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小間使いの女

建物と建物の間。


――この隙間を抜ければ、この街の秘密に近づけるかもしれない。


むき出しの好奇心ばかりを胸に抱え、鉄柵を越えた俺は通りへと飛び出した。


地下通路が繋がっていると思われる建物の正面へと回り込んだ。


「え……」


呻き声のようなひとり言を吐いて、とたんに俺は立ち尽くす。


石造りの基礎。


その上の中二階のような位置へと階段が続き、玄関がある。


赤茶色の外壁に真っ白な枠のついた窓が二〇は並んでいる。


石造りの基礎だと思っていた部分は、半分近くが地面に埋まった地下室となっているらしく、勝手口へと続く簡素な階段が設けられていた。


この街では珍しくもない昔の造りの、“豪邸”といえそうな 建物だが。


特別でもなんでもない。


でかい、普通の家――だ。


バックパックの肩かけが、片方ズルリと腕の半分ほどまで滑り落ちた。


ハッと我に返る。


空白となっていた俺の頭が、景色の中でふいに動くものを認識した。


ギィ……


古めかしい音を立てながら、小さな勝手口が開く。


無意識に手でカメラを背中へ押しのけ、俺はバックパックの肩かけを正した。


中から出てきたのは、地味な服装をしたスラリと背の高い女だった。


俺は改めて自分の目を疑った。


格好からしてこの家に仕えている小間使いらしいが、どう見ても自分と同じくらいの年にしか見えない。


この街にこれほど不似合いな女もいない――というか、今朝から歩き続けて自分と同じ年頃の人間を見かけなかったのはたまたまだったんだろう。


階段を上がってきた彼女は、俺の姿に気づいてほんの一瞬だけ足を止めかけた。


ほとんど黒といえそうな藍色のワンピース。


その上に重ねたエプロンは純白で、胸当ての部分は華奢な体つきの割に膨らみがよく、腰紐が蝶々結びにされている。


頭には結った髪を収めたフリルつきの白い帽子を被っていて、そこから覗く前髪は魅惑的な栗色。それらの情報が目に飛び込んできて、たちまち俺は自身に警戒信号を放った。


こんな状況じゃなければ、つい二、三言声をかけてしまいたくなる、あいにく俺の好みのど真ん中を突くタイプの女だった。


あんな実用性ばかりを重視した服ではなく、胸元を強調した流行りの服を着せたらどんなに似合うだろうか。


薄化粧でも決して景色に霞んだりしない美人だった。


警戒心が伝わってしまったのか、小間使いの女の方も疑わしげな表情でこちらを窺う。


けれど彼女はそうしただけで俺に背を向け、手にしていた木のバケツから柄杓ですくった水を階段脇の小さな垣根へ撒き始める。


この小間使いの女にあの地下通路や、そこから繋がっているらしい正体不明の建造物について尋ねてもたいした答えは返ってこないだろう。


これまでの経験から俺はそう考えた。


さっきの「やぶ蚊」カメラマン的な俺の動作も捨てたものではなかったが、取材を申し出るには不審者扱いされてはやりにくい ……取材――取――。


……おい、待てよ――俺にはもう仕事なんてないんだぜ?


二十三歳にして無職。


この気ままな旅が終われば、貯金を切り崩しながら仕事を探さなくてはならない。


これまでとは違う居場所を見つけなければならない――そんな退屈な日々が待っている。


想像すると、火照るような熱も、悪癖ともいえる発作的な病状も静かに引いていった。


今一度、豪邸を見上げる。


俺は息をつき、踵を返して彼女と豪邸を背に通りを歩き始めた。


旅先での恋だって自殺行為だ。


最初はよくても、終わりも近い。


旅行日程と平行するカウントダウン。


「また会いましょう」の約束が永遠の別れの言葉になる。


自己満足の写真と筋書きを持って、自分は没書ごっこでもするつもりだったのか?


どうせ。


どうせその程度だ。


経験不足で神経をすり減らしていただけの昔の自分とは違う。






けれど、翌日。


俺は前日に撮った写真をバックパックに収め、再び豪邸の前へ立っていた。


昨日、あれから俺はミロンズタウンを徘徊し、狭いバスルーム付きの部屋がある宿になんとかありつけた。


そして晩のうちに現像を終え、大満足でビールの栓を抜いた。


崩落した石壁も、フラッシュ撮影したあの地下通路も思った以上によく撮れていた。


地下通路といってもたいした造りではない。


壁や天井を柱と板で一応は補強しているが、それだけだった。


床から天井までは二メートルもないだろう。


古いし、ひどくぞんざいな造りだから、崩落の衝撃で天井部分が崩れたらしい。


地下通路の奥は壁のようになっていて、その先がよくわからない。


俺の予想どおり、地下通路は豪邸から曰くつきの古屋敷まで真っ直ぐ伸びている。


その発見だけでも十分だ。


おかげで考えが変わった。


屋敷を訪ねて取り合ってもらえなければ、この写真を使う気でいた。


この街の人間ですら近づこうとしない領域に、俺は足を踏み入れてやったんだ。


我が儘な旅ついでの、ほんの小さな寄り道だ。


勝手口を窺ったが開く様子はない。


俺は正面階段を上がり、重々しいノッカーでドアを叩いた。


カツカツカツ……


反応がない。


待つ間、暇つぶしに青い空を眺めてみる。


鴉が真っ黒い羽根を羽ばたかせて横切る。


背後を車のエンジン音がひとつ通り過ぎていく。


カツカツカツ……


やはり反応がない。


留守だろうか。


そう思ったとき、ドアの横に呼び出しボタンがついていることに気がつく。


なんだこっちか、と思い直し、そちらを押す。


ジリリッと古い目覚まし時計のような音が外にまで聞こえ、もう少し待ってみることにする。


やがて、重みのある音を立ててドアが開いた。


出てきたのは昨日の小間使いの女だ。


「はい、どちらさまでしょうか」


淡々とした口調で応対した彼女は俺と目が合ったとたん、「あ……」というような顔をした。


昨日の件でこちらの顔を覚えていたんだろう。


彼女の瞳は、灰色がかった緑色をしていた。


「はじめまして。僕はカメラマンをしていた者で、名をロッシュ=カートレイといいます。こちらの御主人からちょっと面白い話を聞けると聞いて訪ねて来ました。突然ドアを叩くのも失礼かと、散々迷いはしたんですが……」


遠慮がちに俺は嘘の説明をした。


追い返されてしまえば、それまでだ。


「……そうでしたか。かしこまりました、主に取り次いで参ります。どうぞ中にお入りになってそのままお待ちくださいませ」


彼女の声は先ほどと変化がなく、あまり感情が込められていない。


こうして接してみると、身長一七三センチの俺とわずかしか目線が違わない長身の女だ。


高いのは背丈だけで彼女の物腰は低い。


丁寧にもかかわらず、表情に乏しくてニコリともしないのでなんだか機械的でもある。


いい女なのにもったいない。


今いち残念な心地のまま、俺は玄関のドアを背にただひとりぽつんと取り残される。


廊下には、長く長く厳かに続く総柄の絨毯。


高く造られた天井からはところどころにクリスタルの照明が吊り下げられている。


俺の目に狂いがなければ、どれもが大変高価だ。


俺は口を開けたまま、しばしその光景に見とれてしまった。


いったいここの主は何者だ――?


それからたっぷり一〇分近くも待たされ、小間使いの女が階段から降りてきた。


「お会いになるそうです。サー・モートンはこのところお体の調子が芳しくありません。応接間まで降りて来られそうもないとおっしゃっていますので、四階の寝室へご案内いたします」


主はモートン氏というらしい。


「ええ、お願いします。すみませんね、事情も知らずにいきなり押しかけてしまって」


「そういったことは主に直接お話ください」


「――はあ、そうっすよね」


…………自棄は禁物だ。


彼女は先導して歩き出す。


俺は片方の肩にバックパックを引っかけ後へ続く。


まもなく見えた階段はゆったりとカーブを描く美しい螺旋だった。


吹き抜けになっている天井を見上げ、俺はまた口を半開きにしていた。


「見事な屋敷だ」


「サー・モートンはとても立派なお方です」


黒い紐つき靴をコツンコツンいわせながら、彼女は螺旋階段を上がっていく。


「なにをされてる方なの? ……ああいや、もちろん立派な方だっていうのは僕も話に聞いていますが」


二段ほど遅れて彼女の後をついて行きながら、俺はまた嘘をついた。


質問をした俺を彼女は不審そうにチラリと振り返り、すぐに前へ向き直る。


「体の自由が利いていた頃は、病院の理事長をなさっていました」


「へぇ、この街ならさぞかし繁盛したでしょうね」


「どういう意味でしょう」


「いや、ご老人ばかり多い街だから病院と葬儀屋は儲かるだろうなって」


冷たい視線が降りかかる。


階段ホールの壁にずらりとかけられた油絵の人物たちにも、同じ目を向けられた気がした。


「サー・モートンはこのバナードに三つの大きな病院を建てられた偉大なお方です」


「それはたいそうなことで。……で、今はなにを?」


「現役を退かれて、持病のリウマチのため自宅療養中です」


「君はずっとここで?」


「いいえ、今年の四月から雇われ住み込みで働かせていただいております――あの、それはあまり関係のないお話だと思うのですが」


「あ、あぁ、まあそうだね」


俺はハハッと笑って誤魔化す。


ついつい出っ張り過ぎた。


階段を上りきったところを右手に折れ、突き当たりにある部屋のドアまで来て彼女は立ち止まった。


四階といっても玄関がすでに中二階のような位置にあるため、実際には二つ階段を上がるだけで到着し、そこが最上階になっていた。


位置的には表通り側の部屋ということになる。


「こちらがサー・モートンの寝室です。なにかございましたら、ベッドのところに呼び出し用のボタンがありますからお呼びつけくださいませ」


「ご親切にどうも」


女は無表情のままドアへ向かい、そしてノックをした。


「モートン様、お客様をお連れいたしました」


「通してくれ」


中から低くかすれた老人の声が返ってくる。


彼女がノブを回し、俺は「失礼します」と断ってから足を踏み入れた。


屋敷に見合った豪華な寝室で、キングサイズのベッドを中心に重厚な雰囲気を漂わせる調度品が部屋を囲っている。


厳つい顔をした白髪白髭の老人モートン氏は、ベッドの上ではなく大きな窓向きに置かれたソファのところにいて、杖を片手に濃い血のようなガウン姿で立っていた。


「はじめまして、ロッシュ=カートレイと申します。お会いできて光栄です、サー・モートン」


「わたしがラヴィ=モートンだ、『サー』などつけられては大げさだよ。カメラマンだと聞いたが?」


氏はがっちりとした体型と厳格そうな声の割に優しさを感じさせる言い方で訊いてくる。


「『元』です。バダコのケンプリードで雑誌の仕事をしていました」


「よいところだよバダコは」


「いらしたことが?」


「若い頃に何度かね。今では海外旅行はおろか、今日のように自分の屋敷の応接間へすら行くのが難儀だ。フリアから聞いたかな、リウマチで膝が病んでね――まあ、その大きな荷物を置きなさい。わたしも少々退屈をしていたところだ」


思いがけなく小間使いの女の名前を知ることが出来た。


フリアというらしい。


「恐れ入ります」


俺はモートン氏に勧められるがまま、荷物を降ろしてソファへ腰を沈めた。


予想外の穏やかな展開に、俺は内心で大はしゃぎする。


「フリア、茶を頼む」


小間使いのフリアは小さくお辞儀をすると、やはり味気ない動作で寝室を出て行った。


もうちょっと、こう……なんだなあ――ああ、本当にもったいない。


「いい女だろう?」


「ええ。――あ、いや、そういうんじゃ」


慌てて答え直した俺の顔を見て、モートン氏はガハハハハと豪快に笑った。


背が高く、全体的に造りがでかいから笑いもでかい。


「この春から住み込みで使ってる。若いのは働きがよくて助かる」


「そうなんですってね。さきほど彼女から聞きました」


「手が早いな」


モートン氏はなんとも意地の悪いお方だ。


「仕事の癖が抜けなくてつい。小さな会社で、カメラマンとはいえ時には原稿だの接客だのなんでもやらされてたんです。けれど彼女に訊いたのはそのことくらいです」


「冗談だよ。今なんかどこもそんなもんだろう、不景気だしな。そして仕事人はたいてい口が巧みになる。医者でさえそうだ。わたしが現役のとき、セントラルタウンで女性の患者を三桁落とし、六度結婚し、腹違いの子を二十三人作って医者を定年退職した男がいた。定年後は紅茶屋をやる傍ら小説を書いている」


「嘘でしょ?」


耳を疑いたくなる話だ。


モートン氏はただ、フフフフと笑っている。


頷くか否定するかしてくれよ、と俺は突っ込みたくなった。


「それで君はなにをしに来た? わたしから面白い話を聞きたがっているようなことをフリアは言っていたが」


「はい、おっしゃる通りです」


「どんな話を聞きたいのだね。さっき話した医者のような話なら山ほどあるが、わざわざ訪ねて来てまで聞くような話だろうか。君は仕事を辞めたというし、取材でもないのだろう?」


モートン氏は疑うような目つきをした。


「もちろんです」


「見ての通り、わたしは別段面白いところもなにもなく、物には困っていないがつまらない隠居生活を送っている独り身だ。いったい誰がそんなことを君に吹き込んだのだね」


「実は、たまたま酒を飲んだ店で隣合わせた客が、モートンさんとこちらの豪華なお屋敷について話していたのを耳にしたんです。店の名前は忘れました。フラリと入った店でしたから」


俺の陳腐な作り話に、モートン氏の顔から笑みが消える。


俺はそこに微かにではあったが重要なきっかけを掴んだ気がした。


不自然な沈黙がサッと過ぎる。


「大丈夫ですか、モートンさん。膝が痛むのでは?」


「……いいやそうでは」


「お加減が悪そうですよ――もしかして、モートンさんやこのお屋敷の噂話をされるとなにかマズいことでもあるんですか、顔色がよくありませんね」


モートン氏は唖然とし、言葉をなくしてしまった。


俺は想像力を働かせる。


あの地下通路は、やはり誰かに知られては『マズいもの』らしい。


事実、噂話ごときでこの老人は怯えている。


立ち入り禁止の看板がかかった鉄柵の向こう側。


足を踏み入れる一般人などまずいない。


あんな場所に地下通路があることを知るのはおそらくモートン氏と、俺と……。


あのフリアという小間使いの女でさえこの春から屋敷に来たというから、知っているかどうかあやしい。


「……カートレイ君といったか。君はカメラマンの仕事が嫌になって退職を?」


なんのつもりか。


モートン氏は話を逸らしてくる。


「いいえ、カメラは好きですよ。今もたぶんこれからも。口で喋るよりずっと的確です」


それは本心だ。


目に映る景色だけじゃなく、心中でさえ、俺は写真の方が言葉よりもずっと的確に人へ伝えられると思っている。


写真でなら相手の心を動かせることもある。


「どんな写真を撮るカメラマンかは知らないが、君の取材は優秀だったことだろう。それで」


モートン氏の瞳は宙を行ったり来たりしてまるで落ち着きがない。


「いったい店ではどんな噂話を?」


続きが聞きたくてたまらない素振りで、モートン氏は汗の吹き出た額の始末に困っている。


ここまでひと息に老人を追い詰められるとは思っていなかった。


俺は若干、作戦を修正した。


「街の中心を囲う鉄柵の向こうに――」


「待て」


モートン氏は手のひらを見せて静かに言った。


「なんですか」


「フリアが遅い。喉が渇いただろう」


喉がカラカラなのは、俺よりあなたの方だろうに。


モートン氏は杖をつきながらベッドのところへ行き、呼び出しのボタンへ手を伸ばしかけた。


「構いませんよ、僕は待てます。それより話を……」


「間もなく茶を運んでくるはずだ。続きはそれからにしよう」


それから一分も数えないうちにフリアが紅茶を運んできた。


モートン氏は青ざめながら「時間がかかりすぎだ」とぶつくさ文句を言い、ひどくイライラしていた。


驚きながらもフリアが気遣ったが、あっという間に追い返されていった。


悪いねフリアさん、と俺はドアの向こうへ消えていく細い背中を見送りながら心の中でひとこと謝っておいた。

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