中(あたる)が命をかけるわけ
取引先の会社事務所で、打ち合わせを終えたあと、そこの社長が中を誘った。
「園内さん、明日は何か予定がありますか?」
「いや、特になにも……」
「そりゃええ。そしたらぜひ、今日、泊まっていきんさい」
どうやら接待してくれるようだと、中は悟った。
「いやぁ、嫁に怒られますから。今日、帰るって言ってあるんです」
接待といっても、田舎の小さなソフトハウスの社長が、ポケットマネーで開いてくれる会食にすぎない。どうせ社長なじみの小料理屋かなにかで、女将の手料理をつまみながら一杯やるのが関の山だろう。そのあとは、これまた行きつけのカラオケスナックで、下手な歌の一つも聞かされるに違いない。
中は、ただただ面倒臭いだけだと思った。ついでに余計な仕事をねだられても困る。
「奥さんには、取引先の社長に、しつこう誘われたぁ、言うて、わしのせいにしちゃってください。それに、お土産も買うちょりますけぇ」
「社長、ほんま申し訳ないんですけど、最近、法令遵守とかもうるさいやないですか? 帰着日が土曜日になると、上長がすぐ疑いよるんですわ」
「そこをなんとか…… 本体開発の方の話も聞いてもらわにゃならんし」
ぽろりと本音を漏らす社長。中はあからさまに嫌な顔をして見せた。
「かんべんしてくださいよ、社長。本体開発は、競争にするんですから。かたいこと言うようやけど、こういうことをすぐ、談合談合と騒ぐ輩も多いんです」
中は遵法を盾に、かたくなに断り続けた。社長は完全にあてが外れ、その焦りようが痛々しかった。最後は、土下座する勢いで懇願してきた。
「園内さん、お願いや。もう下関で一番の、フグの老舗にも予約を入れちょるんです。せめてフグだけでも食べてもらわんと、社員に示しがつかんですけぇ」
と、社長が言い終わらないうちに、中は驚いたような表情で顔をあげた。
「え! フグ、ですか?」
社長は、この一瞬の中の様子を見逃さなかった。『フグに食いついてきよったな』とばかりに、一気にたたみかけてきたのだ。
「大阪の人は、日本一フグが好きやと聞いちょります。下関では、フグのことを福と言いまして、そりゃぁ、新鮮で味も絶品ですけぇ。あの、伊藤博文先生が、こげな美味しい魚を食わん手はないと、ここ下関で初めてフグ食を解禁しなさったほどです。これを食わんうちは、死ねませんよ」
『食ったら死ぬわ! ボケ』と、中は、心の中で思いつつ、態度が先ほどとは明らかに変わった。なんと、社長の誘いに歩み寄りの姿勢を見せはじめたのだった。
「フグ屋さんを予約しはったんですか? そう聞くと、無下に断りづらいですなぁ」
まだ、どうするとも言っていないのに、社長は、ここぞとばかり、強引に中の手を引っぱった。
「ありがたい。そしたら、園内さんの気が変わらんうちに、行きましょう。なに、もうタクシーも呼んじょりますけぇ」
中は、ついに観念した。
「しゃぁないなぁ。ま、御社との今後について、話さなアカンこともあるから……」
どうして中の態度が急変したのか? 実は、中には、じいちゃん譲りの浅はかなところがあった。そのことを一番案じていたのが、あのばあちゃんだったのだ。 夜毎、じいちゃんの話をしていたのも、反面教師になればと思ってのことだった。
そのばあちゃんが、一番心配していたこと。それは、じいちゃんの女好きが、中に隔世遺伝することだった。
そういう意味において、中は、ばあちゃんの期待を完全に裏切っていた。
社長が「フグ」という言葉を口にしたとき、中の頭に、こんな考えが浮かんでいたのだ。
――だってここ、下関やねんで。
ベタやけど間違いないやろ?
ここ長州から、どんだけの大物政治家が出てる思てんねん? 歴史には残ってなくても、絶対みんなフグで接待されてきたはずや。
テレビで見たこと有るから分かるけど、フグのあとは間違いなく、高級クラブでアレですやん! アレ! 店の奥から壇蜜みたいなエロい目のホステルが出てきて、異様に身体をくねくねさせて、擦り寄ってくるんでしょう?
めっちゃ良い匂いがして……
大きなお乳が時々当たって……
高いお酒をがんがん注がれて……
それをどんどん飲まされて……
気がついたらベッドの中で……
あぁぁ! もう、これだけで、命かけへん理由がおまっか? 例え盗撮されたビデオを突きつけられ、
「本体開発を社長のところに出さなかったら、あなたの人生めちゃくちゃにしてたっていいのよ!」
なぁぁんて耳元で囁かれても、
ぃやぁぁん……
もう……
アカンアカンアカン……
無理無理無理……
ヤバイヤバイヤバイ……
いったいどうなんねん……?
どうなってしまうねぇぇん……?
はい。病気です。
えぇぇい、もうどうにでも好きにせぇ!
『ぃやぁぁん』でも【鉄砲】でも持って来やがれ!――
と、まぁ、ほとほと情けない、全くもってか不純な動機であった。
そう。そのためには、フグなんかで死ぬわけにはいかないと、中は、ある秘策を思いつく。
それは…… もう『人としてどうなの?』という、最低のところまできてしまっている、中なのであった。