彼女がコクピットで泣いた理由
第三章 彼女がコクピットで泣いた理由
数時間の睡眠を終えれば、陸地に別れを告げて潜水艦に乗り込まなければならない。
どうにも眠れずにグリフは寝台に布を張っただけの簡素な寝床から身を起こしていた。
あと数時間の陸地での平穏を、起きたまま過ごすのも悪くないと思ったそのときである。
耳を貫くような警報音が廃墟基地中に響き渡った。
『EⅯG、EⅯG。整備班はキルヒェンリートの出撃準備を。パイロットはブリーフィングルームに至急集合せよ』
この使い捨ての基地に基地内放送機能なんていうものが付いていたことへの驚きと、次に現状への疑問。グリフには何がなんだか分からなかった。
緊急出撃コール。つまり敵襲があったということだろうか。誰が攻めてきた? 蟲か、それとも難民解放戦線とかいうテログループどもか?
どちらにせよ冬の眠り作戦は中止になるのではないか?
グリフとしては冬の眠り作戦とかいうパイロットの生還率が絶望的な決死作戦に参加させられるくらいなら、ここで基地ごと潰れてくれた方がマシだった。
淡い期待を抱きながらブリーフィングルームへと向かう。
作戦会議室には既にグリフ以外のメンバーが揃っていた。メンバー集合を確認すると同時にハッピーBが状況を説明する。
「南アメリカ大陸に向かったゲルプ隊の潜水空母が、ロシア近海にて敵の偵察戦闘機に発見されたわ。現在攻撃を受けているの」
予想の斜め上の状況だった。この作戦のために潜水空母も隠密性の高い最新鋭の技術を使っているのだが、こうもあっさり蟲に発見されてしまうのか。
大方、何かしらのトラブル……恐らくは通信の不具合のために浮上したところを円盤偵察機に補足されたのだろう。敵の円盤戦闘機はそのまま海中に潜って水中戦も可能という人類から見れば意味不明なスペックを誇っているため、察知されたからにはそのまま浮上して艦載機を出撃させて抗戦する他はない。
「空母は無事なんですか?」
問いかけるトーゲの表情には焦りが見えた。南アメリカ奇襲部隊が消滅したとなれば作戦の続行が疑わしい。グリフからすれば僥倖だが、蟲への復讐を支えに生きてきたトーゲからすれば冗談ではない状況だった。
「無事よ。けれど、空母からの出撃直後の擬人システム起動前のタイミングで一機撃墜されたわ。パイロットは即死よ」
戦死者一名。グリフの脳裏にアントンの笑顔がよぎった。「この戦争が終わったらエリーゼと結婚する」だと。冗談じゃない。戦争映画のお約束じゃあるまいし。
「現状、艦載機が護衛をしているけれど、擬人装置のない空母だと、いつ落ちても不思議はないわ。今からトーゲ・オブスト特務兵を除くブラウた隊パイロット全員で、ゲルプ隊の救出に向かう。詳細は追って通信する。以上、分かったら走れ。ヒンメルギンター・ブラウ隊、出撃!」
一人留守番を命じられたトーゲは不満そうだったが、彼女の駆る機体ミステルは奇襲作戦の本丸なのだ。作戦以外で実戦に使うなど許されるはずがない。
「俺様達が今から駆けつけてどうにかなるモンなのかね……って文句を言うにも微妙な距離だよな。ロシア近海ってのは」
フォレストDが言うようにキルヒェンリートの速度なら戦闘区域まで大した時間も置かずに辿り着けるだろう。
それからの作業は迅速を極めた。数分で出撃準備を終えて、グリフは格納庫内、キルヒェンリートの乗降口に到着していた。
「頼むぜ相棒。僕の友達を助けてやってくれ」
アントンの生死が気になる。気のいい奴に限って死んでいくのだ。エルウィンのように。
他のパイロット……フォレストDやハッピーBの出撃準備は終わったのだろうか?
ふと隣を見ると、他パイロットの搭乗するキルヒェンリートの姿が見えた。
しかしグリフの機体のように晴天を思わせるブルーメタリックカラーではない。血まみれのキルヒェンリートだ。フォレストDが赤スプレーを使って自機に血痕のような模様をつけたらしい。
戦闘機パイロットが自分の機体にパーソナルカラーやイラストを描いて自己主張することは珍しくはないが、フォレストDのそれは圧倒的に悪趣味といえる。
鮮やかな空を血のイメージで冒涜するかのような下品なセンスに吐き気すら催す程だった。 グリフの批判的な視線に気づいたのか、耐Gスーツにマスクを着込んだフォレストDがパイロットシートから中指を突き立ててきた。反射的にグリフも中指を立てて応じる。
「ムカつくんだよ死ね」
「こっちのセリフだ」
声になど出してはいなかったはずだが、両者の中指での会話は完全に成立していた。
滑走路へ続くシャッターが上がっていく。ロシアの夜空が広がっていた。
キルヒェンリートは滑走路を走り、離陸する。不謹慎ながら、離陸時のワクワク感はどんな時でも最高だとグリフは思った。
本来なら、次の冬の眠り作戦本番がキルヒェンリートのラスト・フライトだったのだが、余計に一度でも相棒と空を駆けられる機会が増えた事を喜ぶべきだろうか。
(いや、今はゲルプ隊の無事を祈れ。作戦のことだけを考えろ。……実戦だぞ?)
そうだ、これは初陣になるのだ。失敗すると死ぬのだ。
ゲルプ隊が襲撃を受けたのは、幸が不幸か秘密基地から遠くないロシア近海だ。キルヒェンリートを飛ばせば数分で合流できる。
ハッピーB、フォレストD、グリフの三機編成飛行隊はロシアの空を真っ直ぐに飛んでいく。さして間を置かずに目的地へと迫っていた。
(……人生初のドッグファイト……か)
蟲が出現する以前、まっとうな人類史の世界において、戦闘機対決の華ドッグファイトの時代は終わったものとされていた。
ドッグファイトの時代を終わらせたのは、ステルス戦闘機という新時代の技術だ。既に存在しない国の機体を例に挙げると、米空軍のF22Aラプターなどがその代表だろう。
F22Aラプターの運用構想はFirst Lock,First Shot,First Kill。発見される前に発見し、遠距離から先制撃破するというものである。
しかし空対空ミサイルによる目視(B)距離(Ⅴ)外(R)戦闘の時代は訪れなかった。人類の敵は同じ人類ではなく蟲という格上の知性の持ち主であり、センサー技術とステルス技術の精度に天と地ほどの差が存在したため、目視距離外戦闘では勝負にならないのだ。かくして新時代の波は到来して間もなく霧散してしまった。
厳密に言うと戦闘機による目視距離外戦闘の時代が終わったのではなく、戦闘機の時代そのものが終わってしまったと言ってもいい。この空は人間の空ではなく、蟲に支配された空なのだ。
話を戻そう。こちらより先に索敵を可能とする敵に対して同等に渡り合うには、センサーに引っかかっても攻撃されない防御システムが必須となる。
それこそがキルヒェンリートに搭載されたセンサー欺瞞装置、擬人システムだ。これにより蟲側からはキルヒェンリートを攻撃できない。どれほど蟲軍が目視距離外戦闘技術に長けていようが、攻撃されないからには懐に飛び込んで、接近戦で仕留めてしまえばいい。
最新鋭機キルヒェンリートの基本戦術は、時代遅れのはずの格闘戦。なんとも皮肉な帰結といえよう。
『各員、擬人システムを起動せよ』
「了解」
蟲側の予想索敵範囲に入ると同時に発せられた指示に従い、擬人システムを起動する。これで敵側のセンサー類にはキルヒェンリートが巨大な人間型の何かに見えるはずだ。
人間の形をしたモノを破壊するときは、自らも人間の形を選ぶという蟲の行動原則に照らせば、敵の円盤偵察機はキルヒェンリートに手出しできない。
だが、それでも、なんだろう。
グリフは自分の背筋に寒いものが走るのを感じていた。ここはもう戦場なのだ。
さらに前進を続けると、自機のセンサーでも戦況が把握できるようになる。十数機の偵察円盤と、ゲルプ隊のキルヒェンリート隊が交戦している様子が確認できた。円盤は潜水艦を攻撃したいが、海に潜ろうとする円盤をキルヒェンリート隊が率先して攻撃しているため、ギリギリの均衡で空母は守られているようだった。
『こちらブラウ隊指揮官機。これよりゲルプ隊を援護する。……ブラウ隊各機はマニュアル通りに各個撃破せよ!』
「こちらグリフ、了解。…………待たせたなアントン。僕だよ、グリフだ。生きているか?」
グリフは通信機の私的利用という禁止事項を犯して、ゲルプ隊生存者に話しかけた。
『グリフ、グリフ、畜生。俺は生きている。お、俺が死ねばよかったのに!』
通信機越しにも嗚咽混じりが分かるアントンの怨嗟に満ちた声を聞いて、戦死者が誰なのか理解した。
死んだのはアントンの恋人エリーゼだったのだ。
もしも自分がトーゲを守りきれなかったら、どれだけ自分の無能さを呪うだろうか。グリフが最も恐れる仮定の一つ、その苦悩をそのままアントンは背負ってしまったのだ。
『グレーフェンベルク特務兵。通信機で遊ぶな。戦闘中だぞ!』
「……了解」
一秒でも早く戦闘を終わらせてやりたかった。アントンに最愛の人を失った悲しみに浸るための時間を与えてやりたかった。
グリフはレーダー内の偵察円盤をロックオンする。生意気にも加減速を繰り返し回避機動に入る敵機に向けて銃式誘導弾……通称ソーセージ・ミサイルを発射する。
敵機の回避機動も虚しく小型ミサイルが着弾し、爆炎に散った。
ソーセージ・ミサイル。
2000年代初頭に米国の軍閥系シンクタンクがライフル弾に追尾誘導機能を付けた新兵器の開発を進めていた。平たく言えば銃弾のミサイル化である。この開発計画は、合衆国の消滅とともに失われたが、開発関係者がドイツに亡命した際に小型誘導弾の技術ノウハウがドイツ軍に拾われ、ドイツにて独自の進化を遂げたそれは世界最小の対空対ミサイルとしてキルヒェンリートの主武装に採用されたのだ。
ソーセージ・ミサイルという愛称は弾頭の小ささからイメージしたものらしいが、実際はフランクフルトぐらいには大きい。開発者が製品に微妙なセンスの愛称をつけるのは、どこの業界でもある事だということか。
もっとも可愛らしい名称とは裏腹に、ライフル弾並の貫通力と、機体に深く刺さってからの爆発という凶悪な破壊力を秘めている。テスト時のデータによると、命中後に爆発したりしなかったりとミサイルとしての安定性に欠けるらしいが、まあ量産化されていない兵器なんてそんなものだろう。
量産化されていないワンオフのアンバランスさといえば、キルヒェンリートという機体の全てがそうだ。ぶっつけ本番の擬人システムに、人類未到の機動性を可能にする斥力制御装置、そして主武装の弾丸大のミサイル。あまりにも未知数で、不安要素の塊で、それ故に可能性そのもので、まるで一つの空みたいだとグリフは思った。
気がつけば戦域内の趨勢は決していた。
失われし米国が憎き蟲に復讐するかのように、合衆国の研究者が開発に関わったソーセージ・ミサイルが偵察機を次々と撃墜していく。
救援の必要性が疑われるようなワンサイドゲームだった。蟲はこっちを攻撃できないのに、我々は敵機を撃ち放題なのだ。これで負けるはずがない。
擬人システムが搭載されていない空母には敵の攻撃を防ぐ手段などないので、戦域内の敵機を一秒でも速く全滅させる事が望ましい事は確かなのでグリフ達の救援は必要といえば必要だったのだが。
またしても被弾した円盤が高度を落としていく。あれが最後の一機、つまり戦闘は終了だ。
「終わりましたね、隊長。航行モードに戻しますね」
グリフは対蟲戦闘モード……つまり擬人システムをオフにする。と、同時に通信機から激しい叱責が飛んできた。
『バカッ、まだ切るな。敵は死んでない!』
コクピット内にロックオンを示すアラートが響いた。先ほど撃墜された円盤に、攻撃能力が残されていたのだ。墜落しながらも敵機はグリフの命を掌握していた。
人間の形をしたモノを攻撃してこない敵の習性を利用した擬人システムが解かれた以上、敵が攻撃を躊躇う理由は一つも無かった。
円盤から無数のマイクロミサイルが射出される。その全てが確実な追尾性能をもってグリフの機体を破壊せしめるだろう。
この絶望的な状況で、グリフの全身を貫いたのは諦観でも憤怒でもなく、歓喜だった。
擬人システムという反則技を使っての一方的な虐殺。
そんなものは楽しくもなんともない。グリフが憧れた空を駆ける戦闘機は、もっと気高くて、誇り高くて、雄々しくあるべきだ。
「行くぞキルヒェンリート。この大空の覇者が誰なのか教えてやろうじゃないか」
グリフの反応速度は神がかっていた。同時に狂人の所業だった。
あろうことか、グリフは斥力制御を利用して機体を敵機に向けて高速旋回させ、向かい来るミサイル群に向けて全力加速したのだ。
ああ、迫り来る死が彼を狂気へと駆り立てたのだろうか。まさか、まさか飛んでくる爆弾に突っ込むなんて!
確かにキルヒェンリートは人類史上最高のハイスペックマシンだ。しかし、小回りと速度に優れるだけの、単なる戦闘機でしかないのも事実。
ミサイルの火力に耐えられる装甲? そんなものはない。鳥が骨格強度を犠牲に空を手にしたように、戦闘機は壊れやすくできているのだ。
一秒後にはグリフの機体はミサイルの爆発の中で灰塵に帰すだろう。それは確定した未来だった。
「この地球上で最も速くて強くて美しいのは……蒼穹の覇王は……僕とおまえだ。キルヒェンリートッ!」
グリフ機は、さらに加速する。自殺志願者のチキンレース。殺人的なGと、向かい来る破滅のミサイル群。
キルヒェンリートはミリ単位の精密さでマイクロミサイル群の隙間を………通過した。
戦闘機の背後で炎の花が咲いた。時間差でミサイル群が爆発を起こしたのだ。
人類最速の戦闘機キルヒェンリート。その翼は死の運命すらも乗り越えるのか。
グリフは沈み行く敵機にソーセージ・ミサイルを叩き込んだ。今度こそ敵機は爆散する。
『グレーフェンベルグ特務兵……どうして生きているの?』
ハッピーBの声音には驚愕と畏怖が滲んでいた。
いくらキルヒェンリートとはいえ、回避機動に入っていない状態で射程距離から追尾ミサイルを放たれたら、絶対に回避できない。出式デコイを使えばこの限りではないが、グリフは防御装置も使っていなかった。
「どうして生きているかって、酷い言い方だなあ。ミサイルの信管作動が間に合わない速度で突っ込めば、爆発する前に横切れるでしょ」
あえてミサイル群に突貫することで相対速度を極限まで高め、交差時の信管作動よりも速く爆発威力圏から脱した。理屈で言えば簡単だが、実現するのは現実的ではない。一流の戦闘機パイロットの条件に、判断力という項目がある。刹那の逡巡すらもなく、死線の中の活路へと突っ込んだグリフは超一流のパイロットといえた。
『ギムナジウムの生き残り……か。見直したわ、グリフ。あんたはバカで態度も最低だけど、戦闘機を扱わせれば大したものね』
ハッピーBの声は、どこか誇らしげだった。この勝利は蟲軍の航空兵器とのドッグファイトに、人類が初めて実力で勝利した偉大なる一歩でもあるからだ。
緊張が弛緩したその瞬間を狙うかのように、コクピットにロックオンを意味するアラートが響く。
先ほどのように敵機が残っていたのだろうか。グリフの眼前にある円形のレーダー(R)警戒(W)装置(R)ディスプレイが危険信号を発し続ける。
「敵……どこだ……?」
周波数(PRF)分析が敵意の出処を的確に表示する。グリフに照準を向けているのは僚機であるはずのフォレストD機だった。
それは悪ふざけなのか、明確な殺意なのか、あるいはフォレストDにとって両者の差異などないのか。
「……………ッ!」
グリフに迷いはなかった。機体を旋回させ、フォレストD機を射線に収めた。殺し合う準備をする。
「僕は味方だぞ、フォレストD。どういう冗談だ」
『おいおいおーい。何だよその迷いのない機敏な反応はよォ。俺様は味方だぞ?』
通信機越しに緊張が高まる。フォレストDの声音からは隠しようのない愉悦と、寒気がするほどの殺気が籠っていた。
『一目見た時から気に入らなかった……いや、気に入っていたぜ。蟲公どもの穴蔵に爆弾を落とすよりも、おまえと殺し合う方が楽しそうなんだよなぁ……』
グリフは身震いする。同じ人間から、これほどの生々しい悪意をぶつけられたのは初めてだった。フォレストDの言動が冗談ではないと直感が警鐘を鳴らしていた。
破滅的な緊張を終わらせたのは、新たなロックオンアラートだった。今度は隊長機からのものだ。
『ストップ。馬鹿な事をすれば私が両方撃墜するわよ』
ハッピーBの指示に、グリフは戦闘態勢を解いた。が、フォレストD機からのロックオンアラートは消えない。
『フォレストD。本当に撃墜するわよ!』
渋々といった風に間を置いて、フェレストDはグリフに向けていた照準を解除した。
『こちらブラウ隊リーダー機。ゲルプ隊のリーダーに返答求む。作戦続行は可能か?』
『あ、ああ』
ハッピーBの問いに、ゲルプ隊のリーダー、エーベルが上ずった声で応じた。
『エリーゼが死んだ……いや、僚機を一つ失ったが、作戦続行は可能だ』
『我々よりも長い時間を抗戦していたゲルプ隊の消耗を懸念し、消耗の少ないブラウ隊から補充兵の派遣を具申する』
『い、いいのか? こちらのパイロットに戦死者と懇意だった者がいるため、士気を心配していたから助かるが………』
隊長同士で何やら雲行きの見えない相談を始めたと思えば早々に切り上げ、ハッピーBは予想だにしない命令を発した。
『フォレストDはそのままゲルプ隊の空母に着艦しなさい』
『あぁん?』
『ゲルプ隊のキルヒェンリートが一機撃墜されたって話はしたわよね。フォレストDは補充兵として合流しなさい』
『なんで戦力失ったマヌケどもの心配してんの? ってか作戦中止じゃねーのかよ。見つかっちまったんだろ?』
『冬の眠り作戦の中止はありえないわ。この機会を逃せば人類の滅亡は必至だもの』
『だからって俺様が他のチームに転属、ね。はいはーい、分かったよ。てめぇらに愛着なんて一つもねーからな』
ハッピーBの判断の意図は分からない。一度見つかってしまった空母だからこそ護衛機を補充しておきたかったのか、グリフとフォレストDを同時に運用すると連携面で深刻なエラーが出る事を予感したのか、何にせよグリフからすれば有り難い話だった。
直感したが、フォレストDと同じ空にいると……いずれ殺し合いに発展する。何故だかフォレストDはグリフを目の敵にしているし、グリフも売られた喧嘩をかわせるようなタイプではない。
ここでフォレストDと別行動になるのは幸運以外の何物でもないに違いないのだ。これでフォレストDと自分の因縁は終わる。良かった良かったラッキー。
と、この時のグリフはそう信じていた。
『じゃあなグリフ。戦争が終わったら、なるべく部屋にこもって出てくるなよ。街中でおまえを見かけたら速攻でブッ殺してやるよ』
「こっちのセリフだ。片手でボッコボコに返り討ちにしてやるさ」
『調子に乗ってんじゃねーぞ。死ねや』
「は? おまえが死んどけよ」
『マジで殺すぞ雑魚』
「やってみろよバーカ、バーカ、口だけ弁慶。おまえはこの空において僕よりも永遠に格下だ」
煽るだけ煽ってグリフは通信機をオフにした。誰が返信なんざ聞いてやるものか。
これがフォレストDとの最後の会話になった……らいいのに。グリフは祈った。この不快な男と二度と空で遭遇しませんように、と。
アントンに慰めの言葉をかけようかと思ったが、最愛の人を失った男の心を癒せるような魔法の言葉なんて思いつかないグリフは黙って帰投することしかできなかった。
廃墟基地に帰投後、ブリーフィングルームで簡単な打ち合わせと、潜水空母出港準備作業を終えて、パイロット達は廃墟基地での数時間の待機を言い渡されていた。
本来なら出航している時間だが、予定にない出撃を挟んだためにキルヒェンリートの整備点検に時間が取られてしまうのは仕方のないことだった。
待機時間となるとグリフは迷わずトーゲの個室へと向かう。
部屋に入ると、隅っこで座り込む彼女に出撃の顛末をする。
ギムナジウムの同窓であるエリーゼの死、最愛の人を失ったアントンのこと、フォレストD転属の流れ、そして敵機と交戦。
「そう……。エースパイロット資格取得おめでとう」
四機以上撃墜したパイロットはエースを名乗る資格がある。旧時代の世界大戦の頃からそうだ。
蟲の円盤偵察機とはいえ、十数機は撃墜していたグリフはエースパイロットの実績を得たといっても間違いではなかった。
「大半が擬人システムを使っての一方的なリンチだからね。あんまり自慢にならないさ」
「私も出撃したかったわ。ああ、グリフが羨ましい」
「トーゲ……」
「蟲をこの手で滅ぼすために生きてきたのに、肝心なときに出撃させてもらえないなんて……。私もグリフみたいに戦闘機の巴戦で蟲を落としたかった」
エリーゼの死に一切興味を示さず、ただただグリフの戦果のみに関心を向けるトーゲを見ていると悲しくなる。
「冬の眠り作戦本番は敵陣に殴り込む訳だからね。いくらでも航空戦の機会はあるさ。……僕としてはフォレストDが抜けて戦力ダウンした現状、ドッグファイトは避けたいけど」
あんなのでもトーゲが搭乗するミステルの護衛パイロットの一人だ。フォレストDの離脱は戦力として惜しいものではあった。
「不要よ。フォレストDも隊長の護衛もいらない。だって私のミステルはグリフが守ってくれるんでしょう?」
「…………」
甘えるようなセリフはトーゲらしくない。グリフは室内に錠剤の瓶がないか探した。
「ボースハイトなんて飲んでいないわ。シラフでも、たまには素直になるわよ」
生存の保証のない作戦を前にトーゲも不安になっているらしい。
「この作戦が終わったらさ、二人で退役して旅行にでも行かないか。トーゲが軍に残りたいなら、僕も残るからさ、休暇って形でもいいから遊びに行こう」
「……グリフ?」
「子供の頃に航空祭目当てに行ったベルリンとかさ、バルト海沿岸のリゾート地でもいい。僕らの故郷ドイツを観光しようじゃないか」
「不要だわ。故郷の風景は、私の心の中に常にあるもの。そんなくだらないことより……」
作戦後、全てから解放されて、ようやく取り戻せる自分達の人生。それをトーゲは「そんなくだらないこと」と切って捨てる。
ああ、復讐が終わった後の人生など、彼女はどうでもいいのだ。
「そんなくだらないことより、ね? 昔ごっこしよ? エルウィンが生きていた頃の優しい世界に戻って、無邪気だった私達になりきりましょう?」
「……そうだね」
トーゲは目を閉じて、開くと、もう過去の自分自身になりきっていた。
「こ~らグリフ。また落とし穴なんていうくだらないイタズラをやらかしたでしょ?」
互いに互いだけを瞳に映していながらも、グリフが瞳に捉えているのは現在のトーゲで、トーゲが瞳に宿すのは過去のグリフだ。二人だけの世界なのに、互いだけを見つめているはずなのに、両者の距離は悲しい程に遠かった。
だからグリフは、あえて設定をぶち壊すか壊さないかギリギリのイタズラを仕掛けてみる。
「実はさ、いまさっきね、村はずれの廃屋でね、すんごいモノを発見しちゃったんだ」
「まあ、何かしら。分かった、また珍しい形の石を見つけたんでしょう?」
「違う違う」
グリフは深呼吸して、次の瞬間この幸せな夢が終わることすら覚悟して、少年時代には絶対に存在しなかったモノを登場させる。
「本物の戦闘機さ」
「は?」
トーゲは目を丸くしていた。そりゃあそうだろう、子供の頃を追体験するだけの遊びに、こんな要素はあってはならないのだから。
「メタリックブルーのさ、最高にイカした戦闘機があったんだよ。ね、案内するから見に行こうよ」
「あの……グリフ?」
「ほら、行こう」
困惑するトーゲの手を握り、強引に引っ張る。当然、向かう先はキルヒェンリートがある格納庫だ。
「やめて、離してよ!」
「八年前のトーゲはそんなこと言わないよ。僕が飛行機を見に行こうと誘えば、絶対に断ったりなんてしない」
「そうだけど……でも……」
「僕達が向かうのは格納庫じゃない。村外れの廃屋だ。さあ、行こう!」
口ではそう言いながら、トーゲを引っ張るグリフの足はキルヒェンリートのある格納庫へと向かっていた。
過去ではなく、未来に繋がる現在へ。
格納庫に入り目に付いたのは、キルヒェンリートよりも大型の爆撃機ミステルだ。
トーゲが搭乗を決定づけられた、冬の眠り作戦の要ともいえるこの爆撃機のデザインは実に奇抜であり、爆撃機の上に戦闘機をくっつけた親子戦闘機とも呼べる外観をしている。卑猥さを顧みずに表現すると、後尾中の二匹の虫を連想させた。いや、ミステルという名前の意味に従い、ヤドリギを連想すべきなのか。
実を言うと、この正気を疑うデザインの親子型機は第二次世界大戦時に、ドイツ軍が実際に開発していたものである。ミステルという通称も当時のシステム名からそのまま拝借しているのだ。
第二次世界大戦中における旧ミステルのコンセプトは、双発の下部無人爆撃機のコクピット部分を大型爆弾に換装して、上部の有人単発機で輸送、目標付近で分離して下部は滑空爆弾として目的へと特攻、上部の有人単発機は結果を見届け次第帰還、というものである。言ってしまえばミサイル技術が未発達だった時代だからこそ生まれた運用思想なのだ。
ちなみに正確に言うとミステルという機体が存在した訳ではなく、有人機と双発無人機を使った爆撃システムの総称をいう。
この爆撃システムは信じられないことに第二次大戦末期には実戦投入されたらしい。ちなみに戦果についてはお察しで、キワモノ兵器相応というべきか、大型爆撃機一台を特攻させて戦車を一台潰せるか潰せないかというコストパフォーマンスの悪さから完全に失敗作といえた。
その第二次世界大戦時のドイツ軍の亡霊ミステルが、現代に復活してグリフの眼前に存在するのだから、どうにも呆れればいいのか感動すればいいのか反応に困る。
「ぶっさいくだよなあ、ミステルって。このデザインを考えたやつは酔っ払っていたに違いないよ」
「…………あのねえ。それなりに意味があるシステムなんだからね?」
自分の乗機を馬鹿にされて腹が立ったのか、トーゲは解説を始めた。
「確かに第二次世界大戦中のミステルはミサイルの代替品、いわばロマン枠以上の価値がないトンデモ発明品だったわ。けど現代における人類の敵、蟲側の防衛網を抜けるにはミサイルじゃ無理なのよ。何故なら蟲側の攻撃を完全にシャットアウトできる擬人システムの運用にはリアルタイムで推移する状況に合わせて補助できる人間の力が不可欠であり、よって防衛網を突破できるのは有人機だけになるの。となると戦略核を大量に搭載した大型爆撃機は必須になるわ」
「いや、それは分かるんだけどさあ、爆撃機の上にキルヒェンリートを載せる意味とかなくない?」
現代のリモートコントロール技術だと、二機接続しながらの飛行も難しくはないのだろうが、航空力学的に考えても二台重ねて飛ぶ形態は不自然過ぎる。
「ほんとグリフは勉強不足なんだから。冬の眠り作戦は、大陸から生命が根絶されるレベルのICBMが殺到するのよ。当然、着弾前に安全域に避難しなければ現地のパイロットが危険になるわ。となると、爆撃後はデッドウェイトになる爆撃機を切り離して身軽にスイスイっと逃げられるじゃない」
前線の士気に関わるため、建前上はパイロットが無事生還できる、という体裁が必要になる以上、保全のために何らかの措置が取られていること事態は納得できるのだが、やはりグリフには合理的だとは思えないのだ。
「いやパイロットの離脱を考えたって言うけどさー、軽爆撃機に切り離し可能な増槽をつけて、デッドウェイトになる部分をパージできるようにしておけば爆撃機でよくない? 帰りは確かに戦闘機で逃げた方がいいけど、それこそ爆撃機にとって重荷でしかない戦闘機を載せながら進む行きがけがアホ過ぎるんだけど」
「擬人システムの都合ね。高度な光学迷彩・センサー欺瞞を実現するには機体の各部に精密機械を設置する必要があるの。増槽をつけるなら、増槽を覆うために増槽そのものにも機械を仕込まなければならない。さらに人間型の像を結ぶには点と点を結ばなければならない、他の箇所との兼ね合いが必要になってくるの。爆撃機からデッドウェイトをパージする設計にすると、パージ後の光学迷彩・センサー欺瞞用の設備をパージ後の造形に合わせて余分に詰め込まなければならない。恐ろしいことに、それらにかかる手間とデッドウェイトの増加は、キルヒェンリートを一台載せるよりも割に合わないってこと」
ここまで言われるとグリフも納得するしかない。
「よし、それじゃあ昔ごっこの続きをしよう。今は八年前、八年前だぞ~」
「あのねえ……」
言い負かされ、都合が悪くなると全力で誤魔化しに走るグリフの姿勢に文句の一つでも言いたいトーゲだったが、格納庫に来た目的を思い出して、渋々ながら乗っかることにした。
「…………で、村はずれの廃屋の飛行機とやらは、どこにあるの?」
「はいダメ。八年前のトーゲは航空機絡みになると、もっとイキイキしていたよ。やり直し!」
トーゲは毒気のない幼馴染を煩わしく感じた。幾度となく抱いてきた苛立ちだった。
どうしてこのグリフという男は、演じるまでもなく昔のままなのだろう。
故郷の喪失、家族の惨殺という、トーゲと全く同じ痛みを知っているはずなのに、どうしてこうも能天気なのだろう。
「ああ、そうだったわね。いまの私にとって戦闘機なんて単なる消耗品でしかないから……意識して演じないとはしゃいでいられないのよ」
トーゲは思う。八年前の自分が、グリフと共にユーロファイターのスペックやハルトマンの戦歴について語れた、空と戦闘機に憧れていた幼子が今の自分を見たら、失望するのだろう。
今のトーゲには、空の色など灰色にしか見えない。彼女が搭乗するミステルのカラーリングと同じように、不条理の業火に犯された灰の色だ。
それを情けないことだとは思わない。
むしろ、空への夢を凍てつかせた己を誇りたいぐらいだ。
トーゲの胸裡に、八年前の惨劇が蘇る。何度も何度も反芻してきた情景と憎悪だ。
明日こそ悲願が叶うのだ。冬の眠り作戦により、最愛の義兄を殺した蟲どもを一匹残らず根絶やしにしてやれる。義兄を、そして自分を裏切ったメス蟲アニーを、ぶち殺してやるのだ!
そこまで考えてから、喉元に嘔吐感がせり上がってきた。いつもの発作だ。
部屋に戻ってボースハイトをキメてトリップしたい欲求に駆られる。ああ、トーゲは自分が憎い、己の弱さが憎い。殺意や憎悪を抱くと、途端に怒りが萎縮してしまう甘さが憎い。
薬を使って良心を麻痺させないと、アニーへの敵意を維持できない偽善者の自分が、憎い。
「ほらほら、戦闘機があるのはあっちだよ。行こう」
「……ええ」
既にトーゲはごっこ遊びに興じる意欲などなかった。グリフは少しでも昔の自分達を追体験して欲しくて格納庫に連れてきたのだろうが、逆効果だ。
この格納庫の爆撃機と戦闘機は、トーゲにとって復讐のための権利、灰色の毒牙なのだ。戦闘機への憧憬など、あの日のタールに沈んだ白い羽のようにドス黒い何かに染まり変質している。
それでも遊びを中断しないのは、楽しそうなグリフを尊重してのことだ。あの日から八年、自分に寄り添い、支えてくれていたグリフに対して、彼女は苛立ちと感謝と罪悪感を抱いていたから。
グリフから向けられる無償の愛情と、それに何一つ心を動かせないばかりか、煩わしいとすら思う自分。この残酷すぎる喜劇も明日には終わるのかもしれない。ならば今ここで報いてやるのも悪くはない。
「うわぁ、まさか村はずれの廃屋に、こんな戦闘機が隠してあったなんて!」
グリフが受領したキルヒェンリートの前に二人はいた。
説明口調で素っ頓狂な妄想を口走るグリフに、周囲の整備士達は怪訝そうな顔を向ける。が、すぐに各々の作業へと戻った。出撃前のパイロットの奇行に慣れているのかもしれない。
「そうねー、すごいわねー」
トーゲは、どうでもよさそうに相槌を打った。早く部屋に戻って薬を飲みたかった。
いや、この態度は8年前だとありえない。トーゲは意識して無邪気な自分を演じる。
「メタリックブルーのカラーリング……綺麗ね。形もシャープでかっこいいし」
明確な目的意識に沿って造られたモノ特有の、無駄を排した美しさがそこにはあった。
8年前のトーゲなら感動のあまり泣いていただろう。今の彼女からすれば単なる道具だが。
「後でペンキを持ってきてさ、このマシンに僕とトーゲの名前を書こうぜ。そうしたら、この戦闘機は僕とトーゲの持ち物になる」
「そうね」
薬が欲しい。中毒患者の常として、彼女はイライラしていた。
つまらない。早く終わらないかな、この茶番。
「なあ、戦闘機のコクピットに乗ってみようぜ。トーゲが先でいいよ」
「ホント、いいの? ありがとう……」
トーゲは呆れていた。今さらコクピットに乗って何になると言うのか。作戦が始まれば嫌でも空を飛ぶというのに。
しかし、それでグリフが満足するのなら、嫌々ながらも従うことにする。
「おーい、整備のおじさん……じゃなくて村はずれの廃屋の近くを偶然通りかかったおじさん。ハシゴってどこにあるの? ちょっとコクピットに乗ってみたいからさあ」
トーゲは、迷惑そうに眉根を歪めた整備士に向けて、図々しいグリフの代わりに頭を下げるのだった。
整備士はコクピットにハシゴをかけながら、ブツブツと文句を言う。
「6年前に南アメリカ戦線で働いていた頃にもいたんだよなあ。オリオンのパイロットどもがよぉ、出撃前に映画のごっこ遊びを始めやがるんだよ。お守りだ、とか言って掃除道具を壊していくやつとかな。知ってる?」
整備士はグリフとトーゲの奇行を、戦争映画のごっこ遊びだと勘違いしているらしい。勘違いといっても、内容的には大差ないのだが。
「ありがとう、村はずれの廃屋に偶然ハシゴを持って通りかかった、独り言癖のあるおじさん。……それじゃあトーゲ、ほら、乗って乗って」
グリフに急かされて、トーゲは冷えた心のままハシゴに手をかけ、キルヒェンリートのコクピットに入った。
ギムナジウムでのシミュレーターではコクピットを模した小部屋を使っていたため、目新しさはない。戦闘機のシートとそこらのパイプ椅子の何が違うというのか。
トーゲは冷めた心のまま、席を立とうとする。もう十分だろう。ごっこ遊びは終わりだ。
しかし、何故だろう。
トーゲの腰は縛りつけられたかのように、キルヒェンリートのシートから動かなかった。
唐突に視界が滲んだ。まなじりから溢れ出る熱さが自らの涙であることに気づくのに数秒の時間を要した。
「……わたしが……泣いて……る?」
どうして泣いているのだろう。心は相変わらず、氷のように凍えているのに。
理解できない。だけど涙は止まらない。
ふと、横から伸びた指が頬を拭った。コクピットへと昇ってきたグリフの指だった。
「お……終わり。昔のごっこ遊びはおしまい。じゃあ、私は、へ、部屋に戻るから!」
トーゲはハシゴを使わず、コクピットから翼へと飛び降り、鮮やかに着地。そのままグリフを置いて自室へと戻っていった。その遠すぎる背中を見送りながら、グリフは微笑む。
「変わっていなかったんだね。キミも」
グリフはずっと不安だった。もしかするとトーゲは、本当に変わり果ててしまったのではないかと。
空に憧れた彼女は過去のもので、戦闘機に夢中になっていた彼女は既に存在しなくて、グリフが幼馴染と見上げた空は永遠に失われてしまったのではないかと、何度も不安になった。
だけど、大丈夫。彼女はあの日の想いを忘れていない。復讐心に情熱が凍り付いてはいるが、確かに蒼穹への熱気は、トーゲという人格の根底に在り続けるのだ。
「絶対に生きて帰ってやる」
彼女の復讐心が潰えるその日まで隣で寄り添い、いつの日か必ず、8年前のあの日と同じ想いで同じ空を飛んでやる。独りじゃなくて、二人で、だ。
ハシゴから降りて、グリフは自室へと向かう。その途中で、愛機へと振り返る。
「次がラスト・フライトだ。頼むぜ相棒」
その後、待機時間を終えた彼らは潜水空母に乗艦し、出港する。
乗艦に伴う作業を終えて、グリフはささやかな仮眠をとるのだった。
潜水艦を空母として使用できないか、という運用思想は第二次世界大戦の頃に既に存在していた。が、実際に航空機を搭載した潜水空母は歴史上作られる事はなかった。それは何故か?
まずひとつに、ミサイル技術の発達により戦闘機を搭載しなくともSLBM等を積むことで戦略級の攻撃力を得られるためである。
次に、建造が困難であることが挙げられる。航空機を搭載する以上、十分な長さの滑走路をセットにして組み立てなければならない。この滑走路部分が水圧に適した潜水艦の形状と噛み合わないのだ。
では、現在グリフが乗船している潜水空母シルトクレーテは何故に存在が許されているのか?
敵の防衛線を突破できるのは擬人システムの力が不可欠であり、リアルタイムでの複雑な演算処理を必要とする擬人システムの管理には人間の補助が必須なため弾道弾などでは代用できないからだ。目的地付近にキルヒェンリートとミステルを運搬する潜水空母がどうしても必要だった。……もっともグリフがこれを聞いたら「擬人システムに頼らなくてもキルヒェンリートは敵の防衛線を突破できる」と憤慨するのだろうが。
建造の困難さの問題についても、ミステルとキルヒェンリートには斥力制御を利用した垂直離陸が可能であるため飛行甲板を必要としないので問題の大部分はクリアできていた。もっともキルヒェンリート三機に大型爆撃機を搭載する都合上、多少の奇形化と大型化は避けられなかったのだが、なにしろ人類の進退を賭けた決戦艦である。湯水のように惜しみなくコストを注がれ歪ながらも求められたスペック通りに仕上がっていた。
グリフは四角い箱と形容したくなるような、寝床程度のスペースしかない部屋で横になっていた。もともと潜水艦に居住性など期待するものではないが、それにしても酷い。
(子供の頃に読んだ海洋冒険小説の潜水艦は、もっと面白い内部構造だったんだけどなあ……)
あの小説のタイトルはなんだったか。そうだ、海底二万里だ。あの作品の潜水艦はプランクトンを加工して無限に食料が湧き出る夢のような設定だっけ。動力も確かエネルギー切れの心配がない設定だった気がする。潜水艦に潜ったまま一生を過ごせるのだ。
キルヒェンリートにも無限エネルギー機関と無限食料生産装置を搭載できれば死ぬまで空で過ごせるのにな。
『艦内放送から失礼します』
と、耳元のスピーカーからアンネゲルトの控えめな声が聞こえた。
『グリフさん、トーゲさん。至急ブリッジに来てください』
妙なタイミングでの収集にグリフは首をひねった。出撃予定海域までは間があるはずだが……。
またゲルプ隊が襲撃された時のようにトラブルでもあったのだろうか。
「……ブリッジに来い……ね。何かのトラブルかな。作戦中止だと嬉しいんだけど」
トーゲが聞いたら逆上するであろう独り言を呟いて、グリフは狭苦しい寝床を後にした。
個室の外に出れば狭苦しさから解放されるかというと、そんなことはない。ため息を吐いてグリフは中腰歩きで廊下を進む。幅が狭すぎて中腰じゃないと天井に頭がついてしまうからだ。この艦に限らず潜水艦なんてものは大概が狭苦しいものらしい。
操船室に向かう途中、奇妙なことに気づいた。作業員の気配が全くしない。
(おかしいな……。スタッフが一人も見当たらない)
クーデターでも起こしたか?
唐突に脳裏によぎったその予測は、決して非現実的な妄想ではなかった。冬の眠り作戦は発動すれば最後、地球に深刻な汚染被害をもたらすものだ。作戦反対派がスタッフに紛れ込んで艦内を制圧していても不思議はない。
(……まさかな)
作戦参加に乗り気ではないグリフからすれば拍手喝采をもって迎えたい展開だが、そんな美味しい状況にはならないだろう。
そうさ、クーデターなんて起きるはずがない。
だけど妄想してしまう。いまグリフが掴んでいるブリッジへの扉を開いたら、ハッピーBやアンネゲルトが拘束されて転がっているのだ。反乱を起こした主犯格は声高に宣言する。冬の眠り作戦は中止だ、と。
(まあ、そんな展開は絶対にありえないんだけどな)
苦笑しながらグリフは扉を開き、ブリッジを一望した。
半笑いの口元が凍りついた。
ブリッジ内には手足を縄で拘束された乗組員達が転がっていた。その中には隊長であるハッピーBもいた。
幻でも夢でも都合の良い妄想なんかでもない。現実世界において潜水空母がジャックされていた。
ブリッジ内に動きがあった。操舵席に座っている人物が立ち上がったのだ。クーデーターグループの一員だろう。
その人物を確認して、グリフは我が目を疑った。白衣に眼鏡の美人整備主任、アンネゲルトその人だ。
「今ここに宣言しますね。冬の眠り作戦は中止です」
ブリッジ内で自由に動けるのはグリフを除けばアンネゲルト一人だけのようだった。どこかに仲間が潜伏しているのだろうか?
「どういうつもりなの、アンネゲルト」
グリフの背後から底冷えする声が聞こえた。トーゲもこの場に到着したのだ。
「冬の眠り作戦の中止なんて絶対に認めないわ」
トーゲは腰を低くして、戦闘態勢を取る。アンネゲルトに飛びかかるつもりだろう。
「この艦を制圧したのは私の単独によるものです。ですので、グリフさんとトーゲさんがその気になれば、私を組み伏せクルーを解放することも可能でしょう。しかし二つの理由から北アメリカ大陸奇襲作戦は不可能です」
アンネゲルトは旧知の友を驚かせて楽しんでいるかのような気安い薄笑を浮かべて、淀みなく現状を説明する。
「万が一に備えて、出航前にトーゲさんが搭乗する予定だったミステルの火器管制に細工をしかけておきました。私を殺して作戦を続行しようにも、北アメリカ大陸攻略の要、虎の子の戦略爆撃機は使い物になりません。第二に現在の艦の位置です」
グリフ達は座標を示す方位球を確認した。なるほど、北アメリカに近づいているどころか、遠ざかっている。まるで反対方向へと南下しているのだ。
「仮にミステルが健在でも、この位置から北アメリカの目標地点に赴くのは困難であると予想できます」
この丁寧でいて、妙に説明寄りの口ぶりは、なんだろう。
「なによ……あいつ……ほんとにアニーそっくりじゃない」
グリフの横からトーゲが小声で毒づいた。そう、元々近い印象があったものの、今のアンネゲルトの口調は幼い日のアニーに限りなく酷似していた。
「アニーにそっくり……ですか。あなた達にとってアニーとは、どのような存在だったのですか?」
アンネゲルトは、およそ今この場には関係のないはずの名前に食いついた。
「教えてください。メス蟲アニーとは、あなた達にとって、何だったのですか?」
いま確かにアンネゲルトは言った。メス蟲アニーと。
「君は……いったい……いや…………まさか………」
グリフは眼前の女性がアニー本人であるという直感的な確信を、理性で否定した。目の前の女性はどう見ても人間だ。蟲ではない。
となれば、残る可能性は一つだけだ。
和平使節団。
人類と蟲の間で和平を結ぼうという蟲側のグループだ。八年前、グリフとトーゲとエルウィンがアニーから勧誘された、秘密組織。
アンネゲルトもアニーと接触し、当時のグリフ達のようにアニーの言う人類と蟲との共存という理想に感銘を受けたのだろう。
そして蟲側の平和グループの思想に染まっているのだとしたら、冬の眠り作戦中止のために工作を働かせても不思議はない。
「アニーは今でも和平のために活動をしていたんだね。君はアニーの協力者ってところか」
アンネゲルトは小さく首肯した。グリフの推理は正解だったらしい。
「違うわグリフ、あいつはアニーの協力者なんかじゃない。私にはわかるの、あの女はアニーそのものよ!」
「落ち着けよトーゲ。あの人はアニーじゃない。…………それに今さら焦っても仕方ないし、のんびり話そうよ」
「バカを言わないで。これは人類の存亡をかけた戦いなのよ!」
グリフはその場に腰を下ろした。怒り狂うトーゲを見上げて、言う。
「こう言っちゃなんだけど、僕はこの状況を歓迎しているんだ。なぁ~にが冬の眠り作戦だよ。大陸二つを核汚染して自爆とかバカじゃん。蟲の平和団体の人達と協力して和平交渉にこぎつけた方が億倍マシだってーの」
「……………そうかもね」
不意にトーゲの表情から憑き物が落ちたように荒ぶりが消えた。そのままグリフの隣に力なく、ストンと座る。
「ミステルが使えないんじゃ、私の復讐もおしまいだわ。私の八年間の全部が無駄。殺すなりなんなり好きにしてくださいな。はい、どーぞ?」
「いいえ、殺すだなんて有りえません。これから二人には南アメリカ大陸に向かったゲルプ隊を制圧して下さらないと困ります」
反乱の片棒を担げときた。これには流石のグリフも失笑する。
「なんだよ、ゲルプ隊には工作員を派遣していなかったのかい。随分とガバガバじゃないか」
「無論、派遣はしていましたが、その工作員が最悪のタイミングで死亡しましたからね」
グリフは硬直した。告げられた事実を咀嚼して理解することができなかったのだ。一方、トーゲはすぐに理解できたらしく激しい眼光でアンネゲルトを睨みつける。
「戦死したエリーゼが……ギムナジウムの訓練兵が蟲側の息のかかったスパイだったっていうの?」
「その指摘は正解ではありますが正確ではありません。冬の眠り作戦を主導した者達のトップそのものが蟲の傀儡だったのですよ」
「‥‥‥‥‥は‥‥あ?」
理解が追いつかず固まったままのグリフの隣で、トーゲも口を半開きにして絶句してしまった。
「冬の眠り作戦は、人類にとって不利益しか生まない罠だったのですよ。考えてもみてください。人類以上の科学技術を持つ蟲が、地底や海底、果ては宇宙に進出していないと、どうして信じられます?」
そう、南北米大陸以外にも、世界中に分散して隠れている事を危惧すべきだ。
蟲の生態学者が、それらしい検証データを掲げて蟲は南北アメリカ以外に存在しないと主張していたが、あれは冬の眠り作戦を断行するための虚構の真実だったのだろう。アニーのように人懐っこく好奇心旺盛な蟲を知っているグリフから見れば、蟲が一箇所にのみ留まっているという希望的観測は眉唾でしかなかったのだが、ようやく納得がいった。
いずれにせよ冬の眠り作戦は完全に悪手だ。少しでも生き残りがいれば八年前にそうしたように、蟲どもは一瞬で人類を駆逐しうるだけの大勢力を形成できるだろう。
「いや‥‥ちょっと待ってくれよ。冬の眠り作戦で蟲を全滅させられない、ってのは分かった。けれど、どうして君達は、人類に冬の眠り作戦を実行させようとしたんだい?」
確かに冬の眠り作戦が実行されれば人類は深刻なダメージを負う。が‥‥それは蟲にとっても痛み分けになるはずだ。いかに世界中に蟲達のコロニーが分散しているとはいえ、最大のコロニーである南北アメリカ本陣が壊滅的被害を受けてしまうのは事実だった。
「君達‥‥という言い方は訂正して欲しいですね。‥‥ええ、まずはそこの誤解から解く必要があるようです。‥‥蟲達は一枚岩ではないのですよ。過激派と穏健派が存在するのです」
過激派と穏健派。
現在まで人類が蟲に滅ぼされていない事実を考慮すると‥‥。
「穏健派の方が勢力としては強いのか」
「はい。ですから、人類と蟲の和平は本来なら簡単に成立していたはずなのです。邪魔をする過激派さえいなければ‥‥」
「嘘をつくなッ!」
トーゲが吼えた。この八年間、蟲は邪悪な敵だと信じてきた彼女にとって、アンネゲルトの語る蟲像は許容できないものだったのだろう。
「蟲が邪悪な存在でないのなら、どうして私達の、私とグリフとエルウィンの村は、蟲によって滅ぼされたのよ! ねえ、答えなさいよ、アニー!」
目の前の女性はアニーではないのに、トーゲの目には自分を裏切った憎いメス蟲と重なっているのだろう。
「その件についてはアニーから話をうかがっています。グリフさん達には『すまなかった』と‥‥」
「すまなかった‥‥ですって?」
「あなた達の村が滅ぼされた理由は、過激派による穏健派への牽制でした。もともと過激派は扱い方を間違えれば暴走する危険な連中でしたので、アニー達穏健派グループは細心の注意を払って水面下で行動していたのです。しかしアニーの通信が過激派に察知されてしまった。つまり‥‥アニーのせいで村は滅んだのです」
残念ながら、これについてはグリフとトーゲの予想通りだったらしい。
もしかするとエルウィンがアニーの通信機と出会わなければ、あの村が襲われる事はなかったのではないか?
この漠然とした予想はトーゲにアニーを憎悪させる根拠となり、これに関してはグリフも擁護することはできなかった。何ら戦略的価値の存在しないドイツの田舎村がピンポイントで襲撃を受ける理由なんて、他に思いつかない。八年間アニーを憎み続けてきたトーゲの怒りは的外れなものではなかったのだ。
「ちょっと待ってくれ、色々と混乱している。冬の眠り作戦を企画したのは過激派なんだよね? でもアンネゲルトとエリーゼは穏健派の協力者? いや、そもそも過激派が冬の眠り作戦なんていう痛み分けの自滅作戦を企画した意図がわからない」
「安心してください。全てを包み隠さずに、お話しますから。グリフさんが混乱するには突きつけられた事実が思考の前提と食い違う虫食いの状態だからです。真実は驚くほど単純で、残酷なまでに簡単で、知ってしまえば当たり前に受け入れてしまえるものですから」
そうして蟲の和平組織の工作員アンネゲルトは語り始める。
蟲の真実を。