塗り潰された地図(+表紙)
第一章 彷徨
7月10日
窓の外を吹き荒れていた嵐は
昨夜のうちに魔声を響かせながら
北東の方角へと去っていった
夜空が騒ぐ。朝が来る
今日もわたしは救われない。なにも救われない
明日も、明後日も、訪れることがわかっているというだけの籠の鳥
遠い、時間。遠いだけの、存在
妙なことにその街の地図は、ど真ん中がほぼ真四角に塗りつぶされていた。
「なぁ店主。ミロンズタウンの地図って、どうして中心が空洞なんだ? これも……こっちのやつもみんなそうだ」
手にした三冊目の地図を閉じ、この国において外国人である俺は、小さな書店の店主にここの言葉で尋ねた。
髪の色にしてもバナードでは俺のような茶金も多い。
首から提げた巨大な一眼レフカメラと亀の甲羅のごとく背負ったバックパックがなければ、旅人にすら見えないかもしれない。
店内に客は俺一人だけだった。
「その部分を描く人間がいないのさ。印刷不良じゃあないから返品はきかないよ」
白髪の店主は、曲がった背中でレジカウンターの向こうから答えた。
西大陸東端における海の玄関口のひとつ、貿易国フィーンの首都バナード。
その中心、セントラルタウンから電車で六駅ほど東へ行ったところに、ミロンズタウンと名づけられた時代遅れの古い街があるのを、俺だってこれまで知らなかったわけじゃない。
去年、事故に遭ってからというもの、どうも三半規管が弱くなりひどく乗り物酔いしやすくなってしまった俺が、酔い止めの薬を飲んでわざわざ飛行機に乗り、バスと列車を乗り継いで、人々から忘却されたこんな辺鄙な街へ立ち寄ったんだ。
バナードで古い街並みを見物したいのなら、国家遺産の大聖堂や昔の城跡なんかがある、セントラルタウン寄りのサンオランドタウンを訪れるのが観光の常識だ。
バナードを訪れた人間から「ミロンズタウンへ行って来たよ」などという言葉を、俺は一度も聞いたことがない。
もしかしたらこのまま数日、フラフラとあっちの街こっちの街と気の向くままに流れ行く旅になるかもしれない。
今朝の時点で特に行き先を決めていなかった俺は、早々に宿代を清算し、近くで見つけた朝も店仕舞いしないパブで酒くさい茶をすすった。
空港は北。
西は山。
向かうなら東か南だろう――いや待て。
南は暑すぎる。今は七月だぜ?
そんな消去法から東へと進路を取った俺が、列車の揺れに嫌気がさし、新鮮な空気を吸おうと降りたった駅がミロンズタウン。
どうせなら地図でも得て歩いてみようと、店を開けたばかりの小さな書店に入ったわけだ。
一冊目を開いてこの辺りの地図を記したページを探し当てた俺は、真四角に塗りつぶされたこの街の中心部分を見つけ不審に思った。
インクでベタに塗りつぶされたその部分は、他のごちゃごちゃと描かれた部分と比べるとあまりにも異質で空虚な雰囲気を漂わせていた。
まるで巨大な穴でもあるかのように見えた。
「ふうん。この部分を描く人間がいないねぇ……なにか理由でも?」
気軽な感じで俺は尋ねた。
確かに自分でも好奇心がかなり強い方だと自負している。
けれどこのときはまだ、いつでも流してしまえる程度の軽い好奇心しか抱いていなかった。
「理由とな――あんた留学生かい?」
きょとんとした目で老人が逆に訊いて寄越す。
「いいや、カメラマンさ。とはいえ、十日前に辞めて今は自由を堪能している最中なんだ」
「辞めてしまったのかね。この不況にもったいない、若いのに」
「俺の人生だ。掃くも捨てるも俺の自由だよ」
「ハハ、たいした度胸だ。もしかしてあんた、有名なカメラマンだったりしてね」
俺は首を横に振る。
「間違えても、この書店に俺の名前が乗っかっている本は一冊もないね」
「いやいや、案外知っているかもしれないよ――試しに名前を言ってみてごらん」
なんとこの街に珍しい人物がやってきた――そんな調子で老人の目が輝き出す。
これはバッサリ言ってやった方が、この老人にとっても幸せだろう。
「ロッシュ=カートレイ。――ホラ、そんな名前のカメラマン聞いたこともないだろ」
老人は、萎んで困った顔をした。
「……うむ、そうさな――たぶん聞いたことがあっても忘れてしまったのだろう。あぁ、もしかしてお客さんが撮るのはアチラの写真集の方かい? 若い頃はわたしも好きで親に内緒でこそこそ買い付けたものだがね、ベッドや絨毯の下に隠したりして――」
「いやいやそっちじゃないよ、俺が主にやっていたのは街の情報や流行物を載せた雑誌の仕事だ。どうせ無名のカメラマンだった――ちょっと待て、思いっきり話が逸れてるじゃないか」
あまりにも露骨に質問を流されたのでさすがに少しムッとした。
古典は嫌いじゃないが、この手の老人のノリに付き合うのは億劫だ。
俺はがらんどうの空洞が描かれた地図を手にしたまま店主を顧みた。
品揃えが多いとも決していえない書店だ。
こんなんでよく商売が成り立つな、だいたい本が探しにくいんだよ、棚も古い、床板も歪んでる、などと思いついたマイナス要因をことごとく脳内で羅列していたら、店主がおもむろに奇妙な形に口を尖らせ、意味深な囁き声で呟いた。
「呪われていてはやむを得まい」
「なんだと、俺がか? 空洞がか?」
歪んだものを引きずったままで俺が聞き返す。
「もちろん空洞の方さ、実際には空洞になっているわけではないがな。関わらない方がいい、バナードの人間は誰も目を向けんよ」
突然質問に答え出したと思ったら、なんだかオカルトめいたことを口にした店主だった。
俺は今一度手元の地図へ目をやった。
街の中心部分はまさに空洞のごとくそこにあるだけだ。
注意書きもなにもない。
面積は一ヘクタールやそこらはゆうにあるだろう。
これを見る限り、その場所が単なる空き地になっているのか、いくつもの建物が林立しているのか、森になっているのか、山になっているのか、まったくわからない。
ヤバイ。
俺の心の中に住み着いている好奇心という名の子ウサギちゃんが、水を得た魚のようにピョンピョン嬉しそうに飛び跳ね始めていた。
溺れるなよ、と戒めたところでピンクの子ウサギちゃんは可愛らしくウインクしながら耳を塞いでしまう。
まいった。
「その場所にはなにがあるんだ? 近づいて実際に呪われた人がいるとか?」
俺の頭がつい取材モードに切り替わる。
学校を卒業後、俺は写真家だった父親の友人の下でカメラマンとしての修行を積んだ。
二十一歳でプロとして雑誌社に雇われた才能を、誰もが認めた。
が、小さな会社だ。ときにはライターのような仕事もやった。
カメラマンとして雇われたはずが、実際には雑用係とたいして変わらなかった。
勤めたのは二年と少し。
ここでペンとメモ帳を引っ掴まなかっただけ、俺の職業病は快方に向かっているのかもしれない。
けれどまだまだ絶対安静の身のはずだ。
そのことをフッと思い出し、俺は静かに地図を閉じて元の場所へと戻した。
仕事というものは三ヶ月続けば三年続くものだよ、などと最初に言い出したのはいったいどこのどいつだろうか。
店主も言葉を選びあぐねているのか、口を開くのを躊躇し、右に左に視線が定まらない。
「ああ、やっぱりいいや。ここは黙って土地の人の忠告に従うよ」
強張っていた頬の緊張を解き、肩の力を抜き、苦笑いのようでしかなかったが俺は礼のつもりで店主へ笑い顔を作った。
この老人は、俺を発作から救ってくれた恩人だ。
「その方が賢いよ。おまえさん、次はきっと成功するさ」
「俺はいつだって成功してるよ、深みに嵌っても思いのほか後悔はしないタチでさ――あ、でもその前に」
店を出かけた俺は思い返して戻り、レジカウンターへ立った。
「いずれにせよ地図は必要だ。初めての街で、うっかり迷ってしまいたくないからな」
「それもそうだ。――もしミロンズタウンの地図だけで事足りるならば、これが持ち歩きやすい上に詳しく載ってる。おまけに値段も安い」
店主はカウンターの横に置かれた回転棚から薄っぺらい一冊を手にとって、差し出した。
「それで十分だ」
「四ペナと三十四セティいただくよ」
俺は財布から一ペナ札を五枚渡す。
「つりはいらない。床板を直した方がいい」
「その前に棚だ。本が探しにくいのが難でね」
店主の言葉に俺は思わず噴き出してしまった。
わかっているならさっさと直せばいい。
「かなたまで」
店主が言う。
不思議な言い回しに俺は振り返る。この地方で交わされる独特な別れの挨拶だ。
どうやら方言のひとつらしい。
「かなたまで」
俺も土地の人に倣って、軽い笑顔と挨拶を返した。