呪われてるって本当?
カウンターの奥から店主に見送られ、天井の低い小さな書店を出た俺は、地図を片手に午前中の時間を使ってミロンズタウンをぶらぶらと歩いた。
先週、バナードを襲ったという記録的な暴風雨の記事を新聞で読んだが、そんなものは想像もできないほどの嘘のような快晴。
長雨に洗われた後の清々しさは結構だが、ミロンズタウンは俺のような坂道好きとしては不満のひとつも口にしたくなるような、実につまらない平らな街だ。
坂道はイイ。
細かったり、曲がりくねった坂道ならもっとイイ。――のだが。
ゆったりとした朝凪の風景を歩むような時間が、ただ静かに過ぎていった。
磨り減った石畳が続く歩道には昔の下水道の名残があり、車道へ向かって緩く傾いている。
観光の街サンオランドタウンでも見られる光景だが、長い時間歩いていると変に疲れる老いた道だ。
俺は数件の店をひやかし、教会の煤けたステンドグラスを仰ぎ、小さな運河のある通りへ出て、ガス灯とベンチがあるだけの風景を何枚かフィルムに収めた。
人通りは少なく、歩いているのもご老人が多い。
何匹かののら猫とも遭遇した。
屋根の上から俺のことを見下ろす姿や、ポストの上で日向ぼっこをしている姿が妙に可愛らしく、思わずシャッターを切った。
足にいよいよ疲れがたまってきた頃、腕時計を見ると正午近くをさしていた。
伝統だけはありそうな街だ。
ここにしかない珍しい食べ物なんかがもしかしたらあるかもしれない。
そう思うと腹の虫も鳴いた。
俺はカメラに使う予備の電池を買うついでにその辺りの情報を得ようと、適当な雑貨屋へと入った。
古い物の中に最低限の新しい物が絶妙な割合で混ざり、ギリギリ均衡を保っているような保っていないような実に怪しい品揃え。
店の番をしているのは、化粧っ気のないお婆さんだった。
「カメラに使う電池が欲しいんだけど」
「ありますよ。どの型を差し上げましょう」
……と言われたものの二種類しか置いていない。
それでも運良く片方が俺のカメラに合う型だったのでそれを所望した。
「留学生の方ですか」
ここでも言われた。
俺は首を横に振った。
店のウィンドウに俺の立ち姿が映っていた。
「いや、ちょっと旅を。俺、学生に見えるかな」
「お若いもの」
電池を紙の小袋に入れながらホホホと話すお婆さんに、俺はハァ……と苦く笑いを返す。
俺ぐらいの年であればみんな学生に見えるんだろうか、この街に住む老人たちには。
「それに言葉が大変お上手だけど、外国からいらした方だとわかるものですよ。どちらから?」
「ケンプリード――バダコにある煙突と排気ガスばかりのチンケな街だよ」
「まぁ、遠い所からご苦労なこと。今どき、なにもないこんな古い街へわざわざ外国からやって来るお客さんも珍しいわ」
「ふうん。地図を見りゃ真ん中が空洞みたいになってて変わってる街だから、物好きが結構集まったりするんじゃないかなって勝手に想像していたけど違うんだな。まあ、俺も今日まで気づかなかったうちのひとりだけど」
そこで俺は一時忘れていたことを思い出した。
朝に小さな書店で聞いた呪いの話だ。
「ちょっと聞いた話だけど、その場所が呪われてるって本当?」
昼飯のことを一旦脇へよけ、躊躇いもなく俺は訊いていた。
ヤバイ。
脳内でまた子ウサギちゃんがこんちくしょうなウインクを寄越している。
「さあ……そうねぇ――そんな話をどこで?」
「書店だよ。名前は忘れた、看板は紫色だったかな」
「『ザラグの店』ね。ザラグさんはとても目が悪いんですよ、耳も遠いし、最近では食べ物の味もしないと聞いたわ。夢にもうなされるそうで、まるで呪いのようだと振れ回っているらしくて」
俺はふうんと頷いた。
それが本当なら、あのザラグとかいうお爺さんは気の毒なご老人だ。
そのお気の毒ついでの、呪い話というだけだったのか。
「街のど真ん中の地図を描く人がいないって聞いたんだ」
「ええ、ここいらに住む人たちは今さら驚きもしませんよ、どうせそこには近寄ることもできなくなっているんですもの。描かれたって無駄なだけだわ」
「近寄ることも……ねぇ。工事中かなにかで?」
「まさか。特別な事情とかで壊せないままほっとかれた建物があるだけよ。工事ができるのなら、もっと前にそうしてもらいたかったわ。若い方には、この街はなにもなくてつまらないでしょう? 地図にも記されない街の真ん中など、最もつまらないわ」
「そうか? うんまあ、そうだな。――で、それいくら?」
要するに、お婆さんもよく知らないんだろう。
脳内の子ウサギちゃんも、困った顔の半笑いで小首を傾げている。
別に迷惑人になるつもりで訊いたわけではないので、ここらで話を打ち切っておく。
「十八ペナです」
高いな、と内心で舌打ちをしながらも俺は平たい財布から代金を支払う。
そして戻されたつり銭を俺は取り落としてしまった。
「まあ、ごめんなさい」
「いいんだ、こいつのせいだから」
俺は右の親指を示してやった。
思い通りにならなくなって久しい俺の一部。
「どうも自由がきかなくてね。一年も前の事故だ」
「お大事になさって。事故だなんて不運なこと」
「治すのは難しいと医者にも言われたよ。こいつとは一生の付き合いになるだろうな……。ところで、この辺で美味いものを食わせる店があれば教えて欲しいんだ」
俺が話題を変えたことに、お婆さんは表情をやっと緩めた。
「どういったものがお好きかしら」
「この土地ならではのものとかない?」
「そうねえ……海洋祭の時分なら、屋台なんかで変わったものが売ってるんですけれど」
「バナードの海洋祭になら来たことがあるよ。屋台のものはひと通り食べた」
海洋祭は八月の満月の日に始まり、約半月後に訪れる新月の日まで続くバナードきっての歴史ある大祭だ。
現在では主たる祭りの舞台は海岸線からセントラルタウンとその周辺へ移り、無数に連なる露天やド派手な衣装に身を包んだ人々が激しく踊りながら練り歩くパレードなどを目当てに、外国から来た観光客も街の人たちもごちゃまぜになって通りに溢れる。
祭の期間中は海の女神カラジーアゆかりの品々が街中で売られる。
例えば小麦粉を練って貝殻の形にした揚げパスタや、海水に見立てた伝統的な塩辛いスープ、日付入りの記念コインなどがその代表だ。
「じゃあこの土地の味は結構知ってらっしゃるのね。こちらには何度も?」
「まあね――だけど全部仕事だったし、ミロンズタウンは初めてなんだ」
連日連夜ひたすら撮影に歩き回ったことを思い出す。
雑誌の特集記事の仕事ではるばる飛行機に乗ってやって来たというのに、あまりにひどい人波で予定通りに仕事が進まず、一緒に来た仲間全員が寝不足で夜通しイライラしていた。
もちろん俺もその一人だった。
屋台での食事も、長時間並んでなんとか買い付けたものを時間がないのでかっ込んだだけの記憶がある。
「そうでしたか。それなら……そうね、『マウランダース』なんてどうかしら。ミロンズタウンの知る人ぞ知るお店で、しっとりとした美味しいスモークサーモンのサンドイッチが人気なの」
「スモークサーモンは大好物だよ」
「ならばきっと気に入りますよ、言えば持ち帰りにもしてくれるの。場所は――あぁ、地図をお持ちなのね」
お婆さんがそう言ったので、俺はザラグの店で買った地図を開いて差し出した。
「わたしの店がここよ、マウランダースはこの通りを入って真っ直ぐ行ったところに……ホラ、これがそうなの。奥まっている場所だけど、地図の通りに行けば迷わないわ」
「かなたまで」と言って手を振り送り出してくれたお婆さんに俺は軽く手を上げて、やはり「かなたまで」と返し雑貨屋を出た。
七月初旬の太陽が真上から眩しく照らしている。
海洋祭ねぇ――。
俺は今一度苦い思い出に浸りながら、ぐぅと鳴る腹を擦りつつマウランダースを目指した。