人間の娘
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リリーが裏口から店に入ると、何やらごそごそと作業をするユートリアの姿があった。
「ただいま。ユートリアさん」
声をかけると、忙しそうに蠢いていた後ろ姿が、パッと前に振り向いた。流石は雑貨屋の女将、突然話しかけられても、完璧なスマイルだ。
正体がリリーだったことを確認すると、一時停止していた腕がまたタンスの取っ手を掴み、片手が中身を引き抜いた。
この雑貨屋、店舗はあまり広くないが売り場が広い。そのため、店に補充する在庫や、客からの預かり物、書類、お金なんかがすべて狭いスペースに押し込まれている。
木製の長いカウンターの背後には、床から天井まで、引き出し達がうじゃうじゃと巣を作っている。
初めて訪れた客は圧巻されることだろう。
しかし、客が知っているのは、看板下の入り口から入った場合の姿だけだ。
裏口から入れば、陰に隠された大小さまざまな商品と、その入れ物の巣窟が作り上げた真の姿を見ることができる。
「あらお帰り。今回のは全部売れたかい?」
「普段より良い売り上げだったと思います」
ユートリアの問いにリリーは自信を持って頷いた。
「それは良かった。それじゃあ後で確認するから帳簿をつけておいておくれ」
「私がやって良いんですか?」
町に売りに行くのがリリーでも、帳簿をつけるのはいつもユートリアの仕事だった。
リリーはいつ、どこで、誰を相手に、どんな取引を行ったかをメモした紙を取り出す。普段はこれをユートリアに渡してその日の売り上げの報告をしていたのだった。
帳簿は商人にとって命よりも重要な物である。
と、いつかユートリアは語っていた。
自分が今どれくらいの財産を持っていて、どんな人が商品を必要としていて、いつどこなら一番自分にとって有利な取引をすることができるのか。帳簿にはそのすべてが詰まっていると。
「そろそろリリーにも本物の商人の仕事って奴を覚えてもらわなきゃいけないからねぇ」
ユートリアはリリーを試すような瞳で見た。
実際に町に出て商売をしていると、物の価値を理解していることの重要性が良くわかる。頼りになるのは自分の経験だけだ。
若い娘が一人で商売をしているのに同情した。
と言って、いかにもこちらが物凄く得をするような、契約を持ち掛けられることはよくある。
しかしそんな甘い話術に乗せられてはいけない。美味しい話っていうのは大体裏がある。
昔はよく痛い目にあったなぁ…。
ユートリアさんが私の成長を認めてくれたのか。
リリーは、宝をゴミと交換した過去を思い出して、少し涙が出そうになった。
ユートリアは厚いカバーのついた冊子とペンをリリーに渡した。
「これ、いつもの帳簿じゃないですよね」
かなり大きさが小さい。けれど作りはとてつもなくしっかりとしていた。
藍色に染められた布に、透明な膜が張っている。金色の文字は、指でなぞるとしっかり段差がついているのがわかった。黒の背表紙から生えた黒い蔦は表紙全体に絡まるように複雑な図形を描き、曲線を錯綜させていた。
ついでにペンには、対になるように黒の中に藍色の模様が描かれている。
リリーは戸惑う。
明らかな高級品だった。
「まあとりあえず開いてみな」
リリーは分厚い表紙を持ち上げた。
中には何も書かれていない。白い紙の上に平行に直線が走っているだけだ。
リリーは困惑して、ユートリアの顔を見上げた。
ユートリアはいつにない真剣な表情だった。
縦長の瞳孔が、威圧感を与える。金色のピアスをじゃらじゃらとつけた狐の耳が、ピンと立った。
「これは私が思ってるってだけの自論だけど」
「帳簿は商人にとって武器さ。自分の武器を他人に渡すようなことはしちゃいけない」
リリーは、ピリッとした雰囲気に気圧されていた。
つまりこれはリリーの専用の物として使ってよい帳簿、という事なのだろうか。
ユートリアは続けた。
「リリー、あんたが根無し草になってから、ずっと面倒見てきたけど。いつか私の手を離れる時がくると思うと寂しくてね」
ユートリアの語調が震えている。
「私があんたに渡せる物は何か、と考えたらそれだったんだ」
「あ、ありがとうございます…」
ユートリアからのプレゼントはリリーにとって大変喜ばしいことである。けれどあまりにも急すぎた。
リリーの心中は、嬉しさ半面、困惑半面といったところだった。
何か理由があるのではないだろうか。その真相を知りたい。リリーは、丈夫な帳簿をぎゅっと握りしめた。
「あの…私何かしたでしょうか?こんな高そうなものいただけません」
身に覚えはないがユートリアの好ましい行為をしていたのだと思う。
もしくは、良い行いで無ければ悪い行いか。
そういえばさっき、「私の手を離れる」とか言ってはなかっただろうか。
発言とは相反してるけど、もしかして勘当の餞別とか?
「聞かないでおくれ。あんたも大人になったんだと思っただけさ」
リリーは今年で17歳だ。確かにそろそろ、少女ではなく女性と呼ばれる歳になる。背は高くないが、体型的な話ならかなり大人の女性になってきた。その自覚もある。
でもそれが一体突然のプレゼントと何の関係があるのだろうか。
リリーは頭を悩ませた。
「リリー。ここを出たくなったら、いつでも出て行っていいからね。私には相談も遠慮もいらない」
ユートリアの頬に涙が落ちる。
やっぱりここから出て行って欲しいんだ。しかも泣くほど私のこと嫌だったんだ。
リリーはショックが隠せなかった。
リリーは今まで不器用なりに頭を使って、この雑貨屋に貢献してきたと思っていた。時には、上手くできなかった事もあったが、苦心しながらも努力してきたと自負している。
外見も声も不快になるものではないと思うし、一体何故…。
青ざめるリリーの肩をユートリアが掴んだ。いつもは優し気な笑顔を浮かべるユートリアの顔が、ぐしゃぐしゃになっている。
「私みたいなおばさんと恋人だったら、恋人を優先してあげなきゃだめよ」
恋人…恋人ねぇ…。
「えっ」
リリーの口から間抜けな返事が漏れる。
一瞬思考が停止した。
「いない、いないですよ。何か勘違いしてますよ。ユートリアさん」
「そんな隠す必要無いよ。私言われたんだからね。今夜、雑貨屋の三つ目の角を右に曲がったところでってリリーに伝えておいてくれって。」
ユートリアはハンカチで涙を拭いながら、雑貨屋の外へと飛び出していった。
リリーは後を追って、裏口から路地裏を覗いたが。
「…いない」
決して若く無いとは言え獣人、ユートリアの姿は闇の中に消えていた。
「私の恋人って誰…」
リリーは暗い面持ちで、闇に染まる空を見上げた。
夜の町に冷たい風が吹き抜ける。ブルーメルが二度目の朝を迎える時間だ。
店前に吊り下げられたランプが通りを照らしている。
遠くから見るとそれはただの白い光でしかないが、赤みのかかった色や黄みがかった色、近くで見てみると、ランプはそれぞれ違う色の光を発している。
昼間は中央通りの影となり、静かな時間が流れるこの通りだが、夜になれば喧騒に包まれる。
ブルーメルは獣人の町だ。獣人は多種多様。それぞれが別の時間に起きて、活動し、就寝する。夜行性の獣人にとっては月は太陽。目覚めを知らせる灯である。
リリーは厚手のコートを身にまとい、浮かれる町を足早に進んでいた。持ち物はブルーメルに貰った帳簿と、お金くらいだ。
ブルーメルに詳しい話が聞けず、恋人の正体がわからなかった以上、お待たせするわけにはいかない。
「えーと…次の角を右ね」
昼一番の繁華街が眠るこの時間。夜更かしはしない良い子達が知らない町が顔を出す。
外のテーブルでお酒を楽しむカップルや、町ゆく男達を誘惑する客引き。
やはり、夜に輝く光というのは人々の心を惑わせるのだろうか。口にするのは憚られるような文字の並ぶ看板もある。
リリーの足取りは重い。雑貨屋からここに向かうまでの間、例の恋人が誰なのか考えてみたものの全く思いつかなかったからだ。
心当たりがあったのは、店に来るたびたびたび言い寄ってきた犬のおっさんくらいだが、それならユートリアも知っているので、恋人だと勘違いすることは無いだろう。
リリーは待ち合わせの相手がどんな人物なのかわからない。でもリリーはあまりこういった夜の町の雰囲気が得意ではなかったため、いい印象を持てなかった。
もしかすると、とんでもない美形や金持ちかもしれない。けれど、おそらく初めてであろう待ち合わせを、この時間に設定されるのはいい気にならない。
そもそもリリーは人間だ。日中は普通に活動しているので、夜は睡眠の時間だ。
やっぱり帰ろうかな。こんなに人がいたら見つけられないかもしれないし。
リリーの頭に迷いが過る。
もう待ち合わせの3つ目の角は目前だ。
そんな時、リリーの脳裏に一瞬、絵が浮かんだ。
絵の中の空は完全には明るくないが、日は出ている。早朝の誰もいない殺風景な街角。いや違う営業時間外の店の軒先で、2人の少年が談笑している。
リリーは、眼前に広がる光景をじっと眺める。
視界に闇を彩る光と行き交う人々は存在しなかった。
いつかの街角の記憶は、目の前の光景と完全に一致していた。
少女を待つ人は、一人だけだったが。
リリー「あの日、私たちは外の世界への出口を見つけた。」