フラッシュバック
いよいよフグの老舗料亭に着いた中と取引先。まさか、中が大のフグ嫌いとは思いもよらない取引先の社長は、中とのやりとりに勘違いを連発する。その顛末とは……
関門海峡を望む高台に、そのフグ料理の老舗はあった。取引先の社長が下関一と自慢するだけあって、この店の屋号はフグ料理の名店というだけではなく、歴史の舞台としても広く名が知られていた。中が通された部屋は、いかにもそれらしい雰囲気の工芸品で飾られ、嫌味なほどに伝統と格式の高さを醸し出していた。
「この店には、維新の元勲たちも、たびたび訪れちょりますけぇ」
取引先の社長が早速、鼻を膨らませて、『どうだ、凄いだろう』と言わんばかりに語った。中は、社長の話に大げさに頷いて見せたが、その内容は全く耳に入っていなかった。いやらしい期待が胸いっぱいに膨らんで、それどころではなかったのだ。
『やばいなぁ。エロい目つきのおねえちゃんに迫られたら、断りきれんやん。仕事取るために、お布団の中でええ仕事するんかなぁ……』
スケベにゆるんだ口元から、よだれが垂れていることにさえ気づかない始末である。社長が、あわててポケットティッシュを取り出し、中に差し出したほどだ。
「そ、園内さん! よっぽどフグが待ちきれんようじゃのぅ! あっはっはっはっ……」
豪快に笑いながら、勘違いする社長。
「まま、とりあえず座ってつかぁさい」
中に上座をすすめ、その正面に社長が腰をおろした。両脇に、専務と技術主任が並ぶ。専務といっても、社長の娘婿にすぎない。年のころは四十代半ば。ニコニコ笑うくらいしか取り柄のなさそうな、眼鏡のヤサ男だった。
技術主任のほうはというと、二十代後半の小太りの男で、薄汚れた紺色のスウェットシャツにジーンズを履いていた。主任と聞けば立派な肩書きのようだが、技術担当者は彼の他にアルバイトの女の子が一人いるだけで、設計もプログラムも全て、彼一人がやらされていた。
無精に伸びた前髪をしきりに掻き上げながら、暇さえあれば携帯電話をいじっている。何かしゃべると、やたら早口な上に声が小さくこもるので、ほとんど何を言っているか分からなかった。
中は彼のことを、見た瞬間から取るに足らない、どうでもいい人間に思っていた。
社長が、ニコニコしながら、ポンポンと二つ手を叩く。愛想の良さそうな女将が、これまた機嫌良さそうに襖を開けた。
「とりあえず、生ビールを急いで持ってきてくれんねぇ」
「かしこまりました」
「園内さん。料理は予め頼んじょりますけぇ。大阪ん方にも、きっと、下関の『福』を気に入ってもらえると思うちょりますよ」
上機嫌の社長は、おそらく、どんどんフグを勧めてくるだろうと、中は警戒した。
「園内さん、もう少しの辛抱ですけぇ。こらえてつかぁさいよ。よだれを垂らすぼどお待たせして、ほんま申し訳ないっちゃ」
中は、あわてて取り繕った。
「いや社長、あれはちがうんです。実は僕、フグって、そないに好きちゃいますねん。て、いうか、お恥ずかしい話、生まれてこの方、一度も食たことないんですわ! 死んだばあちゃんの遺言で」
どっと笑いが起こった。
「やっぱり大阪ん人は、大変おもしれぇことおっしゃるのぅ。さっきまであんなに、よだれ垂らしちょった人が……」
社長は、専務の肩をバシバシたたきながら面白がった。専務も調子に乗って、
「社長、そげにからかわんでも…… 園内さんやって、恥ずかしかったんじゃろ。でも、さすが大阪の人は、返しが見事じゃのぅ。これ、私も使わせてもろうて構わんじゃろか? じいちゃんの遺言ちゅうことで」
再び、どっと笑が起こった。
中は、顔を真っ赤にしながらムキになって否定した。
「いやいや、ほんまやねんて。うちは祖父をフグで亡くしてますねん。そうらぁもう、ばあちゃんときたら、フグを仇のようにいうてましたから」
中が、いつになく大声になったものだから、社長と専務はすっかり恐縮してしまった。それでもまだ、にわかには信じられないという風に、半笑いの目を見合せて、首をかしげあう二人だった。
「日本一フグを好いちょる、大阪の人が…… ですか?」
「不幸でしょう? 呪われてるでしょう?」
中は日本一フグを食べる大阪人が、何かに呪われているとしか思えなかったのだが、社長はそういう意味にとらなかった。
「ほんま、不幸ですなぁ。こげなうまい魚を、今まで食うたことがないやなんて」
ちょうどそこに、ビールと突出しの煮こごりが運ばれてきた。乾杯のあと、中は、とりあえずビールをちびちび、煮こごりをつつきながら様子をうかがっていた。
しばらくすると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。その音は、だんだん大きくなって、こちらに近づいてきているようだった。専務が気づいてぼそっとつぶやいた。
「事故ですかのう?」
音は、どんどん大きくなり、最後は、けたたましい音となった! まるですぐ隣に救急車が着いたかのように。
「なんじゃなんじゃ? どうしたんじゃ」
社長が大声を出し、みんなが騒然とする中、技術主任だけがあわてた様子でカバンの中をガサガサ掻き回している。しばらくして、主任のカバンの中から大音量で鳴り響くサイレンとともに、携帯電話が出てきた。主任が焦った手つきで、スイッチを切ると、部屋の中に静けさが戻った。
次の瞬間、勢いよく襖が開いて、女将が飛び込んできた。
「なんぞありましたか?」
「いや、なんでもないんじゃ! このアホが、携帯に変な着信音、設定しちょってのう」
社長が不機嫌な声で女将に説明した。
「それにしても、もっと他になかったんか? そげん趣味の悪い音じゃのうて……」
技術主任は、顔を真っ赤にさせて、ぼそっとひとこと謝った。あいかわらず、小さくこもったその声は、何を言っているのかよく分からなかった。
女将が取り繕って、なんとなく笑い話となり、再び場が和んたのだが、中だけは、顔面蒼白となり呆然としていた。中の頭の中で、幼少期に擦り込まれた、あの恐怖が蘇っていたのだった。
冬の寒い夜、遠くで救急車のサイレンが聞こえてくると、ばあちゃんは決まってこう言うのだった。
「ん! また誰かフグにやられよったな」
中は、怯えた目でばあちゃんの方に顔を向ける。
「ほんまに?」
すると、ばあちゃんは、静かな調子でこう始めるのだった。
「フグの毒は神経毒や。それが全身に回ってくると、体中が痺れて、まず手足が動かんようになんねん。酔っ払いのおっさんみたく、ろれつが回らんようになって、しまいに息がでけへんようになんねん! そうなったら、もう、だぁれもどないもでけへんねん」
中は、身を硬くした。
「でもな、中! ほんまの恐怖はここからなんや……!」
東北民話の語部にも劣らない口調で、ばあちゃんは、夜な夜なこんな話をするのだった。これを聞くたびに中は、オシッコをちびるのだが、そんな孫の失態もお構いなしに、ばあちゃんは更に追い討ちをかけた。
「どんなに毒がきつい言うたかて、どういうわけか脳の神経だけは、どういゅうことないねん。つまり意識がハッキリしてるちゅことやねんけど…… これがどういうことか、分かるか? 中」
中の顔から血の気が引き、真っ白になった! ただ唇だけが紫色になって、ガチガチと歯を鳴らしながら震えだすのだった。
すかさず、ばあちゃんは、とどめの一言を放つ。
「救急車が来てな、神手医院に運びよんねん!」
「ア、アカン! ばあちゃん! なんで神手医院やねん?」
「なんせ一刻を争うやろ? なんぼあそこはアカン言うたかて、救急隊の方が一番近い病院へ運ばはんねん」
「絶対にアカンて! 神手はんは。一刻どころか一秒もてへんで! 地獄で死神に会った方がまだましや!」
ばあちゃんの語りは、中を何度も何度も絶望の淵に叩き込んだ。やがてそれは、トラウマとなり、救急車のサイレンを聞くたび、フラッシュバックが中を襲うようになっていた。
ばあちゃん亡きあとも、その呪縛を解くことができないでいる、中なのであった。