ファーディンの告白
第六章 迷霧
8月7日
止まらぬ涙を杯に満たし
あなたへ捧げましょう
逢えない悲しみを月に映し
傷口には愛の口づけを
夢の残像は重く
乾いた心に明日は映らない
誰も彼もが大きな荷物を抱え、あるいは引きずっていた。
途切れることのない喧騒と雑踏。
おしゃべりを続ける若い女たちのグループや年配の団体客、手帳を睨みつけながら早足で歩いてゆく背広男、案内表示を探し歩く外国人。
いくつもの施設を同時に備えた巨大なバナード空港は、何度来ても落ち着けない。
これから飛行機に乗ると考えるだけで気が沈む。
だから、チケットはなるべく見ないでおく。
世間では未だ夏の休暇期間だ。
周囲は旅行を楽しむ人々や帰郷するために飛行機に乗り込む人々で賑わっていた。
俺の向かいではファーディンが缶入りの紅茶飲料を左右の手で弄んでいた。
窓の外に見える夏らしい濃厚な空と、朝の金色の日差しが眩しい。
出発ロビーに入る前の自動販売機の前にあるベンチに、俺たちは座っていた。
「日中だけ眺める限りは、おまえも普通の男だな」
棘のある俺の指摘に、ファーディンは手を止めて困ったように微笑する。
繊細な縞模様が入った濃灰色の背広に身を包み、長い金髪を後ろでひとつに束ねた彼は、まるでどこかの外資系企業のサラリーマン風情だ。
長身で少し顔が整いすぎているから人目をひかなくもないが、混雑する空港内では誰もが自分のことで忙しい。
それにしてもつくづく太陽光が似合わない男だ。
白い肌といい、甘く物憂げな影を落とす瞳といい、陽の下よりも月下の方がよっぽど似合いそうだが。
「陽が落ちる前にバスルームのある場所に籠もらなきゃならないなんて、しち面倒くさい体だな。そりゃ何十回何百回結婚しようがどんな女でも愛想を尽かすよな」
「朝から滅入る話をしないでくれよ。肝心の夜に限って人との接触を拒絶する不能男だと笑いたいなら、そうすればいい。空港のど真ん中で遠慮なく抱腹絶倒すれば、周りが存分に変態扱いしてくれるよ」
ファーディンの肌に傷はひとつもなかった。
二日前、シークレットバーリーの地下深くにある空間で血塗れになって咆哮していた男と同じだとは思えない。
あの後、俺たちは気が触れて出血多量で死ぬとしか思えなかったファーディンと、涙を枯らして放心したセイリードを連れてハーデンベリア号へ戻り、間に物を挟めた扉を抜けてモートン邸へと戻った。
時刻は朝の六時を過ぎていた。
主不在である屋敷のダイニングルームでフリアが紅茶を淹れたが、誰もが無言だった。
二〇〇年ぶりにやっとハーデンベリア号の外へ出られたセイリードでさえ塞ぎ込み、昼前になってフリアが用意した子ども服にもしばらくは見向きもしなかった。
それぞれのいきさつや、不可解な点について話し合うには互いに時間が必要だった。
俺はファーディンのくだらない口答えを無視して話題を切り替えることにする。
地下深部からの奇跡的な生還からまだ日が浅いとわかっていても、いずれは聞いておかなければならない。
「なんだかすっきりしないよな。結局は俺の悪夢の正体がわかっただけで、なにも解決してない。おまえたちとの繋がりで、憂鬱な人間関係ができあがっただけだ」
静かな場所であらたまって話すには重すぎる話題だ。
この話を持ち出すには今このタイミングしかないと思った。
「まあ、あんたにとってはそうだろうね。ただこの魔星雲の接近期を密かに利用しようと待ち望んでいたディアードの目論見は回避できた。不審者同然にあんたがミロンズタウンをうろついてくれたおかげで、俺もあの扉へ再び近づくことができたんだ。感謝してるよ」
「ふん、なんだよその嫌みな言い方は。誰が不審者だ」
声を殺したファーディンに笑われた。
本当に腹の立つやつだ。
「次の魔星雲接近期には、俺があんたを見張っといてやろう。手足に太い鎖でもかけてからコンクリート詰めにして、絶対解除できない密室に閉じ込めとけば『鍵』にされることもない」
「殺す気かよ」
「死ねるもんなら死んでみて欲しいね」
ファーディンは疲れたため息を漏らす。
俺は失笑するしかない。
「呪いにはうんざりだ。もちろん物理的な拘束も御免だな」
「あんたが扉の『鍵』だと発覚したからには、野放しにしてはおけないよ。またおかしな行動をしようとしたら、即止めてやる」
「俺の監視役かよ。いらないな」
「勘違いしないでほしい。あんたの監視じゃない。『鍵』の監視さ。俺たちが過去に犯した過ちは誰にも繰り返させない」
ファーディンの青い瞳は窓の外へと向けられていた。
眩しい空港の駐車場と生き生きとした真夏の山並み。
その向こうにあるミロンズタウンのことを考えているのだろう。
俺にはまだいくつも納得いかない点がある。
「俺がディアードに向かって投げたあの青い液体はなんだったんだ?」
「古の呪い師メメルの成れの果てだ、と言ったところで信じてもらえるかどうかはわからないけど――古い呼び名で大賢人とも言われていた老人の変わり果てた姿だよ。ハーデンベリア号の乗客のひとりで、あの地下にある扉を封印し閂をかけた張本人。こないだ壊れたあれさ」
ファーディンが眠たげに説明する。
真っ二つに折れた閂の代わりに、崩れた岩を扉の合わせ目に寄せ集めてひとまずの閂代わりとしたのは俺たちだ。
「馬鹿な。あの液体が人だって?」
「いずれいろいろ訊かれるとは思っていたよ。いいさ、そろそろ白状しなきゃならないと思ってたところだし、長話する時間ならある」
ファーディンは頷いた。
腕時計を確認する。
飛行予定時刻まではまだ余裕があった。
「話はだいぶ遡るけど、古来この大陸でも魔女狩りや錬金術師たちの処刑が延々と行われてきた。内陸部では火刑や絞首刑にされることが多かったけど、海が近いこの辺りでは流刑が行われていた。つまり生きたまま密閉した樽や木箱に入れて海に流したのさ。そのほとんどは海流に乗って、やがて海の底に沈んだ」
それなら俺も本で読んだ。
酷い処刑方法だと図書館で眉を顰めた記憶がある。
「逆恨みやあてつけで魔女や錬金術師に仕立て上げられた者たちも大勢いたっていう話だけど、中には実際に他人とは違う特殊な才能を持つ者たちもいた。彼らの間では、『流された者たちはやがて同じ場所に辿り着き、迫害を受けることのない楽土でともに暮らせる』という言い伝えがあった。そしてそれは実際にそうだった。魔術や錬金術に通じる者たちは、流刑を生き延びて樽や木箱から脱出し、浅瀬の地下に気の遠くなるような年月をかけて楽土を築いていたんだ。バナードやその周辺で交わされる奇妙な挨拶を、あんたも知ってるだろう?」
考える間もなく、俺は思い出す。
「『かなたまで』、か?」
「そう。その挨拶は、本来この辺りの魔女や錬金術師たちの間で交わされていたものだ。『彼方まで参り、また会いましょう』――すなわち、海の彼方にある楽土で再会しましょうという去り際の挨拶が時を経て短くなり、この辺り特有の礼儀として形を変えたものなんだ」
世の流れや運命に逆らえない彼らの悲しみと一筋の希望から生まれた挨拶。
なにも知らずにその言葉を気軽に交わすこの土地の人々が、突然空々しく感じられた。
「流刑に処させた魔女や錬金術師たちは『楽土』で末永く幸せに暮らしましたチャンチャン――っていう幸福話とはいかなそうだな」
ファーディンは苦々しい笑みを浮かべ、静かに頭を振った。
「楽土など所詮は名ばかりの場所だった。浅瀬の地下にあったのは、流れ着いた魔女や錬金術師たちの憎悪と怨念。行く当てもなく彷徨う亡者や、狂気に侵された彼らによって生み出された合成生命体とその腐った骸、骸を媒体として復讐を果たそうとする亡霊の数々――彼らが女王として崇める魔女の姉と妹」
魔女王ディアード、その妹のエステシアン。
「つまりハーデンベリア号は、彼らの『楽土』がある浅瀬で座礁し、その扉を開いてしまったと?」
「正確には、ハーデンベリア号の座礁で楽土へと続く扉までの道が開き、扉は別の人間が開けた。俺たちだ」
ファーディンは窓の外も、俺のことも見ていない。
雑踏の向こうに、ここにはない過去の幻影を見つめていた。
「救助隊だったんだろ?」
「そうだよ。『たまには人助けをして金を手にしてみようか』と賭場に誘うときと同じ気軽さで言い出したセレに、俺もセイリードもいつも通りに頷いた。けれど、救助船に乗って向かった先で、俺たちは噂でしか聞いたことのなかった『楽土』の扉を見つけた。内部の惨状を知らず、楽土という言葉だけでこの上ない場所を想像し、金銀財宝が眠る夢のような場所への欲がかられた俺たちは、迷わず扉を開いていた。軽率だった。後悔してもしきれない」
その年に起こった大地震で楽土周辺の地形が変化し、海水は失われてついには大陸と陸続きになったんだよ、とファーディンは説明を続けた。
ミロンズタウンのある一帯がまさにそれだ。
古の時代から行われてきた流刑に処された者たちの誰にも止められなかった執念のようなものを足元に感じて、俺は背筋が寒くなる。
俺にはファーディンを責めることができない。
俺自身も宝の話をされて揺れ動いた。
世界から隠滅させられた闇歴史を刻んだ張本人と、今俺は向き合い話していると思うとぞっとしない。
「当時のフィーン王シャルムフ十六世に二〇年以上も仕えた大賢人メメルは、その任を解かれたのを期に長い流浪の旅に出てたんだ。その年は二〇〇年ぶりに魔星雲が宇宙の暗幕に接近する年でもあり、任を解かれた身とはいえまだ地方には己にできることがあるかもしれないと考え、旅を決心したとも言っていた」
「大賢人メメル――ねえ。王家に仕えてたほどの一大有名人だとしても、ケンプリード生まれの俺には馴染みのない名前だな」
「フィーンの歴代王家についてこと細かく記した本でも開かないと出てこない名前だからね」
俺の無知をファーディンは笑わなかった。
今話していることの一部には国際保安局さえ隠蔽に絡んでいる。
俺が座るベンチのふたつ席を空けた向こうで、女の子が派手な色合いの棒つき飴を舐めていた。
ファーディンの横には大きなスポーツバッグがいくつも連なり、持ち主の若者たちはアイスクリームと恋人との会話に夢中だ。
その光景を、ファーディンは眩しそうに眺める。
「船の座礁や楽土の扉を俺たちが開いてしまうことを、もしかしたら大賢人と呼ばれたメメルほどの大物ともなれば予知していたのかもしれない。ハーデンベリア号の乗客だったメメルは、扉を元通りに閉めようと悪戦苦闘していた俺たちに加勢してくれた。王家に仕えていたメメルは迫害や追放を受けなかったけど、大賢人の異名にふさわしく古の呪いや魔導にも心得があったんだよ。メメルはディアードを罠にはめ、扉を閉じて古代より伝わる地と星天の封印を施した。でもそのせいで呪われ、人としての体を失った。俺は粘液体に変えられた爺さんをポケットに突っ込んで、セイリードの手を引き夢中で逃げた」
手を引くファーディンに抵抗して罵倒し、泣き喚くセイリードの姿が想像できた。
二日前、地下にある扉の前で少女の姿にされたセイリードが手のつけようもなく泣き叫んでいた。
そして、亀裂に落ちそうになった俺に、ファーディンはセレ=ビリアンドの姿を重ねて叫んでいた。
セレは仲間を逃がすため、囮になるかして深い淵に落ちたんだろう。
おかげでディアードは楽土とともに扉の向こうへ封印され、ファーディンたちは逃げ出せたが、セレを愛していたセイリードはその事実を受け入れられなかった。
『英雄……かな』
俺を初めてセレと見間違えたとき、セイリードは彼のことをそんな風に言った。
それは愛した男に対する精一杯の賛辞だったんだろう。
「『楽土』から飛び出した怨念は扉を離れても大波のように襲ってきたよ。砕けた浅瀬に深くはまり込んだハーデンベリア号を見つけた俺たちは、船底部分から船内に入って……外へ抜け出そうとして引き離された。セイリードを閉じ込めた船は、瞬く間に浅瀬の土砂に埋もれていった」
「でもちょっと待てよ、それとシークレットバーリーとはどう関係あるんだ? シークレットバーリーのほぼ真下にハーデンベリア号が沈んでたのは偶然じゃないだろ」
「シークレットバーリーは、その後に当時のフィーン政府が建設した楽土監視棟だったんだよ」
そこでファーディンは何度目かのため息を挟んだ。




