12 新しい生活と仕事場
何かの気配に、ふわっと意識が浮上する。
「まだ寝てていいんですよ」
「――――― え、今、ここ、何?」
高速で瞬きを繰り返しているフェイリーンを、うっとりと覗き込んでいるグレアス。
真顔なのに目だけうっとりされると非常に怖い。
ここはフェイリーンが見覚えのある客室だったが、フェイリーンの横に寝そべっているグレアスは、先日の朝に回避したものと寸分違わぬ半裸で横になり、肘をついた手で頭を支えている。
そして、もう片方の手の甲でするすると彼女の頬を撫でていた。
驚いて身体を離そうにも、反対側に柔らかい障害物――――― レイメが両手両足を投げ出し悠々と寝転がって邪魔をしている。
彼女が混乱するのも無理はない。
(これは、まずい)
しかし一体全体何故こんな事に、と思い返す。
グレアスの言葉通り、湯を使わせてもらった後お茶を飲んだところまでは覚えているのだが。
「寝台に入った記憶が無い……」
「ちょっと目を離したすきに椅子で寝てしまっていたんですよ。余程疲れていたのでしょう」
目を離したのはお茶を出したカレナである。
そしてカレナなら共謀しかねない、いや絶対する、とフェイリーンは思った。
「運んで下さったんですか?」
「ええ」
「まさかそのまま?」
「こうして朝まで。腕枕をはずしたとたんに目を覚ますなんて、温もりに飢えている証拠ですよ」
「ただの振動だと思いますけど」
「一晩中私の腕の中にいた貴女は本当に無垢な寝顔で、私も眠るのが惜しいほどでした。でもこの何とも甘い香りを思う存分堪能してしまったせいで、貴方を食べてしまいたい欲求がかつてない葛藤を呼び起こし、鎮めるには眠るしかないと――――」
「そろそろ叫んでも良いですか?」
「愛を?」
「変態が過ぎますよ!グレアス!!」
叫びと共に起き上がって、グレアスを跨ぎ越しながら寝台から飛び降りたフェイリーンは脱兎のごとく廊下に繋がる扉まで走って逃げた。
その場で着衣の乱れが無い事を確認してから振り返ると、こちらを向いて寝がえりをうったグレアスが、手元をぱふぱふと叩く。
「もうひと眠りする時間がありますから戻って下さい、ここに」
「いやでしゅ!」
噛んだ。
と同時にグレアスが目を丸くしながら上半身を起こす。
「ちょっ……フェイリーン今のもう1回、いえ3回お願いします。私の中の新しい何かが目覚めそうです」
「もう黙ってください……」
危ない感じに目をギラつかせ始めたグレアスに、しゃがみこんで顔を両手で覆うフェイリーン。
グレアスの後ろでは、起き上ったレイメが前足を伸ばして上半身を低くし、『うぁーむ』と欠伸をして口の周りを舐めていた。
◆・◆・◆・◆
フェイリーンは青の季節1の月1日目から、城の文官が集まる棟にあるモヴェナの研究室へ通う事になった。
グレアスの家から。
フェイリーンは諦めて荷解きをし、きちんと苗も植え替えた。
城へ入るには首から下げる形の入城許可証、あるいは身分証明証の代わりとなる腕章や胸章以外は特に服装に規制が無い。
反対に使用人として働いている者たちは制服が決まっており、しっかりと線引きがされている。
目立たないよう、清潔感のある服装を心がけていたフェイリーンだったが、楕円形の木の葉を模した新しい胸章が小さいながらもきらきらと輝いており、自分が浮いているように思えてなんとなく落ち着かない気分を味わっていた。
「君は、数の計算や薬草についての知識は申し分ないが、この国の歴史や経済といった事はもう少し理解が必要だね」
モヴェナにそう言われ、レイメの研究や地図等で資料室のようになっている部屋で教えを受ける。
それと交互に賢者からレイメや手伝いをする仕事の説明を受け、フェイリーンの頭は数日でパンパンになった。
「モヴェナ様と同じ仕事をする方たちは、別の場所に勤務されてるんですか?」
「いや、現在レイメと言葉を交わすのは私と君のほか、あと1人しかいないのだよ」
それは苦労があったろう、とフェイリーンが心配すると賢者が口を挟んだ。
『誰だかわかるかね?』
「え?」
「入るぞ」
突然部屋に響いた声に、モヴェナが椅子から素早く立ち上がる。
そして賢者を肩から腕へ降ろし、床に膝をついて頭を深く下げるという最上級の礼をとるのを見て、フェイリーンも慌ててそれに倣った。
この王城の中でモヴェナにそれをさせるのは一握りの立場のものしかいない。
「楽にしていい、前触れもなく来たのはこっちだ」
「急ぎのご用件でも?」
『フェイリーンを見に来たのだろう』
「今日はついでだがな。誰も紹介してくれないんだ、酷いと思わないか?」
『酷くはない』
「おいおい」
『チェスは楽しみにしてたんだよ~グレアスの婚約者。僕はこっそり見てたけどね』
やれやれ、と首を振ったモヴェナはゆっくり立ち上がる。
「もう少しこちらに慣れさせてからと思っておりましたので……フェイリーン、顔を上げてご挨拶を」
「フェイリーンです。お初にお目にかかります」
「ヴァンチェス・ガトレ・レイメルディアだ。堅苦しいのはもういいから二人とも座れ。俺にも茶を」
間をおかずに人数分のお茶を配膳したのは、使用人にしては上品な身なりをした壮年の男性。
知らぬ間にまた新しい人物が増えたのも気づかず、フェイリーンは呆然としていた。
ヴァンチェス・ガトレ・レイメルディア。
習うよりも前、薬園にいたころから幾度となく聞いた名で、フェイリーンですら馴染みがある、この国の王の名前。
やんごとなき御身の両肩から腕にかけて、限りなく白に近い銀色の大蛇が絡み付いている。
だいぶ長いそのレイメの尾は、椅子で隠れているが床すれすれで揺れていた。
それを軽々と支えている国王は、偉丈夫という言葉がしっくりくる。
「ふぅむ、お前がグレアスの運命の女か。意外に地味だな」
『可愛いと思うよ~』
する~ん、と鎌首をもたげて宝石のような金色の瞳を国王に向けるレイメ。
「まぁ磨けば変わるかもしれん。フェイリーン、俺の孫を愛妾にしてみないか?」
「嫌です」
「嫌か」
本能で答えたフェイリーンは、我に返った。
「え、孫?」
『わ~即答だよチェス。残念だったね~』
「仕方ないさ。グレアスが暴れだしたら困る。ま、グレアスに捕まったならどのみち俺からも逃げられん」
賢者がキラリと目を光らせる。
『フェイリーンは我々の良き友になれる人間だ。変なことを言うと奥方に言うぞ』
「お戯れもほどほどにお願いいたします、国王様」
窘める一対に肩をすくめる仕草は、一国の主にしては随分親しみが持てる。
「ま、今日は顔が見れれば満足だ。また茶を飲みに来るから、今度はフェイリーンの得意なものを入れてもらおう。じゃぁな」
『またね~フェイリーン。今度はたくさんおしゃべりしようね~』
「あ、はい」
ぴらぴら、と揺れる手の横でレイメも口をあけて紫色の舌を揺らす。
――――― ぱたむ。
「……え?」
途中、腑に落ちないことを言われたような気が。
あっという間の退室の後、モヴェナが少し眉尻を下げた。
「驚かせてしまったね。あれがレイメと意思疎通のできる御方だ」
レイメルディアでは、王の一族のうちレイメと意思疎通をできるものが王位継承者となる。
これは、王が健在の間に子供、あるいは孫の代で必ずその才能を持った子が現れることから慣例となっている。
現王の子供にはその兆候がなく、孫の代に期待がかかっていた。
「普通孫を愛妾に勧めます?」
「最年長でも御年2歳。冗談だろうね」
『つり合いでいえば息子の愛妾になれというところだと思うが』
「……今の絶対グレアスに言わないでください」
どう考えても嫌な予感しかしない。
何とも言えない顔でモヴェナと賢者がこちらを見ていたが、フェイリーンはあえて知らぬふりをする。
(というか、「逃げられない」ってどういうことなんでしょうか……)
怖くて聞けないフェイリーンであった。




