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追放されし者たちの痕跡

第五章 悔悟




8月4日


絶望、それは強い希望の証


死、それは尊い生の証


無、それは有への絶望の証


絆、それは死と無への恐怖の証










もう後戻りはできなさそうだ。


ランタンに照らされるのは砂岩の亀裂ばかり。


黒々とした岩が突き出した歪な隙間を、俺たちは進むしかなかった。


ハーデンベリア号から離れて亀裂を縫うように進み始めてからかなりの時間が経過している。


水平移動よりも垂直方向へ降下し続け、やっとやや平らな場所へ足がついたところだ。


俺の背から下りたセイリードがランタンで周囲を照らす。


広すぎる空間だった。


周囲の壁面をランタンで照らすことができないほどに広い。


「なんだここは」


俺の話を無視して、セイリードが歩き出す。


周囲がよく見えない中でトタントタンカパンカパンとヒールを鳴らし、迷わず真っ直ぐに進んでいく。


ランタンの明かりを失えば、俺たちはおしまいだろう。


俺はセイリードの背をひたすら追う。


「おまえここに来たことあるのか?」


セイリードは振り返らずに頷き、静かな声で「うん」と答えた。


「ここがすべての始まり。この奥に全て封じ込められてる。呪いと怨念の境地、太陽も月も仰ぐことが許されず追放されし者たちの痕跡だよ」


俺の足が止まりかけたが遅かった。


セイリードの薄気味悪い言い回しにぞくりと身震いすると同時に、前方の壁がランタンの明かりにようやく照らしだされていた。


壁…………いや、扉だ。


閂つきの巨大な両開きの扉。


縦も横も、ゆうに俺の背丈の三倍はありそうだ。


すべて石でできているようだが、閂の部分だけは後づけされたような違和感があった。


繊細な模様が彫刻されている扉に比べて、あまりにも実用的なものでしかなく荒削りだ。


扉と扉の合わせ目には三センチほどの隙間があり、その向こうには怪しげな闇が覗いていた。


「冗談はよせよセイリード」


俺は巨大扉を見上げて立ちすくんでいた。


蝙蝠の羽音が頭上高く耳障りに行き交う。


「こいつを俺に開けろと?」


「お願いロッシュ」


セイリードが振り返る。


ランタンのオレンジ色の光の中でもセイリードの顔が蒼白なのがわかった。


まだ調子が悪そうだ。


「外へ出たいでしょ?」


「そりゃ……ああ当然だ、でも」


「だったら!」


セイリードが傷だらけの手で俺の手をギュッと掴む。


「わっ、待てこら……あぢっ」


セイリードは慌ててランタンを掲げている方の手を遠ざける。


けれど瞳は悪びれる様子もなく真剣なままだ。


「ここを開けてロッシュ。あたしが交渉する」


「交渉っていったい誰と話をするんだ? 呪いをかけた主って」


「この中」


セイリードが視線を送った先には巨大扉があった。


「この中にいる」


「おまえ、さっきこの向こうには『呪いと怨念の境地』だかが封じ込められてるって言ったじゃないか。それを開くのがおまえの策か?」


小さくセイリードは頷いた。


「無理だ」


俺は閂を見上げる。


「こんなでかい閂は見たこともない。俺ひとりの腕力でどうにかなるもんじゃない。せっかくここまで来たが無駄足だ」


セイリードは失望の眼差しで俺を見上げていた。


目の端が潤んでいるが、見なかったことにする。


泣きたいのはこっちだって同じだ。


「こいつも二〇〇年前に造られた扉か?」


「ううん、扉もこの地下空間もそれよりもずっと前からあったよ」


意外な返事が返ってくる。


「古代の遺跡かなにかか? でもこの辺り一帯は大陸の地形を変えるほどの大震災に見舞われたはずだろ。それでも潰れずに済んだなんていったいどんな構造を」


俺は気づく。


『太陽も月も仰ぐことを許されず追放されし者たちの痕跡』と言ったセイリードの言葉を思い出す。


悪霊使いに魔女、錬金術師――数百年昔、この大陸でも無慈悲な追放や処刑は頻繁に行われていた。


無念の彼らの痕跡。


たどり着いた場所――それがすなわち呪いと怨念の境地だとしたら。


「……なあ。なぜ、おまえはここに来たことがあるんだ?」


セイリードは答えない。


「おまえも…………魔女か?」


「まさかぁ」


セイリードは首を横に振った。


寂しそうな横顔が視界に入り、俺の胸が変に痛む。


「あたしにそんな力があったら、呪いなんてとっくにはね返してるよ。……せっかく、ここまで来たのになあ。やっと……やっとここまで来たのに、ダメなのかなあ」


啜り泣きが嗚咽となり、とうとうセイリードは号泣した。


広い空間にいるから甲高い声がやたらと響く。


突然の騒音に、蝙蝠たちも一緒になって騒ぎ始めていた。


「俺だってどうにかしたいさ」


泣きやまないセイリードの肩に手をかける。


「やっ!」


思いっきり拒絶された。


俺だって少女の願いを拒絶したんだ。


それがそのまま跳ね返ってきたように感じた。


今さら柄にもなく極大の心細さと恐怖に捕らわれ、気が逸る。


「セイリード」


「来ないで!」


ランタンの明かりが突然消えた。


セイリードが消した。


わざとだ。


「馬鹿っ! なに考えてんだ!」


明かりとともに、セイリードの泣き声も聞こえなくなった。


俺の周囲には闇しかない。


「セイリードどこにいる!」


まさかこんな地下深くで少女に裏切られるなんて。


いや彼女からしてみれば、扉を開けると言って開けなかった俺こそが裏切り者か。


そのとき俺は気づいてはならないものに気がついた。


セイリードの声が聞こえなくなり、蝙蝠の羽音も静まり返る絶望的な暗闇の中、首筋を撫でゆく一筋の冷たい空気の流れ。


扉の向こう側が仄かに明るさを帯びている。


蛍や光苔よりもはるかに微量な光量ではあるが。


そこになにかが蠢いている。


扉の隙間に顔を近づけていた俺の足が退く。


頭が真っ白になっていた。


《……開けよ……》


空気の震えがそう俺に伝えた。


聞き間違いじゃない。


扉の向こうから声がする。


《……開けよ……星は満ちた……我を解放せよ……》


自分の荒い息遣いが他人のもののように遠く聞こえた。


肩が震えて止まらない。


手足が自由にならない。


《……片割れの鍵となりし者よ……扉を開けよ……っ!》


扉の合わせ目から冷たい空気が顔に吹きつけられ、俺は後方へ倒れる。


派手に腰から落ちる。


「ほ、星は魔星雲のことだな。鍵ってなんのことだよ」


口走りながら、俺は這うように後退する。


馬鹿、逃げてる場合じゃない。


そうだセイリードが『引き換えに呪いを解いてもらう』と言っていた。


きっとこの声の主が呪いをかけた張本人だろう。


策はあるはず。


「と、取引だ!」


からからに乾いた喉から絞り出して叫んだ俺の声が、広い空間に響いた。


《……取引だと……?》


空気の振動が微妙に変わる。


老婆と幼い女の子の声を合わせたようなとらえどころのない声だった。


「そ、そうだ取引さ!」


俺は必死に叫ぶ。


「今すぐ呪いを解いてくれ! それがこちらの要望だ!」


数秒の沈黙。


《……それで貴様はなにを差し出す……?》


しまった。


取引材料を俺は詳しく聞いていない。


確か呪いの主が欲しがっているものをセイリードは知っていると言った。


なにが欲しいのか。


なにと引き換えになら呪いを解いてもらえるのか。


《……どうした……取引とははったりか……?》


扉の合わせ目に漂うぼんやりとした光が陰る。


そこに生々しい眼球が暗く見えた気がして、俺の意識が一気に吹っ飛びそうになる。


セイリードはなにをしてる!


俺は暗闇の中にセイリードの姿を捜す。


が、なにも見えない。


このクソ肝心なときに……っ!


「差し出すのは、あなたの妹君の身柄です」


突然、落ち着いた女の声が暗闇の中で静かに響き渡った。


俺は心臓が止まるかとさえ思った。


知らない女の声。


いったい誰だ。


《……我が妹エステシアンの身柄、だと……?》


呪いの主が反応した。


誰の声かわからない。


が、ひとまず相手の心理を揺さぶってやったことだけは確かだ。


「はい。あなたは行方不明になった妹君を捜していらっしゃる。この呪いが解かれれば、あなたの代わりに妹君を捜して差し上げましょう。魔星雲は再び接近しています。あれから二〇〇年、世は移ろいどれほど強力な呪術師や魔術師が力を振るっているかわかりません。せっかく魔星雲が接近してるというのに、また封印されるなんて考えるのも愚かでしょう?」


この女はなにを言っている。


魔術師など昔話にしか登場しないこの時代に。


《……貴様、我を脅すか……》


「はい。今は封印の力で魔力を奪われているとはいえ、古の呪いと怨念の魔女王ディアードを相手に気は抜けませんもの」


俺はひと言も発せない。


発せるわけがない。


ディアードと呼ばれた呪いの主は女との交渉で僅かに気をよくしたようだった。


《……呪いを解かれたくば、扉を開けよ……》


「そこにいる者に開けさせます」


俺?


暗闇の中で、俺は姿の見えない女に指をさされた気がして動転する。


足元が寒い。


《……その鍵は片割れだ。完全形でなくては開かぬ。完全な形で鍵を持って来るのだ……》


「完全形――それはどういう」


凛とした声が陰る。


初めて女が戸惑っていた。


《……呪いだ。その者もいまや貴様らと同じ不完全な形でしか存在し得ない。命知らずで強欲な道化にすぎぬ。取引は鍵が揃ってからの――》


そのとき俺の目が眩んだ。


扉から背けていた視界が純白に焼かれ、閉じた瞼の裏で細かな火花が散る。


とたんに耳障りな騒音が耳元を駆け抜けて弾けた。


数秒後にやっとそれが銃声だと気づき、俺の手足が宙を泳ぐ。


「う、わっ?」


眩い光に目が慣れてくる。


開けた地下空間を照らす光。


俺とセイリードがこの地下空間で最初に降り立った場所に、強烈な光点とひょろ長い二つの影があった。


「いきなり発砲はないんじゃない? 君の仕事を奪うようで悪いけど、ここは俺についてきてもらったほうがよさそうだ」


涼風のような男の声が静かに反響する。


影のうちのひとりだ。


「この状況を見てのんきに構えてられる? とんでもないことをしようとしてたわ」


もうひとりは女だ。


俺たちの状況を見てかなりヒステリックになっているらしい。


拳銃を発砲したのはその女だ。


さっきまでセイリードと二人きりだったところに続々と新たな者たちが現れて、俺の頭がついていけない。


いったい彼らはどこから入り、どうやってここまでやってきた?


これは夢。


だっただろうか。


どこからどこまでが――夢……?


「また随分とマズいことに手を出してるみたいだねセイリード」


俺の混乱をよそに男が話し出す。


驚いたことに男はセイリードの名を呼んでいた。


俺の目がさらに光に慣れてくる。


光のおかげで地下空間の壁面までもが視認できた。


これまで頼りにしてきたランタンなど豆粒同然でしかない強い光。


光の角度が変わる。


男が最新式の高出力携行ランプを上げ下げして地下空間内部を確認していた。


光源はこのミロンズタウンには不似合いな最新式ランプ。


強烈すぎる光のせいで二つの影でしかなかった彼らの姿があらわになる。


長身で金髪を長く伸ばした男と、帽子をかぶり頬に大きな絆創膏を貼った背の高い眼鏡の女。


男は大荷物とランプを手にし、女は両手でしっかりと握り込んだ拳銃をこちらへ向けて構えたままだ。


「だ、誰だ?」


まとまらない思考の波を掻き分け、俺は尋ねずにはいられない。


眼鏡の女の方は凍りついたように緊張を解かない。


男がランプを下に置いて歩き出す。


来るなと念じても男の足は長かった。


あっという間に俺との距離を詰め、対峙していた。


「壁のところで拾ったよ。ついでに呪いが解ければと親切心で運んできてやったけど、この場においてはまずかったかな。でも俺が持っててもね」


男は名乗る代わりに肩に担いでいた大荷物を放ってよこした。


大荷物に俺は文字通り押しつぶされる。


堅い岩盤から顔を上げると、目の前に茶金色の髪が垂れ下がっていた。

肩口から覗くのは骨ばった白い手。


「うあわあぁああっ?」


「不気味がるなよ。自分の顔がそんなに嫌か?」


男が軽い調子で言った。


あきれ笑いされているようにさえ感じた。


待て。


俺は恐る恐る顔を向ける。


そこには見慣れた顔があった。


見慣れすぎた顔だ。


毎日一度は鏡の中に見る顔。


街を歩けばウィンドウに映る顔。


顔だけじゃない。


手も。


よく見れば右手の親指の角度が少しだけ不自然だ。


思うように自由が利かないとこうなる。


どれもこれもよく知っている。


のしかかる大荷物は、まさに俺自身と同じ姿。


俺には双子の兄弟などいない。


俺は俺自身に潰されかけている。


「な、なんだよこれ!」


「せめて『誰だ』と人間扱いしてやったらどう? ま、どこから見てもロッシュ=カートレイあんた自身だ」


男の口調はあくまで軽やかで、落ち着き払っている。


俺は絶句する。


やはり悪い夢だ。


俺の姿をした大荷物を振り払って立ち上がる。


見下ろしていっそう気分が悪くなった。


鏡で写し取ったような俺自身だった。


虚ろな瞼が時折上下し、呼吸までしている。


人形だと思いたかったがそうではなかった。


俺も、俺自身の姿をした俺も生きている。


半開きの目がどろりと溶けてきそうな心ここにあらずな俺の姿。


首からは愛用のバデリィCFⅡを提げていた。


俺の体が二つに増殖したのか、または分裂したのか、どちらなのかわかるわけがない。


「……夢でも見てるみたいだわね」


拳銃を握っていた女が遠くで俺の内心を代弁してくれた。


「協力するって俺は言ったでしょ。よかったね【青藍】、これで君はシークレットバーリーの秘密に触れた人間ロッシュ=カートレイから話が聞ける。ついでにここでなにが起こったか、大筋を知ることにもなるだろうね」


男が静かに告げた。


俺には彼らの事情がまるで読み取れない。


なんの用があってここへ来たのか、どうやってこの場所の存在を知ったのか。


それから男はゆっくりと俺に背を向け、まったく別の方向へ顔を向けた。


「ほんと無茶しすぎるんだから。昔から君はそうだ。おかげで俺もセレも君から目を離せなかった」


長身の男の影になって誰に話しているのかわからない。


いや、ここにいるのは他にあと一人。


セイリード!


俺は男をそっちのけにして二、三歩前に駆け出し、立ち止まった。


そこに少女の姿はなかった。


ボロボロの赤いドレスを纏った若い女がひとり、硬い岩盤にぺたりと座り込んで男を凝視していた。


「―ファー……ディン」


赤いドレスの女がうわごとのように呟いた。


さっき俺が聞いたのと同じ声。


呪いをかけた主ディアードとやらと取引を進めようとしていた女の声だ。

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