闇の中からの追手
木壁は、あの日と同じように古い肌をさらけ出していた。
傷のようなものはいくつもついているが、砕けたりひび割れたりはしていない。
俺は新たに借りたランタンと防毒マスクを下ろす。
この壁を叩いた時から悪夢は始まった。
どれだけ気味が悪かろうが、俺はこの壁ともう一度真正面から向き合う必要がある。
海洋祭が始まって間もなかったあの日、俺は確かにこの壁をつるはしで打ち破った――と思った。
恐る恐る指先で触れてみる。
ささくれ立った木肌の荒れた手触り。
陽に当たらないせいで湿気っぽく不快な感触。
よくよく見ると、塗料がついていたような跡があった。
長い年月土砂に埋もれていたところをモートン氏がつるはしやスコップで何度も引っ掻いたために、余分な土砂とともに剥がれ落ちたらしい。
かろうじて塗料らしきものがついている箇所をなぞると、濃い灰茶に見えていた部分が白っぽく浮き上がってくる。
わざわざ地下室の外壁を塗装する大馬鹿者はいない。
もともとは外に露出していた壁だということだ――すなわち、白く塗装された船体の一部。
俺は壁から一歩、二歩、後ずさりをする。
ほとんどいうことのきかない親指の根元に力を込め、首から提げていたバデリィCFⅡのフィルムを巻く。
目に映る景色だけではなく、人の心中でさえ、俺は写真の方が言葉よりもずっとずっと的確に人へ伝えられると信じてきた。
真の姿が映し出される瞬間がある。
言葉で伝わらないことも疑わしいことも、俺が切るシャッターからは逃れられない。
カメラのレンズのところから耳長ぴょん子が控えめに顔を覗かせた。
肩をすくめ、すまなそうな上目遣いで俺を見上げていた。
「よう、相棒」
俺の言葉に可愛らしい大きな目が軽く瞬きをする。
「まあ……昨日は悪かったな。俺だって別に怒っちゃいないさ」
嬉しそうに長い耳を跳ね上げたぴょん子は、安心したようにレンズの中へと戻っていった。
なんだかな。
思わず浮かべてしまった笑みを収め、ファインダーを覗く。
四角く縁取られた視界。
荒く削られた壁に囲まれ、闇があった。
「あっ……」
とたんに俺の体が凍りついた。
思わず退いた足が、ランタンを遠く後方へ蹴飛ばす。
ファインダーから目を離したと同時に、俺の周囲までが闇に飲み込まれる。
なにが起こったのか。
落ち着け。
蹴飛ばしたせいでランタンが消えたんだどうってことない。
落ち着けよ!
ライターそうだライターをつければいいだけのことじゃないかライターライターライターどこだよ!
右のポケットを探る。
左のポケットと胸ポケットも探る。
硬い感触に希望が湧く。
が、緊張でいっそういうことのきかなくなった右の親指からそれが滑り落ちた。
……カツンッ
「くっそ!」
辺りは闇。
深い闇だ。
ファインダーを覗いた時に見えた闇と同じ色に俺は囲まれていた。
靴先で土の表面を必死で探るが、どこへ弾いてしまったのかライターらしきものには触れない。
探し物をしたせいで、俺はたちまち前後不覚に陥っていた。
……タンッ、トタ……
遠くの方から物音がして俺の心臓が縮み上がる。
フリアか。
いや、フリアは買い物へ出かけたはずだ。
ゆっくりウィンドウショッピングでもしておいでよ、と言って送り出したんだから。
まだ戻ってくるはずがない。
戸締まりだって 確かめた。
……トタ、ギシ……タ……
物音が近づいてくる。
俺は深い闇から目が離せない。
「――るな……」
闘争か逃走か。
人間に残された動物的反応が背筋を震わせる。
「……来るなって言ってるんだよ! 近づいてくるなっ!」
無我夢中で俺は駆け出した。
手探りで音が来るのとは反対の方向へと。
しかしすぐなにかに躓いた。
前のめりになりながら、嫌な汗が全身から噴き出す。
これは……この感覚はあの時の――?
振り回してしまったカメラのシャッターボタンがなにかに当たって押され、ストラップが引っかかる。
フラッシュが眩く弾けた。
白く焼かれた視界に一瞬だけ見えた壁と、乱暴に破壊してある断面――。
壁を砕き、その端に躓きながら内部へと転がり込んだ、という嫌な記憶が俺の脳内に蘇る。
そしてあの古風な人形のような少女セイリードと出会った。
壊れなかった壁こそが夢だったのか。
壊れた壁こそが夢だったのか。
バランスを失った俺の頭を鈍器で砕かれるような痛みが走った。
盛況を迎える海洋祭。
魔星雲による歪の極僅かな頂上期。
呪い。
――違う!
絶叫を吐き出そうとするが、焼けつくように渇いた喉からは声すら出ない。
違うんだ――誰か、誰か俺をここから……っ!
ギシ……
床板が軋んだ。
「シッ、大丈夫だよ。もう行っちゃったみたい」
耳元に甘くかかる吐息。
憂いを帯びた橙色の薄明かりに浮かび上がるレースの髪飾り。
「!!」
床を這い俺は声もなく飛び退く。
赤い巻き毛が遠ざかる。
「く、くく来るなっ!」
からからの喉からようやく言葉を絞り出す。
汗だくの俺は信じられない気持ちでセイリードを見つめた。
セイリードは四つん這いのまま子犬のように追い縋る。
「どうしちゃったの? しっかりしてよロッシュ。まだ扉の中に入ったばかりなんだからね。もう大丈夫そうだよ、行こう」
セイリードの背後では、俺が開けさせられた扉が半開きになっていた。
半ば崩壊した厨房と同じ階にある、あの扉だ。
セイリードがやったのか折れた木材が扉の間挟められている。
心拍数が上がり息が苦しい。
俺は深呼吸を繰り返す。
まだ苦しい。
手の中にカメラはなかった。
「な、なにが……大丈夫なんだ?」
セイリードの言葉の意味がわからなかった。
さっきまでモートン邸から続く地下通路にいたはずの俺が、ハーデンベリア号の船底近くにいる理由もわからない。
頭が痛い。
「頭が痛いの?」
セイリードが覗き込んでくる。
頭を振る。
俺は腰を浮かして退く。
「うるさい質問に答えろ。なにが大丈夫で、なにが行ったって?」
確かにさっき近づいてくる物音はあった。
しかしそれはモートン邸から続く地下通路でのことだ。
ここは俺たちが立てる物音や声以外には無音だった。
「見たでしょ? 真っ黒な影の塊――でも大丈夫あれは蝙蝠だった。びっくりしたね」
「見てないぞ」
つっけんどんな俺の返答にセイリードは不満顔だ。
同時に俺は違和感を覚える。
「待て……船底から蝙蝠だと?」
セイリードが頷く。
右のこめかみを押さえているのは、また頭痛がするためか。
「なにかおかしいの?」
「当たり前だろ、おかしいことだらけだ。なんで蝙蝠なんか」
「奥はとても深くなってるからだよ」
セイリードがランタンを拾い上げる。
掲げたランタンは闇に沈む通路の奥を暗く照らした。
通路というより、もはや廃坑に近かった。
あまりにも不安な穴が、奥まで続いている。
「ここを――行く気か?」
「もっと下まで続いてるんだよ」
セイリードが言った言葉の意味を考える。
俺は強制的に手を引かれて立ち上がっていた。
少女のくせに意外と力が強い。
歩かされていることに気がつき、慌てて小さな手を振りほどく。
「おい、次の扉はどこにある」
立ち止まったセイリードはどこか調子が悪そうだった。
例の大人びた微笑を浮かべる余裕もなさそうだ。
「この様子じゃ、この先はもう船ですらない。ただの洞穴だ。蝙蝠が飛んできたっていうならなおさらだ」
「うん、その通り……」
俺の手を離した小さな手が、再びセイリード自身の頭に添えられる。
「早く、呪いを解かなくちゃ――足がふらついてなんだか、とっても」
ついにセイリードが土砂の雪崩れ込んでいる廊下へ膝をついた。
驚いて手を差し伸べるが間に合わない。
ランタンの明かりが大きく揺れた。
「おい、セイリード?」
返事がない。
いつもべらべら喋る呪われ少女が急に黙り込むと、清々するというより怖くてたまらない。
小さな肩をそっと揺する。
「…………これは、罰なの」
散々泣いた後の掠れたような声でセイリードが微かに呻いた。
俺に言った言葉なのか、他の誰かに向かって言った言葉なのかわからない。
「しっかりしろよ。俺だって今すぐにこんな場所からおさらばしたいが、気分が悪いならもう少し休んでから」
「…………時間がない」
真剣な声に身の毛がよだつ。
時間がないというのは、やはり魔星雲のことだろう。
この状態で問いただしても返事は返ってきそうもない。
外へも出られない。
ならば俺にできることは。
「じゃあ解きに行くぞ、呪いなんかくそ喰らえだ!」
キシャ――ッキャキャキャキャキャッ!
奇怪な鳴き声とともに蝙蝠の羽ばたきが俺の耳元を掠めていった。
セイリードが言った蝙蝠の話は本当だった。
俺は少女を背負い上げ、ランタンを拾う。
とたんに彼女の体重がズンッと重くなった。
「っとと、わっ、おま……急に――」
俺はよろめいて耐えた。
背に巨大人形が圧し掛かるような不自然な力の加わり方だった。
「…………あ、」
虚ろな声をセイリードがあげる。
「…………セレだ」
「っじゃないっ俺はロッシュだって!」
「…………ンフ冗談、冗談だよ」
その瞬間に後ろから首を絞められた。
それが殺意ではなくギュッとしがみついているだけだと気づくまで少し時間がかかった。
俺も少女の体が背負いやすくなったので仕方なく歩き出す。
「さっきより少しはマシか?」
「……うん、心配した?」
「俺の背中を死に場に選んだ不遜者かと思ってぞっとしただけだ」
「あったかくて広くていい匂いがして死ぬには悪くない場所かも」
「断る」
「死ねたらね」
セイリードの声に憂いの要素が混ざる。
俺はなにも返せない。
時々立ち止まり、靴の先で足場を確かめながら深部へと下りる。
そこは船底ですらなかった。
縦横無尽に走る、地下にできた細い亀裂のようなところだった。