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ロッシュ酔っぱらう

第二章 閉塞




7月13日


肩に、手のひらに、過去が降り積もる


後悔など許されない


消えない悲鳴や、癒えない傷が


時の経過とともに、身も心もより深く抉る


痛い


泣くことすら許されない痛みをこらえ、星明かりの下でただひとり歌う











フィーン国立図書館の分室がこのミロンズタウンにもあることを地図で知った俺は、涼しい午前中のうちにそこで調べ物をし、ぐったりと重い図書館酔いをして帰ってきた。


背の高い棚の群と、そこにずらりと並ぶ本の波と、無数の文字に酔ったからといって、不精してタクシーで帰ってきたのも大いにいけなかった。


モートン邸に滞在させてもらうことになって二日間後のこと。


俺の三半規管は完全に崩壊していた。


ここの図書館は俺にとって、その意味では強敵だった。


表現しきれない嘔吐感。


視線をずらせば、とたんに斜めに傾く視界。


それでも割れそうな痛みで麻痺しかけの脳みそをグニグ二抉るように弄んでいるヤツがいる――例の耳長ぴょん子だ。


「あ、あっ、カートレイさん、それはあの……困ります」


顔を上げて焦点を結ぶと、どういうわけか俺の鼻の先にフリアの顔があった。


わけがわからなかった。


俺はただ、地下通路があると思われるモートン邸の屋敷奥を無我夢中で目指していただけのはず。


なのに俺の片腕はフリアが背にした板目にドンッとつき、ほぼそれだけで自分の全体重を支えている。


恋の女神よ、ロマンスは大歓迎だが、きちんと時と場所を選んでくれ。


「この先へは行っちゃいけないんです。屋敷の奥の方は……」


「――すんませんね……すんげえ酔ってるんだわ俺」


俺は限界を感じながら目線を上げ、なんとか声を絞り出す。


「ア……アルコールの臭いなんかしませんけど――」


いつも冷静なフリアも、さすがに困った風に目を右に左にコロコロさせている。


「――違う違う……図書館でね――ううっ真面目に吐きそう」


「と、図書館って――あ、あ、あのっ……バスルームあっち――」


フリアの声が天への導きに聞こえる。


そこで俺の意識がふいに途切れた。


気づいたときにはホーローの便器を両腕に抱え、俺はタイルの床に膝を縮め座り込んでいた。


傍には暗藍色のスカートとエプロン。


辿るように顔を上げると、フリアが冷たくこちらを見下ろしていた。


「……俺、なんか吐きました?」


「いいえ、その前に動かなくなりました。死んでしまったのかと思ってたところです」


俺は便器に抱きついた格好のまま、ハハ……と半笑い。


男として駄目すぎなこの状況をどうしようかと考えていた。


フリアは無表情のままだったが、やがて俺の頭へ手を伸ばす。


それから豊かな胸に抱えて撫でるとかしてくれるのかと思ったら、濡れタオルをヒョイと拾い上げて洗面台でパシャパシャと冷たい水に浸した。


俺の意識が飛んでいる間に乗せたらしい。


絞られたそれが、ポンと俺の頭の天辺へ戻ってくる。


おかげで頭が痛いのも眩暈もかなり楽になっていた。


俺はタオルを手に取り、顔を拭いてから丸めて額に当てた。


「……バスルームがどうのこうの言う君の声が最後に聞こえたけど、それきり覚えてない」


「わたしが抱えて運びました」


さらりと言ってのけたので、俺はフリアの言葉を聞き流してしまうところだった。


が。


「君が抱えて? 俺を?」


「ええ」


「ここまで? ……ってここどこだっけ?」


「カートレイさんのお部屋にあるバスルームです」


よく見ると、確かに洗面台には髭剃りや歯ブラシが、俺自身の法則に従って雑然と並んでいる。


その腕で? と俺は彼女の半袖から伸びるたくましいとは間違えても言えない腕をしげしげと眺めてしまう。


「力持ちなんだね」


固まりきってない脳みそでは、そんな言葉しか思い浮かばなかった。


が、実際、俺は彼女の腕力に感服していた。


彼女の体重が五〇キロもあるなんて思えないから、自分よりもはるかに重い俺を抱えて螺旋階段を上がり、三階の通り側にあるこの部屋まで運んでくれたことになる。


「サー・モートンを介助することもあります。それができなくてはここでは勤まりません」


「ああ……まあそうだろうね」


妙に納得して、俺は腰をずらし、便器から離れて壁際に座り直した。


「もう平気だよ、付き添ってくれてありがとう。少し休んだらひと眠りして……そしたら酔いも醒めると思うし」


「こんな昼間から泥酔なんておかしいです。ましてや図書館でお酒なんて、やっぱりあなたは変わってます」


心底迷惑そうに彼女は言った。


静かにではあるがフリアは激しく怒っていた。


無表情な中にも僅かな感情が垣間見えたことに、俺は少し驚いた。


「確かに俺は馬鹿だけど、図書館で酒を飲むほどぶっ飛んじゃいないさ」


「さっきはそう言ってました」


「酔いは酔いでも『乗り物酔い』の方だよ。ものによるけど映画なんか見てても酔うことがある。今日のは不覚だった……つい図書館に長居してしまって気づいたときには指の先が痺れて気分が悪くなってた。それでタクシーに乗ったらこの通り」


「よほどの重症者ですね」


フリアは言った。


図書館とモートン邸とはタクシーで僅か五分の距離だ。


同情してくれているわけでもなさそうだ。


「抗ヒスタミン薬が戸棚にあったと思いますが、お持ちになりますか?」


医者とでも話しているような淡々とした彼女の物言い。


心地良いような悪いような、彼女といると必ず感じる妙な緊張がその場にあった。


俺の酔いは、そんな中で確実に醒めつつある。


「いや、酔い止めの薬ならバックパックのポケットに入れてあるんだ。今日はまさか酔うほど図書館に長居するとは思っていなかったから、持ち歩いていなかっただけで」


「そうですか」


フリアはこくりとうなずく。


マネキンのようだが、やはり綺麗な女だ。


「そういやフリア、この部屋、鍵が掛かってただろ?」


「はい。カートレイさんのポケットの中に鍵があったので、それで開けました。マスターキーを取りに行っている場合じゃないと思いましたので」


「……そう」


屋敷に各部屋のマスターキーがあるのは当然だ。


居座らせてもらっている身であっても、やはり次からはバックパックを持ち歩こうと思った。


「で、鍵は?」


「ポケットに戻しておきました」


「……ああ、本当だ」


ズボンのポケットに手を入れると、使い込んだキーケースの革の感触に当たる。


「あの――カートレイさん」


「はい?」


唐突に呼ばれて俺は顔を上げた。


「最初にご案内した時に言ってあったと思いますが、お屋敷の奥の方へは近づかないでくださいね。このお屋敷の裏手からは地下から有毒なガスが上がっていますから。こないだの嵐の後で、大きな音がしたと思ったら裏手の石壁が崩れたんだそうです。ご近所の方が教えてくれました。有毒ガスが爆発したんです」


フリアは俺が屋敷奥の写真を撮ったことを知らない。


どれもこれもモートン氏の計らいで、地下通路やあの得体の知れない壁から他人を遠ざけようとしている。


ましてやモートン氏は接触してきた元カメラマンがフリアに惚れかけていると考えているから、彼女の言動が予防線になり得ることも承知のはずだ。


俺は鼻で笑ってしまいそうになった。


『有毒ガス』


初日に彼女の口から聞いたときは、本当に噴き出してしまった。


そんなわけがあるか。


俺は屋敷の裏に開いた穴に手を突っ込み、地下通路の写真を撮り、何事もなく生還したんだ。


くだらないことを信じ込まされている彼女が不憫でたまらない。


「屋敷の奥へ近づいたって死にゃしないよ、俺は図書館酔いで死にそうになってただけさ」


「はぁ――ですがサー・モートンは何度も厳しくわたしに忠告しました。みなの身を案じているのです」


「『サー・モートン、サー・モートン、サー・モートン……』――ああそうさ、屋敷にいる人間の身を心底案じる心清らかな優しき爺さんだろうよ、あのお方は」


「わたし今、あなたに激しく敵意を抱きました」


「敵意だらけだよ。正直いってここは」


ここは、というかこの街は、というか。


なにに、という具体的なものに対してというより、漠然とした敵意のようなものが外側へ向かって滲み出ている。


親切な、優しい素振りで出迎えてくれる古きよき街を装ってはいるが、秘密を内包した緊張感と、それに触れようとする者に対する歪んだ敵意に満ち満ちている 。


「あ、そうだ。それで思い出した。ひとつ訊いても?」


「なんでしょう」


フリアは小さなため息を交える。


敵意であれなんであれ、感情を見せ始めたのはいい兆候だと思う。


この先なにかがどこかで違えば、拍子が外れて楽しいことになってくれるかもしれない。


「この街の図書館へ行っても、街の中心部に関して書かれた本が一冊もないんだ。やっぱりセントラルタウンにあるフィーン国立図書館まで足を伸ばさなきゃだめだろうか」


「無駄だと思います」


するりとフリアが言う。


「無駄?」


「国立図書館へ行っても、そういった本は一冊もないからです」

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