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【完結】日曜日のアイリス  作者: 早坂凛
第五章 森の夜明けは涙と共に
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56話 逃げる理由

 明け方の森はまだ暗い。いつの間にか降り出した雨を痛む体に受けながら、イサミ・K・クローバーは暗闇に包まれた森を走る。行き先に当てはない。ただ彼女達から離れたかったのだ。セシリアの治療を受けたとはいえ、イゴールの仕込んだ毒は完全に抜けておらず、嘔吐感と目眩が激しく平衡感覚の乱れが酷い。加えて魔力切れ(ロスト)で疲弊した体で無理をしているため木の根に足を引っ掛けて何度も転倒する。

 雨で濡れた地面を転げ回るように駆けているため顔は既に泥だらけで、服と体も泥と小さな切り傷が多数できている。


「待ちなさいー!!」


 後方から聞こえる声は、クラスメイト世話焼きの級長セシリア・グリーングラスのものだ。全速力で走っているつもりだったが、体は限界に近く大して速度は出ていなかった。加えて何度も転倒している内に距離を詰められたようだ。


(もう放っておいて下さい……!)


 心の中でそう強く思った。走っていた道を急転換して、脇道に反れてセシリアを撒く。そしてしばらく走った後、木の窪みを見つけ、そこに横たわる様に体を預ける。


「うっ! ごぶっ……うっ……」


 毒の回る体で全力疾走をしたためか、激しく嘔吐物を吐き出すイサミ。いよいよ肉体が限界に達したのかガタガタと体が震え出す。


(このまま……)


 誰にも見つからず、このまま人知れず息絶えてしまいたい。イサミはそう思った。森に入ってからイサミは西洋騎士に力及ばず、上級魔族の手に堕ち、操られていたとはいえクラスメイトを斬りつけ殺そうとしたのだ。

 魔術にかかっている間は自我はなかったが、解術した今も記憶は鮮明に残っていた。自分の握った刀でフーラを斬りつけたのだ。人を斬ったことは決して初めてではないが、こうも生々しく感触を体が覚えていることはあの日以来だった。

 自責の念と自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだったがイサミの思い通りには事は運ばなかった。


「やっと……見つけましたよ……」


 セシリアが肩で息をしながら眼前に立つ。イサミと同じようにズブ濡れになり顔や服には細かい傷があった。彼女もまたイサミに追いつくために真っ暗な森を駆けてきたのだ。


「くっ……」 


 逃げようと体を無理矢理起こすがすぐに膝を着く。もう起き上がる体力も残っていないようだ。


「待って!」


 膝を着いて尚這うように逃げようとするイサミを後ろから抱き締めるように捕まえる。


「離して下さい!」


 イサミは力いっぱいに叫んだ。


「嫌です!」


 セシリアも負けじと大きな声を出す。イサミは地面にうつ伏せになり、後ろから抱きついているセシリアを引き離そうと必死に藻掻く。本来は体術に優れたイサミだったが、満身創痍の体では力ずくで捕まえるセシリアを振り払うことができなかった。


「くっ……いい加減に……」


 何とかセシリアを振り払おうと、無意識に振り上げた肘がセシリアの顔面を捉えた。


「あぐぅ……!」


 鼻横に直撃した肘打ちに思わずのけ反る。顔を押さえた手からは赤い血がぽたぽたと落ちる。


「あ……」


 セシリアの拘束から解放されたイサミだったが、逃げることはなかった。故意ではないが命の恩人であるセシリアに対して怪我をさせてしまったのだ。義理堅いイサミはセシリアを置いて逃げることがどうしてもできなかった。


「申し訳ありません……決してわざとでは……」


 いつもより自信のない声で謝るイサミ。顔を押さえるセシリアに近づくといきなりセシリアが覆い被さってくる。


「なっ!?」


 不意を突かれたイサミは真正面からセシリアに抱きしめられた格好だ。


「もう離しません」


 鼻から下を血に染めたセシリアが笑みを浮かべる。


「あの……止血を……」


「あなたの治療が先でしょう?」


 そう言ってセシリアをイサミを掴んだまま杖を魔法陣から出して毒抜きの治療を再開する。


「あの……もう逃げたりしませんから離して――――」


「だめです!」


 食い気味に答える。怯えたような目をするイサミをジト目で見る。イサミはついに諦めて体から力を抜く。そしてセシリアの治癒魔法を大人しく受け入れる。


「どうして……」


「はい?」


「どうして……私に構うのですか?」


「…………」


 イサミの問いにセシリアは答えなかった。何も話さずイサミの次の言葉を待つ。セシリアからの返答がないとわかると、イサミはぽつぽつと自分の気持ちを吐露していく。


「私はクラスメイト……特にあなたから好かれるようなことをした記憶はありません」


 イサミは学院に入学してから常にクラスメイトから一定の距離を保っていた。交流戦で目立つ活躍をしたこともあり、入学直後はクラスメイトからよく声をかけられていたが返事は必要最低限に留め、自分から話しかけることもほぼない。こんな態度を続けていく内に、嫌われこそしなかったものの徐々にクラスメイトとの距離は開いていった。


「なぜ……あなたは人と距離をとるのですか?」


 単純に人間嫌いな人も世の中には存在している。また極度のディスコミュニケーション等もあるがイサミはどれにも該当しない。授業や実技では、相手が誰であっても必要な会話はできている。誰に対しても礼儀正しく、フーラや王姉妹を助けたように仲間想いの一面もある。だからこそなぜ必要以上に他人と距離をとるのか、セシリアは知りたかった。

 セシリアの質問にイサミはすぐに答えなかった。俯いて何かを考えているようだ。イサミの表情には覇気がなく少し虚ろな顔になる。


「イサミ……?」


 心配して名前を呼ぶも反応はなく、気まずい空気がふたりの間に流れる。森に降り注ぐ雨音だけがこの居心地の悪さを誤魔化してくれた。そして数分が経った頃、イサミがぽつりと呟く。


「私は怖い……」



いつもありがとうございます!


五章突入です!

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