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メタリックブルーの讃美歌  作者: 前野親友
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フォレストDとの死闘

 第四章 フォレストDとの死闘



「まず最初に何から説明しましょうか? そうですね……まずは人類を凌ぐ文明を育てておきながら、人類が蟲の存在を感知できなかった理由から説明しましょうか?」

 そうだ、蟲はあるときを境に亡霊のように世に現れた。猿が人に進化したように、進化の神秘が蟲を霊長の高みに押し上げたとしても不思議はない。

 しかし猿が人に進化したように蟲も進化したのなら、長い長い時間が必要になるはずだ。

 文化を形成する過程で、人よりも圧倒的に無防備で未開な状態のまま人に発見されていないなんてありえない。

「こと知性において蟲が進化したのではなく、人が分化したのですよ」

「蟲が……人から分化だって?」

「グリフさんは猿がヒトに進化したキッカケが何かご存知ですか?」 

 唐突に話が変わった。この遠回りにも何か意味があるのだと感じて、グリフは思考を巡らせる。

「道具を使用する事を覚えて脳が発達した‥‥んじゃなかったっけ」

「それも要因の一つですね。ですが最も重要な進化のファクターはコミュニケーション手段の発展です。思考の論理化、抽象的概念の共有、知識の継承‥‥‥‥つまり言語の獲得、ですよ」

 聞いたことがある。言語獲得による進化トリガー仮説。そういえばアニーも言語を操りグリフ達と友人になっていたものだ。

「コミュニケーション技術の向上が進化速度に比例するとすれば、蟲は人類以上の、言語に勝る情報交換技術を獲得していたということですよ」

「なんだいそれは? 数式で会話でもしているってのか」

「精神感応力です」

 アンネゲルトの言葉はグリフにとって予想外のものばかりだったが、ここにきて斜め上極まれりだ。エスパー能力ときたか。

「テレパシーってことかい? はは、なんというか、コメントに困るね」

「現実の話です。突発的に変異が起きて虫の中にテレパシー能力を使える個体が出現した。その個体特性は一代で終わることがなく継承され、繁殖とともに特異な個体は増殖していった。そもそも虫という生き物は人類よりも圧倒的に進化のポテンシャルが高いのですよ。繁殖サイクルが速いから哺乳類にとっては突然変異レベルで絶える個体特性が、そのまま種族そのものの進化として継承されやすい。こうして進化した虫……蟲が誕生したのです」

 なるほど、卑近な例を上げると殺虫剤に耐性をつけるゴキブリもそうだ。ヒトには不可能なレベルで彼らは耐性をつけ、特性を獲得し、継承していく。虫の進化の可能性は、既に行き着く果てで立ち止まっている人類ごときの比ではないのだ。

「さて、グリフさんがテレパシー能力を獲得した蟲だとして、より高次元な思考能力を獲得するためには何をしますか?」

 蟲が一瞬にして人類と並んだ理由が、ようやく理解できた。そう、人間以下の生物がテレパシー能力を獲得すれば、人間以下ではなくなってしまう。

「……………人間の思考を読み、模倣する」

「そうです。蟲は人間と違って抽象化された概念すらも精神感応によって理解できてしまう。貪欲に人類の脳を覗き込み、人類が数千年かけて築き上げて来た叡智を獲得していった。ですが、ここで一つ問題が発生してしまいます。失敗してしまった。それは……」

 アンネゲルトは言葉を区切った。真実を告げることを躊躇っているようだ。彼女が口ごもる蟲の進化における失敗とは何だというのだろう。

「蟲の脳というハードに人間の知性というソフトを貪欲に詰め込んだ結果、人間の思考を人間の立場で理解してしまった結果、蟲が独力で進化していれば得られていたであろう魂の尊厳を掴むことなく人間の尊厳に触れてしまた結果……彼らの精神はヒトのそれになってしまった」

「…………は……い?」

「テレパシー能力は危惧すべき猛毒だったのですよ。蟲が人間の文化を乗っ取るのではなく、人間の精神が蟲の脳を乗っ取ってしまったのです。簡単に言うと、現在の蟲の倫理観は人間の倫理観であり、蟲が信じる魂の尊厳は人間の精神の尊厳であり、蟲にとっての幸福な世界は人間にとっての幸福な世界なのですよ。蟲の個体によっては同族の蟲が殺されるよりもグリフさんたち人間が死ぬことにストレスを感じる者もいます。しかも少なくはない数で」

「ちょっと待ってくれよ……それじゃあ、彼らは人間に近い精神の持ち主どころか……人間そのものなのか……?」

 グリフの頭の中で恐ろしい確信が育っていく。

「蟲は人間だったのか!」

「蟲は本能によって同じ蟲との間に子を宿しますが、ほとんどの個体がこれに嫌悪感を抱いています。彼らの大半は同族である蟲よりも、人間の異性と愛し合いたいと願っている。蟲である己を嫌悪し、今すぐ死んで人間に転生したいと望んでいる。ええ……その通り。蟲は人間なのですよ」

「それは……人間を殺すときに人間型のロボットを使用する謎のルールにも関係しているのかい?」

「そうです。蟲は強烈な自己嫌悪感情の裏返しとしてヒトのイメージに神性に近いモノすら抱いています。蟲が神に等しい人間を殺すには、同じように神になるしかない。人間の形を模したロボットに乗ることではじめて、蟲は精神的に人と対等になれるのです。そうやってはじめて、殺せるのです」

 グリフの横に座っていたトーゲが立ち上がった。驚くばかりのグリフと違い、彼女は事実を受け止めて向き合うべきスタンスを固めているようだった。

「そうね。アニーの態度はとても人間らしいものだったわ。エルウィンやグリフには思春期の女の子が意中の男の子にそうするように媚びていたし、恋敵になりえる私にはコンプレックスを打ち明けて懐柔しようとしていたわ。姑息に立ち回る様が本当、抜け目のない女の子だった。ええ、そこは認めてあげる。アニーは私よりもずっと人間の女の子だった。今もそうやって人間の皮を被って私達の顔色を窺うあたり、本当に汚らしい人間そのものよ。ねえアニー」

「私は人間のアンネゲルトです。アニーの友人ではありますが、彼女とは別人です」

「いいえ、あんたはアニーよ。……ねえ、アニー? それでもやっぱり蟲は人間の敵なのよ。蟲が人間なら、どうして蟲どもは人間に戦争を仕掛けたりしたの?」

「それは……その……人間の中にも人を人とも思わないサイコパスがいるように、蟲の中でも冷酷で権力欲の強い個体がリーダーシップを発揮したからです。人間の戦争と同じです。一部の扇動者によって不幸な戦争が始まってしまう。当時の我々も一部の過激派に扇動されて……」

「でも止めなかったのよね?」

「仕方なかったんです。蟲達は自己防衛の本能から過激派の意見も、ある程度は必要悪であると……」

「必要悪で人間型のロボットを作って人間を殺しにかかったんだ?」

「威嚇のためです。犠牲を一切出さずに戦線を維持なんてできません。人間が蟲の精神的脆さに気づいたら、弱点を突き放題、キルヒェンリートの擬人システムなんてその最たるものじゃないですか? これ以上、蟲達を苦しめるというのですか?」

「人間の演技をするなら、人間の都合で語りなさいよアニー。私達はね、あんたらの都合なんて知ったことじゃないのよ。あんたらが安全に暮らせる場所が欲しいって都合で人間から土地を奪おうが、こっちには奪われた事実しかないの。人間以下の敵の分際で人間ヅラして同情を誘うな気持ち悪い!」

「…………そうですね、蟲達はヒトを攻撃し、奪いました。これについては恨まれても仕方がないです」

 アンネゲルトはトーゲの怒りを受け入れた。しかし黙りはしなかった。

「ですが和解を望む勢力があることは事実ですし、アニー達穏健派の都合と人類の都合は重なっています。蟲との和平を拒絶すれば、このまま過激派の思惑通りに人類は滅ぼされてしまいますよ。それでもいいのですか?」

「えーっと、ちょっといいかな?」

 グリフは修羅場に割って入った。蟲の事情やら背景やらは理解できたが、当面最大の謎が残されたままなのだ。

「そもそも冬の眠り作戦って何だい。蟲の過激派が仕組んだ計画って言っていたよね。蟲が人間に蟲達の土地を核爆撃させるって、意味不明な自爆じゃん。せっかく手に入れた安住の地を自分で壊すってことだろ?」

「扇動のためです。蟲達の主流意見は人類を滅ぼすべきではない、可能ならば共存するべきだ……というものです。自分達の安全の確保という題目で大陸から人間を追い出したのは良いものの、それ以上の過激派の暴走を許しはしなかった」

「なるほどね。人間からの核爆撃を実際に食らってしまえば、蟲は人類を外敵だと認識して恐怖するし、人類への攻撃も種を守るための善行だと正当化されてしまう訳だ。過激派の望む通りに蟲の世論はコントロールされてしまう」

 大衆を操作するには熱狂させればいい、とはアドルフ・ヒトラーの言だったか。

 蟲の過激派が人間を操り、意図的に蟲に対して大ダメージを与えることで人類を滅ぼして良い対象だと印象操作する。回りくどいが、こういったプロセスを踏まなければ人間と本格的に戦争できないぐらいに蟲は争いを望んでいないのだろう。

「…………つまり、このままゲルプ隊が南アメリカに爆撃を仕掛けると、蟲過激派の手のひらの上で人類が滅ぶ、と」

 そうだ、まだ人類絶滅の危機は過ぎ去っていない。

 冬の眠り作戦は完全に中止になってはいないのだ。

「信じていただけますか?」

「信じるに決まっているさ。地球は汚染されないし戦争は終わるし万々歳じゃないか。むしろ真実じゃなければ困るよ。それに……」

 グリフは不敵に笑う。ああ、これは美味しいシチュエーションなのだ。

「人類と蟲の和平のためのフライトってさ、子供の頃の夢が続いているみたいで気持いいしね。止めてやるよ、ゲルプ隊」

 グリフは事実を受け入れ、その上でアンネゲルトに協力することを決めた。しかしトーゲはどうだろうか。

「…………他に選択肢なんてないようね。協力するわ。人類を滅ぼす訳にはいかないもの」

 八年の時を越えて、平和使節団は復活した。

 今度こそ、蟲と人との平和の架け橋を作るために飛ぶのだ。

「では現状を説明します。ゲルプ隊へ無線を飛ばし、グリフさん達に語った内容と全く同じ内容で説得を試みましたが、失敗。上層部は南アメリカに向ける核の半分を削り北アメリカを攻撃することでブラウ隊の作戦放棄に対応するつもりです。作戦を中止させるにはブラウ隊を実力で制圧するしかありません」

「そいつは厳しいねえ」

 世界平和の前に立ち塞がるゲルプ隊の面々を想い、グリフの胃が痛くなる。アントンやエーベルといった顔なじみと戦うのは厳しいし、今のゲルプ隊には狂気の男フォレストDがいる。

「余裕よ。私を……いえ、私達を誰だと思っているの。ギムナジウム航空実技主席と次席よ」

 ああ、そうだ。戦闘機操縦技術では人類最高峰にいる二人。この程度の難行など恐れるに足りない。

「あの……グリフさん。最後に一つだけ、いいですか?」

「ん?」

 アンネゲルトに引き留められ、格納庫に向かう足を止める。

「なんだい?」

「キルヒェンリートを創ったのは、メス蟲アニーです。彼女から送られた設計図を基に、私が開発を進めたのです」

「…………そうか、約束を果たしてくれたんだね」

 いつか、貴方のために戦闘機を作りましょう。幼い日にアニーはそう言ってくれた。

 今こんな状況でなければ、足をバタバタさせて大喜びしていた筈の情報だ。しかし浮かれてはいられないので、簡単に伝言だけを頼むことにする。

「アニーに伝えておいてくれ。僕はキミのことを、八年前からずっと、変わることなく、親友だと思っていた……と」

 アンネゲルトは静かに首肯した。なんだか物足りない気がしてグリフは更に続ける。

「ついでにもう一つ……僕たちの空に無限の友情を!」

「なんですか、それは」

 口元に手を当てて笑うアンネゲルトに、グリフは苦笑で返した。アニーに対して伝えたい想いがあるのに、上手に言葉にできないのだ。感謝という言葉が一番近いが、それでは足りない気がする。

「まあ、いいや。作戦が終わったらさ、またコーヒーを御馳走してくれ」

 それが別れの言葉だった。

 格納庫へ向かい、グリフは自らの機体に、トーゲはハッピーB用のマシンに乗り込んだ。

 ああ、最高の気分だ。グリフは愛機に語りかける。

「行くぞ相棒。空において一番強くてカッコいいのが誰か、教えてやろうぜ!」

 銀青のキルヒェンリート。

 その翼は復讐のためではなく、自由のために。

 偉大なる大空の覇者、天蓋を貫く讃美歌よ。

 今こそ僕らの想いを蒼穹に描け!

「グリフ、さっきからウルサイ。ポエムは通信をオフにしてから詠んで」

「はい、ごめんなさぁーい!」

 軽口を叩きながらも両機は浮上した潜水空母の出撃口から垂直離陸し、遥かなる天空へと飛び込んでいった。




 現在地は南アメリカ近海。

 グリフ達は最大戦速で進み、南アメリカ敵防衛拠点に向けて空母から出撃していたブラウ隊を視認できる位置まで接近していた。

「こちらブラウ隊グリフ・グレーフェンベルク。隊長機のエーベルに返答を求む」

『話は聞いているぞ、反人類思想に毒された裏切り者め』

 あ、そういう風に伝わっちゃってるんだ。

『アントン、少しいい。エリーゼに関することなんだけど、二人きりで話がしたいの。回線を開いて』

 何を思ったのか、トーゲはアントンと数分の固定回線会話をした。すると、どうしたことだろう、なんとアントンは任務を放棄して撤退していったのだ。

 エーベルの甲高い怒号が無線機から聞こえてきて、さすがに同情する。あのプライドの高い隊長様には屈辱極まりない事態といえる。

「……ねえ、トーゲ。どうやってアントンを説得したんだ?」

『答える必要はないわ。作戦に集中して。エーベルのミステルは私が確保するから、グリフはフォレストDの足止めを』

「了解」

 フォレストDの相手をしろと言われて、言いようのない不愉快な気分になるが、仕方がない。とりあえず説得してみよう。

「やあフォレストD。冬の眠り作戦は中止にするべきだ。僕達に協力してくれないか?」

 説得を続けながら、グリフはフォレストD機の少し後ろへと追随する。相手側からすると敵対威嚇行動だが、常に撃墜できるポジションをキープしていないと、この爆薬庫のような男がどんな暴走に出るのか分かったものではない。 

『よ~うグリフ。裏切ったんだって?』

「裏切られているのは僕達だ。フォレストDも薄々感づいていたんじゃないのか。冬の眠り作戦ってさ、過激派テログループの無差別特攻そのものじゃん。僕らは踊らされていたんだよ」

『ああ、分かるぜ。予想される戦果そのものが希望的観測に満ちていて、デメリットどころかメリットすら不透明なまま断行されている。確かに実にナンセンスだよなァ』

「分かってくれるかい? よかったよかった、それじゃあ僕達に協力してくれると助かる」

『そうだな、ああ、分かったよ、おまえを信じる』

 ふと視界内に収めていたはずのフォレストD機が消失した。

『とでも言うと思ったか。死ねや腐れキッズ』

 フォレストDからの宣戦布告に動じることもなく、グリフは自機のレーダーを確認すらせずに対空ミサイル用デコイを射出。同時に操縦桿を倒し急旋回からの反転を行い機頭を上げて急加速した。

 一瞬前までグリフ機があった箇所に爆炎が咲いた。

 フォレストDの奇襲をグリフは鮮やかに回避してみせたのだ。

『おまえ本当にバケモンなのな。予知能力でもあるのかよ』

 フォレストDが感嘆したのは追尾ミサイルを回避した事ではない。ドッグファイトにおける優位条件、背面を晒さず敵機より上の高度という位置取りをミサイル回避と並行してこなしてみせた事に対してでもない。いや、それらも驚嘆に値するが、何より畏怖すべきはフォレストD機の未来位置や攻撃のタイミングを完全に把握してかのような挙動だ。

『自信をなくしそうだぜ。不意打ちで倒せない敵なんざ俺様の人生で初めてだ』 

 フォレストDは特殊な航空テクニックを使ってグリフの目を欺いた自負があった。グリフからすれば視界内のフォレストDは唐突に消失したはずであるし、その不可解な魔法に困惑してロストした機体のレーダー把握が遅れるはずだった。しかしグリフは奇襲に難なく対応してみせたのだ。

「ナチス式敬礼は失敗だったな」

 以前、フォレストDはナチスを例にとってグリフを侮辱した。この自分に陶酔しきった劇場型指向の男が、戦闘機操縦中に忽然と消えたとすれば、その行動そのものが何らかの皮肉になっていると直感した。

「若干のアレンジを加えてはいるものの、あれは木の葉落としだろう。第二次世界大戦中に日本海軍の零戦が得意としていた戦法だ」

 九十度バンクに近い状態から下側への大きなラダー操作により重力を利用した急激な横滑りを行って、背後の敵機の射線から離脱と同時に急降下。降下時のエネルギーを利用して敵機を攻撃、あるいは逃走に繋げる技術である。この一連の流れが木の葉が舞い散る様子に似ていることから、木の葉落としと呼ばれていた。

 ドッグファイトの基本は背後の取り合いであり、戦闘機にとって背後を取るのは格闘技でいうマウントポジションのように決定的な優位を意味する。その背後を取られた状況からの起死回生の逆転術としてロマン溢れる戦技ともいえる。プロペラ機時代の古い技法だが、斥力制御装置を搭載しているキルヒェンリートが実行すれば、それこそ魔法そのものの鮮やかさで猛威を振るうだろう。

「ドイツ人である僕をおちょくるために元同盟国、日本軍の空戦技法を使ってくる。おまえの性根の腐りっぷりに助けられたよ。おかげで手口が透けて見えた」

 フォレストD機よりも優位な高度を確保したグリフは、攻撃を仕掛けてきた彼へと挑発を返す。フォレストDは本気だ。非戦を訴えた所で一方的に殺されるだけ。逃げるために背中を晒しても殺されるだけ。ならば正面から戦う他にない。

 かくして両者の対決が、人類最高峰の航空戦力キルヒェンリート同士の初のドッグファイトが開始された。

『はっ、酸素マスクの下のツラはどうなってんだグリフちゃんよォ。この大空のように真っ青か、それとも茹で上がったソーセージみたいになってんのかい?』

 音速に限りなく迫る速度で両機は互いの背後を取り合う。自然と急旋回の連続となる。補助翼が風を殴りつける振動、この超高負荷の中で平然と挑発を投げかけてくる対戦相手の怪物性にグリフは舌を巻いた。投薬調整もインプラントもしていない天然が寿命を縮める改造手術を受けた自分よりも遥かに頑健だなんて反則だ。何故に神は人格破綻者に天稟を授けたのか。

 技術力とセンスにおいてはグリフが勝っていたが、反射速度と気迫においてはフォレストDが優っていた。

 七割三分の差でグリフが優位ではあったが、勝負は水物とはよくいったもので流れ次第では敗北もありえた。勝利の天秤がどちらに傾くか神のみぞ知るといったところか。

『いい加減目障りだぜ、グリフぅ!』

「こっちのセリフだ!」

 グリフにとってキルヒェンリートの最大出力を実戦で体感した最初のパイロットが自分で、二番目がトーゲではなくフォレストDという事実も腹立たしかった。僕達の空に踏み込むな邪魔者め。ああ、グリフは許せない。心の中で吼え猛る。

 このマシンはおまえの空じゃない……ここは八年前から同じ空に憧れた、僕とトーゲとアニーの空だ。邪魔者は消えろッ!

『なあ、グリフ。知ってるか、俺はなあ、性不能者だ。女とセックスできねえんだ』

「だから……何だよ……っ……!」

『俺は憎いんだよグリフ。俺を置き去りに幸せになる俺以外の人類が憎い、具体的に言うと非童貞が憎い。女とセックスができる男がこの世界に存在する限り、世界の破滅を望む! おまえらが言うように冬の眠り作戦が悪手だとしても、だからこそ俺は貴様と戦うのだ!』

「こじらせやがって、僕だって童貞だよバーカ!」

 いよいよ両者の興奮が最高潮に達した、そのときだった。

 レーダーに新たな反応、急速でこちらに向かう機体の情報が表示された。

 友軍機……ではない。識別はアンノウン、蟲軍の航空機だろう。

『はっ、雑魚が邪魔しに来たみたいだぜ?』

「おまえを撃墜してからノンビリ対処してやるさ」

 フォレストDとグリフは敵機に対して無警戒だった。どうせ円盤偵察機だろうとタカをくくっていたのだ。

 トーゲも、エーベルらゲルプ隊の面々も、すっかり油断していたに違いなかった。

 何という愚かしい驕りなのだろう。ああ、彼らは忘れてしまったのか。

 ゲルプ隊の潜水空母は一度蟲側に発見されているし、そのときキルヒェンリートの擬人システムの存在も敵の偵察機によって蟲側に知られてしまっている事実。

 擬人システムは一度きりの使い捨て奇襲アイテムとしては確かに有効だが、こんな小手先のトリックなど一度でも露見すればおしまいだ。蟲と人類の知恵比べで、人類が勝利できた試しはないのだから。

『こちらゲルプ隊のバルドゥル。蟲側の機体の接近を確認。擬人システムを起動して撃墜に当た……なんだ、人間? 人間が空を飛んでいる?』

 人型機動兵器が空を飛んでいた。

 悪夢のような光景だった。

「人型の……航空兵器だって?」

 そういえばロボットSFアニメの人型兵器も、基本的に空を飛んでいたっけ。などという益体もないことを考えて、次にこの事実が意味する絶望を思う。

 人間の形をしたものを破壊するには人間の形をしたロボットを利用する、という蟲側の殺人ルールを利用した擬人システムは、あの敵に対して効果を発揮しない。

 いや、だが……まだ希望はある。

 人間の形をしたものを破壊するには人間の形を取る必要がある、という原則には副次的に「人間が人間を殺す生々しい方法論」という縛りを意味する。

 つまり接近しての格闘戦だ。殴り、蹴り、首を絞め、首を引きちぎり、生々しく殺しに来る。そこにミサイルなどの無機的な攻撃は該当しない。人間同士の直接的殺し合いを連想させない爆発物や銃器は牽制程度にしか使われないのだ。

『し、心配するなバルドゥル。敵は殴る蹴るしかできない、空に浮かんだ原始人だ。我々の敵ではない!』

 ゲルプ隊リーダー、エーベルの鼓舞は気休めなどではない。こちらはミサイルや機銃を使えるが相手側は接近しての格闘戦というハンデを背負っている。

 ゲルプ隊キルヒェンリート・バルドゥル機が敵の人型と交戦を開始した。 

(いや、今すぐバルドゥルの援護に回らないとダメだ。落とされる)

 グリフは敵機のシルエットを視認しただけで、その機体の役割や性能を把握できる。エネミーの識別訓練は訓練兵時代に徹底してやらされたからだ。蟲軍の主要人型機動兵器から、戦争初期に使われていた型落ちの小型戦闘機に至るまで暗記している。

 そのグリフですら知らない形状の敵機となると、即ち未知の新型機であることを意味していた。 

 ただでさえ蟲の偵察機とは違い、人型戦闘機の性能は高いだろうし、それが新型となると異次元の性能を覚悟するべきである。

『は、速い……うわあああああー!』

 人型は比喩ではなく音速で迫り、バルドゥル機を殴りつけた。マッハで飛行する戦闘機に接近してのパンチ、という冗談以外の何物でもないシュールな撃墜劇に、その場の全員が現状を把握した。無策のまま対応すれば、あの人型一機に全滅させられてしまうだろう。

 即死したギムナジウムの同期生バルドゥルは、スタンダールを愛する文学少年だった。

 死者がグリフにとって知己の人物であるという事実が、迫り来る死の影を強く認識させた。

『ブラウ隊のトーゲ・オブストから全員に通達する。現状における最悪はミステルを敵に撃墜されることである。よって、ミステルは私を直衛として戦域からの撤退を、他の機体は足止めをせよ』

 トーゲの提案はグリフにとってもエーベルにとっても妥当なものだった。現状の最優先は戦略核を多数搭載しているミステルの防衛である。

 同時に残酷な提案だった。足止めを命じられたグリフとフォレストDは高確率で討ち死にするだろう。

 エーベルは撤退しろ。他の者は残って死ね。この非常な要求を突きつけたトーゲは、数秒の迷いすら許せないかのように声を荒らげて続ける。

『返事をしなさい。状況が理解できないの?』

 遅れてエーベルが返信する。

『……こちらゲルプ隊ミステルパイロット、エーベル。了解した』

 意外にもトーゲの命令は受け入れられた。眼前の脅威に呆然自失としていた連中が否を唱えるはずもなかったのだろう。

 グリフにしてみてもナイスな展開だった。だってトーゲの提案はアンネゲルトの思惑に沿った素晴らしい機転じゃないか。強大な敵機の出現という危機を逆手にとり、ゲルプ隊との衝突を避けて、ミステルを確保して冬の眠り作戦を中止させる。この場でグリフ達が死んだとしても、これで人類の滅亡は回避されたはずだ。

(…………本当にそうか?)

 撤退していくミステルに随伴するトーゲのキルヒェンリートを見送るグリフの頭蓋に、なにか引っかかるような違和感が消えない。

 本当にトーゲを行かせていいのか?

 冷静に思い返してみろ。トーゲの提案は、何か破綻していなかったか?

 ミステルを無力化する事を目的としていたトーゲが、ミステルの無力化を恐れて撤退させる。この構図は不自然ではないか?

 戦場は迷う暇を許してくれはしない。

 このままではグリフ達も人型の敵機に肉薄されて撃墜されてしまうだろう。

『クソがァー! なんなんだよ、あの速度。勝てる訳ねーだろぉが!』

 フォレストDが吼える。彼はトーゲの指示に従って残ったのではない。むしろ逆手に取ろうと画策していた。

 この場に残った自分達よりも撤退していくミステルの方に戦略的価値があると敵が判断すれば、この空域に残った自分は無視され、助かるという打算があったのだ。

 しかし人型はミステルを追う素振りを見せない。フォレストD達をこのまま殺す気なのだ。

「落ち着けフォレストD。簡単な二択だろう。このまま僕ともども蟲どもに嬲り殺されるか、一時休戦して僕とともに蟲を撃退するか」

 目を背けてはならない。いま目の前で広がる光景こそが現実だ。

『休戦って、どうする気だ?』

 狂獣のような男だが、計算高い部分もある。この状況下で生存の可能性が絶望的であることを理解しているのだ。生き延びるためにはグリフと協力するしかない。

「囮をしつつ安全の確保だ。空母とは別方向に逃げるぞ」

 グリフとフォレストDは機体を敵機から反転させ、全速力で戦域からの離脱を開始した。

 当然、逃がしてくれるはずもない。加速する二機の後ろを、人型は悠然と追尾する。じき追いつかれ、撃墜は必至だ。

『逃げ切れねえな…………このままグリフだけ減速して囮になってくんね?』

「早まるなフォレストD。僕達のキルヒェンリートは、人類の積み上げてきたノウハウは、敵に優っている」

『寝言は寝て言えよ。機動性も動力の質も、何から何まで劣ってるだろうが!』

 フォレストDの言うことは間違っていない。敵機はキルヒェンリートよりも速く、それでいて我々よりも小さな旋回半径を刻み、さらに無尽蔵にエネルギーを生産する桁外れの動力源まで備えている。そもそもキルヒェンリートの高機動力の根拠となる斥力制御技術は、鹵獲した蟲側の機体から流用したものなのだ。リサイクル品が本家の最新鋭機に勝てる道理などない。絶対に、ああ絶対に勝てない。

 といっても、それは敵が戦術編隊を組んでいれば、の話だ。

「左に行け。二機編成戦術を使う」

 これだけで通じるはずだ。これが通じないのなら、フォレストDが編隊訓練経験がないのなら、この先に未来などはなかった。

 グリフはフォレストDが期待通り動いてくれることを信じて、高G旋回する。フック・ターンと呼ばれる円を描いて元の位置に戻るような急激な旋回軌道だ。

 フォレストDは、ほぼ直角の急角度で旋回し、左方へと真っ直ぐに飛翔していく。グリフと二手に別れたのだ。

 人型はグリフ機を追って、高G旋回に入った。当然だろう。旋回していないフォレストD機を追うと相対速度の問題でグリフ機に背後を取られる。蟲の判断は的確だった。

 ぐんぐんとグリフに迫り、射程に収めんとしていた人型の動きが鈍る。円周を描くグリフを追尾する人型の背後から別方向に消えたはずのフォレストD機が迫っていたからだ。

 グリフが旋回中に、フォレストDは直線飛行からの高速ターンを駆使し、加速の距離とエネルギーを保持しつつグリフと人型の旋回円に背後から合流したのだ。

『今の俺様は……てめぇよりも速いぜ蟲公ォー!』

 高G旋回中のキルヒェンリートは高G旋回中の人型よりも遅い。基本性能が違い過ぎて勝負にならないほどに。

 しかし高G旋回中の人型は、直進するキルヒェンリートよりも圧倒的に遅かった。

 ソーセージミサイルが人型の背中を狙い撃った。

 およそ人類が出会ってきた敵の中で最強であっただろう空の悪魔は、驚く程あっさりと背後からの奇襲に爆散した。

 この結果は妥当なものといえた。戦術と戦技はスペックの差を覆す。これはグリフ達の勝利というよりも、人類の戦争の歴史の重さが蟲の知性を凌駕したのだ。

 グリフとフォレストDが使った連携技術はアブレスト隊形という。朝鮮戦争やベトナム戦争といった人類同士の戦争を経て、二機による相互連携を更に強化すべく生み出された戦術だ。常に二機で挟み込むように機動する基本原則を持ち、フォーメーションが高度に噛み合うと先程の人型のように敵機の機動力を封殺できる。

 仮に敵機が背後に回ろうとするフォレストDの動きを察知して動いたとしても、グリフとフォレストDの役割が入れ替わり即座に対応できていただろう。

『嘘……だろ……俺達が協力しただけで……こんなにあっさり……勝てるのかよ』

「当然だ。空での戦闘は超高速でありながら、360度全方位を視野に入れたデタラメな量の選択肢を迫られる。ドッグファイトが三次元チェスだと言われる所以だね」

 敵機はグリフとフォレストDを相手にチェスの二面差しをしていたようなものなのだ。

「たとえ十倍のスペックを持っていようが、一流のパイロットがコンビを組んだキルヒェンリートには勝てやしないさ」

 特に斥力制御によって小回りの効くキルヒェンリートは、従来では不可能だった挙動が取れる。既存にはない新たな隊形術も可能になるだろうし、今しがたグリフ達が使ったアブレスト戦術も既存の戦術にキルヒェンリートの性能を加えて更に洗練した先人未到の超絶技巧だったのだ。 

「さて、邪魔者は消えたことだし……続きをするかい?」

 グリフとフォレストD。初対面から火花を散らしていた両者の死闘を止めるものはいない。

 しかし決闘が再開されることはなかった。

『なあ、もう一機くらい出てきてくんねーかな。さっきのヤツ』

 フォレストDの声音は普段の邪気が消えた、子供のような素直さがあった。

『俺ァもうグリフと戦う気になんねーわ』

「…………まさか同じ心境だったとはな。複雑な気持だよフォレストD。おまえも僕と同じく空を征く者、翼の申し子だ」

 そうとも、あんなに素晴らしい空を共有した相手と、どうして今さら殺し合えようか。

 グリフの中からフォレストDへの敵意は霧散していた。いや、正確に言うと敵意も対抗心も以前と変わらず燃え盛っていた。だが、それよりも圧倒的に強い歓喜が戦闘機乗りの魂を満たしていたのだ。

『あんな体験しちまったらなぁ、どうしようもねーだろ』

 個人技だけでは対抗できない桁違いの強敵を打倒した快楽、不可能を可能にした爽快感といってもいい。

 簡単な話だった。

 自分と同格のライバルと対等なバトルを繰り広げて叩き潰すよりも、自分と同格の戦友と不可能を可能にする方が楽しいのだ。 

 それは己だけでは到れない空を飛ぶための翼の在り方だった。競争によって序列をつけることが野生動物の本能なら、協力によって更なる高みを目指すのは、知的生命体の本能なのだ。

『冬の眠り作戦の中止だっけか。賛同するぜ。蟲の穴蔵に核爆弾を落とすよりもグリフを殺した方が楽しそうだが、グリフごときを殺すよりもグリフを使って蟲公を殴り潰す方が楽しいからな。戦争は長引いてくれた方がいい』

 快楽原則に忠実ゆえに説得が不可能と思われていたフォレストDは、その快楽への忠実さゆえにグリフに与してくれた。

 この奇妙な形の和解は、実に象徴的なエピソードといえた。蟲と人間の和解という実現困難な理想を照らす光のようだとグリフは思った。

「より美しい空へと到るために、僕達は争うことよりも肩を並べることを選んだ」

 グリフは讃える。この素晴らしい結末に導いてくれた愛機の最高さを。

 理想への翼キルヒェンリート。

 無限の空を征く銀青の覇者よ。

 天を仰ぐ全ての者達へと告げるのだ。

「地上の国境線も思想の壁も、人種や精神性の差異ですら、人と蟲の壁ですら、この空の美しさを穢すことはできないのだと」

『さっきからポエムうっせぇよ糞グリフ。空気が薄くて脳死したか?』

「僕のポエムのセンスは最高だろ。フォレストDはちょっと変わった感性の持ち主なのかな?」

『寒いし気持ち悪いんだよ死ねよ雑魚』

「おまえが死んどけよバーカ」

 グリフのコクピット内でロックオンを示すアラートが響き渡った。反射的に回避機動を取り、フォレストD機から飛来したソーセージミサイルから逃れる。

「おま……撃ったな!」

 ソーセージミサイルの追尾性能を考えると、この距離で撃たれた場合回避は不可能である。ご丁寧にロックオン後に追尾機能をオフにしてミサイルを射出したこの行為は、フォレストDなりの強めの冗談といったところだろうか。

「避けなきゃ死んでたぞ、いまの!」

『本気にすんなって。俺達友達だろ?』

 ははは、冗談だったのか。そうだね僕達仲良しだもんね。

 グリフは減速してフォレストD機の背後を取ろうとした。しかしフォレストDは巧みに旋回して、グリフの追跡を逃れる。

「やだなあフォレストDくん。なに逃げてんの。ビビってんの?」

『グリフくんこそ後ろをつけ回すのやめて。ほんとにキモいし迷惑だからやめて。そういう妖精なの?』

 うっかり殺し合いに発展しそうな戯れは、新たなレーダー反応のよって中断させられる。

 新手の人型を警戒するが、味方の機体であることを確認すると緊張は安堵へと変わった。接近している機体はゲルプ隊のミステルだ。

 奇妙なことに護衛のキルヒェンリートはいない。戦略爆撃機の単独飛行という奇妙な状況だった。

(……妙だな。このタイミングでミステルが単独で再出撃? 随伴していたトーゲはどうしたんだ)

 グリフはミステルへと無線を飛ばした。どうにも嫌な予感がする。

「やあエーベル。護衛についていたトーゲはどうした?」

 ミステルのパイロットは通信を無視して、グリフ達のいる空域を素通りしていった。合流が目的ではなかったようだ。 

「エーベルの野郎。挨拶のひとつも無しかよ……」

 胸騒ぎがする。ミステルが再出撃する、それはいいのだ。グリフ達が人型を撃破したため迂回せずに最適ルートであるこの空域を横切った。ここまでは分かる。

 残念ながら冬の眠り作戦は中止になってはいない。ああ、それは理解してやるさ。

 しかしミステルが単騎で先行している理由はなんだ?

 ギムナジウムにいた頃からエーベルは功を焦るところがあったが、ただのナルシストが総合主席の座につける訳がない。悪く言えば臆病、善く言えば慎重で抜け目のない有能組織人なのだ。そのエーベルが護衛機もつけずに単独で作戦続行するなんて不自然だった。

『こ、こちら……っ……ゲルプ隊のえええええ、エーベル。グリフ、フェレストDッ、返事をしろぉ!』

 通信機からエーベルの声が聞こえた。先ほどはグリフの通信を無視したくせに返事をしろとは何様だろうか。

 それにしても酷い狼狽ぶりである。フォレストDがエーベルの裏返った声を聞いて失笑したほどだ。

『笑っている場合か。ミステルのパイロットを止めろ。……いや、この場合どうしたら……そうだ護衛に回れ……そのままミステルの護衛に回れ!』

 ミステルのパイロットを止めろ、と言ったか。

 戦略爆撃機ミステルの正パイロットはギムナジウム総合主席のエーベルの他にもう一人いる。航空実技主席のトーゲだ。

 しかしトーゲであるはずはない。ならば誰だ?

「待て……ミステルのパイロットを止めろって……あのミステルに乗っているのはエーベルじゃないのか?」

 トーゲはありえないから、トーゲとエーベル以外の誰かなのか。

 そうか、アントンか。エリーゼを失った悲しみが蟲への復讐心に転じて、ミステルを無断で持ち出したのだ。そうに違いない。

 落ち着いて整理しろグリフ。おまえが惚れた女は全人類を道連れにして蟲どもに核爆撃を仕掛けるような狂人か。断じて違うと信じたい。

 トーゲは過酷な八年間を復讐心だけを支えに生きてきて、薬物依存を繰り返し心身共に衰弱していて、作戦後の人生設計を描くことを既に放棄していて、つまり憎悪と情緒不安定と自暴自棄が同居した、およそ核ミサイルの発射スイッチを持たせてはならない種類の状態であることに間違いはない。

 だからと言って、ミステルを強奪して冬の眠り作戦を続行するなんて、そんなバカなことをするものかよ。

『状況を説明する。人型と遭遇した我々は戦域から離脱後に空母に着艦したが、トーゲ・オブストが暴走した。ミステルを奪取して強引に出撃したのだ。許可を待たない無茶な出撃によって空母は深刻なダメージを受け、こちらからの援護を回す余裕はない。グリフ、フォレストD。頼むから護衛についてくれ。ミステルを撃墜させるな。あれは人類の希望なんだ!』

 アントンがトーゲの説得に応じた理由が分かった。

 彼女はこう言ったのではないだろうか?

「私も愛する人を蟲に殺されたの。エリーゼを喪った貴方になら私の気持が分かるはずよ。でも、復讐しようにも、こちらのミステルは工作員に破壊されて使えなくなってしまった。私は工作員に従った演技をして、ようやくここまで来たの。お願い、私がエーベルからミステルを取り上げるのを見逃して。私は……自分の手で復讐したいの」

 この言葉はグリフの想像であるが、現実のやり取りも大差ないものだったのだろう。復讐に憑かれた者同士の共感がトーゲとアントンを結託させたのだ。 

「嘘だ……」

 和平実現へのラストミッション。

 それはトーゲの操縦するミステルの撃墜。

 あらゆる死地に追い込まれた時にも乱れることの無かったグリフの操作感覚が狂い、戦闘機が危うげに揺れた。ショックに震える指先は操縦桿を握ってくれない。

 機体のコントロールを奪い尽くすかのような横殴りの風に、キルヒェンリートは頼りなく震えるのだった。




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