俺と猫と犬以外いない世界 ―1人と2匹の心の旅路―
右手の水平線が微かに明るくなってきた。
太陽が海から生れ出るように、少しずつその姿を現している。
「おお~! いいじゃねぇか。な、言った通りだろう? 海沿いの朝焼けは綺麗だってよ」
バイクを運転している俺の横で、サイドシートから楽しそうな声が聞こえた。
視線を少しだけ海に向けると、海が太陽によって鮮やかに照らされている。
陽に照らされた海の淡い水色と、まだ陽が届いていない深い水色を残した海。
その間に混じって、曖昧な水色を見ると少しだけ感傷的になってきた。
「なんや、人が寝とんのにうっさい声を出すなや。自分どんだけ朝早いんか?」
「お前が寝すぎなんだよ、ウタマロ。ほれ、見てみろ。やっぱ朝陽は最高だな!」
サイドカーから不機嫌そうな声とテンションが高い声が聞こえる。
今度は視線をそちらに移すと、まだ眠そうなチャシロの猫と鼻息荒くしているハスキー犬が見えた。
それを見て、朝陽に目を向けた。海を鮮やかな色に染めていく光に思わず見惚れてしまう。
「確かにすごいな……。こんなに綺麗とは知らなかったぜ」
「だろだろ! 俺の言うことに間違いはねぇってことだ。慎司もウタマロも信じなかったからな。って、また寝んのかよ!」
「猫なんだから寝るのが仕事みたいなもんじゃね? グレゴリーが元気過ぎるんだよ」
自慢げに語ったハスキー犬のグレゴリーが猫のウタマロを怒鳴り、手で体を揺さぶっている。
それに当たり前のように俺は返した。普段からウタマロは寝ている。
「やめろや、マジで! お前はテンション高すぎんねん!」
「うるせぇ! せっかくこうして旅してんだから、こういうのを楽しむんだよ。飯ばっか気にしやがって」
「ああ~、そう言われたら腹ぁ減って来たなぁ。慎司、どっか物産館とかないんか?」
グレゴリーに無理やり起こされたウタマロは食事を取りたいと言った。
海沿いの物産館なら、好きな魚系があるからだろう。
でも、別に食べる必要はないのだが。
「適当なこと言うなって。腹なんて減らないだろ?」
「いやいや、気分的には減るもんやて。食べたぁっちゅう気になんのが、ええんやないか」
「そういうもんか? ま、あったら寄るから、それまで我慢だな」
ウタマロは楽しそうに手を横に振って、食事を取ることを強調してきた。
まぁ、言われた通りではある。腹が減らなくても、食べると気分が良い。
そう思うと気持ち手に力を加えて、バイクを早く走らせた。
・ ・ ・
外から聞こえる音の全てが汚らわしく、俺を不快にさせていた。
鳥のさえずりも、車のエンジン音や排気音、人々の声……自分の周りに響く音が全て嫌いだった。
周りが俺を求めないなら、俺に何も押し付けてくるなと思っていた。
勝手に押し付けて来るくせに、こちらを見向きもしない。
まるで幽霊だ。いれば勝手に押し寄せて変なことを期待され、いじられる。
いなければ元々そんなものはいなかったと、誰からも気にされない。
だから俺は周りから姿を消したかった。
俺の周りには無理やり何かを押し付けてくる者達しかいない。
そんなことに耐えることはできなかった。
閉じこもっても押し付けてくるものに、窒息しそうになる。
どこに隠れても、押し付けてくる何かは消えない。消えてくれない。
それなら、自分が消えるしかない。
幽霊のような存在ではなく、本当にこの世から消える。それしかない。
そう思っていると、ある朝に目が覚めたとき、何の音も聞こえなかった。
カーテンを少しだけ開けて外を覗くと、人も車も鳥も何もいなかった。
あまりの不可思議さに自分の頬をつまんでみると、普通に痛みを感じた。
部屋から出て、朝陽が差し込んでいる家の廊下を歩き、リビングに向かう。
リビングのドアの前に着くと、体が強張った。高鳴る鼓動に手が震えさせられ、ドアノブに軽く手を掛けた。
そのまま恐る恐るドアを開けると、そこには誰もいなかった。
そこからは混乱の極みだった。家中を駆けるようにして、部屋という部屋を開けて回る。
そこには誰もいなかった。もしかしたら、自分を捨ててどこかに行ったのかもしれない……。
そう思うと、俺も周りに何かを押し付けていたことにはっきりと気付かされた。
あれだけ周りから押し付けてくるものを嫌っていた俺が、周りに押し付ける何かをしていたのだ。
そんな自分を心の底から気持ち悪く感じた。本当に消えてしまわなければならない存在だと確信もした。
込み上げてくる笑いと涙で顔を歪めていると、玄関のドアに何かがぶら下がってるのが見えた。
何かと思い涙を拭いながら手に取ると、少し大きめのカッコいいエンブレムが付いた鍵だ。
何でこんなものが……? そう思い、何気なく外に出てみると、玄関の前に大きなサイドカー付きのバイクが置かれていた。
何が何だか分からないまま、バイクに近づくと鍵の差しこみ口があったので、手にした鍵を入れるとフィットした。
そのまま鍵を回すと計器類に光が点った。このバイクは……?
よく分からないまま、バイクにまたがると何故か運転方法が分かっていた。
そのまま少しだけ乗ってみようと思い街中を走ってみた。
誰もいない街中に俺のバイクのエンジン音と排気音が響く。
その時、目の前に何かが飛び出して来た。
慌ててブレーキを掛けると、猫が目の前にいた。危うく引いてしまうところだった。
「なんやワレ! 人を引き殺す気かいな!」
猫が喋った? そのことに頭の中がいっぱいになって、何も言えなくなった。
そんな俺を猫は目を細めて、怪訝そうな感じをさせていた。
「お前……他の誰かに会わへんかったか? なんや気が付いたら、こないなことになっとたんやが……」
「あ…ああ。み、見てないし、会ってない」
当たり前のように猫が喋っていることもあって、言葉に詰まってしまった。
猫は周りを見回している。俺も同じように見回した。
「ほなら、それに乗っけてくれや。そっちの方が楽やし、お前も楽しいやろ」
「あ、ああ、良いけど……。どうしたら…良いんだ?」
「適当に走っとったら、誰かと会うやろ。ほれほれ、はよ出せ。あ、わいはウタマロや」
「あ、俺は慎司。えっと、よろしく」
そう言い、ゆっくりとバイクを走らせた。
住宅街を走っていると、ハスキー犬が綺麗にお座りしていた。
多分、置物だろうと思い、そのまま通り過ぎようとしたら、後ろから気配がした。
「おいおい! 何、いきなり無視してくれてんだよ! 何様だよ、オラァ!」
「い、いや、置物かと……」
「置物だ!? まぁ、こんなに良い男だ。彫像のように見えてしまうのも分からなくもねぇ」
ハスキー犬はすごく前向きに置物発言を受け取ってくれた。
「んで、お前はどっかに行くのか? 誰か他にいんのか?」
「あ、この猫と誰かいないかと探しててさ」
「おう、そうなのか! なら丁度いい、俺も乗せてくれや」
いきなり身勝手なお願いをされてしまった。
それに何と答えようかと思っていると、サイドカーからウタマロが体を出した。
「何でお前みたいなんと、一緒に行かなあかんねん! とっとと家帰って、黙って寝とけ」
「おうおうおう! ちっせいくせに元気があんなぁ。可愛いヤツだ、俺が兄貴分になってやるよ」
「何でワイがお前の弟分に、って勝手に乗って来んなや。狭いんじゃ、ボケ!」
必死の抵抗も空しく、サイドカーにハスキー犬が悠々と座り、その横でウタマロが嫌そうな顔をしている。
何となく、その姿が可愛くて笑みがこぼれてしまった。
「お、湿気た面しかできねぇと思ったら、マシな顔もできんじゃねぇか」
ハスキー犬に言われて、目が覚めたような気がした。
ここしばらく心から笑みが溢れて来るなんてなかった。
ネットやテレビで笑っても、どこか遠い世界の出来事で、それを嘲るように笑っていた。
でも、今の笑みはそうではない気がする。
単純に楽しかった。目の前の光景が、それを見た俺が楽しく思ったんだ。
「うっし! じゃあ、他に誰かいねぇか探しに行こうや!」
「何でお前が勝手に決めとんねん!」
「おいおい、弟分が兄貴に逆らうもんじゃねぇぜ?」
「勝手に弟分にすんなや!」
誰もいない静かな街に、2匹の言い合いと俺の笑い声が響いた。
・ ・ ・
俺と2匹以外、誰も見当たらない世界になって、もうずいぶん経った。
腹も減らず、排泄行為もいらないので、食事は不要だったが、グレゴリーとウタマロが肉と魚を所望してくる。
その度、ガイド本を見ながら、物産館などを巡って食べ物を探している。
そんな旅の中で、いくつもの文化遺産や観光スポットなどを見て回り、皆で感動していた。
俺だけじゃ見に来ることはなかっただろう。皆でどこが良いか相談しながら、色々と言い合いながら決めている。
もちろん楽しい時間ばかりじゃない。喧嘩だってするし、機嫌を損ねることもある。
そんな時に少しずつだが謝れるようになった。2匹を見習って、少しずつ変わっていく自分が分かる。
「あ~、やっぱり南国は厳しかったな。暑くてたまらなかったぜ」
「情けないやっちゃなぁ、ワイは平気やったで」
「お前は毛が薄いからだろうが! 雪国に行くのが楽しみだぜ。せいぜい震えてろ」
また横からグレゴリーとウタマロが楽しそうな言い合いをしている。
誰もいないハイウェイをのんびりと進んでいると、グレゴリーが俺を見ている。
「どうかしたか? 俺の顔に何か付いてる?」
「いや、そろそろ街に戻るなぁって思ってよ……」
看板を見ると、俺達の街までもう少しの所まで進んできていた。
何も考えずに街を出た俺達の出発地点がすぐそこにあるのだ。
「ああ……。一応、戻ってみるか? 誰かと会えるかもしれないぜ」
「…お前の好きにすりゃいい」
珍しく歯切れの悪い言葉をグレゴリーは口にした。
少し不思議に思ったが、せっかくなので出発地点に戻ることにした。
・ ・ ・
出発地点の街に戻ると、他の場所同様に静かなものだった。
スピードを落とし、ゆっくりとバイクを走らせ、舐めるように辺りを見回す。
それでも生きているものは何も見つからなかった。
「やっぱり誰もいないなぁ。まぁ、他の場所でもそうだったから、仕方がないか」
「せやなぁ。こればっかりはしゃあないな」
何かに会えるかと少し期待していたが、やはり空振りだったようだ。
それはウタマロも分かっていたのだろう。軽い口調ではあったが、寂しさも混じっている気がした。
ここで俺はウタマロとグレゴリーに会った。
そうでなければ、俺はどうしていたのだろうか……。
とても1人では、こんな世界では生きてはいけないだろう。
2匹が…2人がいたから、俺は色々なことを見て、聞いて、笑って、怒って……。
2人がいたからできたことなんだ。自分ではできないことができた。
「おい、まぁた湿気た面になってんぞぉ。ま、少しはセンチメンタルにもならぁな」
「そう…そうだな……。ここが始まりだったんだなぁ」
「始まり…だな。慎司、あそこまで行かねぇか?」
グレゴリーが指をさした場所は小さな山の中腹にある休憩所だ。
提案に頷き、落としていたスピードを上げて、休憩所に向かう。
山の上り坂を走っていると、左手に傾きかけている太陽が見えた。
夕陽なんて何度も見てきたし、ここよりももっと壮大な景色なものもあった。
ただ、何だろう……。少しだけ胸が締め付けられた気がした。
休憩所の敷地内にバイクを止めて、3人でバイクから降りる。
休憩所というだけあって、トイレと壁で囲われた休憩用のスペースがある。
あとは地面を覆っている草と、転落防止の柵があるだけだ。
さっきより傾きかけた夕陽を見ていると、また胸がきつくなってきた。
何が俺の中で起きているのか……。今まで、こんなことはなかった。
「良い夕陽じゃねぇか……。慎司にはちと寂しいかもしれねぇけどな」
グレゴリーが俺を見て、優しい声で話し掛けてきた。
寂しい……。何かが刺激される。胸が苦しくなってきた。
「まぁ、ワイらも不安やったからなぁ。ちぃと、寂しくなるなぁ……」
ウタマロが夕陽を眺めたまま、感慨深く喋った。
ワイらも? 何が……? 何で……? 俺は……。
「俺は……。俺はここに来たことが…ある。何で? 何でだ?」
自問自答をしてしまった。でも何かがあって来たんだ。
それが何かが分からない。いや、もう少しの所まで来ている。
「何だよ…、また泣きだしちまいやがって。もう慰めてはやんねぇぞ?」
「慎司は家まで泣いとったからなぁ。お前の慰めなんて意味ないんやないか?」
グレゴリーの言葉で気付いた。涙がこぼれている。
それにウタマロとの会話が頭の中を刺激する。…そうだ、ここは。
「俺は…、俺は家出してここに……。それをコリーが見つけて……」
目を見開いた。すぐに2人を見ると、2人とも俺を優しく見つめていた。
「コリーとタマなのか? そうなのか!?」
「鈍いやっちゃなぁ。もうちぃと、はよう気付くと思うとったんに」
「ま、俺達が死んでからだいぶ経つからな、仕方がねぇんじゃないか?」
俺の言葉に2人は認めるような言葉を返した。
2人が? 何で、俺の前に? この世界は?
「こ、ここは天国、それとも地獄!? 何で2人はここに!? 何があったんだ!?」
「矢継早に聞くなって。天国でも地獄でもねぇよ。何でここに来たかは、お前が死のうとしたからだ」
最初の質問の回答ではなく、次の質問の回答に驚いた。
「情けないやっちゃなぁ。死んでどないすんねん? …だからや。ワイらが来たんはな」
「だって…、どうしたら良いんだよ……。俺は…誰からも……何も……できない……」
「できない訳があるかボケェ。お前の手がワイらを助けたんやないか」
上手く言葉が出なかった。死にたいとは思っていた。
誰からも必要とされず、周りに俺という要らない存在を押し付けている。
そう思うと、生きているだけで罪悪感に苛まれた。
「慎司、お前の手が俺達を拾い上げてくれたんだぞ」
「せやせや。おかんがめっちゃ反対しよんのを必死で助けてくれたからなぁ。あんときはそこそこカッコ良かったで」
「お前の手は2つの命を救って、幸せを作ったんだぜ? 必要とされてないなんて言うもんじゃねぇ」
2つの命……。捨てられていたコリーと、自転車にひかれたタマ。俺はそれを抱きかかえて走った。
それを2人は救ったと言ってくれている。俺の手が……。
「…あの時は子供だった……。でも、今は違うんだ……。何も考えずに……」
「んなら、何も考えんで行けばええんとちゃうか? いちいち考えて、閉じこもっているよりか、何も考えんで勢いで行ってまえ」
「俺は! そんなに強くは…ない……」
タマの言葉はもっともだと思った。
でも、俺の言葉も間違ってはいない。強くはないんだ……。
「お前の手はそんなに軽くはないんだぞ? 必要とされない手じゃねぇ。お前を必要とする人に差し出す手なんだ。
強くなんかなくていいじゃねぇか。強くなっても必要とされるか分からねぇんだぜ? お前はきっと人から必要とされる」
「せやせや。泣き虫な慎司が強うなるなんて、無理な話や。…やから優しゅう手で握ったれや」
「お前の兄貴達が言うんだぜ、間違いねぇ! だから、諦めんな。俺達の所に来んのは、もっと先にしろ」
俺が拾った時は、俺より小さかったのに、いつの間にか大人になって、死んでしまった。
そんな2人は俺のことをずっと見てくれていた。…死んでしまった後も……。
「…俺はまた頑張れると思う……?」
「頑張れへんかったら、猫パンチで気合入れたるから安心せい!」
「頑張れねぇ訳がねぇよ。散歩の時に俺を無理やり引っ張って行ったじゃねぇか。根性あんだよ、慎司にはな」
2匹が…2人の兄が俺を認めてくれている。
頑張れると言ってくれている。俺をずっと見てくれていた2人が言うんだ。
流れていた涙を乱暴に手で拭って、顔を引き締めて兄達を見る。
何も言わない。俺の決意を口にするまでもなく、2人は分かってくれる。
「ええ顔やないか。そこそこカッコええで」
「ま、その感じなら行けそうじゃねぇか。慎司、またな……」
・ ・ ・
布団の中で目が覚めた。
外の世界からは人々の営みの音や、生き物の声が聞こえる。
不思議と圧迫感はない。ごく自然に、あって当たり前に感じる。
カーテンを開けると、そこには多くの命で作り上げられた世界が広がっていた。
3人で見た世界よりも、今の世界の方が綺麗に見えてしまうくらいに……。
自室のドアを開けてリビングへ向かった。
ドアノブに手を掛けた時に手が止まった。
少し手が震えているのが分かる。そんなに簡単に怖い世界に……。
でも、この手は軽いものじゃない。今は震えているし、しばらくは震えると思う。
それでも俺は2人の兄が言ったように、俺の手が誰かに必要とされるなら……。
こんなドア1枚で俺の決意を止めさせない。
ドアノブを強く握り締めて、ドアを開け、中に入る。
「…おはよう」




