Farewell,my pain!
透明な自動ドアが開くと、病院特有の鼻をつく匂いと共に暖房で生暖かくなった空気が溢れて来た。安っぽいポスターの並ぶ玄関を抜け、嫌に青白い蛍光灯のロビーへと進む。
カウンター越しに受付嬢のマニュアル通りの応対を見届け、ポケットにすっかり冷たくなった手を突っ込む。見舞いに来た相手は、この病棟の八階に入院しているはずだ。小さな足音を立てて、部屋の隅のエレベーターを目指す。診察を待つ患者たちの間を抜けていく形になった。
そう言えば最近、新型の感染症が流行っているとどこかで聞いた。それが原因なのか、老若男女様々な人たちが皆一様に白いマスクを付けて、無感情な長椅子に収まっている。さて、この中の何人が病院に騙されて無駄な治療費を払うことになるのだろう。内心そんな事を考えつつせき込む大群の間を通った。
エレベーターのドアの上には、大きな張り紙で『故障中』と書いてあった。八階まで階段のみで上がれと言うのか。ぐうの音もでない。そのまま、互いに声も発せずに張り紙と睨み合う。
仕方なくエレベーターから少し離れた所にある階段へと向かった。わざわざ部屋の反対まで歩くのが面倒臭い、と言うか、周りの視線が痛そうだ。階段の入り口の横に赤い自販機があったので、そこで何か飲む物を買うことにした。
かじかんだ手に苦労しながら、何とか小銭入れから百円玉を引っ張り出し、投入口に入れる。無理なビジネススマイルのように、四角い箱が光りだす。適当にボタンの一つを押すと、ガタゴトと音を立てて透明な容器が排出された。膝を畳んで手を伸ばす。暗がりの中で、柔らかなプラスチックの容器ともう一つ何か手触りを感じた。まずペットボトルを取り出して脇に置き、続いてもう一つの何かを手に取った。
なんだろうこれは。今までの人生で一度も見覚えがない物だ。見たところ、厚いガラスを蛍光紫の硬いプラスチックで枠組みした物のようだ。何の用途でどう使うのか、さっぱりわからない。
とりあえず、ペットボトルを持っていないほうの手でその物体を弄びつつ、大人しく階段を上ることにした。
ふと、蛍のように弱く輝く非常口の人のマークに、ガラスを重ねてみた。黄緑の光はガラスの中を通り、思ったより鮮明に瞳に届いた。厚さの割に透明度は高いらしい。
そう思っていると、緑の上に描かれた『EXIT』の上に、小さな白い文字が現れた。驚いて物体を外すと、背景は元に戻る。どうやらこのガラスの上に文字が表示されるようになっているらしい。ハイテクノロジーだ。余りにも。
白い『EXIT』の上に白い文字が重なって読みにくかったので、非常口マークから足元の薄暗い階段に背景を変えた。ゴシック体の白い文字がはっきりと読める。
『イタミメジャー 人間イガイハ計測デキマセン』
どうやら、これはイタミメジャーであるらしい。
肝心のイタミメジャーが何なのかわからないが。指示通りに人間にかざしてみれば何かわかるのかもしれないが、馬鹿でかい院内を階段で移動している酔狂は他に見あたらなかった。自分にかざしても反対側に映し出される表示は見えない。ただの猿みたいな行為だ。
実験を諦め、名称から考えることにした。なけなしの学力から見るに、恐らくは痛み・メジャーという分け方だろう。となると、痛みを測るメジャーということになる。だが、そもそも痛みの定義となると・・・・・・
そんなことを考えていると、危うく八階の表示を見逃しそうになった。慌てて方向を変え、窓から日光が溢れてくる廊下へと足を進めた。それにしても無駄に明るい。さっきまでの階段との光度差で、気がおかしくなりそうだ。手の上のガラスを除くと、表示された文字が読みやすいように白から黒へと変わっていた。最近のコカ・コーラは洒落ているな、と思う。
訪問する部屋は、階段から少し離れたところに位置していた。幾つかの病室の前を通ることになる。気が遠くなるほどではないが、階段を上ってきた足には望ましくない。
言葉にならない不満を頭の中で回していると、建物の下で甲高いサイレンが聞こえた。少し躊躇うが、好奇心に従って窓から玄関口を見下ろしてみると、救急車が停車するところだった。
中から制服を着た救急隊員が何人か出てくるのが見える。その内の二人が救急車からキャスターつきのベッドを引っ張り出してきた。テレビドラマでは良く見かけるが、現実では中々見ないものだなと、しみじみ感じる。ベッドの上には血のついた手術着に覆われた男がいた。苦悶の表情を見るに、相当深手なのだろう。
一つ名案が浮かんだ。左手に握った例のものを、玄関前の光景を透かして見る。途端にガラス上にさっきとは別の文字が浮かんだ。
数字が幾つか並ぶ。隊員達や野次馬の頭上に、揃って二桁の数字。
白と黄色の数字が多い中、一つだけ赤く大きなものが浮かんでいた。
間違いない。これは本当に痛みを測るものらしい。他の人物の数字が三十台から四十台なのに対し、搬送された患者の頭上にだけ、赤い文字で87と表示されている。恐らく、偶然ではないはずだ。
とんでもないものを拾った。と一瞬頭の中が真っ白になる。が、冷静になってよく考えるとそうでもないかもしれない。人の抱える痛みが見えると言うのは恐らく道徳上問題があるだろう。が、それができるからといって、人に危害を加える方法は見当たらない。つまり人様に迷惑をかける恐れはないので、心配はいらないのだ。昔テレビで盗撮犯が似たような事を言っていたが、気にしない。
急に他の人間の痛みを覗いてみたい衝動に駆られた。自分の悪趣味さに恐れおののくフリだけして、適当な扉から他人の病室に頭を突っ込んだ。
一人の老人が呆然とベッドの上に座っていた。ガラス上の表示は48だ。老人のくしゃみに合わせて数値が上がったり下がったりするのが少しも面白くない。
飽ききってしまったので、廊下に戻り別の部屋を見ることにした。少しだけ先に半開きになった扉があったので、そうっと中の様子を調べる。
意識を失っているらしい少年がベッドの上に転がっていて、その左手を椅子に座った母親が固く握り締めている。どうやら、面白そうだ。部屋の中には医師と二人の看護師がいて、誰も扉の外から見られていることには気づかないらしい。
最初に少年の頭上に表示されたのは79だったが、一瞬が過ぎるたびに数値が上昇していく。どんどん、どんどんと。
オレンジの文字が赤に変わり、そして100になって、消えた。
心電図が、高低なく電子音を響かせた。残された人々は一斉に涙を零す。それは確かな悲劇だったのだが、ガラス越しには残念ながら違って見えた。
少年が息を止めた瞬間、看護師と医師の数値は一気に跳ね上がった。恐らく心が痛い、と言うやつだろう。それに対し、泣き崩れる母親の数値は一気に13へと急降下した。これはきっと、考えたくはないが、そういうことなのだろう。
静かに顔を扉から離した。どうやらこの数値は、単純に肉体が感じる痛覚だけで求められている訳ではないらしい。さっきの少年の様子から察すると、人が死に至るダメージを100とした時の痛みを表示しているのだろう。コカ・コーラ社のことを、初めて尊敬した。
ようやく目的の部屋に辿り着いた。扉をスライドさせ、中に入る。白光に輝く室内に、一人の少女が横たえられている。緑色の酸素吸入器が嵌められた顔は、ピクリとも動かない。
覚悟を決めて、ガラス越しに少女を眺める。
安らかな顔の上に、白い16。
思わず頬が緩んだ。とても静かな室内で、沈黙を破らないように優しく緑色の器械を外す。目の前で少女の数値は減少していき、やがて0になって虚空に溶けた。ガラス越しの少女が笑ったように見えた。
しばらくして顔を上げると、部屋に掛けられた鏡に映る自分と目が合った。なんとなくガラスをかざしてみる。目に焼きつくほど真っ赤な字で、99と出た。
苦笑いして、大きな窓から光り輝く外の空気へと身を投げた。八階からの景色が徐々に近づいてくる。
光り輝くのは、無意味なビル群だ。世界が、まるで灰で埋もれているように見える。端々に、真っ赤な痛みの数値が見えた。ひどく心地よくて、そのまま瞳を閉じる。
100、100、100、100・・・・・・
本当にありがとうございました