喋る人形
微かな物音に瞼を開き、俺は愕然とした。
気を失いかけたことに対してではない。
ランタンに照らされただけのゴーストハウスのような暗い部屋の中で体を起こすと、やはりすぐ横にドレスの人形が座っていて、しんとこちらを眺めていた。
つるはしで破壊した壁を越えたときから、おそらく俺の頭はどうにかなってしまったんだ。
「やりすぎたかもね……、あたしもどうかしてたの。今反省してたところだよ。考えてみれば、あんたよくわからない呻き方してたけど、ちゃんと声を出してたものね」
ハハハ……やっぱり喋ってるぜこの人形――。
しかも俺は殺されずに生かされている。
「おまえさんは、人形だ」
気を失いかけていた間にも、頭の線はブツブツと切れ続けていたに違いない。
そしてアッチの線とコッチの線がなにかの拍子に間違って繋がったらしい。
俺はとうとう傍らにいるそれに話しかけていた。
「――人形?」
小首を傾げるそれの声。
「とぼけんなよこのやろう」
「だってあたし人形じゃない」
「そうかいそうかい、じゃあそう言い続けてりゃあいい。都合のいいことに、俺は今頭がおかしいんでねかなり」
「どうしてあたしのことを人形だなんて言うの?」
振り向くと、それはやはりじっとこちらを見つめている。
煤けたような頬と、櫛も通されていない赤い髪の毛――人形といえど、不憫に思った。
可愛がってやれば、こんな場所へ放置されずに誰か別の人の手にでも渡って行けただろうに。
「理由は簡単、ここは二〇〇年も前に建てられた建物だ。その上、周りを石壁と鉄柵で厳重に囲まれていて近づくのも難しいんだぞ。生きた人間なんかいるわけがない」
建物? と首をかしげて人形が理解できないと言いたげな表情を作る。
「よくわからないけど――でもあたしは生きてるよ、呪いなの」
「呪い? ハハハまた出たな、その言葉ちくしょう」
しばらくの間、俺は笑い続けた。
笑い続けて、けれどふいにとてつもなく嫌な予感がした。
モートン氏も言っていた。
シークレットバーリーは呪われているのだと。
俺は恐る恐る背後を振り返る。
そこには薄汚れた壁があった。
右を見て、左を見る。
どこにもない。
破壊した壁が。
「さては隠したな!」
俺は『人形じゃない』とおかしなことを訴え続ける少女のカタチをしたそれを、激しく睨んだ。
「なんのこと?」
「壁だ! 俺がこの建物に入るために壊した壁だ! 隠したんだろ!」
「なに言ってるの? 壁なんてどこも壊れてないよ。あんたは突然ここへ転がり込んで来たんだから、あたしの方こそ訊きたいよ。――あんた誰? どうしてここへ来たの? こっちが訊きたいことだらけだよ」
俺は絶句する。
恐怖が体を叩き起こし、気づけば壊したはずの壁に張りついてガシガシ全力で叩きまくっていた。
けれど壁はびくともしない。
亀裂の類すら見当たらない。
やがて俺は壁を叩くのをやめた。
また気を失いそうになって、ギリギリ失わなかった。
その代わり、叩いていた壁へドンッと背中をついたとたんに膝から崩れた。
内側から開かないのはシークレットバーリーの玄関口の扉や窓。
破壊した壁までもが閉ざされるとは聞いていない。
「――あたしね名前はセイリード。よろしくね」
人形が――否、呪われた少女が自己紹介するなよ。
人形でなく人間だというなら、彼女は十歳? 九歳? いいや八歳にだって見える。
「あんた名前は?」
「――ロッシュだ」
馬鹿正直に答える。
呪われ人に楯突いたらら逆に呪い返されそうな気がした。
「ロッシュ……かぁ――セレじゃないね、さっきはごめん」
彼女が人形ではなく少女だというなら――状況が状況だけに無理矢理にでも飲み込んでやろう。
けれどそれとは別の違和感があった。
「どうしてここへ?」
膝を抱え、上目遣いでこちらを見詰めるセイリードの瞳は淡紅のワイン色。
大きな目の澄んだ視線に負けて俺は目を逸らした。
「なにがあるのか不思議でたまらなかったから知りたかった。病状が悪化してここまで来たってところだ」
「病状――あんた病気なの?」
「『好奇心過剰病』」
セイリードは一時は堪えたが、我慢できなくなった様子でンプッと笑った。
「セレもそうだったよ。あんた見た目だけじゃなくて本当にセレに似てるのかもねぇ」
薄暗い中でボロ雑巾のようなドレスを着た少女が目を細める。
「さっきから言うそのセレって誰だよ」
当然の質問として俺が訊く。
セイリードの顔からたちまち笑顔が消えた。
「英雄……かな。人一倍好奇心が強くて、冒険が好きで、けどそれで命を落としちゃったっていう……ね、英雄みたいでしょ」
「オイ、俺は好奇心が強いし冒険も嫌いじゃないけど、命は落としてないぞ」
「そうだよね。うん、あんたはセレじゃないわ」
ンフフとセイリードに笑顔が戻る。
俺は目の前の少女が笑ったことにホッとしたりせずゾッとしている。
そしてすぐにこの絶望的な状況から抜け出すために立ち上がった。
「どうしたの?」
「帰る」
さっきまで俺を取り囲んでいた墓場だなんだという想像は消えていた。
時計を見ると二時半過ぎをさしている。
三時になればフリアが茶を淹れてくれる。
それまでに帰り、なにもなかった顔をしてフリアに言うんだ――『修理は無事終わったよ』と。
それからモートン氏にことを報告し荷物をまとめ、明日朝一の列車でバナード空港へ向かう。
あとは今ここで起こっていることを忘れてしまえば、なにもなかったも同然。
俺はランタンをひっ掴むと、つるはしに代わるものがないか部屋の中を探し始めた。
扉からは出られない。
『人喰い屋敷』の異名を持つシークレットバーリーの玄関は、入る者を拒まないが、過去に誰一人として出てきた者はいない。
これはもう壁を再び壊すしかない。
「帰るってどうやって?」
火がついたように動き回り始めた俺のことを目で追いながらセイリードが訊いてくる。
「壁を叩き壊す」
「手伝おうか、無駄だと思うけど」
「無駄?」
「うん、あたしもやってみたけど全然壊れなかった。扉も開かなくなってるし、外には出られなかったよ」
「この地下室の木壁は壊れたんだ。壊れなかったのは、おまえさんの細っこい腕だからだろ」
俺はハハンと笑ってやる。
ここから出ることを考えるとがぜん力が湧いてきた。
「そうかなあ……そうなのかなあ――でもあたしはムリでも、あんたはいきなりここへ入って来れたんだから、いきなり出て行けることもあるかもしれないよね。あ、ねぇ、ロッシュ……っていったね。さっきから建物だとか、地下室だとか言ってるけど」
背後でセイリードの声が右左に移動する。
無駄無駄と言いながら、彼女もそれなりに壁工作に使えそうな道具を探してくれているようだ。
「ここ船の中だよ」
「ふね?」
中腰で木箱の中へ手を突っ込んでいた俺は固まる。
「今、なんて言った……?」
「船。おフネ、だよ」
少女は生真面目な声で言う。
意味がわからない。
「シークレットバーリーだろ?」
「そんな沈没しそうな名前の船じゃないよ。豪華客船ハーデンベリア号だよ」
なぜかセイリードは小さな胸を張って見せた。
「座礁とその後の地震とで、見た目には船とかけ離れちゃってるかもしれないけれど」
「それどころか跡形もない。ここは地下に埋まってるんだぞ」
俺は天井を指差し、あきれ果てる。
セイリードはぽかんとしていた。
地下。
地下か……と、うわごとのように言う。
その後も、地下地下と小さな唇で繰り返している。
「だいたい船ってなんだよ。ミロンズタウンのど真ん中だぞ。海なら線路を越えた向こう側だ」
セイリードは壁を向いたまま、その向こうに広がる景色を一心に思い描いている様子だった。
まさかこの壁の向こうに、青い大海原でも空想していたんだろうか。
あるのは老人が多く住む、運河と硬くて歩きにくい石畳の街だ。
「街……二〇〇年……。そう……ずいぶん年月が、経っているんだよね」
幼い横顔と淡紅色の瞳を壁に向けたままセイリードが歩き出す。
かぱっかぱっとヒールが惨めな音を立てる。
やがて止まる。
少女の手が薄い本棚を横へとずらす。
ほらね、と振り返る。
そこには古い船にありがちな丸い窓が存在していた。
ガラスの向こうは闇。
岩石やら土砂やらに景色が閉ざされている。
船と言った彼女の言葉が真実に思えてしまう丸窓。
俺の頭はますます混乱する。
シークレットバーリーの地下が船?
それから少女はその場にうずくまった。
俺の言葉がよっぽど酷く響いたらしい。
「――レ……セ……ごめ……ね――」
うお、これが呪いか。
人形少女のうわごとに俺はかける言葉もない。
けれど、もしセイリードの言うとおりこの地下室がシークレットバーリーじゃないとすれば、『人食い屋敷』の呪いとは切り離されているはずだ。
混乱と薄明かりの中で、僅かな希望を見出す。
片頬を灯に染め、塞ぐ少女が視界の端にいる。
どうせ呪いだ。
関わった非日常ついでに、俺は似合わないことをしてみる。
ポケットに手を入れ、少女にハンカチを差し出してやった。
「あたし泣いてないよ?」
「うるさい。泣いてるように見えたんだよ」
俺はハンカチを引っ込める。
――前に、奪い取られた。
セイリードが微笑む。
その無理な微笑みに、俺はまたぞっとする。
目を逸らす。
「ともかく一秒でも早く、ここから出るぞ」
俺は心に決める。
探し物を続ける。
「無理だって言ってるのに、さっきもあたしを人形だとか言て、ロッシュって空想家だね」
先ほど感じた違和感の再来。
一瞬だけ考え、結論に至った。
少女のわりに艶っぽすぎるからだ。
気味が悪いくらいに。
俺は屈みこんで、朽ちかけた木箱の中を引っ掻き回した。
けれども、相変わらず不幸は続く。
道具らしい道具がこの部屋にはひとつもない。
なんとか役に立ちそうなものとして、ランタンに使えるかどうかも怪しい油のビンを大小数本見つけたが、そんなものでは壁は崩せない。
三時はとっくに過ぎていた。
フリアは心配しているだろうか。
有害ガスにやられてカートレイさんは死んでしまったとでも思っているだろうか。
探しものに疲れ果て、俺は壊れたソファに重い体を横たえた。
思った以上に疲労感が強い。
「ねえ、大丈夫? 息切れまでしてる」
「爺さんじゃないぞ、まだ」
「うん、わかるんだけどね。ちょっと具合悪そう」
セイリードがやってきて、ソファの端へちょこんと座る。
その部分が重みでペコリと沈んだ。
「暗闇にでも酔ったかな……おまえさんは強いよ。人形とはいえ二〇〇年ちかくもこんなところにいるんだから」
「だから人形じゃないって言ってるのに。あたしだって何事もなくずっとここにいるわけじゃないよ。最近、特に頭が痛くなるんだよね」
セイリードは、俺のハンカチを握ったままの手で葉飾りとレースのついた頭を抱えた。
人形の頭痛。
思わず噴きそうになる。
人間ならば二〇〇年も同じ部屋に居続けて頭痛で済むわけがない。
もう少女でも人形でもどっちでもいい。
俺は早くここから出たいだけだ。
ぞっとする寒気を鼻で笑って追いやる。
そんな些細な動作でいよいよ目が眩んだ。
「あれ……ロッシュ、いきなり――どうしたの、眠いの?」
「わからな――」
体を起こしかけて、俺は睡魔のごとき感覚に自由を奪われた。
上半身が前へ倒れていくのがわかったが、防ぐ力がどこからも湧いてこない。
俺はセイリードに覆いかぶさるような格好になり、視界が暗転。
舞台の幕でも下りてきたかのように目の前が真っ暗になった。
「……ん」
暗闇の窮屈な空間で俺は体を起こした。
変だな、ランタンがあったはずなのに――そんなことを思いながら手の先になにかがあることに気がつく。
細長い先端まで辿り、反対側も辿る。
重く尖った金属の感触。
それがなにか理解したとたんに、躍り上がりそうになった。
つるはしだ。
これで出られる!
地下室だか船だかわからない場所から!
呪われたセイリードのいる部屋から!
「……けれど、こんなものどこから?」
あれだけ探し回ってどこからも出てこなかったはずなのに。
暗闇に目も慣れてきた。
つるはしを握り直して形を確認し、驚きのあまり瞬きを繰り返した。
柄の部分が短くつめられたつるはし。
これはフリアが出してきてくれたものではないか。
じゃあ、ここはもしや……。
空いた方の手を伸ばすと、前方には木壁が触れた。
――壊れていない。
ランタンが見あたらないので、木壁を目できちんと確認することができない。
いや待て、ライターがあるだろ。
いそいでポケットに手を突っ込み、ライターを弾く。
小さな明かりに照らされたのは、モートン邸裏にある地下通路の内部だ。
まず気味悪さを感じ、それから落胆してため息が漏れた。
木壁には多少の傷が増えているだけで壊れてはいなかった。
「夢……だったんだな――」
今一度、控えめに何度かつるはしを振るってみる。
あれだけ簡単に崩れたはずの壁が、モートン氏が言ったとおり何度やってもびくともしなかった。
やる気が失せて重いつるはしを脇へ放り出す。
次にはっきりと大きなため息が出た。
木壁の内側も、赤いドレスを着たセイリードという人形のような少女も、すべては夢――それにしては気味が悪いほど生々しかったが。
地下通路を屋敷の方へと戻りつつ腕時計を見れば、針は四時過ぎをさしている。
どうもおかしな時刻だった。
「……なんだ電池切れかよ」
辿り着いたガラクタ置き場のような部屋にひとり言がぽつんと響く。
部屋を出ると、美しいモートン邸の廊下までが暗闇に沈みしんとしていた。
つるはしを壁のところへ置いてきてしまったことに気づいたが、まあいい。
ライターを頼りに自分の部屋へ行き、明かりを点ける。
開けた視界に少しホッとした。
壁かけ時計へ目をやると、同じく針は四時過ぎ。
腕時計は電池切れでもなんでもなかった。
もうすぐ夜が明けてしまう。
現在の時刻は午前四時過ぎ。
こんな時間まで呪われた建物へと続く地下通路で眠っていたとは。
俺は自嘲した。
引きずり出されたように目が覚めたせいか、ズンと重い疲労感が体中に残ったままだ。
*
恐怖にとらわれ愕然とした顔で、男は手を伸ばしていた。
早……く……
掠れる声。
足元に広がるのは、すべてを、世界を飲み込もうとする暗黒の深淵。
掴まれ!
落ちる早く!
互いに握りこんだ指が、噴き出す血で滑った。
生ぬるい血の尾を引かせ、男が目の前で闇の淵へと落ちていく――。
こんなことになるなんて。
ファーディンは思わず止めていた息を静かに吐き出した。
左手を返し、腕時計へ投げやりに目をやる。
このだだっ広い草原のど真ん中に列車が停車してから、かれこれ四〇分近くが経つ。
窓から覗いてみるが、前にも後ろにも駅の影すら見えない。
首都バナードまであと一〇駅も数えない位置だ。
その手前のコントレッタという街に予約した宿があるが、このままではいつまでたってもそこへ辿り着けそうにない。
頭を振り、忌々しい白昼夢の残像を振り払う。
腕時計をつけた左手も負傷などしていない。
濃い血臭もただの幻覚だ。
強い胸の痛みと憂いだけは誤魔化しようがない。
方々の小都市や目ぼしい街を回りながらティリアナを探すファーディンの捜査も、開始してから三週間近くが過ぎようとしていた。
一年内の警官名簿や士官学校名簿から彼女の足取りは掴めない。
誰かと関わり、そこからも姿を消す。
もしくはなんらかの事件に巻き込まれて殺された可能性を疑い、過去の行方不明者リストにある顔写真からも探ったが、見当違いだったようだ。
協力を要請した所属員からの知らせも芳しくない。
協力を煽った見返りに、協力を求めてくる所属員もいる。
が、今彼はフィーンから離れるわけにはいかなかった。
ティリアナの出国記録はない。
彼女のような一大学生が素性を詐称して海外へ逃亡できるとも考え難い。
外国へ捜査の手を広げるのは時期尚早だろう。
変化もなく地道な捜査にファーディンの口からはため息が漏れる。
こういうのが一番苛々するんだ。
まったくやっかいな――。
列車が発車しない理由はファーディンにもわかっていた。
海洋祭だ。
危惧していたことではあったが、バナードへ近づくにつれ、列車のダイヤは遅れが目立ち始め、道は混みだし、公共交通機関の時刻表はどれも当てにならなくなる。
ファーディンはこの海洋祭と呼ばれる祭りが大の苦手だ。
午後になって乗り込んだ列車の窓の外には、しずしずと夕暮れが忍び寄っている。
陽が暮れる。
落ち着きをなくしていることは自覚済みだった。
陽が完全に没してしまう前にどこか近場の宿に部屋を得なければ、取り返しのつかないことになる。
このままここにいたらマズい。
強引にでも列車を降りるよ、爺さん――。
ポケットの中で小瓶を握り締め、ファーディンはとうとう席を立ち上がった。
ガラッ、ガラッ、と連結部のドアを越え、なかなか思うように進めない足で誰かの靴を踏んだり誰かの靴に踏まれたりしながら最後尾の車両へと向かう。
そこならばまだ人が少ないかもしれないと思ったからだ。
しかし、期待ははずれた。
ガラッと開いた最後のドアの向こうでは、追い詰められた車掌が乗客から散々に苦情を浴びせられ、応じるのにおおわらわしていた。
「ですから、お祭りの影響で列車に遅れが生じてまして……」
「それはさっきも聞いたよ! 結局この列車は何時に駅へ着くのかって訊いてんだ!」
「は、はぁ。今確認している最中ですので――あ、あっ、あ、ちょっと、お客さま!?」
ファーディンは静かに振り返った。
大股で乗客たちを掻き分け、勝手に乗降口のドアを開いたのだから咎められないはずがない。
陽は駆け足で沈んでいく。
外の微風に額を晒し、ファーディンは車掌に応じた。
「体の調子が悪いんだ。すまないが降ろしてもらうよ」
彼がトーンの下がりきった声で言ったので、車掌もそれ以上強くは言えなくなったようだ。
「え、あの――お、お気をつけて」
他にも気遣う言葉をいくつか言おうとしたらしいが、金髪を長く垂らした青年の深く沈みきった瞳の奥から読み取れたのは、他の意見などまったく聞き入れようとしない頑とした主張だけだっただろう。
『降りる』ただそれだけを強く目で訴え、反論させる隙を一切与えなかった。
ファーディンは先に開いたドアから飛び降りた。
そして敷石を越え、草原の真ん中をひたすら最寄りの街へ向けて歩き出す。
山々の向こうには灼け始めた陽に染まりつつある雲が斑に広がり、オレンジとも黄金ともつかぬ光が、サワサワと揺れる草原をまるで海原のように見せている。
陽が完全に暮れてしまう前になんとか次の駅のある街――カンタレスタへたどり着き、ファーディンは坂の多い街の中を懸命に歩いた。
そしてやっと安ホテルの一室にありつくことができた。
「「その体で身を粉にしてまで罪滅ぼしに向かう気持ちはわからないでもないが、もういいぢゃろう。続きは明日にするがよい。夜明けは必ずやって来る」」
部屋に入るなり、そんな嗄れ声が上着の内ポケットから聞こえた。
体を引きずるようにして、ファーディンは声に応じる。
「毎夜毎夜続く、まったくどこまでも……容赦ないね……」
息をついてベッドへ寝転がると、脱ぎ捨てた上着のポケットの中で今度は携帯用受信機の呼び出し音が鳴る。
ティリアナに関する吉報かもしれない。
すぐに部屋に備えつけの電話を使って連絡を取るが、それも協力を求める所属員からの単なる呼び出しにすぎなかった。
所属員から所属員へ受信機を渡りに渡って、バナード郊外での救援要請がファーディンの元へたどり着いただけだ。
あいにく手隙の所属員がなかなか掴まらない、とのことだった。
こちらも手はいっぱいいっぱいだ、と告げて受話器を置く。
深く息を吐く。
ミロンズタウン、って言ってたな……。
郊外の小さな街の名にファーディンは身を震わせた。
真夏だというのに体が寒い。
やがて鉄にも似た血臭に包まれ、眩暈がし始める。
見下ろすと腕時計をつけた腕に、十センチを越える深い傷。
急いでバスルームへ飛び込む。
袖から腕を抜く間にワイシャツが見る間に朱に染まり、白い骨までが覗いている。
反対側の手の甲でも勢いよく血が弾け、激痛で動かせない。
血塗れの手で触れた首筋にも濡れた感触。
指もシャツもますます朱に染まっていく。
金色だったはずの血染めの髪から滴る雫。
どれもが過去であり現在だった。
恐怖と後悔がどこまでも深く精神を抉り、いっそう激しく青年を蹂躙する。
「……う……、あぁぁ……早……く」
瞬く間に血の海と化したバスルームでファーディンは顔を上げた。
ドアから微かに射し込む部屋の照明。
薄闇の中、鏡に映った自分は血塗れの亡者と化していた。
震える声、
唇が戦慄く。
「早く……逃げ……逃げ……ろ、あいつがあいつがまたやってくる……っ!」
新たに裂けた傷口から噴き出した血液が、すでに小川となっていた血液と混じり排水口へと流れていく。
ファーディンは深紅のバスルームに両膝をつき、獣のように咆哮した。




