薬師令嬢は司令官
「お嬢様、いらっしゃいました!」
「わかったわ、皆、気を引き締めて迎え撃つわよ!」
「エイエイオー!」
ヴァンハネン子爵家は広大な領地を持つ、田舎の貴族家である。
特産品はハーブと薬。
他国の業者とも取引があり、そこそこ儲かっている。
今、子爵夫妻は遠い国のジャングルで新種の薬種探しに励んでいた。
留守を守るのは一人娘のマーリト。
成人して間もないが、国でも一二を争う薬師として名を馳せている。
そんな子爵家の正門に馬で乗り付けたのは、五年間の戦から凱旋した若き軍人だ。
別大陸からの侵略者たちに対抗すべく結成された連合軍で一軍を率い、軍功を重ねて大陸中にその名を轟かすウルマス・エルッコラ将軍。
子爵令嬢マーリトの婚約者である。
「マーリト、今帰ったぞ!」
開門を待つのももどかしく、愛馬でサクッと高い門を飛び越えたウルマス。
その非常識さに、子爵家はもはや慣れっこ。
巻き添えになるような間抜けな使用人は存在しない。
「お待ちしておりましたわ!」
マーリトは微笑みを浮かべ、まだ距離がある婚約者にメガホンで呼びかけた。
ウルマスはその声に勢いを得て、馬に鞭を入れる。
「総員ガスマスク着用! 麻酔ミスト噴射! 最大出力!」
メガホンを外したマーリトは、使用人に指示を出す。
正門から玄関までの長いアプローチに等間隔で設けられた石柱には、ミストの噴射口が設けられている。
その全てが開き、空中に濃霧が生じた。
「おお、なんという素晴らしい歓迎だ!
熱く火照った筋肉を冷やしてくれるミストとは。
濃霧を抜けて愛しい婚約者のもとへ駆け寄る。
なんてロマンティックなんだ!」
ウルマスが感動に包まれる。
「まだ勢いは衰えないわね」
対するマーリトは冷静だ。
双眼鏡で、あちこちに配置してある使用人のサインを読み取る。
どのポイントでも『勢い衰えず』のサインを出していた。
そして。
「予想通り、先に馬に効いたわね」
中間ポイントから『馬、走行不能』のサインが出た。
「よし、これでウルマス様は徒歩になった」
徒歩、というより走り始めたウルマス。
だが、次第に速度は落ち、覚束ない足取りになっていく。
「ミスト、噴射止め!」
全ての霧が晴れた時、ウルマスは玄関前でバッタリと倒れていた。
マーリトは彼の側にしゃがみ込むと「お帰りなさい」と優しく、その髪を撫でたのである。
翌朝のこと、ウルマスは歴戦の将とは思えぬほど身を縮めて食卓についていた。
「いろいろ、手間をかけさせて済まぬ」
「いいのよ、素晴らしい実験が出来ましたから」
「久しぶりに、君に会えると思ったら、箍が外れてしまった」
ウルマスは戦地では滅法強いが、所詮は脳筋。
平時の感情コントロールに難があるのだ。
別に暴力的になる、というわけではないのだが、感情のままに突っ走られては受け手が怪我をする。
握手一つでいちいち骨折してはいられない。
そして、婚約者であるマーリトは、様々な場面で直接的に被害を受ける可能性が最も高いのである。
「大丈夫、ヒグマ五十頭の尊い犠牲で麻酔薬の実験は成功したわ。
副作用無しだから、安心して」
凱旋ハイで突っ走ったウルマスは、婚約者の薬によって朝まで爆睡した。
おかげですっかり冷静になり、大人しく朝食を口にしているというわけだ。
ちなみに、美味しくいただかれている料理には件のヒグマ肉が使われている。
しれっと人体実験に移行した新しい麻酔薬は、やがて医療用及び平和的軍事作戦用に広く活用されていくことになる。
やがて、国中から祝福されて二人は結婚する。
夫ウルマスは、妻をこよなく愛した。
自分の感情と力を適切にコントロールし、一時は諦めていた恋も結婚も子作りも、全てを叶えてくれた妻には、感謝しかない。
妻マーリトも、夫をこよなく愛する。
どんな薬でも、人間として最初の被検体になってくれるタフを極めた夫。
自分に出来る限り、彼の望みを叶えるのは当たり前のこと。
彼と出会えたことは、薬師である自分にとって大いなる僥倖であると感じていた。
時が経ち、それぞれの仕事から引退した二人は、その後も末永く共に暮らした。
加齢と共に増える、ちょっとした困りごと。
それをなるべく口に出して、互いに助け合った。
そして、どうしても解決しないことは、二人して大きく笑い飛ばす。
心に重い荷物を持たせないこと、それが幸福の秘訣だ。