冷やし中華終わりました
午後2時半を過ぎてようやく外回り営業が一段落した。それなりに成果は挙げられたからよかったけれど、とにかく今はお腹がすいた。何か食べてから会社に戻ることにしよう。
先に電車に乗って会社付近の馴染みの店で昼食を取ることも考えたけれど、今日営業に訪れたこの近辺は初めて来るエリアだ。せっかくだから食事処の新規開拓をしたい。知らない町の知らない店に入って、料理の出来に一喜一憂する。それが外回り営業職である僕にとっての数少ない楽しみなのだ。
夏の終わりが近づいてきて薄着では肌寒さを感じるくらいになってきていたのに、今日だけはどういうわけか真夏日並みの暑さらしい。汗だくになって歩き回る僕の視界に入るのは食べなれたチェーン店やファストフードばかり。
そういうのじゃないんだ、僕が今食べたいのは。こじんまりしていて、地元でも限られた人だけが知るような、そんな隠れ家的な店の料理が食べたいんだ。
15分ほど歩いてようやく一軒の中華料理店の前で足を止めた。手書きの『冷やし中華』の文字が目に留まったのだ。
冷やし中華か……いいな。猛暑を耐え忍んだあとなら格別だ。冷たい麺とタレが火照った喉元を流れ込むのを想像するだけで生唾があふれ出てきた。
よし、入ろう。
扉を開けようと一歩踏み出したその時、何か強烈な違和感が僕の動きを止めた。その違和感の発信源はすぐにわかった。僕をこの店の前で引き留めた手書きの『冷やし中華』の文字。その下に続く文言が『終わりました』。
『冷やし中華終わりました』
うん……? なんだろう。何か引っかかるな。
『冷やし中華始めました』ならよく見るし、芸人のネタに使われたりもして一種の定型句になりつつある。
反面、『終わりました』なんて見たことがないし、わざわざ書く必要がないように思える。集客面からみてもこの貼り紙にはデメリットしかない。せっかく冷やし中華目当てでこのお店に来てくれたお客さんをただただ門前払いすることになる。
冷やし中華目当てのお客さんでも一度店内に入ってしまえば、その日はあきらめて別のものを注文してくれるかもしれないのだから、やっぱりこの貼り紙はないほうがいい。
それとも冷やし中華を注文するお客さんをわざと遠ざけているのだろうか。いや、それならそもそもメニューに冷やし中華を載せなければいいだけだし、貼り紙に書くなら『冷やし中華ありません』だろう。
……考えすぎだな。きっと単なるお店の人の親切心だ。ないものはないとあらかじめ明言することでお客さんに他のお店に行くという選択肢を与えた、お店の利益よりお客さんの気持ちを第一に考えている良い貼り紙じゃないか。
社会人になってからありのままを受け入れることが苦手になったように思う。普通と少し違うだけで変に勘繰る癖がついた。その結果、この貼り紙のような誰かのまっすぐな厚意すら素直に受け入れずに曲解してしまうようになった。よくないことだ。反省しなければ。
さて、このお店に冷やし中華がないことはわかったが、今からまたこの炎天下を練り歩いて別のお店を探すのは気が引ける。早いところ会社に戻らなければいけないし、今日はこのお店に入るとしよう。冷やし中華はまた今度だ。
「いらっしゃいませー!」
お店に入ると元気な声とエアコンの涼しい風が僕を出迎えた。お世辞にも広いとは言えない店内、ひしめき合うように配置されてなお5つしかないテーブル席、剥がれかけた壁紙、その壁に貼られた手書きのメニュー、気を付けてあるかないと滑ってしまいそうな油ぎった床……チェーン店やファストフード店では味わえないこの雰囲気。料理を食べる前から満足してしまいそうになる。
店員は2人だけ。50代くらいの男女。夫婦で切り盛りしているのだろう。
お客さんは僕の他に3組。老夫婦、サラリーマン4人組、若いカップル。みんな笑顔で食事を楽しんでいた。このお店の料理は何を食べてもおいしいに違いない。
さて何を食べようか。壁に掲げられたメニューを見渡した。ラーメン、餃子、チャーハン、麻婆豆腐……と、料理の種類は個人経営の中華料理屋として過不足なしといったところか。一応隅のほうに冷やし中華がメニューとして掲げられている。とはいえ、店先に『冷やし中華終わりました』と書いてあった以上、もう注文できないのだろう。
よし、天津飯と餃子にしよう。
「すみません、注文いいですか」
「はーい!」
僕が声をかけるとおかみさんが大きすぎるくらいの元気な声で返事をしてくれた。本当に雰囲気のいいお店だ。
おかみさんに注文を告げようとしたその瞬間、冷やし中華のことが頭をよぎった。一応聞いてみるか……。
「あの、冷やし中華ってもう終わっちゃったんですよね?」
今まで賑わっていた店内が静まり返った。厨房で何かを炒めている音だけが残る。笑顔だった他のお客さんも皆、無言で気まずそうな顔をしていた。おかみさんの顔からも笑顔は消え、しばらくの沈黙の後絞り出すような声で「はい」とだけ答えた。
僕は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。いや、冷やし中華が終わったのかどうか聞いただけだ。なのに、この空気はなんだろう。
ややあって厨房から店主が出てきて、鬼の形相で僕の方へ迫ってきた。
「あんた! 客だからって言って良いことと悪いことがあるだろう!」
真っ赤な顔で怒鳴る店主に、僕は何とか弁明を試みる。
「いえ、僕はただ、冷やし中華が終わったのかどうか……」
「なんだとてめぇ! もういっぺん言ってみろ!」
一段と顔を赤くした店主が僕に詰め寄って来た。このままでは殴られる、いや、殺される! 僕は店主の迫力に圧倒されて椅子から転げ落ちた。
僕に殴りかかろうとする店主に抱き着くようにしておかみさんが止めに入った。
「あんた! 落ち着いて、あんた!」
「うるせぇ! こんなやつ客でもなんでもねぇ! ぶち殺してやる!」
「あなたも、もう帰ってください! この人このままじゃ何するかわからないから」
そう言われてようやく僕は立ち上がり、逃げるようにしてお店を後にした。
結局昼食にありつけなかった上に、余計な体力を消耗してしまった。なぜ怒鳴られたのかもわからずじまいだ。もやもやした気分で会社に戻ると2つ下の後輩が出迎えた。
「お疲れっす先輩。……あれ、なんか疲れてます? 営業うまくいかなかったんすか?」
「いや、そっちは割とうまくいったよ。ただそのあとお昼を食べに入った中華料理屋で……」
「すごく料理がまずかったとかっすか?」
「いや、そもそも食べられなかったんだ……」
「どういうことっすか?」
「冷やし中華が終わったかどうか聞いたら、めちゃくちゃ怒鳴られてね。店から追い出されたんだ」
後輩はプッと吹きだして、「いやいや、ありえないっすよ、それ」と笑った。
この言葉に僕は胸をなでおろした。会社に帰るまでの電車の中で、もしかしたら僕は何か失礼なことを言ってしまったのかもしれないと思い悩んでいたのだ。僕の知らない常識があって、それを破ってしまったのかと。
ただやっぱり僕は間違っていなかった。笑っている後輩を見て安心した僕は一緒に笑った。
「そうだよな、冷やし中華のことを聞いただけで怒り出すなんてありえないよな」
僕がそう言うと後輩は一層大きく笑って、
「冗談きついっすよ先輩! 『冷やし中華のことを聞くのがありえない』って意味っすよ!」
「……え?」
一瞬にして笑えなくなった。顔から汗がどっと噴き出した。
「別に聞くだろ? 冷やし中華があるかどうかくらい」
僕がそういうと後輩の笑いも止まって、引き気味で僕を見た。
「え? 本当にそんなこと言っちゃったんすか、先輩」
「言った」
「やばいっすよそれ……。俺、課長に報告してきます」
後輩を引き留めようとしたけれど走って行ってしまった。やはり僕がおかしいのか? あの中華料理屋の店主や客だけでなく、後輩まであんな反応をするなんて。しかし何度考えても僕の発言のどこが悪いのかわからない。極々普通の会話をしたとしか思えない。
しばらくして課長からお呼びがかかった。
「聞いたよ。何か、お店の人に失礼なこと言っちゃったんだって?」
課長は僕の目を見て聞いてきた。そうだ、課長だ。この人は今まで僕が仕事で困ったり、ミスをした時も真摯に話を聞いてくれて、その度に的確なアドバイスをしてくれた恩人だ。この人ならわかってくれるはずだ。
「あの、僕は決して失礼なことを言ったつもりはありません。お店や料理の批判もした覚えはありません」
課長はゆっくり頷いた。その所作にはどんな意見も中立的に聞いてくれる安心感がある。
「それは、どこのお店かね」
「今日営業に行った付近から15分程歩いたところにある中華料理屋です」
「ああ、あそこなら私も何度か行ったことがあるよ。料理はおいしいし、店主もやさしい。夏は冷やし中華、冬はおでんを出してくれてね。お客さんのことを第一に考える素晴らしいお店だよ。そこで、何を言ったのかね」
中華料理屋でおでんはどうかと思ったが口に出さなかった。そんなことを言って心証を悪くする必要はない。僕はゆっくりとはっきりと、誤解や聞き間違えのないように答えた。
「ただ、冷やし中華終わっちゃったんですかとだけ」
課長はひどく落胆した様子で大きなため息をついた。その反応を見て僕は軽いめまいに襲われ、立っているのがやっとだった。頼りにしていた課長にまで見放されるとは。
「君は普段よくやってくれているよ。今日も首尾よくやったそうじゃないか。でもね、仕事っていうのは信頼が大切なんだ。君個人にとっても、会社という組織にとってもだよ。いくら仕事をうまくこなしても、今日の君のように、常識をわきまえず、周囲を不快にさせるような発言をしていてはダメなんだ」
「でも課長!」
「もういい!」
いつも冷静で落ち着いている課長が声を張り上げた。そうさせているのが僕なんだと思うと絶望的な気持ちになった。
「もういいから、今すぐ謝罪に行ってきなさい」
もう誰に何を言っても無駄なんだ。僕は課長に言われるまま謝罪へ向かうことにした。
理不尽に怒鳴られ、理不尽に謝罪へ向かわされる。何が悪いのかはいまだにわからない。けれど、僕は社会人だ。会社に雇われているサラリーマンだ。僕に限らず世のサラリーマンというのはいつだって理不尽な要求を押し付けられるものだ。そして会社に属していたければそれに逆らってはいけない。
僕もまだ会社に属していたい。ようやく仕事で良い評価を得られるようになってきたんだ。サラリーマンを続けられるなら謝罪くらいいくらでもしてやる。自分なんていくらでも曲げてやるさ。
百貨店で買った菓子折りをもって例の中華料理屋へ向かった。お店の扉は閉まっていた。今の時間帯は中休みらしく、夜からまた再開するらしい。とはいえゆっくり待つ気もない。この建物はお店と店主の自宅を兼ねているようだった。僕は裏口へ回って店主宅用のインターホンを押した。
ややあっておかみさんが玄関を開けた。どうやら僕の顔を覚えていたらしく、「あなたは昼間の……」と困った表情を浮かべた。店主もやってきて怒鳴りつけてきたところで、僕はすかさず謝罪の言葉を述べた。
「本日はご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。失礼な発言をしてしまい、本当に申し訳なく思っております」
何度も同じような謝罪の言葉を並べ続けて頭を下げた。しばらくすると店主は低い声で「話があるから、とりあえず上がんな」と僕を招き入れた。
居間に通されると僕はまた謝罪の言葉を述べた。店主は謝罪ばかり続ける僕に呆れたようで、
「もういい。もうわかった。あんたサラリーマンみたいだし、仕事してりゃ嫌なこともあるだろう。そういうストレスが溜まって、昼間言ったようなこと口走っちまったんだよな」
「……申し訳ございません」
「もういいってんだ。俺もカッとなっちまって悪かったよ。でもよ、あんなこと言われたら誰だって頭にくる。あんたもそれくらいわかるだろ?」
「はい」本当はわからないけど。
「それならいいんだ。悪いことを悪いことだとわかって、反省してくれてるなら、俺はそれでいい」
どうやらお許しが出たらしい。社会人にとって大切なのは、いかに誠意を持ったふりをして謝罪できるかだ。どんな意味不明な事態でもこれさえできれば乗り切れると、僕は身をもって実感した。
しばらく沈黙が続いたが、店主が「ところで、」と話を切り出した。
「もし今日冷やし中華が出せてたら、あんた、注文してたかい」
「はい。今日は特別暑くて、冷たい物を食べたかったので」
僕がそう答えると店主は少しの間考えて、「ちょっと待ってな」と居間を出た。しばらくして戻ってきた店主は一枚の写真を僕に見せた。使い捨てカメラで撮られた、色褪せた古い写真だ。そこに写っているのは、冷やし中華。最近SNSで見かける食べ物の画像のように、俯瞰で撮られている。
「これはな、俺が25年前にこの店を始めて、3年目の夏に初めて作った冷やし中華の写真だ」
なぜそんな写真を撮ったのだろう。そしてなぜ僕にそれを見せるのだろう。そんな疑問が浮かんだが、僕は黙っていた。店主は懐かしそうに話を続けた。
「我ながらいい出来でなぁ、お客さんもみんな上手いって言ってくれたもんよ。だけど一人だけ、この辺では『おやっさん』で通ってる人なんだけどよ、おやっさんだけはタレが酸っぱすぎるって言って一口しか食べないで出て行っちまったんだ。俺は悔しくてよ、それからは毎日毎日冷やし中華のことばっかり考えて、試行錯誤の繰り返しよ。でもおやっさんはなかなか認めてくれなくてなぁ。毎年夏が来るたびに冷やし中華を注文しては、一口だけ食べて、帰っていっちまうんだ」
なるほど、わかってきたぞ。そのおやっさんという人物が、最近になって亡くなったんだな。そんな折に僕が冷やし中華のことに触れたものだから、店主も思わず激昂したんだろう。おやっさんのことを後輩や課長がどうして知っているのかはわからないが、そういうことに違いない。
「で、これが1週間前に終いにした今年の冷やし中華だ」
店主は真新しい写真を取り出して僕に見せた。さっきと同じ、俯瞰で冷やし中華が写っているだけの写真だ。
「いやぁ、今年やっとおやっさんが認めてくれてなあ、きれいに平らげて帰っていったよ」
おやっさん生きてんのかよ。じゃあなんで怒ってたんだよ。
……まあ、いいや。
こうして冷やし中華の話をしている店主は本当に楽しそうだ。その表情は昼間の鬼のような形相とは打って変わって、可愛らしささえ感じるほどの笑顔だ。どうして怒ったのか、僕の発言の何が悪かったのか。そんなことはどうでもよくなった。
「なあ、あんた、どうせならうちの冷やし中華、食っていかねぇか」
「え? でも……」
「店には今年はもう出さねぇが、今ある材料でも作れねぇことはねぇんだ。食っていくだろ?」
そういえばお昼は食べ損ねたのだった。机の上に置かれた冷やし中華の写真に目を落とす。なんだか空腹がぶり返してきた。
「じゃあ……せっかくなので頂きます」
「よっしゃ、じゃあちょっと待ってな」
「へい、お待ち!」
満を持して冷やし中華が僕の目の前に置かれた。色鮮やかな具材、食欲をそそるタレの香り。胃袋が急かして音を鳴らす。
「いただきます」
一口食べただけでわかった。これは僕が今まで食べた中で一番おいしい冷やし中華だ。麺ののど越し、計算して切られた具材の大きさ、タレの酸味と甘みの洗練されたバランス、どれをとっても素晴らしかった。
あっという間に完食してしまった。空になった器を見て、店主は満足気に頷いた。
なぜ店主が怒ったのかはわからない。けれど、こんなにおいしい料理を作り、こんなにやさしい笑顔を見せる人をああまで怒らせていたのかと思うと自分が恥ずかしくなった。形だけの謝罪で終わらせようとした自分を殴りたくなった。僕は改めて店主に、今度は心から謝罪した。店主は「なんだよ急に」と笑った。
「今日はすみませんでした。冷やし中華、ご馳走様でした」
玄関先まで見送りに来てくれた店主とおかみさんにお礼を述べた。
「来年も夏になったら冷やし中華出すからよ、そん時は来てくれよな。あんたはもう、うちのお客さんなんだからよ」
一人の客と認めてもらえてこんなにうれしい気持ちになったのは初めてだ。本当にこの人達と出会えてよかった。
「来年じゃなくても、近くに寄ったら……いいえ、次の休みにでもまた来ます!」
お世辞でも何でもない。心の底からこのお店の常連客になりたかった。近いうちに必ず来よう。
名残惜しいけれど帰ろう。そう思って店主とおかみさんに挨拶をしようと思ったとき、ふと、課長の言った事を思い出した。
『夏は冷やし中華、冬はおでんを出してくれてね』
僕は店主に聞いてみた。
「あの、冬のおでんっていうのはいつ頃から始まるんですか?」
店主の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
やってしまった。
「なんだとてめぇ! もういっぺん言ってみろ!」
「あんた! 落ち着いて、あんた!」
構想10分+深夜のテンション