3 あの日から
『フェイリーン、夕方は雨だよ』
声のしたほうに顔を上げると、薬園を仕切る柵の上で紫色の蛙のような姿のレイメが存在を示すようにとび跳ねた。
その大きさは両手で支えてもまだ余るほど。
「ありがとう。皆に言うね」
『じゃあ、またね』
そう告げて、レイメは恐ろしいまでの跳躍力で去って行った。
(いつ見てもすごい……)
雨に弱い薬草を担当するマァチのところへ向かう。
その途中で見かける働き手たちに雨の到来を告げて歩きながら彼女はまだ機嫌の良さそうな空を見上げて溜息をつく。
(案外名前も慣れるものだなぁ…)
こちらへ来たばかりのころは、言葉が通じない人間に挟まれて右往左往していた。
打ち解けるのも時間がかかり、教えを請うのも気が引けた。
しかし、慣れてくると土地柄なのか接する人たちは優しく微笑んでくれた。
また扱っているもののせいか真面目で誠実な人が多く、助けられながらなんとか暮らしてこれている。
(ここ以外の国へ行ったら野垂れ死んでしまうのかなぁ)
ぼんやりと薬園へ辿り着いた日の事を思う。
牢へ入れられた事は忘れられない。
というか自ら入ることにしたのだが、こちらに来るまでは滅多な事では縁のない場所だっただけに、実際に入ってから少々落ち込んだりもした。
あくる朝、ちょろちょろと檻の隙間からやってきたのはピンク色のトカゲ。ほっそりとした形の、体長が自分の指先から肘くらいまであるトカゲは、口に銜えていた小さな黄色の花を地面に置き、ぱちりとウインクをして出て行った。
『…くれたの、かな?』
細い茎の先に8枚の細長くて黄色い花びら。これを銜えていたピンクのトカゲは、視覚的にもかなり癒しの効果があった。
その次に現れたのはずんぐりしたカピパラのような動物。
自分の体が檻の隙間を通れないと分かると、手に持っていた房からドングリのような木の実を1つもぎ、近くにいた当番の衛兵に投げつけた。
―― ぽこん!
「いてぇっ!」
見事、顎に命中。
思わず笑ってしまうと、カピパラ(?)は「ふんっ」と鼻息を荒くしてこちらを見上げた。
『もう少ししたら出られるはずだから』
『…待ってればいいの?』
『もうちょっとだけ我慢して』
そう言うとカピパラ(?)は去って行く。ぽてぽてと。
何故すんなりとその言葉を信じたのかは自分でもよくわからないが、牢から出られると思うと少し元気が出た。安堵の溜息が出る。
その後もぽつぽつと続く人間以外の訪問者に心を和ませつつ、日の出と日の入りを数えて3日経った夕暮れ時。
食事を持って来てくれる人とは別の、梟に良く似た鳥を肩に乗せた老人が牢へ入ってきた。
手には数冊の薄い本。
「ソーソー・・・***・・・」
『まずこちらの質問に答えてほしい。君はどこから来た?国は?』
薬園に足を踏み入れた時から不思議でならない現象の一つ。
人の言う事は聞き取れない。
解かる言葉を喋ったのは梟のほうだった。
鳥類にしては何故か威厳がたっぷりの風格に、彼女は思わず正座をした。
『日本という国から』
『どうやって来たか理解している?』
『いいえ、気が付いたら森の中で…ここは何というところでしょう?』
『私の言葉は分かるのだね?人の言う事は?』
『分かるのは動物の声だけです。あの、』
彼女の質問には答えず、梟はまるで内緒話をするかのように、翼で口元を隠してヒソヒソと老人に何かささやいている。
老人は頷いて、どうぞ、というように持っていた本を差し出した。
『読める本はあるかね?』
流れで受け取った彼女はパラパラと本をめくる。
糸で綴じてあり、少し黄ばんだ紙でできた本は古いもののようで、文字らしいという事は分かるが見慣れない形で何が書いてあるのか分からない。
1冊見終えると次が渡される。その3冊目で彼女は目を見張った。
『英語!?』
もしかして英語圏があるのだろうか、と英語には全然自信のない彼女は不安と疑問でしばし硬直した。
そして気を取り直して更にページが進んだところで動きが止まる。
そこにはこう記されていた。
―― この世界の人と言葉が通じないかもしれない貴方へこれを記します。
ここは地球ではない別世界です。海の名も大陸の名も太陽の色も数も違う世界です。
残念ながら私の時代では自力で元の世界へ戻る術は見つかっていません。
この世界で暮らすために、貴女が知らなければならない言葉を残します。
これから記す言葉を復唱して、貴方の名前をもらって下さい。
決して本名を名乗ってはいけません。その訳はまた別の紙に記します ―――
日本語だった。
呆然と、その文字に促されるままに口を開く。
「ワタシ、ニ、ナマエヲ、クダサイ…」
老人はまた頷き、梟に話しかける。
『君の本当の名を象徴するものは?大まかでいい。色でも物でも』
『…夜が明ける瞬間、その空というか光というか』
『フム、では君はフェイリーンだ。フェイリーンと名乗るように』
「フェイ、リーン」
『そうだ。しかし、きみの出現した場所が悪かった。本来ならこのまま王都へ連れて行って保護し、君の生計を立てる術を決めるところだが、ここは【薬園】だ。ここの者は、許可なく出入りすることが出来ない』
突然ぺらぺらと語り出した梟。
『我々もここに留まる事は出来ないし、正直今のレイメルディアはちょっと君に手間をかけている暇はない。というか君を目先の玩具にしてしまう人が残念ながら多いのだが、今はその時期ではない』
『…えーと、すみません、頭がついてゆきません』
『異界の民は、この世界へ恩恵を与えてくれる事が多いので保護する事になっている。幸いにも君は我々レイメの言葉が分かる。それだけでも君は歓迎に値する。本件は私の独断が許されているので、ひとまずここに留まってこの世界の事を勉強しながら生活をしてもらおうと思う』
『は、い?』
『この【薬園】はこの国にとって大事な場所だ。責任ある仕事だ。秘密が多いが、君の働きによってはいずれ色々と話す事が出来ると思う。あるいは、君がレイメを得ることができれば』
はっきり言って分からない事だらけだったが、とりあえず彼女は決めた。
『――ただでお世話になるわけにはいきません。働かせて下さい』
『ウム。その意気や良し』
こうして、ここで生活する事になったのだった。
もふもふまで、もう少しかかります。