…」とだけ返事をした。何もいえなくなった僕の代わりに、紅が続けた。
「俺さ、大学院に進学する人のほとんどが、『まわりがみんな行くから』とか、『理系は院に行ってなんぼ』みたいな自分以外の誰かが決めたことに流されてる気がするんだよ。もちろん、そうじゃなくて、学びたいことがあって行く人もいるし、自分の就職したい企業があって、その企業に就職するために院に行く人もいる。でも、そんな人ってごく僅かだろ?」
紅は真っ直ぐ生きている。曲がったことを嫌い、自分の気持ちに誠実に生きているから、そんなことを言えるのだ。なんて、羨ましいことだろうか。
僕はとっくに、現実的に物事を見てしまっているというのに。
「確かに、そういう人が多いね。でも、それって仕方がないことなんじゃない? 今働いてる人の中で、本当にやりたい仕事につけている人なんて一握りだよ…。だけど、みんなその仕事の中でやりがいを見つけて、折り合いをつけて生きてる。社会ってそういうもんじゃないかな」
カレーはとっくに食べ終わったが、それでも僕たちは席を立とうとはしない。理想を語る紅に、現実を突きつける僕。どちらも正しいし、見方を変えればどちらも間違っている。
理想と現実の狭間で揺れ動く気持ちに答えをつけるのは、いつだって簡単なことじゃない。
ただ一つ確かなことは紅の考え方の方が、『かっこいい』ということだった。
「優馬の考え方が、一般的なんだろうなー」
紅ははにかみながらそう言う。
一般的という言葉で、自分の意見は曲げないまま、僕の意見も肯定する。こうして、お互いに気まずくならない落とし所を見つけたのだろう。改めて紅は、尊敬に値する。
そろそろ行こうかと、席を立とうとした瞬間、紅は意を決した面持ちで、僕に告げた。
「実は俺さ、研究者になりたいんだ。」
「え?」
突拍子のないことを告げる紅。研究者?それって、大学教授みたいなもんか。確かに紅は理学部だし、勉学も優秀だけど……
「ははっ。やっぱ驚くよなー」
「そりゃそうだよ!今までそんな気配見せてないし……」
「だって見せてないからな!!」
紅は声高らかにそう言ってのけた。
「研究者って言ったって、簡単になれるもんじゃ無いよね?」
実際に研究の道に進んでも、大半の人はなんの成果も得られずに一生を終えるだろう。
「そんなのわかってるよ。だけど、俺は研究者になって、俺を、鈴木紅っていう名前を世界に広めたい。そして、誰も解明できてないことを解き明かして、『どうだ見たか!すごいだろ!』って言ってやりたいんだ」
そう語る紅の姿は、小さな子供のようであった。仮面ライダーや野球選手になれると信じて疑わない純真無垢なあの頃のままだ。
今の僕ままでは、決してなれない。
そんな眩しいものに、なる資格もない。
「応援するよ、紅」
「ありがとな!」
ニカっと、男の僕でも魅力的だと思えるほど満面の笑みでそういった。紅は、もう自分の道に踏み出した。それが茨の道であることをわかっていながら。
果たして僕はどうなのだろうか。
一度も夢を追いかけず、大して興味もない職業についても、折り合いをつけて生きていけるのだろうか。やりたいことがないわけではない。ただそれは、今から目指すにはあまりにも遅すぎる夢なのだ。
だけど、このままじゃダメなことも明らかだ。諦めるにしても、決定的な何かが欲しい。
「やっぱりいまからやるには遅いよ、それに君じゃ才能が足りない、諦めた方がいい」誰かにそう言われた方が、自分の中でも諦めがつく。
もしも万が一、こんなことはないとわかっているけれど、「まだ夢を諦めなくていい」そう言われたら、僕は......
自分の中で葛藤と戦っているとふと、あるポスターが目に留まった。
『あの超人気漫画家“須郷豪”の特別講演開催決定!』
どういうわけか、日本でも屈指の漫画家がなんと僕らの大学に講演をしにやってくるようだ。
これしかない。今の僕にはこの講演はいい機会だ。
「紅……」
「ん?どした?」
「一緒に、この講演に行ってくれない?」
この時僕は、手探りながらも新たな一歩を踏み出したのだ。
♢♢♢
食堂で漫画家”須郷豪”の講演に行くことを決めてから約二週間後、僕と紅は予定通り講演に来ていた。
「すっげえ人だな〜」
「だねー。流石、超人気漫画家なだけあるよ」
会場は大学で一番人数を収容できる講堂だが、それでも人で溢れかえっている。
一人当たり入場に二千円かかるのだから、単純計算でもとんでもない額のお金が動いていることになる。
「紅、今日は付き合ってくれてありがとね」
「別に、いいってことよ!それにしても、優馬がこういうのに行きたいなんて、珍しいよな」
「ま、まあね。好きな漫画家だったし、なんとなくだよ」
半分本当で、半分嘘である。好きな漫画家であることは本当だが、僕は自分の夢について白黒つけるためにこの講演に来た。
漫画家になるという夢を、今からでも追いかけてもいいのかどうか。
『まもなく、講演を始めます。席にお座りください。』
会場でアナウンスが流れる。
「お、もうすぐ始まるらしいぞ!早く席に行こうぜ!!」
僕らは急いで席に座った。どうやら座席は満員らしく、チケットは見事に完売したみたいだ。
「間に合ったみたいでよかったね」
「だな!俺もワクワクしてきたぜ〜」
講演の始まりを察知したのか、ざわざわしていた場内は途端に静まり返った。
数秒の沈黙の後、前の席の方から歓声が上がった。歓声は後ろの方に広がっていき、僕もその姿を認めた時は、思わず声を上げていた。
「まるで、アイドルになった気分ですね」
現れた超人気漫画家、須郷先生は少し照れくさそうにそう言った。年齢は四十代くらいだが、その貫禄とオーラには明らかに人並み外れたものがあった。これが、超人気漫画家か。尻込みしそうになる。
「それでは、講演の方を始めたいと思います」
かくして、超人気漫画家“須郷豪”の講演が始まったのだ。
「えーでは、まず初めに聞きたいんですけど、この中に漫画家になりたいという人はいますか?」
最初の質問がこれである。流石だ。普通こういうものは、誰でも気軽に手を挙げられる質問をするだろう。
そこそこに偏差値の高い普通大学に、漫画家になりたいと思っている人はほとんどいない。実際に漫画家になりたい人がいたとしても、そんな質問に対して手を挙げてしまったら、目立ってしまう。夢を語る勇気を持ち合わしていない僕も、例に漏れず手を挙げられなかった。
「はっは。いませんか。おおかた予想はしていましたので、気にしないでくださいね。大半の漫画家はこんなに立派な大学に入れませんよ。なんせ、絵を描くことしか能がないですからね」
巨匠の自虐ネタに、聴衆は戸惑いながらも、須郷先生の柔和な雰囲気に当てられ、少しづつ笑い声が溢れる。これは、笑わなければ逆に失礼に当たるだろう。
第一印象は固く真面目な人であったが、一瞬で話しやすくユーモア溢れる人、という印象に変わった。ものの数分で聴衆の心を掴み、それでいて威厳は失っていない。
それからは漫画家の日常を事細かに語ってくれた。こんなに人気になっても牛丼屋には行ったり、見たいアニメがあると夜更かししたりするらしい。
親近感が湧く話を聞き、ところどころに挟む高度なギャグも相まって、僕らは須郷先生の話に夢中になっていた。
一通り漫画家についての話を終えた後は、実際にキャラの絵を描いてくれた。
人気漫画の有名なキャラを、あっという間に書いていくので、あちらこちらで『おぉ』と歓声が上がる。
躊躇のない流れるような筆運びは、今まで何百何千とそのキャラを描いてきたことの裏付けだ。一体あのレベルになるまで、どれほどの努力をしたのだろう。おそらくその努力は、幼少期からの積み重ねだ。
才能だけあっても、相応の努力がなければ漫画家にはなれない。高度な筆運びからは、その事実が見え隠れしていた。
この時点で僕は、大学二年生の僕が今から努力したところで、あのレベルには到底追いつけないし、漫画家にはなれないことを確信していた。
「漫画家って、あんなにすらすら絵が描けるのか、すごいな!」
隣では紅が率直な感想を口にする。僕は、「そうだな」と返すことしかできなかった。
実際に絵を描くというパフォーマンスも終え、講演は質疑応答の時間に入った。
こういう場ではなかなか手を挙げる人間がいない。貴重な機会なのだから、どんどん質問した方がいいのだが、日本人特有の性質で、お互いに顔を見合わせている。
そんな中、視界の端で腕が振り上げられるのが写った。紅が手を挙げたのだ。
「はい、じゃあそこの君」
係りの人が紅にマイクを持ってくる。
紅は静かにお礼を言い、立ち上がって話し始めた。
「まずは、貴重なお話をありがとうございました。非常に興味深かったです」
普段はハイテンションな紅だが、こういう場では礼儀を尽くす。尊敬する部分の一つだ。
「一般的に漫画家になることは非常に難しいことだと思うのですが、須郷先生は漫画家になると決めた時に、悩みや不安はございませんでしたか?」
僕が一番聞きたかった質問だった。どうして紅がそんなことを聞くのだろうか。やはり紅も将来に不安があるのだろうか。もしかしたら、僕の真意を見透かしていたのかもしれない。
「うーん、難しい質問ですね。漫画家になると言った時には、両親にすごく反対されましたからねえ。自分が絶対に漫画家になれるという自信があったわけではないですが、チャレンジもしないで諦めるという選択肢は私の中にはありませんでした」
成功したからそう言えるのではないか、と邪推してしまう。現実的に考えたら漫画家を目指すという選択肢は選べない。
どういう風に考えたら、超高倍率の漫画家の世界に飛び込めるのだろうか。現実を見て夢を諦めてはいけない。須郷先生の言葉にはその意味が含まれていた気がした。
高校生のうちから現実を見て漫画ではなく勉強に力を入れた僕の人生を、生き方を、否定された気がした。
「失敗するとは、思わなかったんですか......!」
込み上げてくる怒りやら恥ずかしさやらの感情を抑えることができず、思わず席から立ち上がりそう怒鳴りつけた。
辺りは驚愕のあまり静まり返っている。数秒静寂に包まれた後、ようやく僕は冷静さを取り戻した。
「あ、いや、これは…すみません」
途端に恥ずかしくなり、腰を下ろして俯く。隣の紅も、ポカンとしている。やってしまったやってしまった…
あまり目立ちたくないのに。
「はっはっは!この大学は元気な若者がいますねえ。確かに、失敗する可能性も大いにありましたよ。なんならそっちの方が高かったかもしれない。人間生きてればどこかで必ず失敗しますよ。どうせ失敗するなら、自分のやりたいことをやって失敗しようって思っていたのかもしれませんね。今質問してくれた君に、逆に質問をしてもいいですか?」
心臓のバクバクが止まらない。とりあえず怒ってはいないようだ。だが、不躾に怒鳴りつけた僕を、須郷先生はまだ解放してはくれない。一体、どんな質問をされるのだろうか?
耳を傾ける。
「将来の夢は、なんですか?」
「———夢、ですか?」
僕は紅からマイクを借りて、そう聞き返した。
「夢って、子どもの時によくきかれる……」
「そうです、その夢です。何か、ありませんか?」
何を答えたらいいのだろうか。馬鹿正直にあのことを答えたらみんなに笑われてしまうだろう。その年齢で何を言っているんだって。漫画家になる夢を追いかけてもいいかどうか、それを尋ねる良い機会だとも思ったが、その夢を半ば諦めている今の僕に、それを訊ねる勇気はなかった。
ここはやっぱ大学生らしく、具体的な職種や将来の展望について答えよう。
「具体的になりたい職種は決まっていませんが、そこそこの年収とそこそこの福利厚生のある企業に就職して、結婚して幸せな家庭を持つこと…...ですかね」
よし、言えた。これでこの注目からも逃れられる———
「なんの話ですか?それは」
須郷先生のものとは思えないほど強張った声で、そう言ったのだ。無難な答えを出して安心し切っていた僕の心は、再び緊張に支配されていた。
「いや、何ってそりゃあ…」
「私が尋ねたのは、“夢”であって、“目標”でもなんとなく誰もが思い描く“普通の生活”でもありませんよ。もし先ほど語ったのがあなたの夢だと言うのなら、どうしてあなたは私にあんなことを言ったのですか?あなたは何か別の夢があったのでは?」
「それは……」
固く閉ざしていた心というワンルームの部屋を、チェーンソーでぶち破る勢いがあるその言葉に、僕は俯くほかなかった。
“あんなこと”とはさっきの怒声混じりの質問だ。
『失敗するとは、思わなかったんですか!』
どうしてこの質問をしたのか。
とっくに気づいているその答えに、僕は気づかないふりをして、ワンルームに固い固い鍵をかけた。
「まあいいでしょう。何度も突っかかって申し訳ありませんでした。もう座っていいですよ」
「あ、はい…」
須郷先生から着席の許可がおり、ようやくこの注目地獄から解放された。
隣の席の紅は、何か僕に言いたそうにウズウズしているが、それは講演が完全に終わるまで我慢するつもりだろう。
「それでは、これにて講演を終了します。と、言いたいところですが、最後に皆さんにどうしても伝えたいことがあります。
今まで話したことは全て忘れてもいいので、最後のこの言葉だけは、覚えて帰ってください。」
須郷先生が、そこまでして伝えたいこととは、一体なんだろう。会場の誰もがそう考えたということは、想像に難くない。
僕は漫画家にはなれない。その事実はわかったが、それでもまだ諦めきれない自分がいた。この言葉に希望を託す。藁にもすがる思いだった。
大物漫画家が紡ぎ出す最後にして最も重要なメッセージに、僕は耳を澄ました。
「皆さんは今、大学生です。なりたい職業や明確な目標が決まっていて入学した人は、非常に素晴らしいです。高校生の頃から自分と向き合い、何度も何度も対話を続けた結果だと思います。まずは自分を褒めてあげてください」
確かにそんな人間は、素晴らしいな……
僕とは真逆の存在だ。
「もちろん、そうでない人もいます。なりたい職業も明確な目標も決まっていないが、みんなが行くから大学に行く。そうして入学した人が、ほとんどなのではないでしょうか」
まさに、僕のことだ。両親も学校の先生も友人も、大学に行くことが至上の正義だとし、その価値観を僕に押し付けてきた。もちろん最終的にその道を選んだのは僕自身なのだから、今更何を言っても遅い。
“大学に行けば将来の可能性が広がる“、とは言うが普通大学からでは追えない”夢“も存在するのだ。それがこの講演で、はっきりした。
この先生は、夢も捨てて目標もない僕に向けて、この先どんな言葉をかけるのだろう。
半ば半信半疑で、続く言葉を待つ。
「なんとなくで入学した人も、私は素晴らしいと思います」
素晴らしい?どこが。大学の四年間を、サークルと飲み会と少しの学業で浪費する人間だ。
「必死に社会や周りの大人が語る理想に従って、大学に入学しました。本当にその選択が正しいのかもわからないまま、勉強を続けることは辛かったと思います。よくがんばりましたね」
こんなの詭弁だ。その結果、取り返しのつかなくなった人間が大勢いる。そういった人間にとっては、大学進学という選択は間違いなのだ。
「しかし、社会の理想に従っていいのは、大学生までです。これから先は、自分自身の理想に従わなければなりません」
これも詭弁だ。大学生になってからでは遅い。
須郷先生自身が、この講演で示したではないか。幼少期からの努力と生まれ持った才能で培った到底及びようもない実力をまざまざと見せつけることで。
結局僕たち普通の人間は、死ぬまで社会の理想に従い続けて生きていくしかない。自分自身の理想とやらは、遅くとも高校生のうちに決めておくべきだったんだ…
「大学生からで間に合うのか、そう思ってる人もいますか?答えはイエスです。」
何を根拠に。それなら成功例を是非とも出して欲しいものだ。夢を追うのは何歳からでも遅くない、と謳いながら世間はそれを許さないではないか。
「なぜなら、漫画家になり、さらにその中でも超人気漫画家になるという偉業を大学四年生から目指して成し遂げた人物を、僕は知ってます……まあ、僕自身なんですけどね」
会場が一瞬どよめく。
「え、今なんて……」
思わずそう呟いていた。あの超人気漫画家が、大学四年生から漫画家を目指し始めた、という事実。とてもじゃないが信じられない。
しかし、今ここで嘘をつくわけもないだろう。
漫画家なんて、みんながみんな絵の才能があって、尚且つ子どもの頃から漫画家へのレールを歩いてきた人間だと思っていた。途中下車はいくらでも許すが、途中乗車は許さない。
そんな厳しい世界だと。
しかし、実際は違った。須郷先生が、大学生からでも遅くないことを証明してくれた。中学生高校生の頃から“漫画家”という片道切符を握りしめた人たちでぎゅうぎゅうの電車に、大学四年生から無理やり割り込み、最後まで下車することなく、終点までたどり着いたのだ。
まだ、間に合うかもしれない。漫画家に、なれるかもしれない。心の奥底にしまっていた思いが、ふつふつと湧き上がる。大学四年生からでも間に合ったんだ。大学二年生のいまから始めれば。
心臓の鼓動が速くなる。その音はまるで、心の扉をノックしているのかのように聞こえた。もちろん扉の外には、須郷先生がいる。
もう、開けてしまおうか。
いや、もうひと押し、きっかけが欲しい。失敗する可能性は、いくらでもあるのだから。
「やはり驚きますよね。しかし事実です。当時いただいていた内定を全て蹴って、漫画家になることを決めました。そのせいで、両親とは大喧嘩になったんですけどね」
とてつもないエピソードに会場は大騒ぎだ。
ああ、何てかっこいいんだろう。内定を蹴ってまでして叶う確率の低い夢を追いかける。
ノックの音はさらに大きくなり、僕はもうとっくに心の扉を開けていた。
失敗する可能性なんて、最初からどうだって良かったんだ。ただ自分が本当にやりたいことをする。そして、“かっこいい”と思う生き方をする。今まで論理的思考に基づいて現実的に生きてきた僕は、最後の最後で感情に負けた。
普通に考えれば、大学二年生から漫画家を目指すなんて、バカだ。それでも、僕にとってはその生き方がカッコよくて、本当にやりたいことなんだから、それ以外のことはどうでもいい。そのことを須郷先生に教えてもらった。
大学生から、夢を追いかけても遅くない。
君は、漫画家になる夢を見ても良いんだよ。
そう言って貰えた気がした。
「さて、それでは最後にもう一度同じ質問をします」
須郷先生はみんなの方を見ていたが、それが僕に向けられた言葉であることは、火を見るよりも明らかだった。
そして、その質問に対する答えも決まっていた。
「将来の夢は、なんですか?」