神の光
目が見えない。暗さとは違う、明るいからこそ見えないそれ。
目を開けていられないというのが正しいだろうか。
神による祝福だからといって、これは素直に喜べるものではない。
人というのは、光の中でも闇の中でも生き辛いのだと証明されるかの様だ。
思わず目を閉じた先に神が御座しても、受け入れる事は難しい。
『やはり、そなたは神に愛されし者よな。我の姿を見せずとも感じ、視よる。……おかしいの、我はそういうものが好きや。ただ創られ、視えるだけのお主らが』
鈴のように軽やかな声で、話しかけるでもなく。眺めた末に零れたかのように 溜息をつくかのように ぽろりと落としてしまったかのような言葉。
応えは待っていない。そう感じているのを見透かしたように、また言葉が零れる。
『お主は誰よりも賢いの。神に愛されすぎたかえ。ん? だからと言って放してやれぬが。……くく。さぁ、我の祝福は終わりぞ。その小さな目を見開き、そのちんけな耳をかっぽじってよぉく聴け』
『世界は変わる』
何事もなかったかのように光は収束し、そして生きるものに優しい世界に戻る。
ゆっくりと流れる時間。人が生きていける優しい空に。
光の中にいた彼は、じっと目を閉じたまま動く気配はない。
彼を呼ぶ者が現れるまで、あと20分。
古語って難しいですね。これが本当の意味で伝わっているのか不安です。
関西弁ではない、というのだけお伝えしておきます。