穴
俺は買ったばかりのサンドイッチを早速パクつきながら、のら猫しかいない通りを渡り、さらにひと気のない建物と建物の間へふらふらと迷い込んでみる。
建物の外壁には、窓らしい窓もほとんどない。
サンドイッチは雑貨屋のお婆さんに勧められたとおり、自分好みで美味かった。
鳩ハムの方も一緒にオレンジの皮が挟まっていて香りよく、野菜との取り合わせが絶妙で美味い。
あっという間に二つを平らげ、道とはいえない狭い場所で足を止める。
指を舐めつつ上空を見上げる。
靴の爪先二〇センチ先で、件の柵が行く手を阻んでいた。
幅二メートルほどの場所にぴったりとはめ込まれた、頑丈そうな鉄柵。
両端は、左右に聳え立つ四階建ての建物の壁面にそれぞれがっちりと固定されている。
鉄でできた棒と棒の間隔は一〇センチほど。
ドアすらついていない。
顔を寄せて、俺は柵の向こう側を観察してみる。
建物の外壁は数メートル先で終わっている。
その奥には高さが一〇メートル近くもありそうな灰色の古い石壁が見えていて、壁の上には先端が矢じりのごとく尖った鉄棒が突き立ち、有刺鉄線が幾重にも巻かれている。
なんて厳重さだ。
まるで――。
そう、あの石壁もその上の柵も、監獄の敷地を囲う高壁のようにさえ見える。
こうして街の奥の奥まで入ってこない限り、こんなものがここに存在するのに気づかないだろう。
ましてや地図にだってこの巨大建造物についてはいっさい表記がされていない。
サンドイッチで喉が乾いた俺は、いったんその場を離れて、マウランダースのある袋小路を抜けた。
煙草に火をつける。
飲み物の自動販売機を探すついでに、他の建物と建物の間はどうなっているのかも、見てやろうじゃないか。
ごみ捨て場では、のら猫と鴉が威嚇し合っていた。
ようやく見つけた自動販売機で砂糖とミルクがたっぷり入った冷たい紅茶を買い、それを飲みながら、俺はまた別の建物の間で佇む。
目の前にガンッと聳える黒い鉄柵。
どこから入り込もうとしても、足はことごとくそいつに阻まれる。
そしてさらに悪いことに、俺には午後の予定がなにもない。
せいぜい今夜の宿を探すくらいだ。
一度だけ後ろを振り返った。
見上げたところで建物に窓はなく、咎められる可能性はほぼ皆無。
俺についているのは、どこまでもキュートな子ウサギちゃんだけだ。
俺は飲みきった紅茶の缶を地面へ置いた。
バックパックを下ろして柵の中へ素早く放り投げ、カメラのストラップをたすきがけにする。
一連の動作に慣れを感じるのが、我ながら少し嫌だ。
鉄柵を握るとヒンヤリ冷たかった。
「よっ」
一度体を持ち上げ、両足を横棒へかける。
体を越えさせ、柵の向こう側へと降り立つ。
バックパックを拾い上げた俺は、背後と真上をぐるりと見回し石壁へと静かに急ぐ。
建物の間をあっという間に抜け、広い場所へ出る。
古い石壁が目の前に迫る。
T字路を小さくしたような場所で、舗装もされていない。
土がむき出しで荒れている小路。
右を見て、左を見る。
灰色の石壁はどちら側にも長く続いていて、その向かいをぐるりと囲う地味な色をした建物の壁。
石壁に面した建物には当然のように窓が少ない。
あっても鎧戸ががっちりと閉じられていたり、板が打ちつけられている。
石壁と建物の間はおよそ五メートルといったところか。
近くで見る石壁は、思っていた以上に迫力があった。
その巨大さもさることながら、年月による浸食がはげしく、とにかく古い。
マウランダースのウエイトレスの顔が思い出される。
――だって、曰くつきの古屋敷を囲う大切な壁と柵ですもの。
まぁ大変、どうしましょう。
――どうしましょう。
通りから完全に死角になる場所へ移動し、俺はカメラのストラップを首に戻してバックパックを背負い直す。
とりあえず行けるところまで行ってみるか。
気になった景色でシャッターを切りながら、俺は西回りに歩くことにした。
もし誰かに見つかってなにか言われたら、迷い込んでしまったかわいそうな留学生でも演じてやればいい。
数十メートル進んで石壁の角まで来ると、今度は道なりに北へ進路を取る。
石壁の向かいにある建物と建物の間にはやはりどこも黒い鉄柵がついていて、人が入って来れなくなっている。
北へ延びる壁も八〇メートル近く進んで絶えた。
地図にある空洞も巨大な真四角の形をしていて、自分が今見ているものと一致する。
どこかに石壁の内側への入り口がないかと思って歩いているが、そんなものは一向に現れてくれない。
最後に南へと道を折れる。
これを真っ直ぐ行けば、最初に入ってきた鉄柵がある直線へと出るはず。
そう思ったときだった。
ドオォン――っ!
唐突な轟音と振動に地面が揺らいだ。
「なな、な、んだ――?」
思わず身を屈めた視界の先には土埃。
俺は呆然としたまま動けなかった。
静寂。
普通ならば、街の中でこれだけの物音と振動があればすぐにでも野次馬が集まるが、鉄柵で道は断たれ、窓も塞がれていては誰も来ようがない。
轟音も振動も一度きりで、それ以上は続かなかった。
晴れていく土埃。
霞む景色の中には、酷い浸食でとうとう自重を支えきれず崩壊したらしい石壁が、無残な姿を晒していた。
俺は先週の新聞記事を思い出す。
バナードでもセントラルタウンを中心としたこの辺り一帯が、特に酷い豪雨に襲われたと記されていた。
「……俺の運気は最強、だな。巻き込まれたら即死レベルだぞ」
あと数秒違えば――。そう考えると脚がすくんだ。
一方で俺の血が騒ぐ。
必然と法則からいかなる抵抗をも拒み移ろう時と空間を、四角い印紙に切り取る――それを生業としてきた者にとっては黙っちゃいられない事態だ。
周囲の住人の誰かが通報したとしても、警察や消防が到着するまでには時間がかかる。
俺はバックパックから地図を引っ張り出し、急ぎ指で辿る。
最も早い消防隊でも五分はかかると見積もった。
もう一度辺りを見回す。
足は自然と崩れた石壁へ向かっていた。
見上げると、鉄棒と有刺鉄線が巨大な門構えの上部のように取り残されていた。
足元にはひと抱えもありそうな灰色の石塊が、割れたり削れたりしながら無作法に転がっている。
そしてその向こう――壁の内側に広がる景色を、俺は見た。
屋敷、と呼ぶにはあまりにもこじんまりした建物が荒れた敷地の中心に建っていた。
三階建てで、一階は窓のない石造りの壁、二階部分へと続く階段の先に玄関があり、三階の壁に連なる窓、屋根、古めかしい煙突。
似たような造りは、ミロンズタウンに入ってから特に古い建物に見られた。
俺は愛機であるバデリィCFⅡのファインダーを覗き、夢中で数回シャッターを切る。
腕時計を見る。
すでに二分が経過。
敷地内に踏み込むまでの時間はない。
自分が話題人たちの間で煩わしがられる「やぶ蚊」カメラマンと大して変わらない動作をしていることに気づくが、かまっちゃいない。
夢中になりすぎて、間抜けなことに腰から転倒した。
石塊に踵から躓いたのかと思いきや、地面の窪みに踵がはまり込んでバランスを失ったらしい。
窪みは土がむき出しの地面が崩れるようにして開いた黒い空洞――まさに『穴』だった。
穴。
――穴?
思わずぽかんとして地面を見下ろす。
長さが七〇センチあるかないかの亀裂状の穴。
地面の下に空洞があって、石壁が崩落した衝撃でその部分が細く崩れてしまったようだ。
俺はその場に這いつくばった。
地下水脈にしては崩れた部分の土は薄い。
しかもこんな街なかだ。
古い下水管でも通っているんだろうか。
だが、それらしい臭いも上がってこない。
ポケットから取り出したライターをはじき、それを照明代わりにして手を突っ込む。
深い。薄暗く照らされた内部に目を細める。
部屋……否、通路か。
壁沿いに崩れたらしく、その空間が長く伸びる方向がわかる。
一方は背後の建物へ、もう一方は……。
顔を上げて、足元から震えが上がる。
視線の先には、石壁の内側に建造された古屋敷。
震えは、恐怖や怯えからくるものではなかった。
やっかいなことに、純粋な好奇心が俺の体を震わせていた。
こりゃあ、オモシロい。
俺は首にストラップがしっかりとかかっていることを確かめ、穴にカメラを突っ込んだ。
フラッシュ撮影にしても、どれだけ写るかはわからない。
それでもいい。
残り一分。
撮るだけ撮って体を起こし、上着やズボンについた土埃を払った。
遠くからはサイレンの音が近づいてくる。
あれだけの物音で、近所の住人が通報しない方がおかしい。
数分後には、到着した消防隊で騒然となるだろう。
警察車両も駆けつけ、大勢の人間に踏み荒らされるかもしれない。
俺は咄嗟の判断で周囲の土を固め、穴を塞いだ。
手ごろな石塊を埋め込み、さらに土を被せて、その上に大きめの石塊を乗せた。
この小さな街で見つけたせっかくのお楽しみを、そう簡単に邪魔されてたまるか。
視線が背後に聳える建物へと移る。
謎の地下通路は、いったいなんの建物に繋がっているのか。
建物脇の鉄柵を越えて通りへ出れば、その建物がなにかがわかるだろう。
近づいてきていたサイレンが近所に止まる。
俺が鉄柵を越えたと同時に、背後の石壁の方からは多数の声と足音が聞こえてきた。