銀狼
*
「目的が果たされた時点で一万二千ペナだ」
「まぁ、いいでしょう。わかりました」
バナードより数百キロ北方。
フィーンの一都市、グレナン。
そのとある邸宅の一室で、ソファに着いたふたりの男が向き合っている。
ひとりは体つきもがっちりとしていて風格があり、齢五十は越えていると思われる堅苦しいスーツ姿の男。
もうひとりはずっと若い二十代前半とみられる男。
こちらは金ともプラチナともつかぬ色の長い髪を後ろでひとつに束ね、ジャケットもズボンも月影に潜む狼毛を思わせる深い灰色。
ネクタイ代わりにサファイアのリングを通したスカーフをつけ、背が高く、切れ長の二重瞼の奥では、夢の世界から取り出した青き宝玉を思わせる瞳が静かに相手の動作を窺っている。
「ここに前金として六千ペナある。確かめてくれ【銀狼】君」
「失礼します」
【銀狼】と呼ばれた若い男――ファーディン=ロレスはセンターテーブルに差し出された封筒を恭しく手に取り、封のされていない口から中のものをするりと引き出した。
彼の手の中で瞬く間に新札が扇状に広がり、慣れた手つきで次々と枚数が数えられていく。
――穴が開くほど見るなよな、くすねたり誤魔化したりするわけがないだろうに。
シャンデリアの明かりはやわらかく、さもあたたかそうな色合いに調整されている。
が、葡萄茶に統一されたこのどっしりと落ち着いた雰囲気の応接室にはもちろん、その向こう側の廊下にも他に人がいるような気配は感じられず、見た目以上に寒々とした印象の大邸宅だ。
事情が事情なだけに、窓もカーテンも閉め切られている。
監視カメラぐらいどこかにしかけられているだろう、とファーディンは思ったが顔には一切出さなかった。
「確かに。――ではお引き受けいたしましょう」
「交渉成立だ」
ファーディンが札を封筒へ戻し、上着のポケットに収めるのを満足して眺めながらスーツ姿の男はうなずいた。
男は大手貿易会社フィートラスコーポレーションの社長、タルド=フィートラスであった。
「これが愛娘、ティリアナだ。行方がわからなくなってから一年ほど経つ」
タルドは一枚の写真をファーディンに差し出す。
受け取ったファーディンは写真を眺めた。
写っているのは、亜麻色の髪を緩やかに伸ばした美しい女だ。
見た目はファーディンよりも年下。
二十一、二といったところか。
「通っている大学には強引に嘘の留学申請を出し、周囲には娘の家出を気づかれないようにしてきたが、もう限界だ。探偵の友人に頼み込んでみたが、『こういった失踪事件は解決までに時間がかかる場合が多い。娘の身を案じるならば我々のような探偵を頼るよりも腹をくくって警察に届け、一刻も早く写真をマスコミに公開して目撃情報を募った方がいい』、などと抜かした。マスコミに騒ぎ立てられるなど、断じて御免だ。当然、その友人とは縁を切ってやった」
「残念ですが、よくある話です」
ファーディンは事情を理解している。
世界のフィートラスコーポレーション。
その社長令嬢が行方不明となれば、マスコミが群がり大衆の娯楽さながらに仕立て上げ、結果、あらぬ印象を会社に与えないとも限らない。
関係者としてはたまったものではない。
「その探偵の友人が、以前、自分たちの仕事の邪魔をする《ブラック・ドッグ》という探偵まがいの秘密組織がある、と言っていたのを思い出し、わたしは金も時間も惜しまず部下に調べさせた。数週間後、わたしはかつて《ブラック・ドッグ》の所属員であった人間との接触をようやく果たし、彼の伝手で君を紹介されたわけだが――」
タルドは渋面を隠そうともしない。
テーブルに出された紅茶の杯に口をつけ、飲み下す。
「部下は腕を一本骨折し、全身打撲で身動きがとれなくなって入院した。まったく君たちは不吉な組織だよ」
立ち上る紅茶の湯気から目を上げ、ファーディンは苦く頬をゆがめる。
「《ブラック・ドッグ》はただの探偵事務所ではありませんよ。誰を通じてあなたが僕に接触してきたのか、だいたい想像はつきます」
交流のある人間がファーディンには限られている。
何人かの顔が思いうかぶが、今はそのことが重要ではない。
実際には、所属員同士が互いの顔すらろくに知らない。
「僕が知る限り、高額報酬に見合うだけの腕の確かな者ばかりです。所属員同士で情報を共有することには、ご承諾いただけますね?」
「やむを得ない。信用せねばなるまいな」
「そのために僕は呼ばれたと自覚していますが」
ファーディンは念を押しておく。
拒むならば、警察でも私立探偵でも頼ればいいからだ。
「もちろんだ。そういえば数ヶ月前に、経済界の暴君ギリス=シャンは公演中に心筋梗塞で亡くなったのだったな、ダルファシオ工業の買収を控えた重要な時期に」
タルドの鋭い目がファーディンを捉える。
「それは牽制ですか」
ファーディンは余裕の笑みを返すだけだ。
タルドのような顧客の心理がわからないわけではない。
土壇場で恐れをなし、契約を打ち切る客もいるくらいだ。
「こちらも本気ということだ。それ以上君たちの組織に関わる気はない。わたしも命は惜しい」
会談の後、ファーディンはティリアナの部屋を見せてもらうことにした。
邸宅の三階部分にあるティリアナの部屋には、警察関連の本や士官学校の資料などが大量にあり、ティリアナの正義感の強さと、親への反発が窺える。
一方で、フィートラスコーポレーションが商品のひとつとして扱う天体義や天体望遠鏡の類、経営や経済についての本も置いてあった。
それらの品はティリアナ自身が求めたものかは定かではない。
名家の呪縛とも受け取れる。
ティリアナの部屋を見てわかったのはそれだけだ。
日記やメモの類も見当たらない。
邸宅を出たファーディンは、使用人の案内に従って巨大な庭を抜け、閑静な通りを歩く。
依頼はただの人捜しだ。
しかし捜査の難航が予想された。
「なあ爺さん、彼女見つかると思うかい?」
そんなことを呟き、彼はズボンのポケットから取り出した小瓶を陽の光に晒した。
期待したような返事はなく、小瓶の中では青い液体がたぷんと揺れただけだ。
しかたなくファーディンは小瓶をポケットへと戻す。
端からではこの奇行も、小さなお守りに願かけしたくらいにしか見えなかっただろう。
それから目についた電話ボックスに飛び込み、早速仲間を呼び出す。
《ブラック・ドッグ》の所属員は、たいてい自宅にはいない。
けれど暗証番号との組み合わせで転送され、留守時には呼び出し専用の小型携帯用受信機を鳴らすことができる。