紅茶占い
第三章 螺旋
8月2日
遠く鳴り響く笛や太鼓に弦楽器、舞踏――
くだらない
愚かな者たち
けれど、今年だけは特別
待ち焦がれていた強い幸福感
わたしは嬉しい
水車は逆さに回り始め、稲妻が天空を駆け上がり、魚は空を飛ぶ
神々の七つの吐息は、偉大なる暗幕に閉ざされる
半地下になった一階部分にあるモートン邸のダイニングルーム。
シャンデリア型の照明の下で、俺はひとり、この屋敷へ来て初めて自分の手で淹れた紅茶をすすっていた。
かけ時計を見上げると、朝の七時半を回っている。
夜明け前、俺は一階にあるキッチンまで下りてきて水を飲み、またそのまま真っ直ぐ自分の部屋へと戻った。
けれどやわらかなベッドに飛び込み脱力してみても、体の疲れは全然抜けてくれなかった。
眠れもしない。
しかたなく起き上がり、カメラの手入れをして時間を潰していたが、フリアが仕事を始める頃合いをみて茶でも淹れてもらおうとダイニングルームへ降りてきた。
キッチンにも洗濯室にも彼女の姿はなかった。
モートン邸の朝は遅くても構わないのかもしれない。
住んでいるのはモートン氏と俺、そしてフリアだけだから。
そんなことを思いながら生ぬるく時間を潰していた。
「あっ……」
ぼんやりしていた俺の頭が、突然開いたダイニングルームのドアでひと息に覚醒させられる。
入って来たのは他でもないフリアだ。
俺と目が合うなり気まずそうな顔をする。
彼女はまだエプロンもつけていなかった。
黒に近い藍色のワンピース姿で、帽子すら被っていない。
まとめていない栗色の髪を彼女は下ろしたままだ。
帽子にすっぽりと隠されていたので、今まで長さがよくわからなかったが、彼女の髪は肩のあたりで揺れる程度のセミロング。
「おはようございます。あの……スミマセン、いらっしゃると思わずに――」
小さく会釈をした彼女は、そんな格好をしているといっそう仕事着ではなく喪服でも着た魅力的な女に見えてしまう。
あいかわらず愛想笑いすらないが。
「いいや、俺の方こそ勝手に女の聖域へ立ち入ってしまった」
「すぐにおかわりをお持ちします」
フリアは手首に通していたヘアゴムで、慌てて髪を小さなポニーテールに結い始める。
言われて初めて、俺はカップが空になっていることに気がついた。
キッチンへと引っ込み、トレーの上にティーポットを乗せてやってきたフリアは、当然ながらすっかり身支度を整えていた。
俺はつまらなく思いながら彼女の手元を眺めていたが、あっと思い出してその手を止めさせた。
「その前に。これってどういう意味?」
警戒するフリア。
手と手が触れそうになったからって体ごと引かれるとはショックだ。
けれど彼女は、すぐに俺が指差すカップの底を覗き込む。
底に残った僅かな紅茶が乾きかけていた。
「鳥のカタチは、大きな前進の暗示です」
「それって恋愛運?」
「全体運です」
そっけなく言ってフリアはカップにピチャリと紅茶を注ぎ始める。
俺のため息が湯気に混ざる。
笑顔と慈愛に満ちた優しきフリアの幻想が、その向こうに霞む。
ティーポットをトレーに戻しながらフリアは静かに言った。
「昨晩は申し訳ありません。夕食のご用意ができずに」
「え……ああ、そうだったの。朝方まで壁――壊れた天井のところにいてわからなかったよ」
俺も驚いたが、彼女も驚いていた。
「朝方まで直してらっしゃったんですか?」
「まさか。ちょっと居眠りしてしまってそのまま朝までそこで……ハハハ」
「防毒マスクを被ったまま居眠りだなんて、誰でもできることじゃありません。カートレイさん、あなたは本当に器用な方ですね」
夢の中で散々『あんた』呼ばわりされていたせいか、いつもと変わりないフリアの口調だというのに女神の蜜声にしか聞こえないからひどい。
「まあね。昨日はどうかしてたよ」
実際、どうかしてる。
夢だとはわかっていても、昨晩のことについて自分でもなんだかよくわからない。
「ところで君の方はどうかしたの?」
「はい、サー・モートンのお加減が悪くなって救急車を呼んだので今朝方まで付き添っていました。もう心配はないというので、わたしだけもどされたのです。サー・モートンは病院の方に車で送らせるとおっしゃっていました。お昼頃には戻れるだろうと」
「そんなことが? 全然知らなかったよ」
驚くと同時に、大変なときに地下通路で居眠りをしていた自分を情けなく思った。
「で、モートンさん、なんだったの?」
「とても血圧が高くなっていたそうです。このところほとんど部屋に籠もりきりの生活ばかりしているせいか、体中の関節のこわばりがひどくて。入院も勧められたのですが、サー・モートンがお断りになって」
「そう……」
モートン氏の一番の気がかりは、やはりあの壊れない木壁だろう。
魔星雲の影響が最も強いといわれる時期はあと半月を切っている。
けれどそれほど病が進行しているのなら入院するべきだ。
壁を壊すことができなかったと告げれば、モートン氏も諦めて大人しく入院してくれるだろう。
「心配してくださっているんですね。ありがとうございます」
「もちろんだよ。世話になってる身だからね」
それだけというわけでもないが。
「ひと晩病院でモートンさんについていたなら疲れたでしょう、君も」
「いいえ、わたしは平気です。それよりすぐに朝食の準備をいたします。夕食も召し上がっていないんでしょうし」
「ああ……でもあんまり腹も減ってないんだ。それより少し寝るよ。寝れればの話だけど」
別に遠慮したわけでもない。
特に小食でもないが、俺は空腹を感じていなかった。
疲れすぎて体の嵩が減った気さえする。
「そんなに寝て、まだ寝たいだなんて」
「俺はいつだって寝たいよ」
「話が逸れてます」
別に頬を赤らめるわけでもなくフリアは冷たく返す。
それでも俺が半ば本気で言った冗談に、場の空気だけは多少緩んだ。
緩まなくてもいいから、意識してくれてよかったのに。
「実はなかなか疲れがとれなくて。固い場所で眠ってしまったせいかな」
「薬箱の中に、よい薬があったと思いますが」
「薬は結構。ある薬を手放せない身でね。飲み合わせは極力避けたいんだ」
「酔い止めのお薬ですか。色々とメンドウですね」
「ああよく言われるよ。メンドウな男だって……え?」
つい口が滑って、顔を上げるとフリアの目が微かに笑っていた。
上手く嵌められたようで俺の胸に悔しさがこみ上げる。
「なんだよまったく。またもや君にマイナスのアピールをしてしまった」
「心配なさらないでください。気にしませんから」
「ちょっとは気にしてよ」
俺はわざと冷たい視線を送ってやる。
フリアは俺と目を合わそうとしない。
「お昼前にでも起こしに伺いましょうか」
「いくらなんでもその前に起きると思うよ」
わかりました、と言ってフリアはダイニングルームから出て行った。
今のは彼女なりに気にしてくれたということだろうか。
そうなんだろうか。
胸中に棲みついてやまないこの屋敷の小間使いフリアはやはり無視できない存在だ。
自分の部屋へ戻った俺はベッドに体を横たえ、長らく髪を解いた彼女のことを考えていた。