銀青のキルヒェンリート
第二章 銀青のキルヒェンリート
十歳の誕生日に故郷を失った少年グリフは、最愛の少女トーゲと共にドイツ軍特務部隊ヒンメルギンターの養成施設〝ギムナジウム〟の訓練兵となる。
それは決して華々しい訓練などではなく、度重なる薬物投与とインプラント手術、オーバートレーニングによる虐待の日々だった。
候補生達の半分は薬の不適応が原因で死亡し、そのまた半分がインプラントの拒絶反応で死亡し、さらにその半分が訓練中の事故で死亡した。
あれから八年、過酷な日々はトーゲをまるで別人のように冷たい女に変えていた。
これより語られるのは、十八歳となった青年グリフと、この世界から蟲を根絶するために人類が産み出した決戦兵器との出会い。
人類存亡をかけた最終決戦、冬の眠り作戦の前日譚。
そして雌蟲アニーとの再会の記録である。
2016年 ロシア バルチースク ドイツ空軍基地廃墟にて
あれから八年の月日が流れた。
無論、歳月の分だけグリフは成長していた。
無邪気な十歳児は精悍な青年へと成長し、鍛え上げられた肉体は迫力すら発していた。
しかし、八年前に瞳に宿ってた光は、いつしか翳り、濁り、薄れていた。薄れつつも、確かに光は残っていたのだが。
「ようやく、ここまで来たね。トーゲ」
ふたりは扉の前に立っていた。
天井や壁には、廃墟と形容するしかないような風化が見られる、みすぼらしい建物の廊下に立っていた。
「僕達の長い長い訓練の日々は、この扉をくぐるため……か。感慨深いよねぇ」
「無駄口を叩かないで、グリフ」
八年前からグリフの傍にいたはずの少女は、遥か遠くから突き放すような冷たさでグリフを叱責した。
トーゲは美しく成長していた。十八歳の面差しには可憐さと美女性が矛盾なく同居していたし、体も女性的な柔らかい丸みを帯びていた。
しかし、その瞳からは、八年前には当たり前に宿っていた輝きが失われていた。
幼い日の彼女が空を見上げたとき、当たり前に輝いてたあの光が、完全に失われていた。
トーゲはグリフに確認を取ることもなく、扉をノックする。
こんな廃墟に人などが住んでいるのだろうか?
「時間通りね。入りなさい」
中から女性が返事をした。許可を受け、トーゲは畏まった所作でノブを回し、入室する。
そう、ここは廃墟などではない。
ロシア連邦の最西端、カリーニングラード近郊バルチースクに、かつてナチスの基地が存在した。
1930年代に建設され、ドイツ軍撤退後もソ連軍が使用していたが、現在は放棄され廃墟と化している、はずだった。
廃基地内にある横穴だらけの旧兵舎の一室に、五人の男女が集まっていた。
朽ち果てた建物の外観に反して、兵舎内の電子機器等の備品は最新鋭のものであり、実質的な基地機能を有していた。ここは廃墟などではない。
廃墟を隠れ蓑にした秘密の軍事基地である。
グリフの個人的な感想としては、廃墟に偽装した秘密基地という設定に少年心をくすぐられてしまう。しかし軍隊の性質上はしゃぐ訳にもいかない。
グリフは部屋を見回した。作戦説明用のスクリーン映写機とパイプ椅子が人数分並べられたブリーフィングルームだ。
部屋には先客が三人いた。
二十代前半ぐらいの女性が二人、グリフと同年齢の男性が一人。
男がグリフ達を見てニヤリと笑った。妙に悪意がある口の歪ませ方だ。容姿は美形に属するが、性根は歪んでいそうだ。
いや、これから作戦行動を共にするチームメイトに悪印象を抱くのはよくない。グリフは男性への認識を改めるべく反省しようとした。
「ハァァアアアアイル!」
何を思ったのか、美形の男は片腕をピンと挙手させて、おどけるように叫びだした。
「ハァァァアアアアアアイル、ヒットラー。我が総統閣下!」
グリフは反省しようとしていた事を反省した。この男を戦友として認めるなど、できるはずがない。
右手を斜め上に立てるこのポーズは、ナチス式敬礼と呼ばれるもので、ナチス時代のドイツで行われていた作法だ。
ドイツ人にとってナチスは忌むべき過去であり、ドイツ国内において公共の場でナチス式敬礼を行う事はタブーですらある。
そしてドイツ人であるグリフとトーゲの顔を見るなりナチス式敬礼を放ったこの男の意図は、疑うまでもなく挑発だ。
初対面で平然とタブー破りの侮辱を向けてくる相手と、どうして仲良くできようか。グリフだけではなく、トーゲをも馬鹿にしたのだ。
ちらりとトーゲを見る。彼女は入室前と同じく、氷の彫像のような冷たい無表情のままだった。
彼女は挑発行為をしてきた男に見向きもせず、部屋の奥に立つ指揮官らしき人物へと敬礼をする。
グリフは興奮しそうになる頭をクールダウンさせる。そうだ、いまは挨拶の時間だ。喧嘩をしてはいけない。
今日から数日間、世話になる上官とチームメイトに向けて、グリフとトーゲは挨拶しなければならない。自分達は新入りなのだ。
「ヒンメルギンター・ブラウ隊に着任しました、トーゲ・オブスト特務兵です」
「同じくグリフ・グレーフェンベルク特務兵です」
グリフもおずおずと続いた。
「隊長のハッピーBよ。ヒンメルギンター・ブラウ隊へ、ようこそ二人とも」
ハッピーB。本名とは思えない響きだった。
あだ名……いや、CASネームだろうか。
「そんなに堅苦しくならなくてもいいわよ。もっと馴れ馴れしく来てもいいから」
ハッピーBは軍属にあるまじきフランクさで歓迎してくれた。
どこの軍隊でも上下関係は絶対であるはずだが、ここは例外的な空気があるようだ。
秘密部隊ヒンメルギンターは、一度限りの共同作戦を張るだけの使い捨てのチームという側面もある。それ故のラフさもあるのだろう。
「そうかい? それじゃ遠慮なくいかせてもらうよ」
厚意に甘えてグリフは口調を崩した。
「隊長さん、僕が乗る戦闘機を見せてもらってもいいかな」
ヒンメルギンターの目的。
最新鋭の戦闘機を使っての蟲の防衛拠点への爆撃。
当然、機体は最前線に耐えうるものになる。いや、それどころか、今回の作戦のために特注で作られた特機なのだ。
世界最強のモンスタースペックを誇る最新鋭機で大空を飛び回れる。空に憧れ続けてきたグリフにとってこれ以上の幸せはなかった。
「ハァアアアアイル!」
ナチス式敬礼の男が、またしても挑発を行った。グリフと目が合うと不敵に笑う。
「待てよ新参。俺様の自己紹介が終わってねーぞ?」
野獣のような男だった。
体の全てから野蛮さと攻撃性が滲み出ているような、一目で危険人物だと分かる男。
「俺の名はフォレストD。戦闘機パイロットだ」
フォレストD。ハッピーBの次はフォレストD。
またしてもコードネームだ。
今頃になってグリフは理解した。本名や階級を名乗らないのではなく、本名も身分すらもない連中だと仮定すれば不自然じゃない。
もしかすると亡国のアメリカ人、あるいはカナダ人なのかもしれない。世界中から厄介者扱いされた難民の行き着いた先がここだったのか。
「ああ、あんた達も……僕達と……ギムナジウムの訓練生と同じなのか」
「あぁん?」
「身寄りのない、使い捨てられても世間が騒がない生命ってことさ」
空気の温度が下がった。
フォレストDは笑みのまま、嘲笑をやめていた。獲物をいたぶる肉食獣の歓喜がそこにはあった。
「使い捨てられても世間が騒がない生命ねぇ。それは逆だぜ新人。世間が俺様に捨てられる側なんだ。俺様はなぁ、人類の未来なんざ、どうだっていいんだよ!」
フォレストDという男は、人類の未来のために結成されたチームの中で、とんでもないことを言い出した。
「俺様はハイスペックな戦闘機を乗り回せるから作戦に参加してやるんだ。作戦が失敗してゴミみたいな人類が滅亡しようが知ったことか。そうさ、俺様以外の人間は、生きる価値のないクズどもなのさァー!」
ほんの少しだけグリフはフォレストDのことが好きになった。
奇遇だな、僕もどうだっていいんだ。
空を飛びたいだけなんだ。
ギムナジウムでの苛烈な訓練の日々を耐え抜けたのは、それがあったからだ。
あと一日だけ、あと一日だけ生き延びてやる。
そうやって自分を鼓舞できたのは、空への憧れがあったからだ。
「僕も戦闘機が好きでさ。乗り回せるのは確かに魅力だよね。うん」
これを聞いてフォレストDは表情を軟化させ、人懐っこく近づいてくる。
「お、そうかそうか。話が分かる新入りじゃねーか、オイ?」
「同じ戦闘機好き同士さ、仲良くやっていけるといいよね」
「そうだな。死ねや」
フォレストDの口元から偽りの笑みが消えて、殺意だけが残る。
拳足の間合い。格闘技者がそう呼ぶ、肉弾戦が成立しえる距離に入ると同時のことだった。
グリフは即座に頭をかばった。その判断は正しかった。鉛をぶつけられたような衝撃が頭に添えた腕にかかる。ハイキックを決められたのだ。
フォレストDは迷いのない体さばきで蹴り足を戻し、その勢いのまま逆足をはね上げた。先程と同じくハイキックの軌道だ。
グリフはよろめきながらも腕をあげて頭部をガードするが、頭部に衝撃が来ることはなかった。痛みが貫いたのは無防備な脇腹だ。
グリフの防御を見て上段蹴りから中段蹴りに即座に切り替えたのだ。鮮やかなまでの格闘技術である。
「へえ、俺の蹴りを受けて肋骨が折れない奴がいたとはな」
感心するのはグリフの方だった。仮にも特殊訓練を受けた自分が、こうも一方的に打ちのめされるとは。
単純な身体能力においてフォレストDはグリフを遥かに凌いでいた。
「オラオラ、殴り返してみろよグリフちゃんよぉ。殺し合おうぜ。なぁ?」
僕の拳は人を殴るためのものじゃない。操縦桿を握るためにあるんだ。
そんな強がりの言葉を吐こうとするが、臓腑を貫いたダメージのせいで、口を開けば苦鳴しか漏れない。
グリフは精一杯の抵抗を込めてフォレストDを睨みつけるしかないのだった。
「フォレストD。ケンカは自由だけど、作戦が終わってからにしなさい」
ハッピーBが隊長らしく仲裁をする。フォレストDは素直に拳を引いた。かと思うとグリフの頬に唾を吐き捨てる。
「この作戦が終わったら死ぬまでブッ殺し続けてやるからな。おぼえておけよ低能キッズのグリフちゃんよォ」
グリフは頬に付着した唾液を拳で拭いながら思った。おぼえておくのは貴様だ。いつか絶対に殴り返してやるからな。
「私も、自己紹介して良いでしょうか?」
部屋にいた先客の最後の一人、メガネをかけた白衣の女性がおずおずと主張した。
「アンネゲルトです」
ドイツ的な名前の響きだった。グリフ達と同じくドイツ人だろうか。
「今回、皆様が乗る戦略戦闘機及び戦略爆撃機の開発・整備主任を務めています。よろしくお願いします」
型破りなフォレストDやハッピーBと違い、礼儀正しい良家のお嬢さん、といった雰囲気を持っている。
この子とは仲良くやれそうだな、とグリフは思った。
パイロットとなるハッピーB、フォレストD、グリフ、トーゲ。
そしてマシン整備主任であるアンネゲルト。
ヒンメルギンター・ブラウ隊の主要人物達の面通しは波乱を含みながらも終わった。挨拶が終われば次のフェイズだ。
作戦の準備である。これから冬の眠り作戦の概要が説明されるのだ。
「作戦説明の前に……っと。新人くんの要望通り、さっそく乗ってみましょうか」
「乗ってみる……ですか?」
脇腹の痛みも忘れてグリフは食いついた。
「今から乗っていいんですか。戦闘機!」
「よっぽど好きなのね。ついてらっしゃい」
ハッピーBに付き従い、グリフ達は格納庫へと向かうのだった。
格納庫にはメタリックブルーに塗装された三機の戦闘機と、巨大な爆撃機の上に戦闘機が載った奇妙な機体があった。
戦闘機の周囲には数人の整備兵が機体のチェックに勤しんでいる。当然だが、面通しの場にいなかった細かなスタッフは数え切れないほどいるのだ。
「あの一番左の一号機がアンタの乗る機体よ、グリフ」
ハッピーBが指差す先にある機体が、グリフの専用機となる。専用機、ああ……なんという甘美な響きだろう。
「僕の機体……僕の翼……!」
グリフは興奮して駆け出していた。戦闘機のメタルブルーの身体に手を這わせて何度も溜息をついた。
「ねえ、これ僕のなんだよね。僕が自由に飛ばしていいんだよね!」
グリフは上機嫌で近くの整備兵の方に腕を回した。整備兵は迷惑そうに眉をしかめる。
「あ、僕はね、この機体のパイロットね。よろしくね、おじさん。それでこの機体は僕のでいいんだよね?」
「あんたのじゃなくて、軍からあんたに受領されただけ。あんたは単なるパイロット」
「僕が受領した機体ってことは、僕の戦闘機ってことじゃん!」
うへへぇ、と締まりのない笑みを浮かべて、機体装甲をペタペタと触りまくる。それを見た整備班は気持ち悪そうに顔を引きつらせグリフから離れるのだった。
ふとグリフは自分と同じく空に憧れていたトーゲが気になった。彼女も喜んでいるのだろうか?
だらしなく笑うグリフとは別に、トーゲは戦乙女然とした凛々しさで、自らが乗る巨大な爆撃機と対峙していた。
グリフ達が八年間を過ごした特殊兵士養成施設ギムナジウムにおいて、グリフよりも遥かに優秀な成績を収めていたトーゲは、冬の眠り作戦の要となる戦略爆撃機ミステルへの搭乗が決められていた。
トーゲの乗る爆撃機ミステルはメタルブルーの戦闘機よりも大柄な分、鈍重でカッコ悪かった。色も暗いグレーだ。
何より、ミステルを睨みつけるトーゲの張り詰めた表情は機体よりも灰色で、痛々しくて見ていられなかった。
きっと蟲への復讐心で胸が一杯なのだろう。
こんな素晴らしい大空への切符を前にして、怜悧な無表情を崩さないトーゲを見ていると悲しくなる。
「隊長。今から乗ってもいいんですよね?」
グリフの問いに、整備兵は嫌そうな顔をするが、ハッピーBは快く頷いた。
「ええ、キルヒェンリートの仮想シミュレーター訓練を終えている君達には、今更ならし運転なんて必要ない……と言われてはいるけど、作戦開始までにパイロットを実機に触らせないなんて正気を疑うでしょ」
彼女の言うように、グリフとトーゲは仮想シミュレーターを使って最新鋭機の操作には慣れている。しかし実機に触れたことはない。
恐ろしいことに上層部は作戦の秘匿性を重視して、パイロットにはシミュレーター以上の訓練をさせていない。
整備も万全であり、別チームが試験運用も終わらせている、というのが上層部の言なのだが、いかにシミュレーターマシンの精度や再現性が上がろうが、航空パイロットの技量は実飛行時間に比例するという原則に変わりはない。
「さっすが隊長。話が分かるぅー!」
「はしゃがないの。ステルスモードで基地周辺を低空飛行するだけだからね。それと私の指示にはちゃんと従うのよ?」
トーゲやフォレストDも自機にて試験飛行に同行するようだ。それでいい。トーゲも空を飛べば昔のように明るくなる。
明るくなるに違いない。
グリフは耐Gスーツに酸素チューブ付きヘルメットを装備して、キルヒェンリートのシートに座った。
格納庫のシャッターが開いた。滑走路と、その遥か先にロシアの青空が広がっていた。
いいね、いいね、最高だ。鼓動が昂ぶり、グリフは雄叫びを上げたくなった。
「グリフ・グレーフェンベルク特務兵。これより状況を開始する!」
『ただの試験飛行だっつーの』
ヘルメットの通信機を介して、基地管制室のハッピーBから注意が飛んできた。
『いいこと? 君達が仮想シミュレーターでの訓練ばかりで直に機体に触らせて貰えなかったのは、秘匿性の他にも理由がある。その戦闘機は永遠の未完成品なの』
「オーバーGを前提にした機動力に機体強度が追いついていないから簡単にブッ壊れちゃうんですよね。分かってますって」
エンジンの回転数上昇を示す心地良い振動が、超絶技巧派ベーシストが奏でるハードロックのようにグリフの精神を高揚させていく。
空に憧れ続けた青年の頭の中は、今から上昇する空のことで一杯だった。
『そう、その機体は超高機動である反面、硝子細工のように脆いわ。だから作戦開始前に酷使するのは絶対にやめなさい。あくまで、ならし運転!』
こと戦闘機に関していうと、ただの練習運転ですら油断ならない。着地が下手なパイロットのせいで、たった一回の飛行でパーツ交換をする例もあるのだ。
「分かっていますって、僕だって子供じゃない。大雪の中をドライブするかのように徐行で、ひたすら徐行でいきますとも!」
アイドリングが終わり、整備班が車輪止めを外した。斥力制御装置が搭載されているキルヒェンリートは垂直離陸を可能にするスペックを誇るが、滑走路を走り地面を蹴って離陸する伝統的な飛翔法が機体にかかる負荷を最小にすることには変わりない。何より、滑走路から飛び立つ戦闘機の姿にはワクワクさせられる。ロマンがあるのだ。
幼年期にトーゲと行ったベルリン航空祭を思い出す。あの時は子供の特権を活かして、観衆の最前列をキープしたものだ。小さな体で、大衆の隙間を縫って前へ、前へと。 人混みにはぐれないように、トーゲの小さな手を強く握りながら。
あの時も地上員が戦闘機の車輪止めを外す時はワクワクした。今みたいにエンジン音が響き渡り、航空祭の常連達は耳栓をつけたりしていたっけ。
幼いトーゲが、グリフの手を強く握って、空いた左手で車輪止めの外れさた戦闘機を指さした。
「ねえ、ねえ、飛ぶわよグリフ。すごいすごい! 私、絶対に戦闘機のパイロットになってみせるわ!」
「興奮し過ぎだよトーゲ。まだ飛んでないから」
「私、ぜぇったいに戦闘機パイロットになるぅー!」
「はいはい、戦闘機パイロットね。トーゲが目指すなら、僕も目指してみようかな」
鮮やかに蘇るトーゲの笑顔と、交わした言葉。二人で育てた夢の欠片。
『……ねえ、聞いてるの? グリフ・グレーフェンベルク特務兵』
通信機越しの上官の叱責に、少年の追憶は終わり、青年の現実へと呼び起こされた。
ここは航空ショーの会場ではない。隣にトーゲはいない。
「……聞こえていますよ、隊長」
『さっきも言ったけど、高度を上げすぎるのはダメだからね。蟲の監視力は私達の想像を超えているんだから』
「了解であります。派手な飛行は絶対にしません。地味に、地味~に飛びますとも」
そうだ、これは試験運転。初めて戦闘機を間近で見た見た子供じゃあるまいし、クールに流そう。
戦闘機は滑走路を進んでいく。
前脚が浮いて、離陸する。
空へ。
『とりあえず上昇してみましょうか』
「了解」
高度二百メートル、三百メートル、五百メートル、千五百メートル、二千メートル、二千五百メートル、三千メートル。
ロシアの大地を俯瞰できる高みへ。
遂には青空に至った戦闘機の操縦桿を握り、緩やかに旋回する。
大陸側は遥かな地平線、海洋側は無限の水平線、木々はブロッコリーのように小さく、人工物は芥子粒のように小さく。
グリフは機首を傾け、上昇を続ける。
高度六千メートル、六千五百メートル。
この程度か?
確かに視界に広がる風景は雄大で素晴らしいが、雄大で素晴らしいだけじゃないか。
見上げるだけの空と変わらないじゃないか。
パイロットになんてならなくても、山登りが趣味でいいじゃないか。エベレストからでも見れるよ。こんなの。
空への憧れとは何だったのか。
それとも自分がつまらない大人に落ちぶれてしまっただけなのか。
空への羨望を、子供の頃の感性を失ってしまっただけなのか。
失望もいいところだ。
『グレーフェンベルク特務兵。それ以上の上昇は許可できないわ』
高度六千五百メートル。ここまでか。
「了解。グレーフェンベルク特務兵、試験飛行を終了し帰投する」
『あんなに喜んでいたくせに、もういいの? 自由飛行時間とフォーメーション訓練の時間を設ける予定だったんだけど?』
「いえ、シミュレーターと大差ない、味気のない空でしたよ」
トーゲとフォレストDは作戦を想定した演習飛行訓練を続けるらしいが、グリフは一秒でも地上に降りて休憩に入りたかった。
上昇から下降へ。
下降。下降。機体と一緒に気分も下降。沈んでいくぜクソッタレ。
僕と一緒に空に憧れてくれた親友たちに、ごめんなさい。
ごめんよトーゲ。僕は空を失った。
すまないアニー。僕は空を失った。
ああ、そういえばアニーには偉そうに説教したことあったっけ。
忘れもしない、忘れられるはずもない、故郷が炎上して住人が虐殺され尽くしたあの日のこと。
グリフはアニーに言ったのだ。
僕たちが空に憧れるのは、空を飛ぶ翼が自由だからだ。
…………あれ?
「違う」
操縦桿を握る手に力がこもった。
これは飛んでいるのではない。飛ばされているのだ。
空中に投げつけられたボールが地上に戻るのと同じだ。
機体にダメージを与えないように馴らし運転?
万が一にも敵に発見されないように隠密飛行?
どうして忘れていたのだろう。当たり前のように指示に従っていたのだろう。
「…………」
下降していた機体を水平にし、機首を上げて、エンジンの回転数を最大へと昇らせていく。
上昇していく。昂ぶる感情に追いつくように、機体は遥かな天涯へ。
『ぐ、グレーフェンベルグ特務兵。高度を下げなさい。どうしたというの?』
通信機からの上官命令に、グリフが返した返事はこれだ。
「イィィィーッ、ヤッホォーウ!」
機体に負担を与えないように、緩慢に上昇して、鈍重に旋って回するべきだ。理屈では分かっている。いや全然、分かってない。手加減なんざ世界一かっこよく飛べる機体に対して失礼じゃないか。ブッ壊れ上等で酷使して、性能の限界へチキンレースしてこそ空への殉教者。それでこそのグリフだ。
6500メートルなんざ旅客機にでも飛ばせておけ。
グリフが駆る最新鋭機は真上に向かって垂直に上昇していく。常人なら気絶必至の悪魔的なGを飼い慣らして空へ、空へ。
遂には高度二万メートル。戦闘機の実用上昇限界値と呼ばれる数値に到る。
地表ギリギリまで降下してからの、高度20000への急上昇。所要時間は僅か数分。
なんて素晴らしい性能だろう。このまま上昇を続ければ宇宙にだってスイスイ行けそうだ。
「……………はは、大気圏内で僕の頭上にいるやつは一人もいないぞ。あっはっは!」
高Gの洗礼を受けて気絶しそうな自分を気力で支えつつ、下降を始める。飽きたから戻るのではない。
むしろ最高のドライブはここからだ。オーディエンスのいないところで遊んでも楽しくはない。
基地から目視できる程度の高度まで下降してから、グリフは自由気ままに飛び回った。
そういえば、ここはロシア上空だ。素晴らしい、なんという偶然だろう。
ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功してから、わずか十年後に誕生した贅沢な遊び、その発祥の地じゃないか。
人類が生み出した娯楽の中で、地面から最も遠い高度で行われるそれは、1913年にロシア人のピョートル・ネステロフが最初に生み出したとされている。
曲芸飛行。
人類最初の曲芸飛行と言われる宙返りから、この遊戯はマシンスペックの上昇とともに進化していった。そして今のグリフはその最先端で遊べる環境にあった。
大仰にアフターバーナーを吹かせ、スモークを炊いて噴煙でハートの形を作る。ハートループと呼ばれるポピュラーな曲芸飛行だ。
次はスピンと呼ばれる錐揉み回転をかけながら、リバース・キューバンエイト、ハンマーヘッドといった航空ショーでは必ず披露される人気プログラムを実行していく。
子供の頃に憧れていた航空祭のヒーローがそうしていたように、グリフは思うがままに鮮やかな軌跡を描き回る。
マシンは素晴らしい追従性を発揮した。グリフのイメージ通りに動くのだ。
まるで背中に生えた本物の翼のように。
(これが蟲の技術を模倣して獲得した追従性……か)
空を行く飛行機には常に四つの力が働いている。前方に推力、後方に抗力、上方に揚力、下方に重力であるが、この最新鋭機にはもう一つの力が加えられる。蟲の偵察飛行円盤を解析して入手した斥力制御装置が搭載されているのだ。
蟲の円盤偵察機が、航空力学を鼻で笑うかのような円柱形でありながら、人類側の戦闘機よりも遥かに高度な機動性を誇っていた不条理の根拠は、斥力制御装置によって発生した反重力による機体コントロールにあった。人間の作った戦闘機は航空機に働く四つの力のうち推力と揚力しか制御できないが、蟲の斥力制御技術は四つの力全てを自在に操っているかのような反則じみた万能性があったのだ。
現在グリフが駆る最新鋭機は、ユーロファイターをベースにした最先端の戦闘機デザインと、蟲の斥力制御技術を両立させたハイブリット機であり、言うなれば人と蟲の航空技術の粋、その合いの子とも呼べる奇妙なスペックのマシンだった。
戦闘機の性能の指標は、機体コントロール可能な範囲と、その絶対値の大きさにある。斥力制御装置を搭載された最新鋭機の性能は正に従来のものとは別次元の超性能と言えるだろう。
ああ、そうとも。この蟲と人の技術によって生まれたマシンこそが天空の覇者なのだ。
どこまでも飛んで行けそうな感覚。
グリフは今この瞬間に、本当の意味で空を知ったのだ。
今ならクルビットターンも実現できるのではないだろうか?
ふと子供の頃から夢想し続けていた必殺曲芸飛行を思い出した。
最大速度からの宙返りターン。
18歳にもなったグリフには、それが物理的に不可能な動きだということも知っている。
しかし、このスペシャルマシンなら、案外簡単にやってのけるのではないだろうか?
『遊んでいるんじゃない。グレーフェンベルク特務兵。今すぐ帰還せよ!』
通信機越しのハッピーBの叱責が、グリフの熱意をわずかに醒ました。
眠りから醒めると夢は終わる。空を飛ぶ鳥は、いずれ大地へと帰還する。
グリフの初フライトも永遠には続きはしない。
星の王子様の作者、サン・テグジュペリは飛行機に乗ったまま行方不明になったというが、あの童話作家は果てない空の奥へ、永遠の世界へ行ってしまったのだろうか。
自分の死に様を選べるとしたら迷わず選ぶ結末だ。飛行機に乗ったまま行方不明。クール過ぎる。
いっそ、このまま失踪してしまおうか。
燃料が空になるまで無軌道に飛ばしてやろうか。
それも悪くはない。操縦桿を握る手に力を込めた。
『何をやっているのグリフ。今すぐ帰投しなさい!』
通信機からの声は、聞き間違えるはずもない最愛の少女、トーゲの声だ。
飛行機に乗ったまま行方不明になんて、なれる訳がない。
トーゲを置いて逃げられる訳がない。
「……了解」
操縦桿を握る手から力を抜いて、帰投への手順を辿るのだった。
帰投後、グリフ達は耐Gスーツから特殊部隊用制服へと着替え、軽い検査を経て、作戦会議のためブリーフィングルームへと集っていた。
検査室からの通路でトーゲも同行していたのだが、彼女はグリフを蔑むように睨みつけ、距離を置いて歩いていた。
ブリーフィングルームに入る。数時間前と同じく映写機とスクリーン、そしてパイプ椅子が並んでいる必要最低限が揃ったシンプルな作戦室だ。
室内には同じくハッピーB、フォレストD、アンネゲルトがいた。
いや、数時間前と同様に、ではない。それぞれのグリフに向ける感情は劇的に変わっていた。
フォレストDからは敵意に満ちた視線……は相変わらずだが、どこか以前よりも粘着質なものを感じる。
アンネゲルトは気遣うような視線だ。開発整備チーフと軍医を兼任しているという話なので、グリフの無軌道なメンタルを案じているのかもしれない。
そして隊長であるハッピーBである。数時間前には確かに存在したグリフへの好意が跡形もなく霧散していた。嫌悪感しか無かった。
「作戦説明に入る前に、グリフ・グレーフェブルグ特務兵」
「はい」
グリフは背筋を伸ばして返事をした。
「グリフ・グレーフェンベルグ特務兵。訓練とは何だ?」
「えっと……仲間の生存率を上げるためのものです?」
「違う。訓練とは……」
「甘ったれないでグリフ」
ハッピーBの言葉をトーゲが遮った。
「私達の生命は人類全体の未来に比べたら遥かに軽いわ。必要とあれば人類のために死ぬし、自分のみならず仲間も見殺しにするべきよ。訓練は……私達の生命も……作戦の成功率を上げるために存在するのよ」
「素晴らしい。トーゲ・オブスト特務兵。あなたこそ人類を救う勇者、そして至宝よ」
トーゲの言葉に胸を打たれたのか、ハッピーBは不機嫌そうな表情を改めて幾ばくか柔らかくなっていた。
グリフは何だか気持ち悪くなってきた。人類人類って、顔も知らない他人のために何マジになっちゃってんのこの人達?
「いや、僕は何があってもトーゲの安全を優先するけどぉ?」
「私は人類の未来のためならグリフを見殺しにするわ。私、あなたのそういう大人になりきれない所、どうにも好きになれない」
切り捨てるようなトーゲの言葉の刃が振るわれ続ける。
「今の曲芸飛行だってそうよ。試験飛行といっても遊びじゃなくて作戦のうち、立派な本番なのよ? あの機体を一回飛ばすだけでグリフの生涯年収なんざ余裕で吹っ飛ぶでしょうし、グリフが脳天気に曲芸飛行で遊んでいた環境を作るために不眠不休で働いていた人達もいるはずよ。それに、仲間の生存率を上げる? あなたの軽率な行動で隊長の立場が危うくなかった事にも気づいていないくせに、よく言えたものね」
トーゲの指摘は間違いではなかった。グリフは知らないことだが、グリフ達をシミュレーター訓練のみの状態で本番に送り出す予定だった上層部に対して、隊長のハッピーBは現場主義的な思想から作戦実行パイロット本人による試験飛行の必要を陳情し、反発を受けながらも何とか許可を得たのだ。その厚意がグリフの暴走を招いてしまったのだから隊長の心労は計り知れない。
「グリフは自分の思い通りに動かせる戦闘機が欲しくて頑張ってきたの? 違うでしょう、ギムナジウムでの過酷な訓練に耐えられたのは、人類を救うという理想があったからでしょう。私達の村を滅ぼした憎い敵を滅ぼしてやりたいからでしょう。己の戦う理由を思い出して!」
グリフは己の戦う理由に思いを馳せた。うん、間違いない。今度こそ間違えないぞ。
子供の頃から、18歳になった今まで、グリフの心の中には不変の情熱が燃えている。
それは空への憧れだ。トーゲと二人で見上げた、あの空への尽きぬ渇望だ。
そう、まさに今日この日、最新鋭戦闘機を自分勝手に飛び回すためにグリフの人生は存在したのだ。
「わかったよ、トーゲ。僕が生まれてきた本当の意味が」
「グリフなら分かってくれると信じていたわ。はい、言ってみて?」
「僕が死に物狂いで頑張ってこれたのは、自分の思い通りに動かせるハイスペックな戦闘機が欲しかったからだ」
一瞬だけ笑顔になったトーゲの表情が凍りついた。間を置かずに夜叉のように怒りの形相へと変わる。
「このッ………バカ! なんで分からないのよ。グリフだけは分かってくれているって信じていたのに!」
逆上してグリフに掴みかかるトーゲ。それをハッピーBが押さえつけた。
「……分かった。もういい、作戦の説明に入るから。はあ……このチームは……問題児しかいない……」
事実、フォレストDもグリフもトーゲも激情に振り回されて動くタイプである。指揮官としては今後の作戦が心配だろう。
「冬の眠り作戦についてのミーティングを始める前に、あなた達に一つ許可を取っておきたい事があるわ」
スクリーンの前に立ったハッピーBは、室内の一角を指さした。椅子の上にカメラが置いてある。
「これから会議の様子を撮影したいのだけれど、構わないかしら。先に言っておくけど軍規違反に照らして見ても完全にアウトだし、軍人としても個人としても、あなた達には拒否する権利があるわ」
人類の存亡をかけた機密作戦についての作戦説明の様子を撮影したいとハッピーBは言い出した。
「記録した映像は、いえ……私がこれまで記録していた資料は、このブリーフィングルームにいるメンバー全員に配布するわ。作戦終了後、生存していればね」
突拍子もない提案にグリフは困惑した。グリフとしては反対する理由がないが、トーゲの意見が気になる。
周りを見るとアンネゲルトとフォレストDは特に反応を見せていない。事前に承諾を得ていたらしい。
となると、やはりトーゲだが……
「……………」
当然の如くトーゲは警戒しているようだった。当然だ、軍規違反の片棒を担いでしまえば自分の身も危ういのだ。
「好きにしていいですよ。作戦終了後のことなんて、どうでもいいですから」
これはこれで彼女らしい自暴自棄な消極的賛同だった。トーゲにとって蟲への復讐が第一であり、それ以外のことなど眼中にないのだ。
グリフとしては撮影の理由が気になる。使用目的によっては顔にモザイクを入れるくらいの配慮はして欲しいものだ。
「第一の目的は保身ね」
こちらの疑問を察してか、ハッピーBは行為の意図を語り始めた。
「この場にいるパイロットは使い捨ての人材ばかりよ。社会的に存在しない孤児と難民の寄せ集め…………このチーム構成の理由は何だと思う?」
ああ、得心いった。グリフもトーゲも、その一文だけで理解してしまう。
社会不適合者であるフォレストDや、軍人としての自戒に欠けるグリフは、いかに個人技に卓越していたとしても組織から見れば不要な人材と言ってもいい。
いや、この作戦に限って、それでいいのだ。
死んでくれた方がいい個人技に長けた人材でいいのだ。
冬の眠り作戦は蟲を根絶するための作戦だが、大量の核兵器を利用する。人類も放射能汚染の巻き添えを喰らい被爆するだろう。
当然、作戦の舵を切った者は責任が追求される。追求される責任を回避するには責任の所在を曖昧にするしかない。
今頃は地下にこさえた核シェルターにでも逃げ込んでいるであろう連中からすれば、グリフのような作戦関係者は全員死んだ方がいいのだ。
特にグリフとトーゲは非人道的までに過酷な訓練過程を受けている。集められた孤児の九割が訓練中の事故や投薬の副作用で死亡している事実は、果たして公表されるのだろうか。される訳がない。
人類のために戦う救世主という、大人から与えられた甘美な役割に酔っているトーゲとは違い、グリフが軍規を軽視する理由もここにあった。従順でいられる筈がない。
「第二の目的は個人的な記録ね。人類を救っちゃう英雄になる訳だし、自伝の一つぐらい残しておきたいわ。ってか印税生活狙えるわよね、これ。さて、反対意見もないようだし、作戦会議を始めるわよ」
と、にこやかに仕切り直すハッピーBを見てグリフは嬉しくなった。この人が隊長でよかった。
どうせ死地に赴くのなら、抜け目のない卑怯者よりも人間味のある奴の下で働いた方がいいに決まっている。グリフ達の許可を取らずに無断で撮影すれば良いものを、わざわざこちらの意志を尊重したのは根が善良だからだろう。
ハッピーBはリモコンでカメラのスイッチを入れると同時にカメラ目線になり、畏まった姿勢で作戦の説明を始めた。
「諸君らがこの動画を見ているとき、私は既に他界しているのかもしれない。うっひょ、言ってみたかったのよねこのセリフ」
映画の影響を受け過ぎだ。
「二十一世紀初頭、突然変異により知性を獲得した蟲が出現し、人類は彼らとの生存を……この惑星の主権をかけた戦争を余儀なくされた」
「そこからぁ?」
「口を挟むなグレーフェンベルグ特務兵。今は撮影……じゃなった作戦説明中だぞ!」
グリフ達ではなく、完全に動画を意識した前口上だった。わざわざ撮影の同意を得ていた訳だ。これがやりたかっただけなのだろう。
カメラに向けてハッピーBの俳優じみた熱弁は続く。
「蟲は強敵だった。奴らとの戦争が始まって最初の一年で北アメリカ大陸は奪われた。アメリカ合衆国がではなく、北アメリカ大陸が、大陸内の全ての土地が奪われてしまったのだ。ええ、私の両親も合衆国人でした………パパやママのためにも蟲達から故郷を取り戻……うっ……失礼……涙が……」
ハンカチで目頭を覆うハッピーB。唐突なお涙頂戴路線に笑いを咬み殺すグリフだった。
「え~、この場にいる元アメリカ人の方からも意見を伺いましょう。フォレストDさん、カメラに向けて一言」
ハッピーBはボールペンをマイクに見立ててフォレストDへと差し出した。悪ノリにも程がある。あの狂犬のような野蛮人を刺激するなど、撮影会の終了も同義ではないか。マイクを向けられた所で「殺すぞ」とか「死ねや」とか吐き捨てて暴れだすに違いない。
「おばあちゃんを返せ蟲ケラどもぉー!」
フォレストDはボールペンを受け取って、声を裏返してシャウトした。
「おばあちゃんが焼いてくれたマカロンは二度と食べられない……食べられないんだよ……っ……ウッ!」
意外にもノリノリだった。
「はい、ありがとうございます。え~北アメリカ大陸を奪われた人類は、ロシアを中心とした新国連軍を結成し、蟲達を滅ぼすべく動きました。大量に配備した潜水艦からSLBМの雨を降らせ、北アメリカ大陸ごと蟲達を消滅させようとしたのですね。が……計画は失敗に終わりました。蟲側のミサイル迎撃技術は凄まじく、その全てが撃墜されたのです。また、何処からか蟲に情報が漏れていたらしく、作戦失敗直後の報復としてSⅬBⅯ潜水艦は全て撃墜されました。破壊された原潜による海洋汚染は現在なおも浄化の目処が立っておりません」
それは今から八年前のこと。
グリフは過去を追想する。
潜水艦とSLBМを使った物量作戦。その作戦が失敗した頃に彼女は現れた。
グリフとトーゲとエルウィンの輪の中に、蟲の少女アニーが現れたのだ。
「わずか一年で北アメリカ大陸を奪われた驚異的な侵略ペースに、我々は恐れ慄きました。あらゆる科学者の未来予測は、その全てが絶望的なものであり、明日には人類が滅ぶといったものから、三年以内に全ての大陸が蟲の支配下に落ちる……など、様々でしたが…………意外にも人類は八年逃げ切りました。予想よりも遥かに少ない被害で、今日まで絶滅の運命から逃げ切ったのです。いいえ、見逃されていたのです」
生き存えたのは人類が頑張ったからではない。
蟲が手を抜いただけなのだ。
「圧倒的な軍事科学力の差からの遊び心からか、蟲は人類を殺害する上でルールを設けました。ご存知でしょうか? 日本のアニメにガンダムという人間の形をしたロボットが戦争に使われる作品があります。建築物ほどの大きさのロボットに人が乗り込み、戦うのです。……ええ、そうです。蟲は巨人型のロボットを作り、それに乗り込んで人間を虐殺し始めたのです。体を掴み、頭を握り潰し、首を引っこ抜く……人間が人間を殺すように、生々しい殺害方法ばかりでした」
人間を殺すために人間の形を選んだ蟲の精神性に寒気がする。こちらにストレスを与えるためだけに、そうしているのだろう。
毒ガスを散布して大気を汚染し、ロボットでジワジワと人間狩りを行い、逃げる猶予を与えて大量の難民を生みだし、人間同士の対立を煽る。
悪魔のように冷徹で残酷な攻め方だった。これが人類の敵、蟲のやり口なのだ。
「蟲に殺害された人間は、一部の例外的ケースを除いて、全て人間型ロボットによって殺されています。例外的ケースというのは、戦車や戦闘機など人の形をしていない近代兵器のパイロットです。これらは彼らにとって人間としてカウントされていないのか、人類が未到達の技術領域にあるミサイルやレーザーによって破壊されました。こちらの兵器は敵の超兵器で一瞬のうちに破壊され、一般人は蟲のロボットに嬲り殺しにされる。この状況に目をつけた新国連の誰かが言いました」
それは苦し紛れの発言だったと伝えられている。現実逃避じみた冗談だったと言われている。事実そうだったのだろう。
「我々も人間の形をしたロボットを作れば対抗できるのではないか?」
蟲が人間を殺すときは、ロボットを使い肉弾戦で殺しにくる。ミサイルも光学兵器も使わない。人間が人間を殺すように五体を使って、リアルに生々しくブッ殺しに来る。
ならば、こちらも人間型のロボットに乗って戦えば、敵はミサイルも光学兵器も使ってこない。接近して殴りに来るのではなかろうか?
結果を見ると、この着想は大正解だった。
「蟲から鹵獲したロボットのデータを参照に、人型機動兵器オリオンが開発され、企画から生産まで一ヶ月ちょっとの突貫作業で量産機の製造ラインは整いました。この人型機動兵器オリオンによって、蟲側の超兵器は封じられ、最前線では人間型のロボット同士の地味な殴り合いが展開されるようになったのです」
オリオン、という響きにグリフは不快そうに眉をしかめた。戦闘機を愛するグリフにとって、人間型の戦闘ロボットはロマンに反する唾棄すべきモノなのだ。
戦争の花形は戦闘機であるべきなのに、二足歩行の鈍重なロボットが現代戦争の主役だなんて、グリフにとっては吐き気がする悪夢だった。
その二本足歩行のノロマなオリオンが蟲のロボットと八年間の長きに渡り殴り合ってくれていたおかげで、人類は生き延びられているのだから文句も言い辛くて困るのだが、やはりグリフは巨大ロボット戦争アニメなんて大嫌いだった。何がガンダムだよコアファイターのまま戦ってろってんだ。
「とはいえ、この八年間で損失をゼロにできた訳ではありません。つい先月、北アメリカ大陸のみならず南アメリカ大陸も完全に蟲の支配下に落ちてしまいました」
当然、南アメリカ大陸に住んでいた人間の大半が、そのまま難民となってしまった。
このまま蟲を放置していれば、次はユーラシア大陸だろうか。アフリカ大陸だろうか。いずれ全ての土地が奪われる。
「人類と蟲の戦争が始まって最初の一年で北アメリカ大陸を奪われ、そして八年かけて南アメリカ大陸も奪われました。滅んだ国の数は35」
人類史上最悪の戦争被害といえるだろう。
なにしろ人類同士の争いは、人類という種の中での土地や資源の奪い合いだ。
しかし相手が人類外となると、敗北は人類全体の困窮に繋がる。難民が増えると、人類同士の資源の奪い合いが始まる。いや、目を背けてはならない。八年前から奪い合いは始まっている。受け入れを拒否された難民はあらゆる手段を使って密入国をした。当然、世界中で難民スラムが形成され治安は悪化の一途をたどり、その事実が各国のレイシズムを助長し、過剰な差別の温床となっている。
元メキシコの民族解放組織サバディスタ解放戦線の旧構成員を母体としたテログループなどの難民側の武装勢力と、レイシズムに憑かれた心無い差別主義者達との闘争は日に日に激化しているのだ。
人類滅亡のその日まで、人の領土は減り続け、残った土地で人間同士が奪い合い、また蟲に領土を奪われ……。その連鎖が続く。何も手を打たなければ確実にそうなる。
だからこそ人類は企画した。起死回生の逆転の策、冬の眠り作戦を。
人型機動兵器オリオンで時間稼ぎをしつつ、八年かけて周到に準備を進めてきたのだ。
「このまま我々は滅んでしまうのか。いいや、そうはならない。我々には死回生の切り札が存在する。それが冬の眠り作戦です」
冬の眠り作戦。グリフとトーゲの八年間は、この作戦の準備のためだけにあった。
「わずか一年で北アメリカ大陸を奪った蟲の技術力と生殖力は驚異的であり、今この瞬間も敵は新たに発明と繁殖を繰り返し着実に勢力を拡大しています。この事実が意味するもの…………それは蟲を全滅させないと同じ事が繰り返される、という悪夢です」
人間同士の戦争とは違い、適度にダメージを与えて有利な講和条約を結ぶような終わり方はありえない。
根絶やしにしなければ、また繁殖を繰り返して逆襲を始めるに違いない。
「しかし両アメリカ大陸に根付いた知的生命体を滅ぼすなど可能でしょうか? 人類が人類を滅ぼす事と同じくらい困難であると言えますが、これを可能にする術があります」
誰が言っていたのだったか。いずれ来たる人類の滅亡は核戦争によるものだと。
「古来から言われていました。地球上にある核兵器の総量は、地球人類を絶滅させるに足るものだと。合衆国という最も頼りになる国家を失った後、来たるべく反撃の日に備えて、人類は無数のICBMと発射サイロを建造していたのです。現時点で我々が保有している核を使用すれば、蟲を絶滅させる事も可能です。戦争に勝てるのです」
「核汚染された地獄のような惑星に残される人類が、それを勝利と呼ぶのなら」と、グリフは頭の中で付け加えた。
地獄が過ぎれば何が始まる? 今とは別の地獄がスキップしながらやって来るだけだ。
八年前に全く同じ作戦思想で実行された潜水艦からのSLBM大量爆撃作戦の失敗による深刻な海洋汚染は、未だに浄化の目処が立っていない。今以上の核汚染に人類が耐えられるのか?
今回の作戦が実行されれば、放射性物質は世界中に拡散するだろうし、一点集中の核爆撃によるエネルギーがポールシフトを起こすだの、巻き上がる粉塵が氷河期を呼ぶだの学者が指摘する不安要素も絶えない。何より南北アメリカ大陸を死の土地にする時点で大損害だ。リスクだらけの作戦なのだ。
それでも蟲ケラに地球の覇権をくれてやるよりはマシなのだろうか。
「しかし不安要素もあります。今から八年前のSLBM大量発射作戦の失敗もそうでしたが、敵の防衛システムは驚異的でした。無策でICBMを放っても、この全てを迎撃されることはないにせよ『大陸ごと蟲を一匹残らず全滅させる』という必須目標が達成されるとは思えません。そこで我々の出番です!」
ハッピーBはリモコンを使い、スクリーンに先程グリフ達が乗った戦闘機と、爆撃機ミステルを投射した。
グリフは改めてミステルのデザインセンスの最悪さに吐き気を抱いた。ミステルのパイロットとなったトーゲに同情してしまう。一般的な形状の爆撃機の上に戦闘機一台をそのまま合体させている、トンボの交尾のような奇妙な造形なのだ。
「ご覧ください。この戦闘機と爆撃機には敵のセンサーを欺く、ある仕掛けが搭載されています」
画面上の戦闘機と爆撃機ミステルが透けて、人間の五体のようなヴィジョンが浮かんでくる。
「蟲は人間の形をしたモノを攻撃する時に、同じく人間の形をしたロボットを使用する。ならば光学技術や電子戦技術を使い敵のセンサーを欺瞞さればどうなるか。そう……我々ヒンメルギンターが搭乗するこの最新鋭機には戦闘機が人間の形をしているように見せる『擬人システム』が搭載されているのです」
この擬人システムを使えば、戦闘機は無敵になる。蟲がロボットによる殺害ルールを曲げなければ、戦闘機に向けて敵からのミサイルが飛んでくる事はないのだ。
「この『擬人システム』を搭載した戦略爆撃機と護衛戦闘機によるチームで敵の対空防衛拠点を戦略爆撃、防御力がダウンした蟲軍に立て直しの暇を与えることなくICBMを叩き込む…………これが起死回生の切り札、冬の眠り作戦の全貌です。この作戦が成功すれば人類は救われます!」
爆心地に赴くパイロットは十中八九被爆するけどな。グリフは腹が立ってきた。自分達の生命が軽視されているのは別にいい。いや全然よくないけど。
最も許せないのは戦闘機についての説明だ。もう我慢できない。これだけは言わせろ。
「擬人システムなんてなくても、あの戦闘機は蟲どもと互角以上に渡り合えますけどね。僕の相棒は最高なんだ」
「…………ん?」
唐突に口を挟んだグリフに、ハッピーBは意図を掴みかねているようだったが、無難にコメントを拾って撮影作業を続けた。
「先ほどパイロットから頼もしい声が上がりました。ええ、新型戦闘機の長所は擬人システムによる絶対防御だけではなく、蟲側の技術を解析する事で入手した斥力制御装置も搭載され、機動性も従来の戦闘機を圧倒的に上回っています。この新型機の本命は、あくまで擬人システムによる防御性ですが保険としての高機動性を……」
黙れ。
賢しらぶった物言いで、僕の相棒を馬鹿にするな。
「保険じゃない…………」
怒りに震える声でグリフは吐き出す。
一度でも乗ってしまえば分かる。グリフに本物の空を思い出させてくれたマシンは、この世界で最も優れた大空の覇者なのだ。
偉大なる蒼穹の覇王に、コソコソと人間の変装をして敵をやり過ごせだと?
それはグリフにとって神を冒涜することに等しい暴言だった。
「訂正してください、隊長。僕の相棒は……あの最高の戦闘機は……機動性こそが本命なんだ」
ハッピーBはため息を一つ、リモコンでカメラを停止してグリフを睨んだ。
「あのねぇ……」
「擬人システムなんて卑怯なステルスを使ってコソコソしなくっても、マシンの性能だけで蟲どもと互角以上に戦えるんだ!」
「あのねぇ……グリフ・グレーフェンベルグ特務兵」
「僕の戦闘機が一番強いんだ!」
この世で一番すごいんだ。
強いんだ。かっこいいんだ。
何でそんな当たり前の事が分からないんだよッ!
「いや、ウチの戦闘機のスペックの高さは認めるけど、蟲の航空戦力とタメ張れるとかないわー。ヒイキ目に見てもないわー」
興奮するグリフと反比例するようにハッピーBの対応は冷ややかなものだった。
「あんた達が駆る戦闘機は、運動性だけなら蟲の円盤偵察機に勝るわ。けど、それは機動力に限った話で、内蔵兵器では追尾性などの面で劣っている。偵察機を相手にしてさえ、ガチンコの殴り合いなら分が悪いのよ。この意味が分かる?」
敵側の偵察機は、あくまで偵察が目的であり、過剰な性能は持たされていない。蟲側からすれば鹵獲されても問題ない程度の低スペック機なのだ。
つまり交戦を目的とした敵の主力飛行機と遭遇すれば勝機はない。蟲軍の技術を解析することで得た二番煎じの性能で、敵の現行最新鋭機に勝てる訳がないのだ。
「爆撃機で敵の本陣に殴り込みをかける今作戦において、敵の防衛主力との遭遇は避けられないわ。擬人システムをオフにすれば瞬殺されるでしょうね」
「それは…………」
「私達が作戦を成功させるには機体の性能で勝負せずに、擬人システムを使ってコソコソと敵に見逃してもらうしかないの。分かった?」
グリフは言葉に詰まる自分を歯がゆく思った。残念ながらハッピーBの主張はド正論過ぎて反撃できる余地がない。
人間の作った戦闘機は蟲の戦闘機に勝てないのだ。
「それでも、それでも僕と相棒ならやれるんだ」
悔し紛れに吐き捨てるだけで精一杯だった。
「あんたがそう信じるのは勝手だけど、作戦行動中に擬人システムをオフにするような暴走だけはやめてね。貴重な戦闘機が無駄に壊されるだけだから。あと少し黙っていてくれる?」
ハッピーBはリモコンを操作して撮影を再開した。
「どこまで説明していたっけ………そう……はい、作戦に使用される戦闘機は擬人システムのみならず、機動力においても従来のマシンを遥かに上回ります。このハイスペックマシンの操作に耐えうるパイロットの育成にも多大な労力と時間を費やしました」
「そうだ。僕達の八年に渡る訓練の全てはマシンの機動性を限界まで引き出すため!」
グリフは我慢できずに叫んだが、ハッピーBは「後でカットね、ここ」と軽く呟いて、これを無視した。
「パイロットの育成にかかった労苦というのは、擬人システムの処理や火器管制など、本来複座でこなすべき複雑な操作を単独でこなせる超人的パイロットが必要だったためです。斥力装置による力場の発生は複座だとカバーしきれないため……あ~なしなし、これもカット。こんなマニアックな知識とか不要だわ。てか戦闘機のスペックに関するくだりとか全部カットでいいわもう」
ハッピーBはリモコンを弄りながら少し考え、撮影を再開する。
「戦略爆撃機による攻撃チーム、我々ヒンメルギンター・ブラウ隊は潜水空母を使い北アメリカ大陸へと接近し、潜水艦からの出撃によって敵の防衛拠点へと奇襲をかけます
。一方、南アメリカの防衛拠点には別部隊であるヒンメルギンター・ゲルプ隊が同様に奇襲をかけます」
現在この秘密基地には、グリフとトーゲが属するヒンメルギンター・ブラウ隊の他に、別チームであるゲルプ隊も駐留している。もっともロシアとの目的地との距離的な理由でグリフ達よりも早くに出撃する必要があるので、ゲルプ隊の面々は今頃、潜水空母の出撃前作業で忙殺されていることだろう。
「奇襲が成功すると同時に、世界中の核発射サイロからICBMが発射され南北アメリカ大陸から蟲を一匹残らず根絶やしにします。小さな離島に到るまで徹底的に。……これが私達が実行する冬の眠り作戦の全貌です。……以上、冬の眠り作戦についての記録を終わります」
ハッピーBは祈るように目を閉じた。
「この動画を閲覧している貴方が、作戦成功後の世界の住人であることを願う」
芝居がかった動画撮影は終了し、作戦の細かな手順を確認するだけの淡々としたブリーフィングが続くのだった。
作戦前のブリーフィングが終わり、ようやく自由行動時間となる。
(さ~て、人生最後になるかもしれない陸地を堪能しますかね)
今後の流れを頭の中で整理する。
潜水空母に乗り込んだ後、北アメリカ大陸付近で空母から戦闘機で出撃。生還できなければ、今が最後の陸地での自由時間になるのだ。
ドイツのギムナジウムからロシアの秘密基地までの長旅で疲れている身体は、作戦開始前までの就寝を訴えていたが、寝る前にするべき仕事が二つある。
一つは南アメリカに向かう別部隊ゲルプ隊の面々への挨拶だ。ゲルプ隊のパイロットは全員がグリフやトーゲが所属していた訓練施設ギムナジウムの訓練兵だった者達である。メンバーの中にはグリフの親友と呼べる者もいるのだし、一声かけておきたかったのだ。
だが、それよりも優先するべき事がある。親友よりも愛する女だ。
迷いのない足取りで廃墟の廊下を進む。その先にはトーゲに割り当てられた休憩室がある。
「トーゲ、いるかい? 寝ていたらゴメンよ」
返事も聞かずにグリフは扉を開ける。少年時代の頃のように、無遠慮に扉を開く事で着替えに遭遇することを期待した訳ではない。
今のトーゲは正常ではないのだ。
兵舎をそのまま利用している廃墟だけあって、室内は複数人での就寝を前提にした広めの空間だった。
トーゲは部屋の隅に出来た影に同化するかのように小さく座り込んでいた。
その手には錠剤の入った瓶が握り締められている。陶然とした面持ちでトーゲは瓶から手のひらに薬を落として、それを口に運ぼうとした。
ああ、やっぱりか。グリフは安堵する。間に合って良かった。
駆け寄り、口へと運ばれていたトーゲの手を掴む。手のひらから錠剤が落ちた錠剤が廃墟の床を叩いた。
これで安心だ。トーゲを薬物から守ることに成功した。
「なにしゅるのぉ……グリフぅ……せっかく気持ちよくなれりゅのにぃ……」
舌っ足らずな喋り方にグリフの背筋が凍りついた。間に合ってなどいなかった。
トーゲが手にしている錠剤は、ボースハイトと呼ばれる向精神薬だ。服用後は多幸感に包まれる弛緩状態が続き、さらに時間が経過すると興奮状態に陥る。
今は幸せそうに笑っているが、あと数分もすればトーゲは緊張状態に入る。グリフが一番見たくない、痛々しいトーゲになってしまう。
「一錠だけじゃ飽き足らずに、更に服用していたのか。いつからだ?」
これは麻薬と同じだ。中毒性が高く、依存を繰り返すうちに効き目は薄れ、服用量も増えていく。
「いつからってぇ、ずーっとずっと前からだよぉ~。グリフが私の頬を殴りつけて『二度とこんな薬に頼るんじゃない』って怒ったあの日にはぁ~、もう一粒じゃ全っ然満足できなくなってのぉ」
グリフは天国のエルウィンに心の底から謝罪する。君の義妹を薬物依存から守る事ができなかった。僕が無能だったからだ。すまない。
トーゲが愛飲しているボースハイトという薬剤は、作戦行動中の兵士のメンタルを支えるための向精神薬だ。ギムナジウムにいた頃に訓練の能率を上げるために支給されたものだが、これがトーゲと相性が悪かった。いや、良すぎたというべきか。
トーゲは優しすぎたのだ。
戦闘機でのシミュレーターでも、普段の状態では敵機を撃墜することができなかった。憎い蟲の乗った機体と説明されても、攻撃することを躊躇った。
争いに向いていない天使のような人間は実在する。それがグリフの愛するトーゲという少女だった。
しかしトーゲはボースハイトと出会ってしまった。この向精神薬を飲んだトーゲは嬉々としてシミュレーター上の敵機を撃墜してみせた。この薬無しでは訓練にならないため、彼女は誰よりもこの麻薬に夢中になった。
ギムナジウムの管理者からしてもトーゲをより忠実な兵士へと洗脳する上で、ボースハイトに依存してくれるのは好都合だった。冬の眠り作戦さえ終わってしまえば薬物依存の患者がどうなろうと知った事ではないのだ。
この忌々しい薬物さえなければトーゲは戦士としての適正無しとされ、ギムナジウムから追放されていただろうに。こんな決死作戦なんぞに参加することも無かったに違いない。
この薬をトーゲから取り上げたくとも、作戦前に没収はできない。この薬がなければ戦士として使い物にならないトーゲを間接的に殺す事になる。
グリフは完全に出来上がっているトーゲの横に腰を下ろした。すると、すぐにトーゲは甘えるように身を寄せてくる。
「ねぇねぇ、グリフ。あれやろうよ~。昔ごっこぉ」
昔ごっこというのは、グリフと二人きりの時にトーゲが誘ってくる遊びだ。遊び方はおママゴトと一緒。役割を演じるのだ。
演じる役はパパでもママでもない。グリフはグリフを、トーゲはトーゲを演じる。
八年前の自分自身を。
「ねえ、やろうよぉ~。昔ごっこ、しよ?」
「……ああ」
グリフはこの遊びが大嫌いだった。しかし、こうなるとトーゲはテコでも動かない。これでトーゲの精神が安定するなら我慢など安いものだ。
「じゃあシチュエーションはねぇ、八年前。グリフが落とし穴を掘って、学校をサボって原っぱでラジオを聞きながら寝転がっているの。そこに私が注意しにいくの」
よりにもよって、村が滅びたあの日の再現じゃないか。
いや、気を荒立ててはいけない。今のトーゲは何も考えていない。ただ自分が気持ちよくなる連想ゲームをしているだけだ。
「じゃあ始めよ? こらっ、グリフ。ま~た落とし穴なんて掘ったでしょ。先生カンカンに怒っていたんだから」
「…………」
ああ、逃げ出したい。この場から逃げ出したい。
グリフ達が未来ある人間ならば、トーゲの頬をひっぱたいて過去に逃げるなと叱責するのも選択肢になり得るだろう。だが、現状それをしても追い詰めるだけだ。
だからグリフは演じるしかない。
「落とし穴なんてってなんだよ。飛行機と落とし穴は男のロマンなんだぞ」
「エルウィンは落とし穴を掘ったりしませんよ~だっ!」
「い~や、エルウィンも落とし穴好きだから。夜な夜なスコップをぶん回して裏庭を掘ってるから」
「ウソばっかり。裏庭に穴なんてひとつもないじゃない」
「エルウィンは紳士的なナイスガイだからね。掘った後にちゃんと埋めてるのさ」
「ウソよぉ!」
「ここからがエルウィンの凄いところなんだけどね。な、ななななんとッ、埋めるついでに花の種を植えていたんだ。本当だって、僕みたもん!」
「もぅ、バカなことばっかり言って」
くすくすと、口元をおさえて笑う彼女。
過去の無垢だった自分を演じるトーゲは、成長しているとはいえ未だ可憐な少女であることもあり、限りなく当時の彼女を再現していた。
優しくて甘い雰囲気。放っておけないあどけなさ。グリフへの全幅の信頼。八年前にタイムトラベルしたかのような錯覚すら覚える。
しかし、それらは確かに限りなく当時のトーゲそのものではあるのだけれど。
限りになく酷似しているけれど、悲しいけれど違う。
失われた過去の残影でしかないのだ。
「好きだよ、トーゲ」
「こおらぁ、八年前のグリフはそんなこと言わな~い。やり直し」
「ずっと君の事が好きだった。今でもだ」
「…………」
「守れなくてごめん。ギムナジウムから君を連れ出して逃げていなかった自分のマヌケさを許せない」
「もういいわ。白けちゃった」
薬の多幸感が抜けたかのようにトーゲの表情からは甘さが消えていた。グリフと密着していた柔らかい身体は、当たり前のように離れしまう。
仮に薬の多幸感が切れたとすると、次の段階、興奮状態への移行もすぐだろう。
「もうすぐよ。私達は英雄になれるの。敵の防衛拠点……元ニューヨークに爆撃をしかけて、世界を救う英雄に」
「旧アメリカに特攻っていうと、むしろ大戦犯を連想しちゃうけどね、僕は」
「意味が分からないわ。私はね、前々からグリフのそういう意味不明な言動が大っ嫌いだったのよ」
おぞましい何かから距離を置くように、トーゲの身体がグリフから更に離れる。その事が悲しかった。
「……僕らが四歳の頃だったかな。ああ、2001年だ。ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだ事件があったろ?」
2001年九月十一日、ニューヨーク世界貿易センタービルとワシントン国防総省を襲った同時多発テロ事件。ハイジャックされた航空機が米国のランドマークに突っ込む衝撃的な映像は世界中を震撼させた。特に2001年より以前に米国を襲っていたテロは白人優越主義者などによる自国問題の延長線上のものであった事に対し、9・11事件は他国からの国際テロだった事に米国人は恐怖の底に追い込まれたのだ。
「ハッ。航空機をハイジャックして特攻を仕掛けた薄汚いテロリストと、人類を救う冬の眠り作戦の勇士である私達を同列に扱うつもり?」
トーゲの言動は攻撃的だ。どうやら向精神薬が本来の効果、戦争に適した精神状態への移行を促しているらしい。
「まぁ聞いてくれよ。あのテロ事件の何が恐ろしいって、地味~に人類史を悪い方向に動かしちゃってることなんだよね。9・11事件をきっかけにアメリカはテロとの戦いを掲げ、その結果アフガニスタンのタリバン政権は崩壊した。戦争を始めちゃったブッシュ政権の当時の支持率はどれだけ低かったと思う? ピーク時は90%以上の圧倒的な高支持率だった訳ですよこれが」
「だから?」
「蟲よりも圧倒的に技術力で劣る人類が、未だに滅亡していないのは、見逃されているからだ。蟲の主流派が人類を滅ぼす事を是としていないから、僕達は生かされている。これまでの人類の反抗なんざ脅威に値しなかったってことさ。敵として認識されていないんだ」
「………」
「さすがに核ミサイルの絨毯爆撃を実際に喰らってみれば、蟲達も人類を恐れる。となれば過激派が主権を握るだろうよ。戦争に向かうブッシュ政権を支持した米国人のようにね。もっとも、蟲に人間と同じように左巻きやら右巻きやらの派閥があればの話だけどね」
グリフは蟲の社会性についての疑念を口にはしたものの、人間と大差のない精神性を持っていたアニーというサンプルの存在に、蟲の社会が人類型のそれに近いものであることを確信していた。
「蟲を根絶やしにできなければ逆襲されるってこと? そんなの懸念事項として分かりきっている事だわ。人類が滅ぶか、蟲が滅ぶかの決戦なのよ」
「そうだね。この作戦が実行されれば、和平の道は果てしなく遠くなるだろう」
「蟲と和平ですって? あなた……まだアニーの戯言を! どうしてアニーを憎まないの! あいつは人類の敵だったのよ!」
どうして憎まないの?
そんなの決まっている。
アニーは空を美しいと言った。人間同士でだってロマンを分かち合えるとは限らないのだ。価値観を同じにできた親友を憎めるはずがない。
「あの~、失礼します」
最悪の雰囲気となった室内に、予期せぬ来訪者があらわれた。
白衣に眼鏡という科学者然とした出で立ちのドイツ人。整備主任のアンネゲルトだ。
「えっと……失礼ですがトーゲさん、ご気分でも悪いのでしょうか?」
アンネゲルトはトーゲの顔色を伺うような態度だ。それはそうだろう、いまのトーゲは薬物の影響下にある。アンネゲルトが異常を察知しても不思議はない。
「余計なお世話よ。で、何?」
薬のせいで緊張状態であるためか、いや……それを差し引いてもトーゲの言動は普段よりも攻撃的だった。その理由がグリフには分かってしまう。
「同じチームの仲間として親交を深めたいと考え、よろしければ一緒にコーヒーでも、と」
「いらない。私ね、あなたと知り合ったばかりで悪いけど、近寄られるとイライラするのよ」
「え……私が何か粗相でも致しましたでしょうか?」
「あんたのその喋り方が、雰囲気が、あのメス蟲とそっくりだからウザったいったらありゃしないのよ!」
怒号というよりは、悲鳴だった。
そう、アンネゲルトは似ているのだ。喋り方のリズムや、言葉の端々から伝わる雰囲気が、アニーを連想させてしまう。
「あのメスむし……ですか?」
事情を知るはずもないアンネゲルトは困惑しているようだった。当たり前だ。身に覚えのない事で、いきなり蟲と似ていると言われば混乱するだろう。
「あ~……トーゲは作戦前で気が立っているんだよ」
グリフは慌ててフォローを入れる。
「悪いけど、そっとしておいてやってくれないかな?」
「じゃあグリフさんだけでも、よろしければ今から私と、お話しませんか?」
グリフさん。その呼び方の既視感といったら。
目眩がした。本当にアニーにそっくりだ。この娘。
「悪いけど今からゲルプ隊の連中の見送りに行くからさ」
「じゃあ、その後でいいので部屋に遊びに行っても大丈夫ですか?」
「まぁ……いいけど」
嫌とは言えなかった。いいや、正直になろう。
グリフもアンネゲルトと二人きりになりたかった。
アニーを連想させるこの女性と、そして最高の戦闘機を作った開発者でもあるこの女性と、二人きりで話し合う時間が欲しかった。
「約束ですよ!」
嬉しそうにスキップしながらアニー……ではなくアンネゲルトは部屋から出ていった。
「ねえグリフ、随分と嬉しそうじゃない」
トーゲの声音は凍土のように冷たく、ドリルのように尖っていた。
「アンネゲルトは美人だものねぇ。私なんかと一緒にいるよりも楽しくお話できるでしょうねえ」
「い、いや……そうだ、今からゲルプ隊の連中を見送りに行くって言ったじゃん。トーゲも行こうぜ!」
「けっこうよ。私はグリフと違って、ギムナジウムで仲良しなんて一人も作らなかったもの」
「そ、そう? じゃあ僕はこれで。また作戦前にトーゲに会いに来るからさ」
「来なくていいわよ。あのアニーみたいな女とせいぜい仲良くやってなさいよッ。裏切り者! 私がいまどんな気持なのか知ってるくせに! 本当に傍にいて欲しいときに居てくれない幼馴染って何なの? バカ、役立たず、戦闘機に欲情する変態!」
丸めた毛布を背中に投げつけられて、逃げるように部屋を後にするグリフだった。最後の文句には言い返したくもなったが、飛行機が大好き過ぎるグリフは幼い頃に戦闘機模型にリボンをつけて女の子にときめくのと同じような胸の高鳴りを覚えてしまった前例があるので、やっぱり言い返せなかった。
グリフは兵舎の入口近くの壁に背中を預けて、ゲルプ隊のメンツの出陣を待っていた。潜水空母に向かう前に必ずここを通るはずだ。
もしかして既に出発した後ではないかと思う頃に、ようやくゲルプ隊の一団が現れた。
(ギムナジウム主席のエーベルに、ピアノ好きのエリーゼ。文学マニアのバルドゥルに、太っちょのアントンか。懐かしいな)
懐かしいも何も、ゲルプ隊メンバーは全て数日前までグリフと生活を共にしていたギムナジウムの関係者だ。もともとギムナジウムの設立目的は冬の眠り作戦の実働メンバーの育成なので、当たり前なのだが。
グリフ達が配属されたブラウ隊にフォレストDやハッピーBといった他所からの構成員が来ている理由は、メンバー育成段階で脱落者が続出したためである。本来なら気の置けない仲間達と同じチームだったはずなのだが。
「よう、おまえら。おちょくりに来てやったぞ」
グリフは彼らに駆け寄り、にこやかに手を挙げるが、隊長であるエーベルは嫌悪感を露にした。
「この落ちこぼれに構うな。行くぞ」
そういえば、気の置けない仲間ばかりではなかったか。いや、むしろ自分は嫌われ者だっけか。見送りに来た事を少し後悔してしまうグリフだった。
グリフを無視して進むエーベル。エリーゼとバルドゥルも申し訳そうに俯きながら後に続いた。が、太っちょのアントンだけが立ち止まる。
「すまない、少しの間だけグリフと話をさせてくれ。過酷なギムナジウムを生き抜いた戦友と別れを惜しみたい」
アントンの申し出に、エーベルは不快そうに舌打ちして「出発に遅れるなよ」とだけ言い残し、部下を引き連れて進んでいった。
グリフは親しげにアントンの肩に手を回す。
「やあやあアントン。我が狙撃銃の友よ」
「狙撃銃……? ああ、女子更衣室覗きか。懐かしいなあ」
グリフと二人で実行した無邪気なイタズラを思い出してアントンは微笑んだ。
ギムナジウムの訓練生だった頃、グリフは女子更衣室を覗こうと躍起になっていた時期があった。
覗きのためのベストスポットは見つかった。カーテンで窓を覆われないように細工もした。しかし、そこから女子更衣室の窓は遠すぎた。
苦悩するグリフの肩を優しく叩く者がいた。振り返れば、そこには全てを悟りし聖者のように微笑むアントンがいた。
アントンは無言で訓練用の狙撃銃を差し出してきた。
双眼鏡がないのなら、狙撃銃のスコープを使えばいいじゃない?
失われし秘宝を追い求める冒険家のように興奮しながら、二人はかわりばんこに狙撃銃のスコープを覗きあった。
ドイツが誇る偉大なる文豪ゲーテの著書に、このような名言がある。
時よ止まれ、世界よ、おまえは美しい。
そこにはマルコ・ポーロが夢焦がれた黄金郷があった。女の子の尻とか乳とかふとももがあった。
おまえは最低のクズだぜグリフ。女子更衣室を覗くためにカーテンの留め金を曲げて使えなくするなんて、死んだ方がいいゲス野郎だ。
キミこそ最高のバカだよアントン。スナイパーライフルを女子の着替えを覗くために持ってくる変態なんて、この広い世界でキミだけだ。
爽やかに笑い合うふたり。
そこには青春の輝きがあった。
「でもなアントン。トーゲの胸だけは見るなよ。あいつは僕の女だからな!」
「グリフこそエリーゼの尻を見るのは許さない。彼女は俺のお嫁さんになるべき人なんだ!」
互いに好きな女がいる事も二人を友人たらしめる要素となった。
あの日から二人は親友になったのだ。
「あの時のアントンを見て思ったよ。こいつは筋金入りの変態野郎だ。きっと将来は犯罪者になるに違いないって」
「俺もグリフに似たような印象を持っていたから、おあいこだな」
二人してウヒウヒと笑い合ってから、グリフは真顔になる。
「落ちこぼれに構うな……か。随分とエーベルに嫌われているんだな、僕」
「気にするな。エーベルはグリフの才能に嫉妬しているんだよ。座学や身体訓練では落ちこぼれのグリフが、航空実技だけは影すら踏めない有能さを見せるんだからな」
「トーゲの三次元チェス技術に比べたら僕も子供同然なんだけどね」
「そうそう、トーゲもグリフも航空実技だけは怪物じみてたよな。他だとトーゲは凡、グルフは凡以下だってのに」
トーゲとグリフが最も実力を発揮したのは、三次元チェスゲームと呼ばれる戦闘機操縦シミュレーター内でのドッグファイトだった。幼い頃から戦闘機に憧れ続けていた二人に神様が気を遣ってくれたのか、戦闘機の操縦に関して天稟を授かっていたのだ。
もっとも、総合成績でグリフ達より有能な人材はごまんといた。しかし、ギムナジウムの苛烈さは運を味方にできない者の生存を許さない。
不思議なものだ。落ちこぼれと言われたグリフが、今では数少ないギムナジウムの成功例の一人なのだから。
「グリフの明るさには随分と助けられたよ。キミは俺達の中で特別な存在だった」
「そりゃあ教官に殴られた回数ナンバーワンの凡以下の僕ですから。さっきもブラウ隊の隊長に怒られちゃってさー」
グリフはキルヒェンリートで曲芸飛行をして大目玉を喰らった経緯を、大げさな脚色を交えながら説明した。
「相変わらずバカだなぁ。そういえばギムナジウムにいた頃にも訓練中にアホなことを言って殴られてたっけ。みんなが言ってたよ、グリフは真性のアホだ。仲良くなると損するタイプだ、ってね」
「妙に孤立しがちだとは思っていたけど僕はハブられていたのか。今初めて知ったよ。いや普通に知ってたけど」
「知っているかい、ゾンビみたいな目をした戦災孤児ばかりのギムナジウムで、バカ丸出しの冗談を言うのはキミだけだったんだ。それで反感も買っていたけど、尊敬している奴もいたんだぜ。俺とかさ」
「トーゲが見ていたからね。無理して明るく振舞っていたんだよ」
トーゲが心地よく依存できる存在になれれば、それが一番良かった。トーゲに愛情を与えてくれない彼女の義父トーマスの代わりに家族愛を注いだ娃エルウィンのように、彼女の保護者として振る舞えれば、それが一番良かった。だけどグリフは幼すぎて、大人の演技なんてできやしなかった。
だからせめて居心地のよい友人であるために、ストレスを一切知らない能天気なバカを演じる癖がついた。演じるうちにバカが地金になった。それだけだ。
「やっぱりトーゲのためにグリフは空元気で騒いでいたんだな。気づいていたよ、俺も大切な女がいるから分かったのさ」
「そういやエリーゼには告白したのか?」
「したさ。見事受け止めてもらえたよ。俺達は両想いさ」
「マジかよこいつ。うまいことやりやがって!」
グリフはアントンの脇腹を小突いた。人のよい親友の恋を心の底から祝福してやりたかった。「俺はさ、エリーゼのことを愛している。どれくらい好きかというと、彼女の笑顔を見ていると昼食を告げるラッパの音を聞いた時と同じくらい嬉しい気持になる」
ギムナジウム訓練兵だった頃、アントンは正確な体内時計の持ち主として有名だった。昼の時報ラッパが吹かれる数秒前に口笛を吹く、という持ちネタがあったからだ。のんびりとした風貌のアントンだが、事故死が珍しくない過酷な訓練を「次の食事までは生き抜く」という信念を支えに踏破してきた本物の戦士である。グリフにとっての空が、アントンにとっての食なのだ。男の世界といってもいい。
女の子からすれば昼飯と等価値扱いされて憤慨するかもしれないが、グリフにはアントンが抱くエリーゼへの愛の深さを誰よりも理解できた。
グリフだって、見上げる空と同じくらいトーゲのことを大切に想っているから。その想いの深さと透明さを知っている。
「俺さ、この戦争が終わったらエリーゼと結婚するんだ」
「ハハハ、戦争映画とかで死ぬ奴のセリフだから、それ」
グリフはアントンの背中を思いっきり叩いた。豪快に送り出してやる。
「作戦が終わったら遊びに行こうぜ。僕とトーゲとアントンとエリーゼ。四人でグループデートだ」
「いいねぇ、夜になったら互いに女を連れて別行動な!」
ふとアントンは笑みを消して真顔になる。つられてグリフも表情を改めた。
「…………これが最後の別れになるかもな」
「ははっ、そんなに不安になるなって。擬人システムだってあるし」
「擬人システムが蟲に効かなければ、戦闘機の能力だけで戦わなければならないんだぞ」
不安を笑い飛ばすグリフに、アントンは暗い表情で告げる。
「聞いたことはないか、グリフ。これは噂なんだけどな、蟲が開発した人型ロボットの中には、飛行タイプのものがあるらしい」
「ウソだろ。それ公式の情報か?」
「噂だと言っただろう。だけどな、この噂が本当なら、蟲が本当に飛行タイプの人型ロボットを作っていたとしたら、擬人システムは通用しない」
蟲が人間の形をした物を破壊する際の基本ルール。人間を破壊するには人間型のロボットを利用しての破壊にこだわる性質を利用した、光学迷彩及びセンサー欺瞞による擬人システム。
戦闘機を空飛ぶ人間に偽装するこの擬人システムは、蟲側の人間型ロボットが空を飛ばないことを前提に用いられている。
空に人型兵器が存在しない現状、人間型に偽装できる新型戦闘機は事実上無敵といえた。
しかし人型兵器が空を飛んだとすれば、この無敵性は崩壊する。
「それはそれで面白いかもな。性能だけで勝ってやるだけさ。人間型ロボットよりも戦闘機の方が強いってところを見せてやろうぜ」
不敵に笑うグリフを見て、アントンは未知の恐怖に囚われていた自分を恥じるように頬をかいた。
「変わらないなあグリフは。昔から呆れるくらいの戦闘機バカだ。……またな」
「ああ、四人で遊びに行く話、忘れるなよ!」
潜水空母に向かうアントンの背中が消えるまで、グリフは手を振り続けるのだった。
グリフは部屋に戻る途中の廊下でアンネゲルトと出会った。
「また会いましたね。今度こそコーヒーをご馳走して大丈夫ですか?」
「喜んで、ご一緒させてもらうよ」
会話の流れで、アンネゲルトに連れられ彼女の部屋に向かう。
もともと二人っきりになる約束をしていたとはいえ、女性の部屋に行く事になるとは意外な展開だった。
アンネゲルトの部屋は、意外にも個室然としていた。トーゲの部屋のように殺風景なそれではなく、嗜好品などが配置されている。
特にグリフの目を奪ったのは、壁に貼られた空の写真と、棚に置かれた飛行機の模型だ。やはり戦闘機の開発者だけあって空が好きなのだろうか。
「グリフさん、飲み物はコーヒーでいいですよね?」
「ああ、もちろん。コーヒーに誘われるなんて久しぶりだなあ」
ドイツ人はコーヒーを一緒するという表現を度々用いる。これは親交を深めるという意味の動詞として成立しており、ドイツでのコーヒーは英国でいう紅茶に該当するのだ。
南国の香りが漂う紙コップを受け取り、中身を口に含む。心地良い苦みが舌の上に広がった。
「長旅お疲れ様です、グリフさん。ブラウ隊のメンバーとは上手にやっていけそうですか?」
親交を深めることが目的と言っていた通り、アンネゲルトから振られた話題はチーム内の協調に関することだった。
グリフからしても、チームについての情報を得られるのは有り難い流れだ。
「う~ん。隊長もフォレストDも軍人らしくないよね。隊長の方は、それっぽく振舞おうとしているけど。……正規の軍属経験がない連中なのかい?」
新兵は上官の背中を見て育つ。入隊直後は学生気分が抜けない者も、いずれ教科書的な作法を身に付け、新たに入ってくる新人への手本となっていくのだが、あの二人からはそういった軍隊の匂いがしない。軍属経験がないが、あるいは優れた先輩や戦友に恵まれなかっただけなのか。
「グリフさんの見解は正しいですね。確かに両名とも正規軍での活動経験はありません。隊長に関しては、ギムナジウムとは別の目的で作られた秘密訓練施設の出自ですね」
「ふぅん、フォレストDもそうなのかい?」
出会い頭にグリフを挑発し、殴りかかってきたあの男。仲良くやっていくのは不可能だ。
「フォレストDは、つい最近まで単なる一般人だったんですよ」
「やっぱり、そうか。奇妙な男だな……あいつは」
特殊訓練を受けてきたグリフは同じく訓練された者を一目で看破できる。歩き方や姿勢から玄人の挙作が分かるのだ。
しかしフォレストDは、素人同然の雑な足運びに、だらしのない猫背だ。それでいて野生動物じみた迫力があるというか、隙がないのだ。丸めた猫背すらも大型猫科獣のそれを連想してしまう。
「けど、どうして素人が作戦に参加しているんだい?」
「フォレストDは、一年の研修期間を経ただけでギムナジウムの訓練兵と同レベルの……あるいはそれ以上の成績を叩き出せた逸材なんですよ」
「嘘だろ?」
グリフは空になった紙コップを握りつぶしていた。
「たったの一年で……八年間努力してきた僕達と対等だって?」
頑張ったら頑張っただけ成長すると言われる十代の成長期の全てを訓練に捧げてきた自分達と、たかが一年で追随したというのか。いや、互角どころか追い越すと言ったか?
「なんだよ、それ。僕らよりもハードな改造手術でも受けているのかい?」
「いいえ、フォレストDは合衆国の中流階級に属する凡庸な両親から生まれ、平凡な人生を歩んだ後に蟲の出現とともに亡命。二年前までは難民スラムで暮らしており、グリフさん達のように特殊な訓練やインプラント手術は受けていませんね」
笑うしかなかった。素行最低の人格破綻者なのに才能だけは本物らしい。
「……αギフテッド&ハイタレンテッド仮説」
アンネゲルトは耳慣れない言葉を口にした。
「蟲が登場する以前からフォレストDのような異常天才児が立て続けに確認されていた事から、2008年にロシアの脳科学者ネステロフ博士が提唱した仮説です。滅亡の危機に瀕した人類の集合無意識が、危機に対抗するため強靭な個体を生み出す、というもので、彼の理屈でいくとフォレストDは人類を救うために生まれてきたメシアですね」
「オカルトじみた話だな、まるでヒトラーの予言じゃないか」
いずれ超人が生まれ、選ばれし神の子によって人類は管理される……アドルフ・ヒトラーの遺した有名な妄言だ。
「そんな便利な超人が生まれていたなら、ハナっからそいつらを集めていろっての」
「そうもいかないんですよ。αギフテッドと呼ばれる彼らには共通の欠点があり、人格及び肉体に深刻な欠陥が見られるんです。どの個体も精神・寿命・性機能のいずれかに異常が見られ、フォレストDは性機能にのみ問題があります」
「インポテンツってこと?」
アンネゲルトの無言の首肯にグリフは吹き出してしまった。あれだけオラついたキャラクターのくせに、意外な弱点があったものだ。今度おちょくってやろう。
「性機能にのみ問題ね。それってフォレストDが精神的に問題ナシって言われるレベルで他の超人どもはイカれてるってことか。随分と残念な救世主様じゃないか」
組織的に運用できない超人。人類が刀剣や弓矢で争っていた時代なら勇者になれたのだろうが、現代の戦争において個人レベルの強さになど需要はない。
「一流企業のトップにはサイコパスが珍しくないそうですよ。人類を救う救世主は、それはもう冷酷で残虐になるのも妥当かも……この話、やめませんか?」
「そうだね……こんな話よりも……戦闘機の話をしようじゃないか」
グリフは悪戯っぽく笑う。含みのある態度だった。
「私の作ったマシンの乗り心地は、いかがでしたか?」
「素晴らしい経験をありがとう。あいつは最高の戦闘機だよ」
「お褒めの言葉、嬉しく思います。はい、私の最高傑作であると自負しています」
技術屋としての努力が評価された事が嬉しいのか、アンネゲルトは口元を綻ばせた。
「でも……ちょっと最高過ぎるんじゃないかなあ」
グリフは彼女の顔を覗き込みながら、爆弾を投下してみた。
「僕が事前に聞いていたカタログスペックよりも、ずっと速くて自由だったよ」
「褒めすぎですよ。グリフさんの操縦センスが素晴らしいからではないでしょうか?」
口元を手で抑えて控えめに笑うアンネゲルトに、グリフは直球を投げつける。
「誰にもバラさないよ。むしろ僕は嬉しいんだ。上への報告をごまかしてまで、作戦の要求スペックよりも遥かに高い運動性を持った戦闘機を作って見せた、あなたという技術者が持つ戦闘機への愛情がね」
無軌道に変幻自在に最新鋭機を乗り回したグリフだからこそ気付けた。
あのブルーメタルの戦闘機には、カタログスペックの数値以上のポテンシャルが存在していたことに。
「……………開発者でありながら、こんな作戦に従軍スタッフとして派遣されているだけあって、私も変人で有名なんですよね」
話を逸らすように彼女は自分語りを始めた。
「私って、前々から開発中のマシンの性能を実際より高めに報告していたのですよ。ええ、それも一瞬でバレるようなウソです。自作の戦闘機を愛するあまり、マシンの性能を数値以上のものだと喧伝する、有能なのに少し残念な戦闘機バカ……を演じていました」
アンネゲルトの顔を覗き込むグリフの顔を、彼女は逆に覗き返した。蠱惑的な色気にグリフは緊張してしまう。
「バカを演じていたって、どうして?」
「本当に開発予定よりも高いスペックのマシンを作り上げたときに『ああ、いつもの盛った性能か』と思わせてスペックを誤魔化すためですよ。修正指示を受けて、それっぽく修正されたカタログスペックが今のマシンの性能だと信じられています。気づいたのはグリフさんだけ」
この痛快過ぎる打ち明け話は、グリフの少年の心を刺激してやまなかった。
目の前の女技術者は、なんという無謀な冒険に挑んでいるのだろう。
「悪いひとだねー、あなたも!」
「ふふ、否定できませんね。……グリフさんが仰っていたように、本来の性能をフルに発揮すれば蟲の新型航空戦力にも、勝てるとは言い難いですが、全く勝負にならない、ということはないと思いますよ」
この言葉にグリフは今まで以上に気分をよくして、アンネゲルトと夢中で語り合うのだった。
自分が子供の頃から空に憧れていたこと、戦闘機に乗れた感動、あのマシンを作ったアンネゲルトへの感謝など。
一通り語り合った後に、グリフは大事な情報を確認していないことに気づいた。
「そういえば、あのマシンの名前って何だっけ。型番じゃなくてさ、愛称が知りたい」
「はい、もちろん名前はありますよ。作った開発者も私で、カラーリングを指定したのも、名付け親も私。あの子は私が育てた夢のカケラ。愛しい人に贈る翼」
アンネゲルトの瞳が、まっすぐにグリフへと向けられた。
「空の美しさを讃える歌…………それがあの子の名前。賛美歌」
「キルヒェンリートか。いい名前だね」
グリフは知らない。
その名前が、グリフとトーゲの村が滅んだあの日に、雌蟲アニーが通信機越しに語った響きと同じものであることを、知らない。