別に、脅しじゃないですよ
運ばれた茶をすすりながら五分以上が経過した。
俺は腕時計を見て、モートン氏を見る。
破裂しそうな緊張感。
目の前に座る老人は、今にも失神しそうな顔をしている。
――言葉も出ないってやつか。
作戦でもなんでもなく、少し本気で俺は心配し始めていた。
本当に失神されてしまっては、ここまで来たのがただの無駄足になる。
それではつまらない。
「……いいだろう、では話の続きを」
モートン氏は別人のように低い声で話し出す。
「恐れ入ります」
俺は暢気を装い、紅茶を口に含んだ。
「君は本当に元カメラマンでしかない男かね」
「そうですよ、他になんだというんです。まさか国際保安局や検察局の連中だとでも?」
冗談半分に畳みかけると、モートン氏は露骨に震え上がってくれる。
「――いいや、念のため確かめただけにすぎん。わたしの噂話をしていたのは何人だ。名前は」
「二人……だったと思います。名前なんかわかりませんよ、顔だってよく見ちゃいません」
「そうか……」
モートン氏は一気に十も年を取ったように見えた。
茶碗を受け皿へ戻し、両手をソファの上へと投げ出す。
「それで君の望みはなんだ」
「望みだなんて大袈裟です。僕は別に脅迫しているわけじゃありませんよモートンさん。ただこのお屋敷と街の中心にあるものとの関係がわからないので、なんなのかを知りたいだけです」
「単なる好奇心か」
「ですね」
俺は頷いた。
「ならばこの話は噂話もろとも忘れてもらおう」
「しがない外国人旅行者個人の好奇心じゃなかったら、相手にしてくれるんですか」
「噂話は噂話だ。君の好奇心を満たせるようなものはなにもない」
「そうでしょうか」
俺は傍らからバックパックを拾い上げ、用意していた茶色い封筒を中から取り出した。
「別に、脅しじゃないですよ」
断ってから封筒を開き、中身をテーブルへ広げる。
モートン氏の顔からますます血の気が引いた。
「――こ、これをどうやって」
俺と老人との間には、崩落した石壁と地下通路の写真ばかりが十近く並んだ。
「このお屋敷の裏で撮りました。石壁の崩落で、地面に穴が空いたんです」
「確かに昨日、屋敷の裏で騒ぎがあった……越えたのかね、立ち入り禁止の柵を? そのとき君は、石壁のところに――」
「厳密に言うと、歩いていた僕の目の前で石壁の崩落が起こったんです。心配はいりませんよ、穴は塞いでおきました。もし駆けつけた消防隊や警察官に見つかっていれば、すでにあなたは事情聴取されているでしょう」
モートン氏の表情は、怒りと安堵の狭間で定まらない。
「街の人に訊いても、中心にあるのは曰くつきの古屋敷だということくらいしか返ってきません――で、なんなんですこれ」
俺は地下通路の写真を指した。
古屋敷側の通路奥に写る壁面を、特に強調した。
「とぼけても無駄だということか――君がわざわざ屋敷のドアを叩きわたしに会いに来た理由がわかったよ。噂話だけを根拠に訪ねたところで、普通は帰されるのがオチだ。そんなことは取材の仕事をしていれば山と経験しているはずだものな」
「すみませんが、その通りです」
俺は恭しく頭を下げておく。
突然の訪問に劣勢だった俺だが、この場では優勢に転じた。
隙は見せられない。
会社の後ろ盾がない分、一個人では失敗もしやすいが、無茶もしやすい。
「――いくらだ。この写真もネガも全て買おう。金なら出す」
モートン氏はいくぶん気を持ち直したのか、ハッキリとした口調で言った。
「さっき言いましたよ、脅しじゃないって。僕はこれがなんなのかと訊いてるだけなんです」
「それは君にそんな気がないだけだ。わたしにとっては――いやいいんだ。ともかく写真とネガは全て買う。そして全て忘れてこの街を出て行ってくれ」
おどけて俺は口を鳴らしてやった。
「ここで金に換えるつもりはありません。どれもよく撮れてるし、もっと別の使い道があります」
「別のとは……」
「こういうのを好みそうな人間は世の中に大勢います。雑誌社へ送れば金と仕事が舞い込んでくる。僕にとっては好都合です」
モートン氏は首を横に振った。
「そ、それだけはやめてくれ!」
「世間に広まるのがそんなに『マズい』ものなんですか? いったいなんなんです僕が撮ったこの地下通路と薄気味悪い壁は。街の人はともかくモートンさんならおわかりなんでしょう?」
「話すつもりはない」
「そうですか、わかりました」
俺はササッと写真を片づけ始める。
「ま、待て! 三百ペナ出す」
「ここでは金に換えないって言ったでしょう」
「三千……いや、六千ペナだ! 一万でもいい、いくらだって積む!」
「ちょっとモートンさん落ち着いてくださいよ」
座っていながらモートン氏の足は震えていた。
俺が言った言葉もまるで耳に入っていない。
だから脅しじゃないって言ってるのに。
「――ここに映っているのは、君の未来だ。暗く危うい通路、人々から忘れ去られた古壁……立ち入り禁止の柵を越えてしまった君の、まさに象徴、顛末だよ。それ以上のことは言えん」
「わかりました――」
俺はまた写真を片づけようと手を伸ばす。
しかしそれをピタリとやめた。
「モートンさん」
「なんだ」
すっかり怯んでしまった気の毒な老人は恐る恐る視線を上げる。
「写真もネガも全て譲りますよ」
「本当か!」
モートン氏の表情がパッと明るくなった。
「その代わり、僕をこの屋敷に滞在させてください」
明るかった老人の表情が、そのままの位置で固まる。
「滞……在だと?」
「金は一セティも要りません。しばらくの間、僕を泊めさせてください。それが条件です」
「そんなことでいいのか――いったいなにを企んでいる。まさか君、《ブラック・ドッグ》じゃないだろうな」
「《ブラック・ドッグ》? なんですかそれ」
初めて聞く言葉に、俺の好奇心が反応した。
「――世の中には《ブラック・ドッグ》と呼ばれる金持ちしか客にとらないなんでも屋がいる。人助けだなどと言って人に相談しにくい物探しなんかを請け負うが、条件さえ合えばなんでもやる連中だ。君の行動が巧妙且つ鮮やかなので、誰かに雇われた者ではと疑っただけだ」
俺は笑ってしまった。
「僕は元カメラマンだっていうだけの旅行者で、写真を撮りながらもう少しバナードに滞在したいだけです。何年もなんていいませんよ、観光ビザだって三カ月で切れます。モートンさんはこの写真とネガを手に入れる、僕はこの旅の足場になる寝床を手に入れる――互いに得です」
モートン氏は低く唸って黙り込んだ。
宿は清算済みで、早速今夜の寝る場所がない。
俺はただ答えが返ってくるのを待った。
「――こちらからも条件がある」
「なんでしょう」
「二度と立ち入り禁止の柵を越えぬこと、この件に関しては一切口外しないことだ」
なんだそんなことか。
「構いませんよ、約束します」
「ネガはどこだ」
「焦らないでください、ここに――」
俺はバックパックからもうひとつ封筒を取り出してモートン氏へ差し出した。
モートン氏はひったくるようにして俺の手からそれを奪い、中身を掻き出して窓からの光に透かして間違いなくその物かを確認している。
「これで全部か。予備に写真の焼き増しなどしていないだろうな」
「ええ、他にはありません。用心深いんですね」
モートン氏は俺を睨むようにして立ち上がった。
そして全ての写真とネガを抱えて暖炉のところへよたよたと歩いて行き、灰へと投じる。
暖炉の上に置いてあったマッチを擦り火を近づけると、写真もネガも煙を上げて燃えていった。
「――部屋はフリアに用意させる。彼女に訊いて使いやすい部屋を選ぶといい」
「ご親切に感謝いたします」
大きな屋敷に老人とうら若き女が二人きり。
部屋なら選び放題だろう。
「ふむ、ものは考えようだな。君が他へ売ったりせずに、真っ先に写真をここへ持ってきてくれてよかったよ」
モートン氏はそんなことを言って自分を慰めながら、キングサイズのベッドへと歩いていく。
「手を貸しましょうか」
「いいや、構うことはない。少し休めば楽になる」
老人はベッドによじ登ると、膝をさすりながら呼び出しボタンを押していた。
こうして俺は、ラヴィ=モートンの屋敷にしばらくの間居座ることになった。