31 二つ名
そう歩かないうちに、少女は一件の酒場のドアに手をかけた。ちらりと振り向いて、ビヒトがおとなしくついてきていることを確かめると、仏頂面を険しくして、そのドアを開ける。
「マスター、カウンター二つ空けて」
ずかずかとマスターと呼んだ人物の前まで進み出ると、彼女は不機嫌そうな声で告げた。
カウンターの奥では目つきの鋭い四十くらいの男性が、ジョッキにエールを注いでいるところだった。目の上に大層な傷のある、白髪の男性。サイドの一房だけ赤茶の髪で、後ろでひとつに括っていた。半袖のシャツは力を入れれば千切れんばかりに張りつめている。
騎士崩れなのか、冒険者崩れなのか、おそらくそういう人物なのだろう。
彼はビヒトに一瞥をくれると、カウンターに座っていた人物に軽く顎をしゃくる。
店内は混みあっていて空きはそれほどない。
「端のひとつでいいですよ。俺は立ったままで構わない」
驚いたように振り向いた少女の様子に、マスターはしばし二人を見比べていたが、カウンターの端に座っていた人物が苦笑しながら移動してくれたので、「悪いな」と今注いでいたエールを手渡していた。
「俺にもエールと、彼女に何か。いつも頼んでるのがあればそれで」
「おぅ」
勝手に進み始める話に、少女はやや戸惑い気味に席に着く。
「何? こんなの慣れてるって言いたいの?」
「いや? こんなに人が多いのには慣れてない。店に入ったら注文するのは当たり前だろ」
「……途中で逃げるかと思ってた」
ぼそりと呟かれた言葉は店の喧騒に紛れて聞き辛かったが、たぶん、そんなことを言ったんだろう。不機嫌そうな顔に、逃げた方が良かったんだろうかとビヒトは少し首を傾げた。
「着いたばかりで右も左も分からないんだ。酒場は、どこも変わらないだろうから……何かおかしかったら早めに教えてくれ。とりあえず、俺はビヒト。お察しの通り冒険者だ」
聞き耳を立てていた者達のうち、数人が顔を上げてビヒトを見た。声が上がりかけたのを、マスターが牽制する。
少女はそれに気づくこともなく、何が面白くないのか少しイライラと自分の金茶の髪を弄っていた。
「そう。で? 本当に商品として見てくれる気持ちがあるの?」
「もちろん。とても、繊細な細工だった。どこかに納める物だったのなら、それこそ俺が買えるような物じゃないんだろうが……」
彼女は溜息をつきながら、カゴの中からいくつか細工を取り出した。
細い糸を編み込んだような、透かし模様の指輪や、花や羽のブローチ。薬入れのような小さな箱。鳥かごのようなペンダントトップに、小花の連なるブレスレット。二つと同じものは無いようだった。
「あなたが使えるような物はないでしょ? あたしはちゃんと使ってくれる人に買ってほしい」
「君が作ってるのか?」
「そうよ」
そこは誇らしげに胸を張る。
「だから、弁償するためとか、仕方なくとか、そういう気持ちで買ってほしくないの」
「見栄を張るんじゃねぇよ。今月も苦しいって言ってたのはどこのどいつだよ」
急にマスターが口を挟んできた。
「手作りの一点物はどうしても値段が張る。すぐに似たような大衆品が出回って売れなくなるって嘆いてただろう? 買ってくれるって言うんだ。売っちまえよ」
「だって……」
悔しそうに下を向く彼女から、マスターはビヒトに視線を移した。
「あんた、本当に『ビヒト』かい? それとも、あのビヒトとは違う人物かい?」
とんとんと耳を叩きながら、マスターは視線を鋭く尖らせる。
噂は帝都にまで届いていたらしい。これだけ人が集まるのだから、当然なのかもしれないが。
「目的は達したから、知人に譲ったんだ。ヴァルムとはこの後、帝都で待ち合わせもしてる」
ヴァルムの名を出した途端、一瞬だけ店内が静かになって、それから倍くらい騒がしくなった。言葉の端々に「鬼神」と聞こえてきて、眉を顰める。
少女だけがぽかんと周囲を見渡していた。
「なんだ? 『鬼神』って」
「何年か前に、砂漠の奥地にある遺跡に調査隊が入ったのよ。行きつくまでも大変だったらしいが、着いてからも想定外のことばかりだったらしい。数十人いた調査隊のうち、戻ってきたのは数名だったそうだ。それに同行してた冒険者のひとりがヴァルムさ。まさに鬼のような強さで、彼の言う通りに行動した者だけが生き残ったと。ついた二つ名が『鬼神』さ」
軽く眩暈がしたような気がして、ビヒトは眉間を抑え込んだ。
「何? 何の話?」
「何の縁か知らないが、こいつにはスポンサーがいるから、結構ぼったくれるぞって話だ」
「待て。知り合いではあるが、彼にたかる気はないぞ。そういう感覚で見られるのは困る」
へぇ、と、にやにやしながらマスターは顎を擦った。
「じゃあ、噂通り、数いる女に贈ってやりゃあいいな」
「どんな噂だ。だいたい、俺は玄人以外には手を出してないし、声をかけたことも、かけられたこともないっ」
どっと、酒場が揺れるくらいにその場が沸いた。
「自慢になんねーぞ!」
「目の前の嬢ちゃんが可哀相じゃねーか」
「紹介しようかー?」
飛び交うヤジにビヒトはしまったと、頭を抱える。一緒に笑っていたマスターが目尻の涙を拭ったのを見て溜息をつくと、少女が少々同情的な目でビヒトを見ていた。
「顔は、悪くないわよ」
「どうでもいい。それより、注文なら受け付けてくれるのか」
今度はビヒトが仏頂面で話しを続ける。気が抜けたのか、仕事の話になったからか、彼女の表情が真剣なものに変わった。
「物によるわ」
「たとえば、魔法陣を作ってくれって言ったら出来るのか?」
彼女は面食らったようで、視線を左右に泳がせながら答える。
「……デザインがあれば、たぶん……文字が細かいと無理かもしれない」
「単純な奴なら、イケそうか? ……親父、書く物無いか?」
興味深そうな顔をして、マスターはちょっと待ってろ、と言って奥に消えていった。戻ってきた手にはペンとインク、手のひらサイズの羊皮紙が握られていた。
「助かる。なんなら、お代に付けといてくれ」
「気にすんな。面白れーもん、見れそうだ」
ビヒトは少女にカウンターの上を少し空けてくれるよう示して、丸を描いた。外に二重にして力は円の中に留まるように。今回は単純な炎の力だけあればいいので、中心に炎を表す古代文字を置く。鳥の足跡のような下向きの矢印のような模様。あとは円と線で力の流れを作り、発動条件だけ文字で入れ込んでいく。現代文字でも問題無いのだが、デザイン的には古代文字の方がそれらしい。
するすると描き上がる魔法陣に、マスターも少女も目を丸くして見入っていた。
「こんなもんか。この線がきちんと保たれていれば、他に線を書き足しても問題無い。あ、中心だけはこのまま、余計な物は入れないでくれ」
少女の前に差し出すと、マスターが先に手を出してひったくっていった。
「……単純極まりないな。これで、発動するのか?」
「その上に火を呼び出すだけだからな。試してみるか?」
「……試、す?」
疑問顔の少女の前に帰してもらった魔法陣を置き、ビヒトは手を添えて軽く魔力を籠める。
「火」
発声と同時にぽっと火の玉が浮く。
「きゃ……?!」
驚いた少女が椅子から落ちそうになり、ビヒトは慌てて背中に手を添えた。ばっと仰ぎ見られて、すぐに手を引込める。
「あ、悪い……」
「…………ううん……ありがとう」
お礼の言葉を口にすると、少女は小さな火の玉を今度はじっくりと眺め始めた。
「驚いたな。魔術師か? 魔力を籠めなきゃ使えないだろう?」
「違う。魔術師にはなれなかった。魔法が使えないから、陣に頼るしかない」
「発動条件を付けたのか?『炎』じゃないのは……」
「他人の詠唱に影響されないためだ。意外と便利だったのに、やっちまったからな。作れるなら、頼みたい」
とんとんと左耳を軽く叩きながら言うと、マスターは少し呆れた顔をした。
「焔石だったのか?」
「魔獣の額から取り出した、真っ赤なヤツだった。ヴァルムがくれたんだ」
「高級品じゃねぇか。そんなもんを、あいつも、お前も、よくほいほい他人にくれてやるもんだな」
「縁てもんがある。それは値段じゃない」
「これ、消えないの?」
黙って火の玉を見ていた少女が口を開いた。
「消えるぞ。『無』」
ふっと消え失せた火の玉の下の魔法陣を持ち上げて、少女は一つ頷いた。
「やってみてもいいわ。でも、銀や錫じゃなくて金にした方がいいかも。長く使いたいならね」
「だろうな。プロに任せるよ。身分証と一緒に鎖に通しておきたいから、邪魔にならない大きさだと嬉しい」
挑戦的な目を向けていた少女は、軽い返事に虚をつかれる。
「……いいの?」
「耐熱性を考えてくれたんだろ? 耳飾りを作った時ほどはかからないだろうから、それでいい」
火の玉は陣から浮いた場所で燃えるから、銀でも問題無いかもしれない。彼女はより安全な方を提案しただけだ。
「耳飾り? 何で作ったの?」
彼女の視線がもう何も着けてない耳に注がれる。
「高品質の焔石から出る熱でも溶けないものでって依頼した。あの時は有り金全部使ったな」
少女とマスターは同じように顔をひきつらせた。
「……は、払えるなら、何だっていいのよ? じゃあ、もう一つの問題も、どうにかしてもらおうかしら」
もうひとつ? と何度か瞬いたビヒトに少女は肩を竦めてみせた。
「手元に材料がないの。買い付けに行かなくちゃ」




