……あたしのこと、キライ?
「――ねぇ、やっぱり怒ってる?」
砂城が波にさらわれ崩れ去った後で、すぐにまた別形状の城が構築されて目の前に現れる――そんな幻想によく似た感覚の中で、俺は全ての景色を疑った。
耳の傍で囁くのは少女の甘い声。
彼女はランタンに古い油を注ぎ足すのに四苦八苦していた。
驚きのあまり俺は声が出ない。
数秒前までエルヴィタウンのビジネスホテルでクラッカーをかじっていたんじゃなかったか。
思考が混濁して、頭を振る。
「気がついてくれてよかった。あんた今度こそもうダメかと思ったよ」
首元へ巻きついてくる少女――セイリードの柔らかな腕、赤い袖。
せっかくモートン邸から出て清々したっていうのに。
「わあっやめろっ!」
俺は心底恐怖を感じた。
セイリードの腕を掴み上げ、そのまま突き飛ばした。
「ったたあ――そんなに怒らないでよ……でも怒るよね――ゴメンなさい」
「……なにを謝ってる」
背後でゴトリと物音がたつ。
もう五センチ少女から遠ざかろうと腰をずらしかけて、真後ろの扉に肘があたってしまった。
押しても引いても開かず、それでも破ろうと格闘した扉だった。
少女の背後には人骨が散乱する廊下が長く長く続いている。
まるで世界の終末を表現した構図。
最悪だ。
モートン邸から離れたというのに、また悪夢の中に舞い戻ってしまった。
そして扉は開かなかった。
入ってくることはできた。
外へ出ることはできない。
埋没した座礁船とはいえ、やっぱりここもシークレットバーリーの呪いそっくりじゃないか。
「あんたにひどいことを言ったわ――『あたしに近づかないで! こっちに来たら目ン玉くり抜いて鼻をちょん切ってやる! 箱へ詰めて暖炉にくべてもやしてやるんだからあ!』なんて、たとえ頭痛が酷すぎてむしゃくしゃしてたとしても言っちゃいけなかったよ。本当にゴメン」
「今言われなかったら知らなかったことたぞ」
まったく身に覚えのないことだ。
「もしかして聞こえてなかったの? あたしが酷いこと言ったから塞ぎ込んじゃったのかなって――だってもうずっと動かないから」
「動かない?」
「魂が抜けちゃったみたいに。それとも目開けたまま寝ちゃってたの?」
「そんな器用なことできるか。目を開けたまま俺がここで呆けてたっていうのかよ」
「そうだよ。本気で心配したんだから」
セイリードが首を揺らして大きく頷いている。
俺は鼻で笑ってやる。
「知ったことか――おい待て、その床板の継ぎ目からこっちへ近づくなよ」
「え……」
「頼むからこれ以上俺の気を狂わせないでくれ。わかったか」
このハーデンベリア号での出来事と、モートン邸やエルヴィタウンでの今日の出来事。
考えれば考えるほど混乱する。
足元では白骨化した人の頭部が無音の絶叫を上げている。
「あんた、気が狂いそうなの? どうして?」
「またもや夢でおまえとこうして話をしなきゃならないからだ。シークレットバーリーにもおまえにももう関わりたくない。なにもかも忘れたいんだ」
「……あたしのこと、キライ?」
「当然のこと訊くな。おまえとはここでお別れだ。俺は扉を開いて勝手に出て行く。じゃあな」
「待ってよ待って。扉を開けるの手伝うからお別れなんて言わないで」
「傷だらけのそんな手でなにができ……コラっ、来るなって言――来るなよ!」
スクッと立ち上がり、こちらが言ったことなど完全無視で床板の継ぎ目を越えてやってきたセイリードが、扉を無茶苦茶に叩き始める。
ドンッダンッドンドンダンドンッ
「開いてよっ、開いてよお――っ!」
ドンッガリリッダンッガリガリガリ……
「おい、だからそうやって引っ掻くなと――」
「開け、開け、開いてえ――っ!」
「わかった! わかったから待て、待て! セイリード、部屋の扉のことを思い出せ。力ずくでやったって無駄だったんだろ?」
「そのあんたの横に転がってる、さもどっかから力ずくでもぎ取ってきたみたいな長くて太い棒と、この扉についてるどう見ても新しいキズはなによ」
「え、あ、これは……まあ、多めに見てくれよ。俺も今思い出したんだ」
無我夢中で扉を殴りまくるのに使ったいらない覚えのある棒が目に留まって、俺は自分がどれほど取り乱していたかを知る。
我ながら不甲斐なく思う。
気づけばまたすぐにでも頬が触れ合いそうな位置で、セイリードと顔を見合わせていた。
「扉は開くのかな……開くかどうかなんてわからないよね。あとどれだけ待てばいいの? あたしの呪いは解ける?」
「わからないって自分で今言ったばかりだろ。俺に訊くな」
「黙って待つなんてもうイヤ。あんたがここへやって来て、部屋の扉も開いた。チャンスは今しかないと思うの」
「この悪夢の埋没船から出られなきゃ俺だって困る。でもあと数時間か数日くらい、おまえには待つうちに入らないだろ。二〇〇年もあの部屋にいたんじゃないか」
「だからイヤなの、もう一時間だって待ちたくない。……ねえ、こっちに来て」
瞬間的に俺は身構えた。
今度はなにをする気だ。
「なにもしないってば。さっきは『近づかないで』なんて言って本当にごめん――来て、奥で見つけたものがあるの」
「まさかおまえ、俺を食う気か?」
「なに言ってるの? あたしは確かに呪われてしまった人間だけど怪物じゃないんだからね。失礼な人。ねえ、早く」
俺にとってはセイリードも立派な怪物だ。
少女の手が俺の手を引く。
人骨の隙間につま先を下ろしながら、扉とは反対側へ向かって行く。
どこへ連れて行こうとしているのか。
「手、痛そうだな」
くだらないことでもなにか話していないと気が狂いそうだ。
俺は気になったことを言った。
「手? あぁ――やっぱりあんた優しいんだねえ、ンフ」
頼むからその笑い方は怖いからやめてくれ。
「手っていうのは重要だからな。仕事柄、手をよく使う人間だから怪我してるのを見たりすると気になるってだけだ。優しさってよりは単なる職業病にすぎない」
俺は自分の壊れてしまった右親指を見下ろす。
見た目にはわからないがほとんど動かない。
新聞をめくるときも、人差し指と中指でめくる。
格好ぐらいはつけられるがそれだけだ。
「そういえばあんた、なに屋さんなの? 訊いてなかったけど」
「元カメラマンさ。――雇われていた職場を辞めて、今は休業中なんだ」
セイリードが首をかしげる。
「もとかめらんまってなに?」
「カ・メ・ラ・マ・ンだ。『写真機』って言ったら通じるか?」
「ああ、写真とか撮るするのやつ」
ますますよくわからない言葉遣いになっているが。
「そうか、二〇〇年前っていえば写真機なんてものも世の中にまだほとんどなかった時代だから、おまえには馴染みがないんだな。今はカメラというんだ」
「……外の世界はなんだかものすごいことになってそうだね」
「カメラくらいどの家にも一台はあるだろうな。俺は雑誌に載せる写真を撮って金をもらってたんだ」
足元で人骨が乾いた音を立てる。
俺の背筋に悪寒が駆け上がる。
「ふうん……どうして辞めちゃったの?」
セイリードの髪飾りが歩調に合わせて揺れる。
どうして?
どうして。
「……いやになったんだろうな」
まるで他人事のような口調で言っている自分に気づいた。
ぞっとする状況で気が散漫になっているから、というだけではない。
逃げだ。
俺はあの殺伐とした仕事場から――飢えた野獣のような人間関係と戦争のような毎日から逃げ出して来たんだ。
「カメラマンを休業にして、ハーデンベリア号に飛び込んできてくれたなんて感激だあ」
セイリードがちらりと横顔を見せる。
白骨化した大腿骨を踏み砕き、慌てて前へ向き直る。
「そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけ?」
ひとりふらりと立ち寄ったミロンズタウン。
せっかくならと書店で手に入れた地図。
昼食を買った店の近くで目にした鉄柵。
前日までの嵐で崩落した石壁と、見つけてしまった地下通路。
海洋祭と魔星雲。
それに隠居生活を送る冒険好きの元医師や、美人な小間使いとの出会い。
「まあ、色々だ」
「ふうん。今は持ってないよね、カメラ」
「ホテルの部屋に置いてある」
はずだ。
「そうなんだ」
少女の性格からして、カメラに触りたいだの写真を撮れだの騒ぎ出すのかと思ったがそれ以上なにも言ってこなかった。
上がってきた階段を無言で下りてさらに廊下の先へと進む。
「あっちにね、もうひとつ開けたい扉があるの」
唐突にセイリードが言った。
セイリードは救助隊について座礁船へやって来たという。
船内のことは少なからず記憶にあるのかもしれない。
「外へ繋がってるのか?」
俺はセイリードに手を引かれるままついていく。