占星の薬
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規則正しく時を刻む針の音が聞こえる。静かな場所だ。少し遠くで、ガラスが擦れる音を発しているのがわかる。
意識が段々と濃くなっていく。ここはどこだろう。自分はどうして寝ているのか。
トン、トン、トンと革靴が床の上を近づいてくる。
「目が覚めたようじゃの。兎の生き残り。」
丸眼鏡をかけた白髪の老人。にやけた顔がラビィの顔を覗いていた。
ラビィは彼を知っている。彼の名はドグマ。この町で唯一の薬師であった。
辞書みたいな分厚さの本が山を成し、その下に黄ばんだ紙が海を作っている。人一人入れそうなほど巨大な壺や釜。机の上の瓶にはクロネズミが沈んでいる。光源は瓶の横のランプが一つだけ。
完全に魔女の家にしか見えない。
そうだ、今日は‼
薄い毛布が宙へ舞う。ラビィは飛び起きた。
「もう夜じゃないよね?月は昇った!!?」
「そそっかしいやつじゃの。まだ日すら落ちてないわい。」
「良かった。」
ラビィは気が抜ける。同時に疑問が浮かび上がってきた。
「何で僕はここにいるの?」
「道の方からギャンギャン煩い泣き声が聞こえてな。ちっこいガキがお前さんの体を揺らしてたんじゃ。」
ラビィの記憶の中に昼間の出来事が蘇ってきた。
僕は完全に被害者だ。とんだ災難だったが、でも子供にも酷な事をしてしまった。人にぶつかってしまって、罪悪感か、怒られるかもしれないという恐怖心で泣いてしまったのだろう。
そしたら急にその相手が倒れて気を失うんだから、物凄くパニックになったハズだ。
「さっき、ガキの母親がお詫びにって、新鮮で美味しそうな林檎を一杯置いて行ってくれたぞ。」
赤い丸々と太った木の実の入った籠が机の上に置いてあった。
ドグマは林檎をみて意地の悪い笑みを浮かべた。
「この町の住民は相変わらずの甘ちゃんじゃな。ギアナの王都だったら慰謝料をふんだくれたな。」
この性悪じじぃ。心の中で毒づいた。
ドグマは昔、医者だったらしい。その修行をするために長い間町の外に出ていたことがあり、外界に詳しい。
だからか、この町の住人達とは少し違う独特の雰囲気を持っている。いや、少しではないか、ドグマはこの町で浮きまくっている。
住人は皆、ドグマの事を「町一番の変人」だと思っている。
それはドクマの人生経験に基づく、価値観だけの話ではない。
ドグマは医学に深い造詣を持つ、博識な薬師だ。ただ立派なのは能書きだけ、やる事がそれに伴っていない。
ドグマの作る薬は常識から外れている。胡散臭さ満点のぶっ飛んだ薬か、使い道のないゴミだ。
思いつくのはくだらないことばかりだが、それの元になっているハズの知識は質も量も素晴らしい。おそらく町で一番の生き字引だろう。
ドグマはゆっくりと、ベットの前の椅子に座り込んだ。編まれた木の背もたれに体重がかかり、鈍い音を発する。
「いい夢は見れたかの?」
ラビィは先程まで見ていた不思議な夢を思い出した。仮面の少年と動く絵を見せる紙。見知っている顔の中に知らない顔がいくつかあった。
異質な夢だったと思う。普段見る夢に比べて、目覚めた後の感覚とか、記憶にしっかり残っている。
「…。だったら何なの。」
「昨日、長年に渡ってワシが開発し続けた新薬がついに完成したんじゃ。世界史に名を残す研究じゃった。まさしく奇跡の薬が完成したんじゃ。」
ドクマは心底愉快そうにペラペラとほざく。座りながら、机の上に手を伸ばし、変わった色の小瓶を手に取った。
中身の液体の色じゃない、色ガラスだろうか。濃淡の美しい群青色をしている。
表面に多数の浅い穴の開いた装飾が成され、ランプの淡い光に照らされ、星屑のように輝いている。
「お主は奇跡の薬を使用することができた一人目じゃ。存分に喜ぶといいぞ。」
僕に、誰にも試したことのない、新薬を、使用?
ラビィは目の前の、謎の液体を作るのが趣味の狂った老人の襟元を、強引に掴んだ。
「ざけんなじじぃ!!人が無意識の間に何してくれてんだ!!」
ついに人の了承をとらずに、人体実験始めやがった。ラビィは憤慨して掴んだ腕を激しく動かした。
ラビィはあまり怒らない。もともと穏やかな気性で細かいことは気にならないタイプだというのもあるが、理由はそれだけではない。
怒っても様にならないのだ。喉の構造的に声を作ることが出来ないラビィは、激怒して相手に詰め寄っても、相手に何のプレッシャーも与えることが出来ない。
大きく口を開閉しているのに、普段と何ら変わらない、か細い空気が通り抜けるだけだからだ。
相手がそれを見て爆笑してしまうので、ラビィは自分が高ぶる感情を抱えていることが、馬鹿らしくなってしまうのだった。
ドグマが自作の薬の実験をラビィで行うのはこれが最初ではない。ラビィはこんな地獄のような倫理観の老人に恩があった。昔よく世話になっていたのだ。
兎の獣人はこの町にラビィたった一人。そして獣人達はみな体の構造が様々に異なっている。病気や怪我をした時、ラビィの治療をできるのは経験豊富な医師であったドグマだけなのだった。今となってはそんな頻繁に体調を崩すことはなくなり、ドグマの家から足が遠のいていたが、幼い時はそうではなかった。
幼い日のラビィはドグマの新薬の実験に度々協力させられていた。可哀そうに、人の悪意を理解できていなかった当時のラビィは言われるがままだった。
僕の背が低いのも、変な薬を大量に飲まされたせいだ。絶対。ラビィはそう疑っている。
「で、今回はどんな薬なの?3日間毒キノコを食べても平気になる薬?それとも空の色が緑に見えるようになる薬?」
ドグマを揺する腕を止め、殺意をこめた瞳で睨みつける。
当時の嫌な思い出が蘇ってくる。本当に碌な薬を作っていた試しがない。もしかすると、ラビィが以前体調を崩しやすかったのも、薬の所為だったのかもしれない。
「聞いて驚け、この薬を飲むと未来を予知することができるんじゃ。」
は?
そんなことできるわけない。ラビィの思考回路は一瞬で答えをはじきだした。
ドグマの説明によれば、薬は夢の中において未来を予言し、それを使用者に示してくれるそうだ。
薬を飲んだ量に応じて、より遠い未来に起こる事を鮮明に知る事ができる。
どんな内容を予知するかは、使用者の意思である程度コントロールできる。
効果は一度だけで、一回夢を見てしまうと、再び薬を飲まないと予知夢は見ることができない。
ラビィが言葉を聞き、咀嚼することができたのはそれだけの情報だ。
ドグマは、時の流れや、複数の重なり合った未来の事象を論じた学説が、薬の原理に深く関わっているらしいことを駄弁っている。おそらくラビィに理解させる気がさらさら無いであろうスピードで。
「ワシはこの大発明を占星の薬と名付けた。」
残りはお主にくれてやろう。
ドグマは茫然としていたラビィに群青の小瓶を投げてよこした。
ラビィはそれを慌ててキャッチする。夜空のような美しいガラスの容器に、とろりとした蜂蜜のような黄金が閉じ込められている。
「ワシは新薬の調整で忙しいんじゃ。それ持ってとっとと帰ってくれ。あと林檎もワシは食わんから連れて帰ってくれよ。」
ドグマはラビィをここから出ていくように急かした。なんとも忙しい老人だ。
しかしそういうわけにもいかない。
偶然会うことになった町一番の博識に、ラビィは聞いておきたいことがあった。老樹林の異常についてだ。
ドグマ「今回の薬は特別製じゃ。」