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2018.6.2
主人公含めた一部の登場人物の名前を変更しました
藤後優→藤後錬
伏見真→伏見秀
『そんな考えが頭の中を巡る。もうどうしようもない、と諦めが心に広がった。』より後に文章を追加しました
「――っづぅー……ん……ぅあ……?」
疼くような体の痛みと、自分の呻き声に段々と意識を覚醒させる。酷い倦怠感を感じながら目を開けると、汗で張り付いているのか視界が髪の毛で埋まっている。それを拭いとり体を起こそうとして、違和感を覚えた。
「……かみ?」
ベッドの上に散乱している髪を掬い上げて強く引けば、
「痛っ!」
頭からの反応に短く声を上げて髪を手放す。今度は怖々と触りながらゆっくりと髪を引けば痛みは無いものの、目の前のそれは自分の頭から生えているものだと主張してきた。
「なんで」
呆然と髪を弄っていれば今度は手に視線が向かう。
――おかしい。
自分の手はこんなものだったのか、と考える。
デスクワークばかりであまり力仕事はしなかったが、年齢に見合うような骨張って太くゴツゴツとした、外回りで少し焼けた浅黒い男の手のはずだった。
白く柔らかい、強く握り締めれば折れてしまうのではと思うような、細く滑らかな手では無い。
目を瞑れば元に戻るのかと思ったが、何度やっても変化は起こらない。手の甲を強めにつまんでみれば、しっかりと痛みを感じて白い手は自分のものだとようやく理解した。
――それなら。
体の他の部分はどうなっているのか。そう思って部屋にある姿見を見てみれば、そこには長い黒髪をベッドの上に散らして座り込んでいる姿が映っていた。元々大きめな男物のシャツを好んで着ていたが、丸出しになるほど華奢な肩は、まるで女の子のように見える。
「俺、だよな」
顔や肩、腕をぺたぺたと触れば、同じ様に鏡の中の姿も動く。そのうち手と視線は段々と下に向かい、細い腰辺りで一度止まる。
――まさか。
一抹の不安を胸に抱きつつ、緩くなってしまったトランクスをそっとつまみ上げて中身を覗けば、そこにはあるはずのものが、長年鎮座していたものが無かった。
「は」
代わりにあるのは女性特有のもの。その事実に、もう一度確認する気力すら沸かない。
「……寝よう」
――これは夢だ。
「久しぶりに病気になったせいで、変な夢見てるのか。きっと変な雑誌買ったせいだな、こんなの意味わからない」
横たわって目を瞑れば、か細く震える声はよく聞こえた。今まで慣れ親しんだものより高かった。
「……目が覚めたら会社に、いや、病院か?久しぶりに風邪引いてこんな夢みるぐらい疲れてるみたいだし、他の人に移しても良くないしな」
新しく見つけた違いも無視して仕事のことだけ考える。
「でも伏見のとこの皺寄せが来るかも、一応ここ最近はもしものために仕事詰めて終わらせたけどそうなると行くべきか……とにかく連絡、いややっぱりまずは病院行ってから? 風邪じゃないかも」
コンコン。
「っ!?」
「先輩いますかー?」
混乱の最中、聞き覚えのある声と共に玄関の扉を叩く音が響いて我に返る。
「藤後先輩ー? ……鍵かかってないな」
ノックが止まってしばらくたった後、扉を開ける音と足音が聞こえて
――しまった、鍵をかけ忘れてた。
今更ながら鍵のかけ忘れに気が付いた。
「先輩寝てるのか? 前みたときはだいぶ体調悪そうだったけど」
とにかく動かなければと思い、頭まで被った毛布から出てベッドから立ち上がろうとする。しかし気だるさの残る体はいうことを聞かず倒れかけ、ベッド隣の机に手をつこうとして置かれていたランプを押し倒す。
「先輩? そこにいるんですか?」
「んあっ!? あ、ああ……」
その音を聞かれたのか扉を隔てた隣の部屋から声をかけられて思わず間の抜けた返事をして、
「ストップ!」
と続けて叫ぶ。足音は一旦止まるが、
「……先輩、ですか?」
「いや、ちょっとその、とにかくそこで待っててくれ」
訝しげな声で返事が返ってくると、再び足音が聞こえて近付いてくるのが分かる。
――ああヤバいヤバいヤバい!
今の自分の状態を見られるのは何となく恥ずかしく思えて、急いで毛布を引き寄せ身体に巻き付けるのと同時に扉が開く。部屋の中に入ってきた人物はこちらに気づくと目を大きく見開いた。
「えっと……君は……?」
次第に困惑したような表情を浮かべる秀に、
「いや、はは……どうしたの、かな?」
見当違いな言葉を返すことしか出来なかった。
「ここ、は……藤後錬さんの家、だよね?」
――まぁ、そうなるよな。
長い沈黙の後、眉間に皺を寄せた秀の心情は、少し前まで混乱していても容易に想像出来た。一度大きく深呼吸をして心を落ち着かせれば、背筋を伸ばして見つめる。
「ええ、そうですよ伏見さん」
努めていつものように名前を呼べば、秀の片眉が僅かに上がる。
「なら君は、あー、錬さんの娘さん……じゃないか、姪?」
娘という言葉の反応に気付いたのか、それとも結婚していないことを思い出したのか言い直されるも、そのどちらでもないことに苦笑する。
「私が藤後錬ですよ……とはいっても、その、見た目だいぶ変わってますけど」
瞬間、秀の顔の筋肉が硬直するのが分かった。
「…………はっ、いやいやいやいや、先輩そんな身長小さくないし髪長くないし、そもそも三十過ぎの男で君みたいな中学生の女の子みたいじゃないし」
短く息を吐き、指をさして早口に捲し立てる。
「とりあえずそこで待っといてもらえるかな」
そう言って踵を返すと足早に家から出ていった。
姿を見られた最初の時点である程度予想していたその態度に
――どうやって信じてもらおうかな。
と、不安に思いながら壁にもたれ掛かりながら床に座る。そのまま踞っているとまた足音が聞こえ、顔を上げれば部屋の中に秀が入ってきていた。
「今、会社の上司に確認のために連絡したんだけど、ここが錬さんの家なのは分かった。けどその上司は君のことを知らないし、俺も知らないんだけど、誰? あと錬さんはいまどこ? 出掛けてる?」
目の前にしゃがみこんでそう尋ねる表情には苛立ちがみえる。
「……さっきも言いましたけど、私がその錬ですよ」
「だから、俺もさっき言ったけど錬さんは三十過ぎの男で君みたいな女の子じゃないんだよ」
疲れたように言えば、秀は先程と同じように返す。そのまま言葉を続けようとして、しかし何かに気付いたかのように口を閉ざす。
口を手で隠してしばらくの間考え込むのを見つめていれば、再び視線を戻した。その顔にもう怒りはみえないが、代わりに困惑の表情が浮かんでいた。
「できたら気を悪くしないんでほしいんだけど、君は……家出とかしてるのかな?」
「……はい?」
理解できずに首を傾げれば、秀は立ち上がってスマートフォンを取り出した。
「君と錬さんの関係がどういうのか正直分からないけど、とりあえず警察に電話させてもらって良いよね?」
秀を見て、スマートフォンを見て、再び秀を見てようやくその言葉の意味を、その先を想像して青ざめる。
――マズイ、それは凄いマズイ。
「ちょ、ちょっと待って。それはとりあえず待って」
このまま警察に連絡がいけば、今のところ身元不明の自分はそのまま保護されるのか、それともどこかの施設に送られるのか――それは絶対に避けたい、と体に巻き付けた毛布を放り投げて秀にしがみつき懇願する。一瞬体を強張らせたのがわかったが、直ぐに気を取り直して厳つい表情を向けてきた。
「そうは言っても……俺としてはこんなことしたくないけど、君みたいな未成年の、しかも女の子が親戚でもない男の人の家にいるのは良くないし」
「いやだから、とりあえずそれはやめてって、ひとまず俺の話を聞いて」
「いーや、駄目」
スマートフォンが取られることを危惧したのか、手が届かない高さにかかげながら、電話の画面に切り替えて冷たく言い放つ。それを見て秀のスーツから手を離し、両手と両膝を床につけて一度見上げた。
「お、お願いします!」
そのまま勢いよく頭を下げるが、時間が経っても反応が無いことに焦りが生まれる。床に固定した視線を動かして再び見上げようとすれば、いきなりベッドの上に持ち上げられて声もでない。
「ごめん! まさかそこまでするとは思わなかった。とりあえず落ち着いてほしい」
内心驚きつつも両手を合わせ謝る秀を見て、とりあえず悪い展開になることは避けられたとわかってほっと息を吐く。
「俺は鍵山っていう人に頼まれて錬さんの様子を見に来たんだけど……そういえば俺のこと言ってなかったね」
秀は名刺帳を取り出して名刺を見せる。
「俺は伏見秀で、新人時代に錬さんに世話になったんだ。だから昨日無断で休んだって聞いて、俺も心配で」
「昨日?無断で?」
昨日と聞き、まさかと思い壁にかけられた時計を見れば丸一日以上過ぎている。
「そう、すっごく真面目な人だからそんなことはしないって思って――」
続けられた秀の言葉は耳に入らなかった。
「伏見さん、聞きたいことがあるんですけど」
「え、は、はい」
素早く肩をつかんで秀に詰め寄ると、僅かに顔を赤らめて目を泳がせる。
「昨日、会社で、何か、問題が、起きましたか?」
「い、いえ……特になにも」
「そうですか……それなら良いんですけど」
一つ一つに力を込めて問えば、斜め上に視線が固定された秀からの返事を聞いて脱力する。
「えーと、話を戻すけど、君は錬さんのこと知ってる?」
「その、私が錬なんですよ。さっき起きて気づいたらこんな風になってて……信じられないのは分かるけれど」
もう一度そう主張するが、視線を戻して何も言わない代わりに渋い顔になる。
――やっぱり言葉で主張するだけでは信じてもらえる訳がない。
――いきなり女の子になった、なんて頭のおかしいやつとしか思えない。
そんな考えが頭の中を巡る。もうどうしようもない、と諦めが心に広がった。
「うわっ! わ、わかりました! わかりましたから! 信じるからそんな顔しないでっ!」
秀の慌てた声で、いつの間にか涙で視界が歪んでいることに気付いてすぐに拭いとる。
「すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど」
「と、とりあえず明日にでも鍵山さんに相談させてもらいますけど……良いですよね?」
膝をついてこっちを見上げる様子から、まだこの状況に混乱しつつも少しは落ち着きを取り戻しているように感じた。
「お願いします。私も後で連絡しますけど、上手く説明出来そうに無いと思いますから」
「……俺もやれる気がしませんよ」
苦笑とともに立ち上がる秀だが、今度は見下ろして来たと思えばやってしまったとでもいわんばかりに顔を歪めて逸らし、一歩引き下がる。
「きょ、今日はもう帰りますね」
急用でも思い出したかのように、足早に去ろうとする秀を見送ろうと玄関まで歩いていく。
「伏見さん、わざわざ今日はありがとうございます」
「俺も今日は早めに仕事終わってすることなかったんで……それに心配でしたし。先輩は体の方、大丈夫ですか? 今更ですけど」
「どう、でしょうね。少しだけ怠いのと、体がこうなってしまったのを除けば特に何もないですけど」
「そうですか……今度は何かあったらすぐに連絡ください。それじゃあ」
帰ろうとドアノブに手をかけたが、捻っただけで扉を開けようとしない。どうしたのかと思っていれば、体をこっちに向けて躊躇いがちに口を開いた。
「あとその、服とかもう少し気を配った方が良いと思いますよ。こことか」
秀がスーツの襟を摘まみ上げるが、その意味が分からずに首を傾げる。
「うーん。すみません、何か」
「や、やっぱりなんでもないです。お疲れ様でした!」
慌てて出ていったことに――慌てすぎて脛をドアにぶつけたからか外からくぐこもった悲鳴が聞こえた――少しばかり呆然として、同じようにシャツの襟を摘まんでみたがそれでも分からない。
ひとまず置いて部屋に戻れば、中は会社から帰って来たときのままで机の上には空のカップ麺、床には脱いで放置された服があった。この状態を他人に、しかも社内で付き合いのある相手に見られたという事実に恥ずかしさを感じながら片付けに動く。
――髪が鬱陶しいな。
時間が経ってある程度気持ちに余裕が出来たのか、床につくほどの長さを持つ髪が邪魔で邪魔で仕方がない。
更に寝ている間に大量の汗をかいていたようで、動くたびに体の至るところでベタつきも感じて不快感が募っていた。
「……髪切って風呂入ろう」
床にあった服とそれまで着ていたものもまとめて洗濯かごに投げ入れて決心する。入浴の準備と、散髪のために鋏をもって全裸のまま寝室へ向かう。
姿見の前で前髪をまとめて掴み、鋏を当ててざっくりと切り落とす。視界が晴れて、ようやく鏡に映る自分の顔を、体が変化してから初めてまともに見ることが出来た。
眉の細さに寝起きと思わせるような目付きの悪さは男であったときの顔を思い出す。鼻筋は細く唇は淡い桃色で艶があり、幼さと少しきつめの印象を持つ顔立ちに
――姉妹がいればこんな顔だろうか。
と、そんな『もしも』を考え、
――いたらいたで説明するべき相手が増えるな。
そんな考えにたどり着いて息を吐く。後ろ髪にも手を伸ばし、憂鬱な気分を少しでも軽くするかのようにまとめて断ち切った。
立ち上がって全体を映せば、細身の体はうっすらと肋骨が浮き上がり、胸の膨らみは自分の小さな手でも収まりそうな程慎ましい。くびれのある腰回りは完全に女性のもので、肉は薄いもののしっかりとしている。
男であったときより小さくなった背格好は、秀に言われた通り中学生の女の子のように見える。これでは本当の年齢でさえも信じることは出来ない、と自分自身でも思えた。
「……はぁー、明日からどうしよう」
落ちた髪の毛を片付けながら色々と考える。
何故女の体になったのか、いつになれば、どうすれば男の体に戻るのか。
そもそも、戻ることが可能なのか。
不可能であれば、一生死ぬまでこのまま。
そうなると今までと同じように暮らすことは難しいんじゃないかと、後ろ向きな考えに辿り着いたときには浴槽の中でまた溜め息をこぼしていた。
「しかし、生で見る女の子の体が自分のになるなんてなぁ」
暗い思考を切り替えるように、湯船に浸かった体を見て呟く。
一度だけ男女の付き合いもあったが、周りと比べればさほど性欲もその手の積極性もなかったと思えた。そういう気分になってもまず自分で慰めるばかりで、相手の女性も身持ちは堅く、互いに口に出すことがなかった。
そうしてついぞ、抱く経験どころか見ることもなく今に至る。
――やめよう、これ以上考えると虚しくなる。
再び後ろ向きな思考に陥りかけ、勢いよく風呂から上がる。手荒に体を拭くうち空腹感を覚えて、長い間何も口にしていないことを思い出した。
一度自覚すれば腹の虫は主張するように何度も音を鳴らし、頭の中はすぐさま食べ物で占められる。
「冷蔵庫何かあったかな~」
今では無駄に長くなってしまった袖や裾を捲って冷蔵庫を開ける。中には数日前に買い込んでいた食料品があった。
しばらくは外へ買いに行く必要がないと、過去の自分に感謝しつつ欲望に従って準備をすれば、出来上がったものは一人で食べるにしては少しばかり量が多い。
「……痛み早いのもあったしな、別にとっておくか」
多い分は別の皿に移して冷蔵庫の中へ、残りを机の上に並べたあと手を合わせて食事を始める。
ゆっくりと食べながら剛へどう説明しようかと悩むが、いくら考えても女の子になったとしか言いようが無いことに頭を抱える。
「どうしようもないよなぁ……覚悟するしかない、か」
片付けも終わって机の上のスマートフォンとのにらみ合いが十数分、ようやく決心して画面に映る通話ボタンを押した。